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ex9 異世界のおもてなし

真打ちは遅れてやってくる。


淡い光の粒が部屋中に飛び散り朝の訪れを知らせている。

ここは女性専用賃貸マンションの一室。それほど多くない家具はダークブラウンとホワイトで統一されている。

家具の上には部屋に場違いな可愛らしい虎のぬいぐるみが鎮座していた。

森崎希実(のぞみ)は朝日の粒を受けて淡い水色に光るタオルケットの中で目を覚ました。


今日は彼女が楽しみにしていた旅行に出かける日だ。

旅行に期待するのは2つ。異国の文化を楽しむこと。そして、大好きな彼に旅先で会うこと。


正確な時間が売りの無機質な壁掛け時計は朝の5時を告げていた。彼女にしては珍しくいつもより少しだけ早く目が覚めてしまったようだ。

スリッパを履き起き上がると少しだけ伸びをした。子供の頃ように逸る気持ちに戸惑うものの、彼女はそれを楽しんでいた。


今日は8月3日金曜日。この週末を挟んで夏休みの企業も多い。彼女も例に漏れず夏休みを貰っている。


管理責任者として夏休み中もアラートがあれば動ける準備をしていたが、国内の精密部品工場の多くは夏休みで工場が稼働していないので仕事は多くないことが予想された。


顔を洗い部屋着に着替えると、フルーツと食物繊維がしっかり入ったヨーグルト飲料を片手にタブレットで経済新聞の紙面を追う。

行儀が悪いことを自覚しているが、自宅を早く出るために最適化しているうちにこれが定着してしまった。

申し訳程度に座る姿勢を正しているが、実家の母や敬愛する祖母には見せられない。


コホン


言い訳するように小さく咳をすると再び紙面に目を落とした。休みであっても関心事を抑えておくのは彼女が就職活動中から続く習慣である。


最近の関心事はいつも物流関係だが、最も大きな問題はアメリカ西海岸の港湾部の労使問題だ。

2015年から2022年に延長し、さらに4年毎に延長して、今年2030年で切れる労使間協定の交渉がこじれて港湾閉鎖(ロックアウト)寸前となっている。流通に乗るのは主にその地域で産出される農業生産物だが、その余波は大きく希実も注目せざるを得ない。

紙面には衝突が好転する兆しが書かれていた。地域イベント企業が繋いだ交流の輪が、双方のリーダーが歩み寄る切っ掛けを作ったという記事だった。


彼女はため息を一つついて空になったコップを置き紙面から目を離した。紙面をどれだけ眺めても頭にはそれ以上の内容が入ってこなかった。

同じテーブルの上に鎮座する電子機器にちらりと目を向ける。昨晩からそれが気になって仕方無いのだ。どちらにしても今日は休みだし、出来る事は多くない。諦めてタブレットをクレードルに納め、コップを食洗機に運んだ。


―――――――


”平常心”というのは難しいものだ。彼女はサービスの現場に居るときも、新しい仕事に移ってからも努めてそうあるよう心がけており、少しは表情も作れるようになった。しかし、今は平常心とはほど遠い心境に苦笑いするも頬が緩むのが止められない。最も今は今は顔を装う必要も無いのだが、友人には見せられないなとひとりごちた。


会社の気になる年下の彼が夢中になっているゲームの世界への切符を手に入れたのは昨日のことだ。

取得を計画していた長期休暇に入ってから手配をしようと思っていた切符は強敵(ライバル)からの差し入れだ。今はただそれがありがたかった。


彼女もいつも通りを気取るのを諦めたようだ。電子機器を掴むと足音も気にせず急ぎ足で寝室に舞い戻った。

ベッドに横になりながら、VRヘッドセットを被り、グローブに手を通す。丸みを帯びたシンプルな形状が特徴的な新モデルだ。


会社の後輩である葛西からはいくつかのアドバイスを受けている。

葛西からはゲームの世界の話を幾つも聞いている。クローズドなSNS経由でその世界の情報が届いた。いろいろな種族、魔法とスキル、魔物が居ること。そして、ご飯が美味しいこと。いろんな便利なサービスが溢れていること。

これからそれに触れることができるのだ。


ユーザー情報は登録済みで、従姉妹の加奈美にもゲーム内で手伝いの約束を取り付けている。

温湿度計で部屋の空調が問題ないことは先ほど確認した。本日の来客予定は無いし、SNS上のインジケーターは離席中をセット済みだ。空腹感も無い。トイレも済ませたし、アドバイスを貰った通り下着類も万全だった。

準備は万端。


「よしっ」


被ったことでVRの電源が入り、目の前にはアプリケーションのアイコンが並んでいる。葛西曰く女神様だという女性のアイコンには、同じく葛西がイマイチだというタイトル「スキルクリエーターズワールド」の文字が添えられていた。

指を伸ばしてアイコンに触れると、背中にあったベッドの感覚がふっと消える。天地の感覚が無くなり、一昨年に関連企業の研究施設で味わった無重力体験を想起した。

真っ暗な視界と浮遊感に翻弄されているとナレーションが聞こえてきた。


『名前を決めて下さい』

「ノゾミでお願いします。」

『承りました。ノゾミ様ですね?」

「はい」


葛西に聞いた通りの始まりだ。名前のアクセントも間違い無い。随分と学習機能が高い音声合成は大手I社によるものだろうか。


『続けて見た目を選択してください。表示された姿に手を触れることで決定されます』


目の前に4枚の姿見が立っいる。

左側から高校生ぐらいの姿が、続けて自分より少し若い姿、その隣は母のような妙齢の女性が、右端には耳が尖り背中に透き通る羽根が生えた姿が映っていた。

左側の3枚は事前情報の通り自分より少し容姿が整って見える。しかし右端の1枚は事前情報と異なるようだ。葛西の話では筋肉隆々の女性が、藤本や池田にはスリムな男性が表示されたときかされた。ところが自分の目の前にある右端の全身鏡には妖精が映っていた。これが一番若々しくて小学生といっても通用しそうだ。


彼女は顎に人差し指を当てて思案していた。

葛西からは重要事項として勇輝の容姿に関する情報も共有されていた。彼の容姿は年齢よりも若々しく20歳ぐらいのだという。彼女もそれに合わせる予定だがぴったりの姿が無かった。

1枚目は若々しすぎるし、2番目は大学生にしては瑞々しさが足りず院生と言っても少し辛い。若く見積もっても25歳ぐらいに見えた。3枚目は自分より10歳は上に見える。右端の妖精が最後まで気になったが、若作り過ぎるので断念して、結局2番目の姿見に手を伸ばした。


『見た目を決定しました』


ゆっくりと暗闇が丸く切り取られ、球体が浮かび上がる。宇宙から見た地球のように雲がかかり、茶色の大地と青く輝く緑に覆われる様は地球儀のようだ。そして世界の半分以上が黒い靄に覆われていて見えなかった。地形から明らかに地球では無いそれはこれから訪れる星のようだ。見覚えが無い地形を見て転職した時のように彼女の胸は高鳴った。


『この世界はスキルの力で溢れています。

ある神は言いました。人の営みに必要な力を世界が分けてくれているのです。

ある神は言いました。この世の無慈悲に無理を通す力だ。

ある神は言いました。ちっぽけな人生を彩るスパイスとしての演出さ。

あなたはこの世界にどんなスキルを生み出すでしょうか?

くれぐれも用心してください。そして、心の底から楽しんで下さい』


ナレーションの終わりに目の前が暗転し重力が戻り、やがてゆっくりと明るくなった。

事前情報通りに青空の下にいる。寝ていたはずが立っており、部屋着のスウェットではなくジャージ上下を着ていた。


『ノゾミはスキル【コンソール】を習得しました』

『ノゾミさん、スキルクリエーターズワールドにようこそ。チュートリアルをはじめます』


続けて【ステータス】を得てノルマが提示されたのも事前情報通りだった。

剣で討伐することを指示された恐ろしい大型の鼠は坂の上から石を投げて倒した。加奈美からの事前情報で、実際には手順は問わないことが分かっていたため、それに従ったのだ。

大型の鼠は直線的に向かってくるため、ある程度の坂があれば登れないと聞いていたが、安全と分かっていても獣に襲われるという体験は恐ろしいものであった。


「ギャッ」「キュエー」「ギー」


鼠は歯を見せて鳴き声を上げ、やがて血を流して倒れ、血糊ごと姿を消した。

ノゾミは新しいことが好きで、アウトドアも平気な方だったが、命を奪う行為は苦手であることを改めて知覚した。勇輝が居ると知らなかったらここで帰ることも考えただろう。彼女は残った皮と鈍く輝く石はせめて無駄にすまいと強く思った。


―――――――


町の装いはヨーロッパ風だろうか?土色の壁と色付きの屋根のコントラストが効いた町並みは綺麗だった。

事前情報に無い人の多さに少し困惑したが、指示を聞き逃さない彼女にとってチュートリアルで指示された冒険者ギルドを見つけるのは容易だった。扉の無い入り口をくぐり、日本語が書かれたカウンターに近づくと向こうから声がかかる。


「アンタ、新しい顔だね。ヴァースへようこそ」

「はい。初めましてノゾミです。よろしくお願いします。」


この人は新しい顔と言った。お客様情報がきちんと管理されていて応対を変えているようだ。ノゾミは少し感心した。ユーザーIDが管理されていても、正しく顧客毎のサービスを提供するのは大変なことである。

受付の女性の胸元にはマリーという名札が付いていた。口調は独特だが嫌みは無く場所柄に合っている。そして高度なサービスの片鱗があった。

自身の体験を振り返り、AIの進歩に接客業の今後に少しだけ危機感を覚えた。


魔石が渡され、一瞬躊躇したが事前情報を信じて飲み込むと【冒険者カード】を獲得した。右手の上を意識すれば、何も無いところから灰色のカードが一枚出現した。

ノゾミはこの世界のサービスの根幹を成すというこのカードに出会うのを楽しみにしていた。大きさを確認し、印字内容を確認し、タップで情報がポップアップすることを熱心に確認する彼女は、その様子をニヤニヤと眺めるマリーには気付かなかったようだ。


「さあ、魔石は手元に持ってるかい?最低10個無きゃまた取りに行ってもらうよ」


表記の確認を終えて頭を上げると、魔石の提出が求められたので10個ぴったりを提出すると売上げは1032(ヤーン)となった。

黒い板に翳すだけで入金がされるのもとても素晴らしい。交通系、流通系、ネット系のような相互乗り入れの問題も無く信用も抜群だ。


その利便性に思わず何度も残金を確かめた後、カードを何度も出し入れした。彼女は手を閉じたり開いたりと形にしてもイメージした形に収まって現れる所が気に入ったようだ。


「あははは。よっぽど気に入ったんだね」

「え、ええ」


続けてスキル魔石を渡された。先ほど提出した鼠の魔石と比べると白く輝く色が綺麗な魔石だ。

先ほどと同じように飲み込み【冒険者マニュアル】を得て、500(ヤーン)を支払った。

葛西の事前情報ではチュートリアルはここまでだったため、それでは、と離れようとしたところで呼び止められた。


「おっとまだだよ。ちょっと待っておくれ。あんたのは……これかな?」


女性はカウンターの下から紫色に輝く小さな箱を取り出した。

箱を空けると、中には綺麗な布の台座に置かれた輝く石と、革製の筒が見えた。

ノゾミにも輝く石が何なのかはすぐに分かった。先ほどスキルを覚えたものと同じくスキル魔石だ。

一方でもう一つの筒は良く分からない。コップだろうか?腕輪だろうか?


「こいつは魔具神様のサービスってやつさ。あんた得したね」


ログインの権利があっても、当初ログインが出来なかった人が快適に遊べるように遅れを取り戻すための支援だという。

スキル魔石は【弓術】だった。それは覚えた直後にレベル2となった。

コップのようにも見えた筒を受付嬢の勧めるままに【ステータス】で確認した。


■■■

無限の矢筒

 魔力を消費して、装備している弓に相応しい矢を生成する魔道具。

 生成された矢は魔道具ではない。

■■■


コップ大の筒は魔法の力を備えた矢筒だった。引っ張ると納められていた箱のよりも長い筒となった。

なぜ【弓術】なのか?ノゾミはここまでに入力した個人情報を思い返した。事前登録した情報も体格程度で、趣味には及んでいない。ログインした後も弓を象徴する行動は何も無かった。


「コレを明けるとみーんなそんな顔をするね。地球人(アースリング)で流行ってるのかい?」

「そういうわけでは無いですが……」

「アタシなんか、魔具神様から魔道具を下賜されるなんて、飛び上がって喜んじまうがねぇ」


ノゾミは社会人となった後、外国人客が多い仙台の地に相応しいサービスを模索したことがある。神社仏閣廻りから初めて、芸事に入り、武道も試した。茶道、華道、日本舞踊、弓道に長刀。茶道は捨てがたかったのだが、着物が高額なので合理的に判断して諦めた。その中で自分との合一を目指す弓道は意外と性分に合い長続きした。

その弓道も暫く離れている。上京してからは忙しさもあり、再開の機会は得ていない。気になるのはその弓道の情報がいつ漏れたかということだ。相手に合わせたサービスというのは理想だが、個人情報がどこからか漏れているとすれば恐ろしい。


「あんた、知り合いが居るんじゃ無いのかい?」

「ええ、会社の同僚と親戚の子が」

「紹介キャンペーンて言ってたかな?なんかそういう望みを聞いてそれを作ったらしいよ」


モデルを頼まれて射姿のポスターを撮影したことがあり、町の掲示板に貼られていたことがあった。従姉妹の加奈美であれば、それを見ていてもおかしくなかった。

会社の仲間内でいろいろ話す中で葛西にも話したことがあるかもしれない。

二人からの贈り物だと思えば少し嬉しくなったが、後でキッチリ確認すべく心のメモに書き留めた。


「ありがとうございます」

「弓はまぁ、いろいろあるからね。自分で買いな」

「先ほどの魔石の売上げで足りるものでしょうか?」

「それじゃ足りないけどね、こっちのケースはちょっと特別でね。これを金と交換出来るのさ。加えて言うならこの色の箱はまた特別なもんだね。」


紫色に輝く小さな空箱と同時に差し出した【冒険者カード】には50万(ヤーン)が振り込まれた。


「普通の武器なら数万もあれば十分さ!」

「弓ならお店はここがお勧めだよ。最近じゃ人が増えてロクでも無い店も増えたからちゃんと選ぶんだよ」

「食事ならこことここがお勧めさ。地球人(アースリング)の冒険者に人気の店さ」

「宿ならここに行くと良いよ。その手持ちだけでも暫くは暮らせるはずさ」


四角い町の地図を広げて指さしながら場所と細かい紹介が続いた。

グイグイと押してくるスタイルはノゾミには無いものだが、彼女はとても好ましいと感じたようだ。


「地図は何処に行けば手に入れられますか?」

「これかい?これならああ、丁度良い。少しくたびれてきたからね。あんたにあげるよ」


まだ印刷したてのような綺麗な地図をグイグイと押しつけてにっこりとした。これは敵わないとカナミはそれを受けとり素直に感謝の意を述べた。


「ああそうだ、それからこれを持って広場に行きな。返却はいつでも良いからね」


そうしてノゾミは渡された水筒を手に中央広場に向かい、言われるがままに列に並んだ。そして訳も分からぬままに前の人の真似をして【AFK】を得た。

言われるがままに貰ったのはいいものの【AFK】とは一体何なのか?【AFK】と書かれた食べ物の看板は見つかるが余計に混乱した。

彼女は心を落ち着かせて冒頭のチュートリアルに沿って【ステータス】でそれを見た。


■■■

【AFK】

 瞬時に用を足す。レベル上昇で硬直時間が短縮される

■■■


ノゾミはその日一番の驚きを受けた。トイレ要らず。考えもしなかったことだ。衛生防疫の面でも有効だし、何よりこの先の快適さを考えると身が震えた。

異世界のサービス恐るべしと。


ノゾミは多くの冒険者達と同じように便所の魔人様に祈りを捧げた。

予定が守れずすいません。ちょっと自身が無いですが、

次話「ex10 異世界で彼に会うために」は12/28(水)の予定です。


(2018/06/25)

地の文を三人称視点に修正しました。直ってなかったら教えて下さい。<(_ _)>

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アクセス研究所
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