33.明日は晴れる、だから……◆完結記念イラストあり
廃墟と化した村に戻ると、馬車と共に見慣れた馬が二頭並んでいた。伝令官と共に、屈強な肉体を鎧に包んだ壮年の男性が一人、私を迎えるように立っている。
「アルベルト様……」
栗毛の駿馬――ヒュンケルと共に自身の愛馬を携えた彼が、私に頷く。
あの後、私が落ち着くのを待つと、アレックスは傍らに置いてあった袋から弓矢を取り出した。慣れたように矢を弓につがえると弦をしならせ、空に向けて放つ。
矢が、中空の青に鳴った。
『アレックス? それは?』
矢の行方を見届けるように、彼方に視線を注いでいたアレックスに問う。
『合図だ……アンタが、エスメラルダ姫が王都に帰るな』
『合……図?』
そこでアレックスが、苦笑しながら振り向く。
『あぁ、覚悟を決めたんだろ? エルトリアの戦姫』
呼び名が俄かに変化したことに、私は静かに息を呑んだ。彼の碧眼を見つめる。
『王国騎士団長とかいう鬚面のごっついオッサンが、昨日から俺の小屋に来てるんだ。灰色の馬と、見たこともない、綺麗な栗毛の馬を連れてな』
『王国騎士団長……ア、アルベルト様が? それに栗毛の馬って……』
当惑する私をそのままに、アレックスは苦笑を引きずるような表情で続けた。
『この矢を確認したら、村の前でアンタを待つことになってる。昨夜はアンタのことを肴に、泣いたり笑ったり、時折薄気味悪くニヤニヤしたりとかなり酔ってたが、まぁ大丈夫だろ。今頃快哉でも叫んで、格好付ける準備をしてる筈だ』
意外な人物が表舞台に現れたことに、驚愕を隠すことが出来なかった。戦姫から遠ざけられていた、諸侯貴族の実質的な長。エスメラルダ姫の懐刀。アルベルト・ル・ヘイネス様。私の情けない戦姫に耐え、じっと目を瞑っていたあのお方。
深い寂寞の中、足の甲に杭を打たれたようにその場に留まっていた私は、拳を作った。今ならば、あの人と向き合える気がする。そう決意を燃焼させて。
――魂を自覚し、私という唯一の環境に気付いた私なら。戦姫としてあの人と。
急速な意識の変化が起こっていることに気付く。もう私は、環境に何かを期待することは止めた。嘆くこともだ。それよりも、環境という名の運命が自分に何を期待しているのか知ろうと努めた。それがよりよく、自分を生きることだと信じ。
“それがよりよく、自分を生きることだと思うの”
――ねぇ、そうですよね。姫様。
険を作りながらも微笑んでいる私を前に、アレックスがおどけるような、呆れるような口調で、笑いながら話しかけてくる。
『まったく、女官長だ、王国騎士団長だと、凄いことをやってんだな。アンタは』
唇を薄く引き絞り、私は困ったように微笑んだ。どんな自分でアレックスに対すればよいか、分からなかったからだ。それでも、笑顔を向けたいと思った。
その笑顔を確認したアレックスが愛おしげな表情を作ると、口を開く。
『さぁ、エルトリアの戦姫。王都に帰る時間だ。皆が、アンタを待ってる』
台詞の余韻が物語る。二人の別れが、直ぐそこまで迫っていることを。
しかしそれを選んだのは他でもない、私だ。アレックスと逃げることを選ばず、王都に戻ることを決意した。ユリシア・リリーズではなく、言いなりの偽の戦姫ではなく、エルトリア国第一王女、エスメラルダ・リ・エルトリアとして。
――エルトリアの戦姫として。
『アレックス……私……』
躊躇うような沈黙を私が溜めていると、アレックスが優しく鼻から息を抜いた。
『なぁ、戦姫』
私の後押しをするように、柔らかな口調で言葉を紡ぐ。
『俺は……人間ってのは、決して一人で生きられるもんじゃないと思ってる。支え合って生きてるって意味でもそうだし、意識の中に人が住みつくって意味でもそうだ。幼馴染の女の子が王都に行っちまった後、俺はそういうことを考えてたんだ』
私はアレックスの言葉の意図を探ろうと、視線をその青い瞳に預けた。
『その中で気付いたんだ。生活を共にすることだけが大切じゃないってことに』
鼻を擦って足元を見たアレックスが、きまり悪そうに顔を上げ、無邪気に笑う。
『俺は……俺は今でも、今までも、これからも。幼馴染の女の子と、ユリシアと一緒に生きてる。ウマイもんを食ったら、アイツにも食わしてやりたいなとか、笑えることがあったらアイツに話してやりたいなとか、辛いことや悲しいことがあったら、そっと心の中で愚痴ったり。そうやって、俺はユリシアと生き続けている』
そこまで述べると、昂った感情を空の青さに預けるように仰いで息を吐いた。顔を元の位置に戻すと白い歯を見せ、さっぱりと言う。嘗ての少年が、私に向けて。
『そうやって俺は、ユリシアを愛してた。そして、今も愛してる。それはこれからも変わらない。一人になんかなれねぇよ、アイツは、いつも……』
感情が震え、私は何も言えなくなる。体の中から湧き上がってくる感慨に身を預ける、自分の弱さを許した。そして考えた、この温かさを。眩しいような。
『って、こんなこと戦姫に言っても仕方ないよな。ははっ……って、おいおい、そんな泣きそうな顔すんなって』
『え?』
決意を形作っていた筈なのに、涙しそうな顔になっていたらしい。アレックスにからかわれるように言われてしまい、口を弓状に引き絞る。笑顔を、咲かせた。
そんな私を認めると、ぶっきらぼうに彼が言う。
『よし、それじゃ仕方ねぇから、俺がとっておきのおまじないを教えてやるよ』
『おまじ……ない?』
『あぁ、俺が挫けそうになったり落ち込んだりしてる時に、俺の幼馴染が言ってくれた言葉なんだ。まっ、もともとは俺が考えたもんなんだけどさ』
その一言で私は全てを悟る。澄んだ故郷の空気は、私と彼の間を隔てるものが、微塵もないような気にさせた。事実、隔たりなどなかったのだ。
唇を震わせながら尋ねる。
『それって、どんなおまじないなの?』と。
すると彼は答えた。いつものように、朗らかな顔で。
ラスフル村の二人。アレックスとユリシアが、終生大切にしたおまじないを。
『明日は晴れる。だから、そんな曇った顔するな』
アレックスの瞳の局面が、落日の瞬間の山裾のように光る。私は再び言葉を失い、だが泣く訳にはいかず、顔を伏せ、肩を小刻みに震わせた。
『エルトリアの戦姫。悲しみは絶えることがなく、日常に終わりはない。だけどな、そんな毎日でも必ず明日はやってくる。そして多分、そう多分明日は晴れだ。ははっ、根拠ないけどな。だけどさ、明日は晴れるんだ。きっと、明日は晴れる』
死が二人を別つ前に、それは起こった。
昂る思いを飲み込んで面を上げる。今にも涙に濡れそうな、微笑を交換した。
流転する運命の中、この邂逅は何人もの人間に支えられた、紛れもない一つの奇跡だった。運命や環境が期待した、一つの再会。だがこの先、二人の人生が交錯する場面はないのかもしれない。その思いが二人の間で共有されると……。
『だから、いけよ。明日は晴れなんだ。晴れるんだ。絶対、晴れは来る。皆が、エルトリア中の人間が、晴れを待ち望んでいる。だから、だから――』
彼は声を湿らせ、顔をくしゃくしゃにすると。一呼吸の間を挟んで言った。
『そのまま振り向かず、走って、行けよ……なぁ………………姫、さん』
そうして私は肩を強張らせ、体を反転させると、アレックスの元から去った。彼は最後まで、私を笑顔で見送ってくれた。エルトリアの戦姫として私を扱い。私が姫様の前で涙を見せなかったように、彼もまた、私の前では涙しなかったのだ。
だけど私は知っている。
『さよなら。エルトリアの、戦姫』
振り返れば伝っていたであろう、彼の頬にかかる、ある温もりのことを。
「ふぅ……」
一切を回顧しながら深く呼吸し、目の前の王国騎士団長に視線を向ける。
すると彼は言った。その場に片膝を着き、深く頭を垂れて。
「お帰りなさいませ。エスメラルダ様」と。
伝令官も同じような態勢を取って私を迎える。私は死に絶えた一人の村娘のことを思い、目を伏せ、そっと心で涙すると、次の瞬間には自分を切り替えた。
不敵に微笑んで言う。
「アルベルト、今まで迷惑をかけましたね」
エスメラルダ・リ・エルトリアとして、王国騎士団長に声を掛けた。
顔を上げることなく、それでも肩と声を震わせ、アルベルトが応じる。
「とんでもないことでございます」
顔を上げるよう促すと、憂愁を籠らせた目をアルベルトが視線として私に注ぐ。言葉は何も要らなかった。私はただ首を縦に振る。剣の師に向け、戦友に向けて。
続いてヒュンケルが私の前に現れる。迷いのない、力強い眼差しを彼に転じた。また、私に力を貸してくれる? そう語りかけるように目を合わせ、微笑む。
「ただいま、ヒュンケル」
ヒュンケルはその問いに、嘶きで応えた。王国騎士団長とヒュンケル。そしてエスメラルダ・リ・エルトリア。何も不足しているものはない。全てがここにある。
――新たなエルトリアは、ここから始まる。
「御承知の通りヒュンケルは気位の高い馬で、乗りこなせる者は姫様を置いて他におりません。陛下より戦の褒美として賜りましたが、今こそお返しいたします」
背筋を伸ばし、顎を引く。緊張感とは無縁に、気負いなく、品位を薄衣のように羽織らせる。唇にはいつも微笑を。マリス様に教わった全てで対応した。
「そうでしたか。さぁ、王都に戻りましょう。私たちの戦場がそこにあります」
泰然自若として悠然と、言葉の端々に力を込めて凛と言ってみせる。するとアルベルトと伝令官は、深く感じ入ったという表情を作った。
どうしました? とでも言うように薄い笑みを投げかける。何かに打たれたようになっていた二人が己を取り戻すと、お互いを見合い、すぐさま行動に移った。
「はっ! 直ちに!」
「エスメラルダ姫、どうぞこちらに」
アルベルトが自身の馬の元へ移動し、伝令官が馬車に乗るよう私に促す。ヒュンケルがいて戦姫がいる。どうして馬車に乗る必要があろうか。私はそれを断った。
「エスメ、ラルダ様?」
「私は私の馬で参ります。ヒュンケル!」
名を呼ぶと、自らの馬と彼を随走させようとしていたアルベルトと共に、ヒュンケルがこちらを向いた。私の頷きに導かれ、時を止めた人の間を彼が歩んでくる。
取り付けられた鞍に手を着け、鐙に足を乗せて愛馬に跨ろうと試みた。
「姫様っ!?」
「エ、エスメラルダ姫!」
その試みが失敗し、私は途中であえなく落馬してしまう。アルベルトと伝令官の心配そうな声が降り、同時にヒュンケルの動揺した気配が肌に伝わってきた。
が、私は何でもないといった調子で立ち上がると、服を叩き、
「体が鈍ってしまったようです。服装がいつもと違うせいかもしれませんね」
二人を見ながら、冗談めかした口調で言った。
張り詰めた空気が、フッと抜けるのを感じる。
深く息を吐き、呼吸を落ち着ける。私は再度ヒュンケルに跨ろうと試みた。イグルスと面会を果たした時のように、今度はすんなりと跨ることに成功した。
「さて、では……参りましょうか」
伝令官は首肯し、「私は一足先に城へと戻ります」と述べ、馬車へと向かった。御者が馬を走らせ、曳かれた馬車が徐々に遠ざかって行く。
「姫様」
乗馬し、隣に歩を進めてくるアルベルトの呼び声に顔を向ける。
「アルベルト。そういえば、お嫁さんは大切にしていますか?」
「え……? な、いや、それは」
王国騎士団長を狼狽させるのは平素の務めと、悪戯めいて笑う。
「ふふ、私はこうやってアナタを散々からかって来ましたが、今から私が言うこと、どうか笑わないで下さいね」
「姫様?」
私の突然の申し出に、眉を上げるアルベルト。
「もう随分と馬に乗っていなかったので、ヒュンケルを走らせることが出来ないのです……。道中、お教え頂けますか?」
「は……?」
直後、アルベルトは呆気に取られたような顔から一転し、顔を綻ばせた。
そして声を上げて笑ったのだ。あの堅物のアルベルトが、可笑しそうに。
「ふっ、ははっ、はははははは!」
本当に楽しそう、涙を目の端に溜めて。
「まったく、笑わないで下さいと事前に申したのに……」
私が唇を尖らせて拗ねたように言うと、咳払いしてアルベルトが笑いを抑える。
「いや、これは失礼しました。勿論です。焦らず、ゆっくり歩んで参りましょう」
「歩んで……出来るなら駆けたいのですが、そうもいかないものでしょうか」
アルベルトは笑みを深めると、眩しいものを見るように目を細めて言う。
「姫様、この国にこんな諺があることをご存知ですか?」と。
「歩いている限り、人は遠くに行くことが出来る。焦らず参りましょう。一歩、一歩、歩んで参りましょう。我ら王国騎士団一同、いつまでも、どこまでも、この命が朽ちるまで、姫様に寄り添う所存です。王家の剣として、いえ、国の剣として」
その言葉に私は胸が締め付けられる思いだった。歩んでいる限り、遠くへ……。
だがこんな時こそ、人は、笑わなければならない。笑顔しなければならない。
「それはまた、随分と困った一団ですね。道を塞いでしまいます。のみならず、まさか湯浴みにまで着いて来る気ですか? お嫁さんに言い付けますよ」
私がそう茶化すと、再びアルベルトは狼狽し始めた。
「え? いや、それは」
その反応が可笑しくて、つい微笑んでしまう。
「ふ、ふふ、冗談です。あはははは」
「姫様……はっ、はは、はははははは!」
アルベルトと共に王都へ向かわんとする馬上、二人の声は青空高く溶けていった。そうして私たちは歩み始める。エルトリアの戦姫をこの手に取り戻す為に。
――その後、エルトリア国は大きく変わっていった。
慎重に順路を選択し、時に歩み、時に駆け、ヒュンケルとアルベルトと共に辿りついたエルトリア国の王都。朝靄に覆われた町を囲う城壁の前には、門番を背後に控えさせたアリアの凛とした佇まいがあった。その隣に、コーリアの姿も見える。
「アリア、留守中迷惑をかけましたね。エスメラルダ、ただ今戻りました」
愛馬に跨った私が不敵に微笑んで言うと、女官長は常と変らぬ表情で応じた。
「勿体ない、お言葉。お、かえり、な、さい……ま……?」
そこでアリアは自身の声の異変に気づき、目を見開かせた。表情を変えぬままツツと瞳から何かを流し。鉄面皮のまま、ただ瞳だけを感情に揺らがせて。
涙が次から次へと、その瞳から零れ落ちていた。己の手に視線を落とす。
声だけでなく体も震えていることを知り、何故震えているのか、何故泣いているのか自分でも分からない様子だった。傍らのコーリアが感極まって口に手を当てると、茫然自失となった人間がよくやるように、アリアが私を見る。
「アリア」
私は自分もまた、一個の感情を持った人間として大きな波に浚われそうになっていることを知りながらも、余裕があるように述べてみせた。
「知っていますか? 体が痛い時だけではありません。心が痛い時、人は、泣くんです。アナタの心に手傷を負わせるとは、なかなかの相手だったようですね」
雪が降っている訳ではないのに、アリアの頬に掛り、次々と溶ける雪の結晶。そのひと粒を拭い、小刻みに揺れる指先を眺めると、彼女は湿った声で言った。
「ま、まったく……その……通りで、ございます」
私を見て、必死に微笑む。流星が嵐となって夜空を翔けるように、一条一条、幻の夜空の軌跡をなぞるように、熱い感慨をその双眸から降らせて、アリアは……。
「コーリアも、今まで迷惑をかけました」
その笑顔を認めると、私は続いて、アリアの傍ら立つコーリアに視線を向けた。
「あ……」
馬上から眺める彼女は、随分と小さかった。つい先ほどまで恩人の情の動きに感じ入っていたコーリアは、目の前の光景に立ち竦んだかのように、目を瞬かせる。
「コーリア、エスメラルダ姫が、お声を、掛けて下さっているのですよ」
「ユ、ユリ……エスメラルダ様。もったいない、お言葉です」
アリアの言葉でハッとなり。急いで、可愛らしく応じた。
緋色と翡翠色の目で会話する。二人に言葉は必要なかった。
「ふふ、相変わらず可愛らしいですね、コーリアは。そうだ、よかったら、これからは私をエルダと呼んでくれませんか? エスメラルダはちょっと長いですし」
私は自分の提案に得意になった調子で、アリアに同意を求める。
「ねぇ、いいですよね。アリア?」
すると涙の跡を拭ったアリアは珍しく鼻を啜り、マリスのように応えるのだ。
「……許可、いたしかねます」と。
「ふっ、ふふ、あはは!」
私は殊更可笑しそうに、声を上げて笑ってみせた。
マリスとユリシア。エルトリアの戦姫に付き添った女官長と侍従。
全てが元通りという訳ではない。それでも、何も恐れるものはない。
「まったく、アリアは相変わらず頑固者ですね。さて――」
そこで息を落ち着けると、私はヒュンケルの上から王都を仰いだ。
「その頑固者に、色々と手伝ってもらわなければなりません。これから忙しくなります。まずは、そうですね……幼い頃からやっていたことですが、無断で外に出たことについての責任逃れを、アリアにお願いしたいと思います。宜しいですか?」
口の端に笑いを溜めながら尋ねると、アリアは唇を引き絞って応じる。
「無論です」
私は満足げに首肯する。続いて轡を並べた、アルベルトに視線を移した。
「アルベルト、アナタは後で私の塔に来るように。宮廷貴族……あぁ、今は元老院でしたか。彼らに見つかると面倒なので、コソコソ隠れて来て下さい。私は宝物庫に放り込まれている王家の大剣を、コーリアと持ち出す準備をしますので」
「畏まりました。姫様」
全てを心得たようなアルベルトの返答を受け、私は正面を向き、瞳を閉じた。鋼の戦装束は纏わねど、心の戦支度なら既に整っている。大きく息を吐き、吸う。
最後に大切な人に、心の中で呼びかけた。
――行きます、姫様。
眼を決然と開き、戦の開幕を宣言する。
「アリア!」
「ハッ!」
「コーリア!」
「ハ、ハイ!」
「アルベルト!」
「ハハッ!」
「エルトリアの戦姫、参ります」
それから一週間後に王都で開かれた、国の復興を謳った大規模な集会。そこで私は用意された原稿を破り捨て、未来から吹く風を全身に感じながら、宣言した。
「私はエルトリアの戦姫として、この国を、国民のために作り変えます」
その一言に国民は唖然とし、国王をはじめ、元老院の人間は皆一様に慌てた。だが国民がその言葉を理解し、熱狂し始めた時には全てが終わっていた。
王国騎士団長であるアルベルトを筆頭に、王国騎士団を味方に引き入れた私は瞬く間に城を武力で制圧した。ほぼ無血の内に”国家への一撃”は進んだ。
『私は決断をしなければならないのかもしれません。王家の剣を手に取り、王の剣と、いえ、国の剣らと共に』
騎士の反乱。それはエルトリア建国以来、誰も実行し得ないことだった。
国家への一撃後、国王と王妃は出来るだけ自然溢れた、空気の澄んだ場所に幽閉することに決めた。利権を失った元宮廷貴族の何人かが後に彼らを祭り上げ、領民を武装させ、金で雇った傭兵部隊を用いて謀反を起こしたことがあった。
だが――
「王家の大剣は我と共にあり。エスメラルダ・リ・エルトリア、参る!」
王国騎士団を筆頭に、諸侯貴族を率いた私はその戦の前線に立ち、僅か数日でお粗末な謀反を終結させた。領民は最終的に寝返り、傭兵は命惜しさに逃げた。
王妃は自決し、国王は妾として呼び寄せていたアリス・キューレットと共に命からがら逃げ延びる。それも逃亡中に妾に裏切られ、谷間へと転落。終わった骸と化した。彼に忠義を感じている者は少なく、ただ一人の女性が、鏡の中で追悼した。
エルトリア国の第一王子である弟と、第二王女である妹は、私の下で保護していた。弟は随分と反抗的で我儘な子になっていたが、私が一喝すると大人しくなって泣いた。彼のその態度は、姉を慕う故だということが分かっていたからだ。
以降、私は彼を時に甘やかし、時に厳しく叱りつけながらも、次代の国王とすべく励んだ。二人は私によく懐いた。幸いなことに、妹や弟の扱いにはなれている。
何故慣れているのか、その秘密は生涯、明かされることはないだろうが……。
内政としては、宮廷貴族が生まれる原因となった徴税請負制度を改革し、行き過ぎた中央集権体制を緩め、各地域の自治権限を拡大した。諸侯貴族を国家に隷属すべく定めた騎士道の内容についても、新たな王族の義務をそこに付け加えた。
そして北の地域の復興を目指し、元宮廷貴族の何人かを引き入れ、地に足の着いた国政運営を実現すべく、地域の経済政策に力を注いだ。また元老院は解散させず、元老院と同等の権限を持つ国民議会を創設し、国政に広く国民を招き入れた。
「さて……以上で各地域の徴税実態調査の報告が終わりましたが、何か意見は?」
「よろしいでしょうか、戦姫」
「勿論です。しかし……もう姫という年齢でもないので、些かその呼び名は恥ずかしいですね。どうにかならないのでしょうか? そうは思いませんか、皆さん?」
国王不在の間は私が臨時で女王となるも、国民は私のことを「エルトリアの戦姫」と昔の愛称のままに呼んだ。以降も私はエルトリアの戦姫として、エスメラルダ・リルム・エルトリアとして様々な国政改革を行い、国の発展の礎を築いた。
ただ激務がたたったのか、弟が国民の前でエルトリアの大剣を掲げるという、新たな王位継承の儀式を見届けて暫くすると、三十代後半に病で命を落とした。
『私はこの国と結婚しておりますので。残念ながら』
御忍びで遣って来たブリュンヒルデ皇帝からはしつこく求婚されたが、その生涯で誰とも結婚をせず、だが人生に対し大きな満足を覚えながら、私は逝った。
戦場ではなく寝台の上で。あの頃から変わらない面々に見守られながら、もう首に掛けることはなくなった、ある村の守り神を模した胸飾りを大切に握りしめながら、私は逝った。姫様、これで、よかったんですよね。そう心で唱え……。
『ユリ』
いつまでもお若い、姫様の笑顔に見送られ。私は……。
――ここで私の、いや、私たちのエルトリアの戦姫の物語は終わる。
しかし彼の、アレックスの物語はまだ続いていた。
彼は生まれ故郷であるラスフル村を再興していた。彼の元を去った嘗ての若い村人も、何人かが戻ったという話だ。そして彼も生涯誰とも結婚せず、アリアの孤児院の子供を養子として迎えながら、陽気な村長として信頼を集めて暮らしていた。
そんな彼は晩年、夕刻の河原に佇む、二人の幼い男女を見つけた。男の子は彼の幼い頃に似て能天気そうで、女の子も彼の幼馴染にどこか似た面影を持っていた。
膝を抱えて座り込み、今にも泣き出しそうな女の子に男の子が言う。
不器用に、でも女の子が好きな気持ちを隠すことが出来ないままに。
「そんな泣きそうな顔するなよ。いいか、明日は――」
アレックスはその言葉を認めると、ふっと優しく唇を曲げた。世界そのものが燃え上がっているような夕焼け空を仰ぎ、懐かしい言葉を自身も口ずさむ。
「明日はきっと晴れる。だから、そんな曇った顔するな」
今や語り継がれるほどになった、その言葉を。陽はまた昇り、明日は、晴れる。
『人の間にも不調和はあり、多くの困難が目の前にはあります。ですが……明日はきっと晴れます。だから曇った顔はやめましょう。ね、皆さん?』
国民に広く伝わった、エルトリアの戦姫の口癖を。




