06.塔の生活
『祝宴を通じて宮廷貴族からお金を出して貰う必要があります。その役目をあなたに……いえ、ユリに任せたいのです』
かくして私の城での――姫様の塔での生活が始まった。
農村の娘である私は塔では誰よりも早く、日の出前に目覚めた。使用されなくなって久しい姫様の衣裳部屋は事前に整理され、寝具や机などの家具も揃っていた。
自分専用の部屋など持ったことがなかった私は、初日こそ一人で寝ることに戸惑い、落ち着かない気持ちにもなったが、三日も過ぎれば違和感はなくなっていた。
塔の外周を、新鮮な空気を肺に取り入れながら下る。地下一階の貯蔵庫にある井戸から、手が切れそうな程に冷たい水を汲んで顔を洗い、目を覚ます。
そして一階の調理場、二階の住み込み侍従たちの部屋、謁見の間とそれに隣接した宴会の間がある三階を横手に塔を上り、自室へと戻る。起き出した侍従が私を見ると姫様と勘違いして驚くこともあるが、次第にその反応にも慣れてきた。
それから朝食まで、前日の復習をしたり、伝令官から頂いた本を読んで過ごす。
マリス様から報らされたことだが、『宮廷の礼儀』と題されたその本は、わざわざ伝令官自身が用意してくれたものらしい。その心遣いを思うと、心は陽が射し込んだように温かくなる。
日が昇ると姫様が起き出す。眠そうな顔で私に挨拶をした後は城内の何処かへお出かけになり、朝食の時間まで戻ってこない。
『戦場に立たれるおつもりなのですか?』
『えぇ』
戦争の準備に姫様が追われているであろうことは、何となくだか察していた。私が連れてこられた翌日から、各諸侯貴族様へと、ブリュンヒルデ帝国から宣戦布告を受けた旨が通達されたと聞く。各領内で徴兵が始まったとも。
徴兵。そうなると当然アレックスも……。
そう思い到った際、私の心の底をよぎった空恐ろしさは、一体何に喩えることが出来るだろう。物語でもなければ遠い世界の出来事でもなく、現実的に、戦争という名前の国家と国家の、命と命のせめぎ合いが始まるのだ。
空は人間のそんな事情とは無関係に青く澄み渡り、陽は暖かな日差しとなって地に降り注いでいるというのに……戦争が、静かな足音で私たちの日常に、エルトリア国に忍び寄ってきている。
その奇妙な対照性が、私をひどく落ち着かない気持ちにさせた。
また私は、姫様が戦場に立たれる理由も知らないでいた。エルトリア国には一人の王子様と二人の王女様がいらっしゃる。姫様の弟君であらせられる第一王子様は、まだ幼いと伺っていた。その王子様の代わりという訳でもないだろうに……。
あの時、あの場で、私は姫様の決意に飲まれてしまい、そのことを尋ねるのが、ひどく不遜なことに思えてしまった。結果として機を逸し、以降は聞けない儘でいる。
女官長であるマリス様が塔にやってくる時間になると姫様も戻られ、三階の宴会の間で二人だけの朝食が始まる。一度は恐れ多いと固辞した私だが、それも訓練と言われれば返す言葉もなく、来賓席で黙々と食事を口に運んだ。
私だけ特別待遇で、私とそんなに年が変わらないであろう侍従たちに悪く思われないかと考えもしたが、彼女らは特に気にしている様子もなかった。支給された下着などを私が洗おうとすると、笑って止められる。
ラスフル村から着てきた、誕生日に母に作ってもらった服も綺麗に洗濯され、今は部屋の一隅に保管されている。私は支給された簡素な、だけど高価そうな王都的服装に身を包んで毎日を送っていた。
朝食が終わると姫様は侍従を伴って再び何処かに出かけられ、夕食まで戻られない。私は姫様の塔から出ることは禁止されており、その間、マリス様からみっちりと宮廷の礼儀について教わった。
「人間は二つに大別されます。背筋を伸ばしている人間か、否かです」
姫様は宮廷に出入りすることも少なく、宮廷貴族との付き合いを拒まれているようだった。国王様から官職と共に特権を与えられている彼等を、あまりよく思っていないことが言葉の端々からも察せられた。
しかし戦争には、何よりもお金が必要となる。国からも徴兵や武器防具を揃える為の費用が支給されるが、それも十分ではなく、諸侯貴族様にとっては切実な悩みとなっているようだった。
そうした現状の中で、その現実的な力であるお金を持っているのは、宮廷貴族の方々に他ならない。それ故の、第一王女である姫様の名前で募る基金。
ならせめて、私は私に課せられた宮廷での替え玉の任を、精一杯に努めようと思った。少しでも姫様の心労を減らそうと。姫様の慮りに応えたいと。
第一回目の祝宴開催日は、私が塔に来てから十日後と決まった。
磊落な性格をしておいでの姫様は、礼儀にも無頓着であるらしかった。しかし幼い頃から衆目に晒されて来た故の、洗練という名の薄衣を纏っているような優雅さが備わっていた。
暗に姿勢が悪いと言われた私の訓練は、一日中背筋を伸ばす所から始まった。歩き方を始め、細々とした所作、会話の際の視線の置き場所から発声方法に至るまで、マリス様に厳しく指導された。
冗談のように聞こえるかもしれないが、頭に拳程度の大きさの丸い果物を載せ、背筋を伸ばして歩く訓練も宴会の間で行った。
私は直ぐに果物を頭から落してしまう。対してマリス様は、果物を載せた状態であっても、淀みなく悠々と歩いておいでだった。
「マリス。生真面目な顔で何してるの? とても滑稽なことになってるわよ」
「はい? あ……! ひ、姫様!?」
その様子を何かの用事で戻ってこられた姫様が、笑いながらからかう。
そして「面白そうだから参加するわ」と言い、マリス様の手から果物を受取り、頭の装飾の代わりに果物を載せて歩いてみせた。
「あら、意外と落ちないものね」
姫様の楚々と歩む姿を見た私の意識に、湖面を走る雲が落とす影のように、暗いものが覆い被さった。
思わず俯く。自分が単なる村娘に過ぎないという現実を思い知らされるのは、少しばかり辛いものだ。
そんな私を姫様が、頭の装飾を着け直しながら視界の端で心配そうに眺めていた。
――そうしてあっという間に、姫様の塔に来てから一週間が過ぎた。
その日の朝。姫様同伴のもと、私は今までの総復習を宴会の間で行った。確認し終わった後は、祝宴で宮廷貴族に向けて読む文を実際に声に出して読み上げる。
「そもエルトリア国の発展は――」
基金の旨を説明する演説を除き、宮廷ではただ品よく佇んで、微笑していればいいと教わった。姫という身分であればこそ、人に気遣う必要もなく、貴族たちの名前を努めて覚える必要もない。女官長であるマリス様も傍らに控えてくれている。
その姫様然として品よく佇むということが、実は何よりも難しいのだけれど。
全てを終えると、固く張りつめた部屋の空気にヒビを入れるように、マリス様が大きな嘆息を吐かれた。
「村娘が、町娘になった程度ですね」
その言葉が私の胸にわだかまりを伴って落ちると、思わず黙りこくってしまう。
自分では何とか演じられたと思っていたのだが……いや、それも嘘だ。どこか寒々としたものが、自信の無さが態度になって、偽の姫君と言う存在から滲み出ていた。
「あら、大進歩じゃない。私は何ら問題はないと思うのだけれど」
そんな私の態度が傍目にも気落ちしているように見えたのか、姫様が温かいお心づかいを示してくれる。
「歩き方にまだ気負いが有ります。優雅な動作に緊張感は無縁です。基本的なことは出来ているのですが……あとは心構えですね。本来なら、その気負いが――」
「マリス、あなたはちょっと考え過ぎですよ。ユリは十分よくやってくれています。それにいざとなれば、初日は私が出ればいいではないですか」
「姫様、それだと意味が……」
情けなくも無情に、祝宴の日は刻々と迫っていた。
物事が一足跳びで進むことが無いのは分かっているつもりだ。種を植えた作物は、決して短期間で実りとなって収穫されることはない。
だが胸中には、悔しく申し訳なく、自らの不甲斐無さを恥じる、忸怩たるものが生まれていた。その感慨に苛まれると、私はまた俯いてしまっていた。
思わず弱気を囲ってしまいそうになる。
――私は本当に、姫様の代わりなど勤まるのだろうか……。
その時、私に向けられた視線の存在に気づいた。
目を向けた先では、姫様が眉尻を下げて私を眺めていらっしゃった。
「あ……」
私が驚きの言葉をその場に落とすと、姫様は慈愛が灯った顔で優しく微笑まれる。そしてマリス様に振り向き、
「塔の中に一日中いるのも良くないわ。マリス、ちょっとユリを借りていい?」
突然そのように提案なされた。
「姫様? 何をなされるおつもりで……?」
マリス様は訝しんだ声で尋ねたが、姫様はただと悪戯めいた笑みで応え……。
# # # #
「――わっ! ひ、姫様ぁぁ!?」
「どう? ユリ? 気持ちいいでしょ?」
侍女の格好に扮した上に頭巾で頭を覆った私は、馬上で姫様の体に必死でしがみついていた。速度はそれ程でもないが、馬が城内の地をその四肢で跳ねるようにして駆けると酷く揺れた。
あの後、宴会の間から疾風のようにして消えた姫様は、しばらくすると一頭の見事な栗色の駿馬に跨り、塔の前まで遣って来た。そして私を着替えるように急かし、マリス様の「まったく」と何所か朗らかな嘆息に見送られながら、私を塔の外に連れ出した。
物憂げな午睡が圧し掛かりそうな、長閑で穏やかな、陽光溢れる城の一角。木々に茂る瑞々しい緑が光を反射し、暖かな風が悠久の時の中で柔らかく吹き抜ける。
私たちは、王族居住地の広い庭で、ヒュンケルと名付けられた馬と戯れた。
共に歩いたり、優しい眼をした彼に餌を与えたり、姫様の口笛で耳がピクンとなる仕種に微笑んだり。私は久しぶりに自由な時間を得たことに浮かれ、新鮮な空気が甘美な果汁のように肺に溢れると、心が晴れやかになった。
ヒュンケルは姫様によく懐き、私たちが仲良くおしゃべりをしていると、
「いつも着けてるそのフクロウの首飾り、とても素敵ね」
「あ、はい、これは村の守り神で……わっ!?」
二人の間に頭を割り込ませたりした。また彼の存在に私が慣れると、姫様は私を下から押し上げ、ヒュンケルの背に横座りで乗せてくれた。
姫様が手綱を取り、そのまま塔の周りをグルグルと回る。
驢馬に乗ったことはあれど、そもそも馬の存在自体が珍しく、迫力ある体躯のヒュンケルの背に乗ることも初めは怖かった。
しかし次第に慣れて来ると、心に余裕が生まれ……。
視線を塔に転じれば、マリス様がそんな私達を二階の外周から眺めていた。
思わず手を振ると、苦笑しながら応えてくれる。
私と姫様はそのことが何だかおかしくて、顔を見合わせて笑みを交換した。
やがて私が騎乗にも慣れ始めると――。
「ごめんなさいね、よいしょっと!」
「え? ひ、姫様?」
ヒュンケルを立ち止らせた姫様が、私の前に飛び乗って来た。
そのまま狼狽する私に向け、心安くお笑いになる。
「はしたない恰好をさせて申し訳ないけど、ヒュンケルに跨ってくれるかしら? 横乗りだと危ないから」
「え? あ、危ないって……何をなさるおつもりで」
姫様はお答えにならず、ただ笑みだけを一途に深めた。
そして私の準備が整うと――。
「さぁ、行くわよユリ。しっかり掴まって!」
「ひっ! 姫様ぁぁ!?」
ヒュンケルの腹を軽く蹴って歩き出させ、次第に周囲の景色を加速させていく。
私はお臍から這い上がってくる恐怖に竦み、目を開けることが出来ずにいた。振り落とされないようにと、姫様の体に力を込めてしがみ付く。
ヒュンケルにしたらのんびり駆けている程度でも、私には怖かった。
そんな私に向け、姫様が口を開く。
「ユリ……私たちの都合で振り回してしまって、ごめんなさい」
「えっ!?」
私は殆ど反射的に目を開いた。
すると、こちらを振り向いていらっしゃる姫様の横顔が視界に映り……。
「な、なんですか?」
私が尋ねると姫様は口元に微笑の影を湛え、視線を前に戻された。
「はっ!」
問いには答えず、走り出した時よりも強くヒュンケルの腹を足で叩く。
少しだけ速度が上がり、私の口から驚愕の声が漏れる。
「きゃっ!?」
再び目を閉じてしまったが、慣れてきたのか徐々に薄目を開けることが出来た。緑の絨毯に射した光が、走り抜ける景色の中で雨粒のように輝いて見える。
やがて姫様の声が前方から流れてくる。
「ユリ、あなたには本当に申し訳ないと思ってるわ」
今度はその声を、私はきちんと意味として捉えることが出来た。
「姫様……」
だがその意味を認識した瞬間、何故だか急に姫様の背中が小さく見えた。
いや実際に小さいのだ。私と変わりない背丈をしているのだから。
でも姫様は、とても大きな存在として私の世界で立ち顕れていた。
強くて、朗らかで、そして――。
『堅苦しいのは苦手なので、これからお互いを、ユリ、エルダと呼び交わしましょう。よろしいですか?』
『あ……』
不意に、謁見の間で姫様と対面した時のことが思い出された。私が躊躇いの息遣いをみせた際、姫様は寂しそうな顔を覗かせた。
そのことが意識の中で杭のように突き刺さり続け、時々、憂愁となって私の胸を痛ませていた。現に今も……。
思わず前髪に表情を隠す。私は私の決意と、姫様の孤独のようなものと静かに向き合うと、口をゆっくり開き――。
「エ……」
「ん? ユリ?」
「エルダ……様っ!」
姫様の名前を呼んだ。
「あ……っ!?」
すると姫様は、上体を引き起こしながら手綱を臍の方へと引き寄せた。ヒュンケルの駆ける速度が次第に落ち始め、やがて止まる。
自由奔放に駆け回っていたかと思えば、どうやら同じところをグルグルと回っていただけのようで、塔から少し離れた位置にいることが確認できた。
「ユリ……さっき、なんて?」
姫様は上半身を回転させ、信じられないものを耳にしたという顔を私に向ける。
私は気恥ずかしさに俯いたが、心は姫様に寄り添い始めていた。
「エルダ様……と……呼ばせて頂きました」
姫様に回していた両腕を離し、頭巾を取りながら、照れたように笑って答える。
すると姫様は、今にも泣き出しそうな少女の顔で微笑まれた。
「私は」
「え?」
そんな姫様を前に、私は口を開いて言葉を続ける。
「私は一介の村娘にすぎません。それでも……自分が出来る限りのことを、精一杯、努めてみようと思います」
「ユリ……」
出生はまるで違えど、姿だけ見れば双子のような二人の上に、青に染めつけられた空から、深い輝きが落ちてきた。