09.出陣
王国騎士団を引き連れ、姫様が王都から出陣なされる日の朝。
私は姫様を見送るため、王都の中央広場近くの路上に立っていた。マリス様同伴のもと、侍女の格好に扮すると共に頭巾で顔を隠して。
その日、姫様の塔は夜が完全に明け切らぬ内から目覚めた。
「ユリ、おはよう。相変わらず早いわね」
「あ、エルダ様。おはようございます」
地下一階に降りて井戸水で顔を洗い、起床なされた姫様と、宴会の間で挨拶を交わす。侍従たちはそれよりも早く起き出して、階下で忙しく動き回っていた。
前日から、姫様が出陣される旨は報らされていたが、私は奇妙に落ち着かない気持ちだった。あまり眠ることが出来ず、瞼がぼんやりとした、不眠特有の熱を持っている。
対して姫様は初陣に臨まれるにも関わらず、明るく、いつも以上に快活で、冗談を沢山仰った。そして昨夜から泊まり込んでいたマリス様が呆れるほどに、朝食をしっかりと召し上がられた。
だが一度戦装束に身を包まれると、あたかも身の内に光を呑み込んだかのように、眩いばかりの、高潔な気配を周囲に放たれた。
私はそこで理解した。
紛れもなく彼女は王家の人間――エルトリア国の姫様なのだと。
その後、姫様は遣って来たアルベルト様に急かされるようにして、塔を後になされた。城内で国王様を前にした出陣の儀があるとのことで……当然ながら、私がそこに参加することは叶わない。
姫様ときちんと挨拶を交わすことが出来なかったという心残りが、私をマリス様へと懇願させる原因となった。
「では、私も姫様の出陣に際して仕事がありますので」
姫様が塔から去った後、マリス様はそう言って私に背を向けた。
「あ、あのっ! わ、私!」
気付けば私は、女官長である彼女に向け、無我夢中で声を掛けていた。
マリス様が珍しく、ゆったりとした動作で振り向かれる。
「その……私も、エルダ様を、お見送りしたくて。それで……町に……」
自らの領分を超えた願いを、私は最後まで言い切れず、俯き、言葉を萎ませた。
するとマリス様は視界の端で、
「まったく、仕方ないですね」
そう言葉を零した後、我が子を見るような目で、全てを心得たように笑った。
薄靄がかった王都の沿道には、私たち以外にも、沢山の見送り人でひしめいていた。朝の空気は清冽な水のように胸に清々しい。
やがて遠くの方から、蹄が道を叩く、特徴的な音が響いてくる。
城に近い位置に立つ人々から、熱に浮かされたような声が上がり始めた。
「エ、エスメラルダ様よ!」
「姫様が出陣なされるのは本当だったのか?」
姫様の気さくな人となりが、王都の民から人気を博しているとは聞いていた。だが当然のように、伝え聞くのと身を以て知るのでは、意味が異なる。
「嘘でしょ? えっ!? あぁ……ひ、姫様ぁぁ!」
「エスメラルダ様ぁぁ! エルトリアを頼みましたぞ!!」
私はその時、群衆の一人として、路上に立つ一人の少女として、まざまざと姫様の信望が推し量られる思いだった。
人々の声は次第に大きくなる。気付いた時には歓声は潮を作り、風が吹き抜けるような速さで道一杯に広がり、興奮に波打ち出した。
その中をヒュンケルに跨った姫様が、泰然自若として進んで来られる。
後には、アルベルト様を始めとした王国騎士団の騎馬隊や、歩兵隊などが隊列を作り、威風堂々とした足取りで続く。
朝日が物憂げな朝の殻を破ると、陽射しとなって彼らを照らし始め……。
その刹那、戦慄によく似た歓喜が、私の全身を火のように走り抜けた。一枚の絵となりそうな光景を前に、私は私という存在を忘れ、身動きが取れなくなる。
――なんと、なんと……神々しいのだろう。
道の中心を行く姫様が、徐々に私とマリス様が立つ場所へと近づいてくる。一つの偶然が作用し、姫様は私たちの存在に気付かれた。眉を上げて驚きを示し、凛々しく引き締めた顔を崩す。
私が恍惚としている間にも、姫様はもう目の前に。
親愛の情をその面に輝かせながら、柔らかく微笑んで――。
「ユリ」
「え……?」
それは一瞬のことだった。
「行ってくるわね」
耳を聾する程の大歓声の中で紡がれた、姫様の囁き声。
決意に輪郭が縁取られ、凛とした、でも小さな声。
だがその声は、確かに私の耳に届いた。
その証拠に、胸の奥に潜む名前も知らない何かが、喜びに震えているのだ。
「エ……エルダ……様」
私は瞬時に私を取り戻すと、通り過ぎていった姫様の背に向け、力の限り声を放った。姫様を想う私の心が、そっくりそのまま伝わるようにと、強く願いながら。
「エルダ様ぁぁぁ! お気をつけてぇぇ!」
それは幾多の歓声の内の、弱々しい一つにすぎない。
でもその声は姫様に確実に届いた。
何故なら――。
「あ……!?」
姫様は馬上で私に向け、左手を高々と空に掲げて見せたのだから。
――やがて姫様の出陣は終わり、長い隊列も王都から姿を消した。
しかし私の心には、姫様の見せた後ろ姿が、いつまでもいつまでも、夜空に瞬く星のように消えないでいた。
そして姫様はそれから数日後には、戦場となった地に駆け参じ、
「エルトリア王家は、諸君と共にあり!」
兵士たちの先頭で大剣を掲げて王家の存在を、自分の存在を示し、自らを戦争の最前線へと投げ込んだ。
まるで人間は自由の刑に処されているとでもいうように、幾多の選択肢の中から、そんなご自身を選ばれたのだ。
『ライコフ様の再来』
幼少のある時期から剣を手にし、以降、修練を欠かしたことのなかった姫様。彼女は王国騎士団や諸侯貴族様の一部から、そう評されているそうだ。
エルトリア王家の始祖であると同時に、剣聖とも謳われたライコフ・ガルム・エルトリア。彼の再来と評される程の、剣の力量を持つが故に。
過去には諸侯の子弟を装い、剣闘会に潜り込んだこともあるらしい。そこで体格差があるにも関わらず、王国騎士団長であるアルベルト様と、互角の戦いを演じ切ったとの話も耳にした。
姫様ご自身の口からと、塔に立ち寄ったアルベルト様から伺った話なので、恐らく間違いのない事実なんだろう。それに……。
長手袋に隠された姫様の手を、私は一度目にしたことがある。
姫様がどんな手をしていたかは、具体的には言わない。
ただ姫様は私に見られたことに少しだけ恥じらいを咲かせ、その姫様の様子にマリス様は、少しばかり驚いていた。
そんな姫様の初陣は、勝利の二文字に飾られた。
その報をマリス様より聞かされた時、私は安堵を覚えると同時に、稲妻が閃き去った後のような気持になった。
『大剣で……人を殺すということよ』
恐怖と不安を通り越した後の、奇妙な静けさ。
恐らく……姫様は……。
やがて姫様は現地に王国騎士団を残し、少数の護衛と夜を継いで、急ぎ王都に戻ってこられた。政治政策の一環として、初陣での活躍をエルトリア国全土へ広めるために。
朝方に塔に戻られた姫様は、塔に一歩足を踏み入れるや否や、張り詰めた糸が切れたように途端に崩れ落ちた。
「エ、エルダ様!?」
迎えに立っていた私とマリス様が受け止める。姫様は砂塵にまみれると共に、ひどく憔悴なさっていた。何とか起き上がったものの、階段を上がるのさえ辛そうな程で、私とマリス様で肩を貸して塔を登る。
またあの時程に、昂りを露にしている姫様を、私は見たことがなかった。
戦争の凄絶さを物語るかのように、目は鋭く見開かれ、血走ってさえいた。所作も乱暴で、ある種の恐怖を私に与えずにはいられず……。
「エ、エルダ様、おかえりなさいませ」
「…………宮廷詩人と吟遊詩人は用意できているのか? マリス! 謁見の間に呼べっ! すぐにだ!」
「万事、整えてございます。ですから、先ずはお休みになって――」
「時間がないのは分かっている筈だ! さっさとしろ!」
壇上の椅子に戦装束のまま腰掛けられた姫様は、直ぐに呼び集められた宮廷詩人と吟遊詩人らに向け、自らの武勇を語った。私はその間、彼らの目に着かぬよう自室に引き上げ、夜のための準備をする。
国王様と王妃様も出席なさる、初陣勝利の祝宴が、その日の夜には催された。
宮廷詩人は、戦争の気配など微塵も感じさせない豪奢な宮廷で、姫様の初陣の様子を高らかに歌い上げる。城外の王都では、興奮に目を輝かせた国民に向け、公設の場で吟遊詩人が物語る。
宮廷一階の大広間。王族の為に運び込まれた椅子に、私は国王様と王妃様に挟まれる形で腰かけていた。その状態に威圧されないよう、努めて涼しい顔を作り、目を閉じて話に耳を傾ける。
芸が細かいことに、疲労が滲んだように見える化粧が私には施されていた。本物の姫様は、塔の自室で深い眠りに落ちている。
替え玉に過ぎない私という存在が、姫様を眠り姫としていることに、強い誇りを覚えた。
「それでは始めさせていただきます。高貴なる血脈、エルトリア王家に生まれた第一王女、エスメラルダ・リ・エルトリア様の物語。そう……『エルトリアの戦姫』の物語を」
――今からの話は、その場で宮廷詩人が語ったものだ。