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エルトリアの戦姫  作者: マグロアッパー
■四章 エルトリアの戦姫
31/33

31.アレックス


 アレックスは私の手を取ると、その場から立ち上がらせてくれた。彼は愛しい物を眺めるように、眉根を寄せて笑う。私は服の裾で涙を拭き、微笑み返した。


 それから子供の頃のように、草の茂った川辺に腰かけ、二人で川を眺めた。私は膝を抱え、アレックスは足を投げ出し、上半身を両手で後方で支えるように座り。


「アレックス……信じられないかもしれないけど、私ね、王都に行ってから色んなことがあったの。エルダ様に、この国のお姫様に出会って、それで……」


 そこで私は彼に伝えた。これまでこの目で見てきた光景についての、この手で触れてきた物の、この耳で聞いた言葉の、この足で歩んできた道についての話を。


 ――ユリシアとして姫様と寄り添った日々の、偽の戦姫としての日々の話を。


 その間、アレックスは口を挟まず、黙って耳を傾けてくれていた。静かに流れる川に視線を注ぎ、時に眉間に力を込め、何かにじっと耐えるようにしながら。


 全てを語り終えると、アレックスが大きく息を吐く。空から深い輝きを探すような目で頭上を仰いだ。雲一つない空は沈黙の中に、ただ青く転回していた。


 幼馴染とはいえ秘密を告白してしまったことに、私は微かな後ろめたさを覚えていた。だけど確かに安堵もしていたのだ。そうやって私は彼に甘えていたのだと思う。しかしこの世界で、私が甘えたいと思える男の人は、やはり彼だけなのだ。


 その事実を認め、鼻から息を抜く。彼との時間を静かに蓄える。それはずっと求めていた時間で、目を閉じれば優しさに似た重みが私を確かめているのを感じた。


『ユリ』


 何故だろう。でもその時、姫様が私を呼ぶ声が聞こえた気がしたのは。


 柔らかな風が吹き、草を浚う。さらさらと心地好い音が耳を癒す。

 気付けばアレックスが微笑の影を口元に溜め、私を見ていた。彼が言う。


「大体のことは、知っていた」と。

「え?」


 私は瞠目してその言葉を迎えた。

 アレックスが苦笑を呑みこむような表情を作り、また、川に視線を注いだ。


「よく村に来てた、行商のおっさんがいただろ? 今から数日前に、あの人が小屋に来たんだ。あぁ、言い忘れてたけど、俺は今、この川の近くに小屋を建てて暮らしてる。それで、そのおっさんが訪れて、手紙をくれたんだ」


 意表を突かれる思いのまま尋ねる。


「手紙?」

「あぁ、女官長とかいう役職の、アリアという人からの手紙だった」


 私は目を再び見開かせた。

 アレックスは上体を引き起こすと、片膝を立てて続ける。


「読んだら焼くよう書かれてたから、もう手元にはない。その代わり何度も何度も読んだよ。かなり長い手紙だったんだけど、お陰ですっかり内容を覚えちまった」


 そこでアレックスは私を見ると、口の端を重々しく上げた。


「そこにはな、ユリシア。お前のことが綴られてたんだ」


 言葉も出ないまま、何か異質なものを呑みこんだような思いを味わっていると、アレックスは視線を川の上に戻す。内容を思い出すように、ゆっくり言葉を継ぐ。


「ユリシアと仲良しの侍従が、コーリアっていうんだろ? その娘がユリシアと俺を会わせようと計画してるのを知って、急いで手紙を書いてくれたらしい。アリアって人は、どうもラスフル村が焼けちまったことを知ってたらしいんだ。俺が村の近くに住んでることもな。それで、随分と前から色々と計画してたみたいだが、ユリシアを俺に会わせることにしたと、そう几帳面な字で、自己紹介した後、手紙の初めに書かれてた。それから先には、お前と出会ってからのことが綴られてたんだ。ユリシアが……してたことも含めてな」


 そこまで話すと、アレックスは手元の小さな石を拾う。それを川面に投げつけると、ポチャリと水が跳ねる小さな音がした。目を細めて言う。


「ユリシアが、エルトリアの戦姫だったんだよな……お前の口から聞くまで、全然、まるで実感が湧かなかった。ははっ、本当、驚くばかりだ」


 行く川は絶えず流れ、椀に注いだお湯もいつかは冷める。全ては移ろい、子供は大人になる。それに似た寂しさを感じさせる顔を向け、アレックスは笑った。


「わ、私の、私のしたことなんて……大したことじゃないの。剣を持って戦った訳じゃない。私は、ただ剣を掲げて、取り繕って、必死で……それで……」


 私が弁解するような口調で述べると、アレックスは横顔を晒す。


「いや、ユリシア。お前は大した奴だよ。俺とは違う」


 大人になった、ということなのだろうか、会わなかった間に。子供の頃から変わらない表情と共に、見たことのない彼の表情に、今日何度も出会った気がする。


「アレックス?」


 奇妙な不安から、思わず彼の名前を呼ぶ。

 するとアレックスは痛々しさを感じさせる表情を向けて笑うと、応えた。


「そう、俺の名はアレックス。エルトリア国のしがない片田舎で、村の再興を目論んでいる男。村が襲撃されても……誰も守れなかった男……アレックスだ」


 その言葉に私は息を飲む。


 ――村が襲撃されても……守れなかった。


 衝撃に胸がつかえ、言葉が出てこない。


 鋭い錐が意識に刺し込まれたかのように、時間が過ぎ去る感覚を忘れた。両親が、姉妹が、弟が、家族の姿や村の皆の姿が、次々と脳裏に浮かんでは消える。


「む、村の皆は?」


 どうにか口を開くと、アレックスは忸怩たる面持ちに顔を歪めた。


「皆……死んじまった」

「あ……」


 何故、それを聞いてしまったのだろう。分かっていた筈なのに、それなのに。彼が生きていたことに微かな希望を見出していた私は、改めて深い落胆を味わう。


『……何人か浚われたことは分かっていますが。村にいた人間は、残念ながら』


 伝令官から聞いた現実が私に迫る。アレックスが生きているということ。彼は当時、村にいなかったということなのだろうか。それ以外の村にいた人は、皆……。


 アレックスは答えた後、一度俯いたが、拳を握りしめると面を上げた。それから切なげで苦しそうな表情を隠さず、静かに話し始めた。


「戦争が終わって、俺も含め、徴兵された村の若い連中が、国のあちこちで復興作業に追われてた時の話だ。日に日に治安が悪くなってることは、俺も実感してた。俺は戦争中、首都近辺の護衛に当たってたから、実際にブリュンヒルデ軍と戦った訳じゃない。でも、戦争の最中も、その後も、色んな光景をこの目で見てきた」


 その光景を思い出すかのように、眉を顰めながらアレックスは続ける。


「首都はどうか分からないが、戦争に参加していない地方も色々と貧しくてな。弟ぐらいの子供が売られてることも……ざらにあった。戦争が終わると兵士が盗賊になることも多くて、そんな奴等にラスフル村が襲われ、爺ちゃんの家に皆が集められてたみたいなんだ。逃げられないよう、縄で縛りつけられてたらしい。それで、俺が仕事の一環で爺ちゃんに伝えることがあって戻ると……村は炎に包まれてた」


 凄絶な光景を目にした事実を、淡々と語るアレックス。自分の無力を嘆き、悲しみ、その事実を何度も受け止めてきた乾きが、その口調には込められていた。


「ほ、炎に……それじゃ」


「盗賊ども、本当に馬鹿だよな。多分、火の不始末かなんかだと思う……丘の上で、村が赤くなってるのが見えて、それで奴等が蜘蛛の子を散らしたみたいに村から出てきて……俺は走った! 走ったんだ! だけど…………間に合わなかった」


 最後の言葉はうめき声のように、苦悶の塊のようにその場に落ちた。

 それから一転して、アレックスは激したように自分を責める。


「情けない男だ、アレックス! あぁ、情けない。本当に俺は情けない男なんだ。あと三十分。いや、せめて十分早く村に辿り着いてたら、俺がグズグズしてなけりゃ、こんなことには……こんなことにはならなかった! ならなかったんだ!?」


 そう言って歯を食いしばり、その日の光景を思い出してか険を鋭くすると、握り込んだ拳を震わせた。決意の込められた眼差しで私を見る。


「だから俺は、皆の墓を作りながら、村を再興させようと誓ったんだ。そんなことで、死んでいった皆の弔いになると思っている訳じゃない。それは単に、俺自身の為なのかもしれない。それでも俺は、爺ちゃんの、村長の孫として、ラスフル村を再興したいと思った。それが、これからの生涯を賭して俺がやりたいことなんだ」


 その悲愴じみた、人間じみた誓いに打たれると、私は叫んでいた。


「ならっ、なら私も! 私も手伝うよ! だって二人いれば、それで……あ……」


 アレックスの他に徴兵された村人はどうしたのか、とは、何故戻ってきていないのか、とは、聞かなかったし聞けなかった。ただ私は言葉を吐き出した直後、自由な人間の立場として発言していることに驚いていた。自分自身にうろたえる。


 そんな私にアレックスは片頬を窪ませると、ここでもやはり苦しそうに笑いながら言った。透き通る寂しさを映した青い瞳で、私を見据えながら。


「それで……ユリシア。お前は、何しに戻って来たんだ?」と。


 困惑を前に、私は眉を大きく跳ね上げる。悄然とした顔で彼を見た。


「アレックス、何を?」


 苦味を引き連れた顔で、彼は笑う。


「アレックス。そうだ。俺の名前はアレックス。この村の再興の為に生き……そして、死んでいく男。だけどなユリシア。お前は違う。お前は違うんだ」


「わ、私は、私は……」


「俺の人生はここだ。ここまでだ。俺の人生はここなんだ! だけどな、ユリシア。お前は、お前だからこそ出来る、お前にしか出来ないことがある。そうじゃないのか? もっと広い世界で。もっと大きな世界で。俺はそう直感した」


 背に冷水を流しこまれたかのような寒気に襲われながらも、熱く昂るものが反論という形で、私の口から出てくる。


「な、何を言ってるの……そんなの私にはない! 私はユリシア! ユリシア・リリーズだよ!? ただの……村娘で、この村で生まれて、それで、私は……」


 ――それで、何だ? 偽の戦姫として生きる。それで、何だ?


 見せかけの熱を持った言葉は、空気に触れる度、次々と灰色になって死んでいった。自然と俯いてしまう。何かアレックスの言葉の中に考えるべき重要な事柄が含まれているように感じながら、私は目を逸らし、それから必死に逃げた。


 ――私は、何を聞かれているんだ? 何を、言おうとしているんだ?


 砂漠のように荒涼としたものが、お互いの無言の中に吹き荒れる。小川のせせらぎが耳に深く響いた。時を呑んだような間を開け、アレックスが私の名を呼ぶ。


「ユリシア……情けないこと言うなよ。俺みたいに、情けいないことをさ」


 その声に顔を上げ、泣きそうな顔をしているアレックスの表情と出会う。


「お前は違う、そうじゃないのか?」


 それから彼は目じりを和らげると、言った。




「なぁ、そうだろ? エルトリアの戦姫」




 心を乱す一陣の風が、私に向って吹く。


「え?」


 自分の中に空白を囲ってしまったかのようで、アレックスを見ることを通じてそれを埋めざるを得ない。漠々と白い広がりが、自身の中に生まれるのを感じた。


 アレックスは自嘲するような角度に口を曲げると、そっと立ち上がった。


「お前には今、二つの道がある」


 絶えることのない営みに目を注ぎながら、その口を動かす。


「ユリシア、俺と一緒に逃げよう。それで……」

「ア、アレックス?」


 そして言うのだ。私に向き直り。風が吹くように自然と。それでいて未来を見据えた大人の目で、短い言葉の端々に決意を滲ませ、私の大好きな幼馴染が。



「それで、俺と結婚しよう」と。



 瞬間、耳を疑った。体も思考も、時の流れでさえも滞ってしまったかのような錯覚に陥る。目を凝らし、鼓動を強く感じながら、アレックスの顔を呆然と眺めた。


 その彼が、私が纏った深刻な気配を打ち消すように笑う。


「ただその場合、村に居続けることは出来ない。俺も村の復興を諦めて、お前と共にこの地を去る。西のレイシル王国に密入国して、そこで、一緒に暮らそう」


 ――アレックスと逃げる?


 知らず、私の体は身震いを催していた。同時に、熱を帯びて昂る意識を、何か本能のようなものが必死でなだめようとする。落ち着くことが必要だと。


 ひょっとしてそれは、私が最も私の中で女を感じた一間かもしれない。男性よりも女性の方が現実的だと、昔、母に教わったことがある。


 理屈ではなく、それはとても不自由なことだった。


「レイシル……王国で?」


「あぁ、アリアって人が、手紙で色々と教えてくれてな。そういうのに長けた案内人がいるらしいんだ。俺とユリシア、そしてコーリアって娘の案内料を既に渡してるようだ。そいつがいる場所も聞かされてる。お前を逃がすと侍従にも処罰が下される恐れがあるらしくて、それを防ぐ為、三人分を手配してくれたって話だ」


 その計画の意味が、私は直ぐには理解出来なかった。

 密入国。コーリア。処罰。三人分……。


「三人分って、ア、アリア様は?」

「あの人は、孤児院も経営してるんだろ?」


 慌てて尋ねる私を、凪いだ湖畔のような静かな目でアレックスは見た。


「あ……」


「それに話によると女官長は人材不足らしい。上手くいけば、何かしらの御咎めは受けるだろうが、お前の後釜を支える為に生かされるかもしれないということだ」


 返された言葉の中には、私を静寂に包むものが含まれていた。


 ――アリア様が、そこまでの覚悟を持って……。


 美しいあの人のことを、思う。あの日、私が塔からコーリアと去るのをずっと見届けていた、あの人のことを。世界で一人で生きることを覚悟したような目の、厳格だけど優しくて、温かくて……本当は寂しいのかもしれない、あの人のことを。


 私が愕然とした心地に襲われている中、アレックスは話を区切って瞑目する。気負いや衒いを抜くように息を吐くと、穏やかな目で私を見つめた。柔和に笑んだ。


「だからユリシア、お前が望めばレイシル王国で生きることも出来る。貧乏な思いをさせちまうかもしれないが、肉体労働はどこでも通用するしな。俺も兵役で少しは鍛えたんだ。それでお前を、お前と子供を、なんならコーリアって娘も養う」


 突発的ではない、何度も自分と向き合って紡いだであろう言葉に、私は激しくゆさぶられた。それは一つの結末であり、未来でもあった。立ち上がり、臆したように目を一度伏せるも、アレックスと目を合わせ、確認するように尋ねる。


「本当に、そんなことが出来るの?」

「あぁ、お前が望めば、出来る。きっとな。いや、俺が叶えてやる」


 強い眼差しに迎えられ、心臓が押し出した血に体が熱を帯びる。

 そんな中で、アレックスはフッと息を抜いた。


「そしてもう一つの道は、戻ることだ。城にな。戻って戦姫を演じ続ける。話に聞いたぜ。自由はないかもしれないが、命令に逆らわない限り、命だけは安全だ」


 また風が吹き、日差しが黄金の粉となって舞い落ちるのを見た。


「それで、ユリシア……お前はどう生きる?」


 吐息が零れ、赤と青が混じる。私の緋色はアレックスを映し、彼の青色は私を映す。黙って見つめ合う幼馴染の二人を、運命と未来が息を潜め、眺めていた。


 アレックスとの結婚。彼と家族になるということ。子供の頃好きだった物語の最後に添えられる「めでたしめでたし」という言葉に似た、胸の温かくなる結末。


“私と一緒に逃げて、アレックス”


 そう言えば叶うであろう、いや、きっと叶う、夢物語。幾多の困難が先には待ち受けているだろう。でも私は一人じゃない。隣にはアレックスがいる。コーリアもいてくれるかもしれない。未来は私の手の中にある。手を伸ばせば、きっと……。


 粘度に富んだ時間が、一秒一秒と、その場に滴り落ちる。唾を呑みこんだ。

 だけど私は、その未来に手をつけることが出来なかった。


「……なにが、お前を躊躇わせてる? ユリシア?」


 私は幼馴染に、自覚すら出来ない何かを見抜かれていた。気まずげに視線を逸らす。生と死の二者択一を控えたかのような沈黙を挟んだ後、答えた。


「アリア様が……処刑されるかもしれないこと」


 するとアレックスは優しい苦笑を顔に浮かべる。


「それは可能性の話だ。そもそも処刑の理由は何だ? お前の監視を怠って逃がしたことか? いいか、エルトリア国にとって娘一人の力なんて大したモノじゃない。代わりはいるんだ、お前が逃げたところで何を恐れる必要がある。戦姫は偽物だと言いふらすのか? 言ったところで誰が信じる? それにな、女官長という職にある人間を大義名分もなしに処刑することが出来るのか? そうは思えな――」


「ア、アレックスは! 何も知らないからだよ!? な、何でもするんだよ!? あの人たちは……な、なんでも……なんでも……」


 声が震え、俯いてしまう。口にする言葉の一つ一つが、私の空洞に反響する。

 そんな私の右肩にアレックスの手が伸び、面を上げさせた。


“それは……すまん。無神経なことを言って悪かったよ”


 その場を取り繕う、謝罪の言葉が掛けられると、そう思っていた。だが予想に反し、戦場に赴く兵士のようなアレックスの顔と出会う。彼が述べる。重く、強く。


「分かった」と。

「え……?」


「なら俺が城に行ってアリアさんを説得してやる。一緒に逃げようってな。応じなかったら、浚ってでも連れてくる。一緒にレイシル王国で暮らそう。国の要職に就く人だ、簡単には国を越えられないかもしれない。だが俺はやる。やるといったらやる。その覚悟が俺にはある。ユリシアの不安を取り除いてやる。どうだ?」


 アレックスという幼馴染は、いつの間にこんな力強い目をするようになったのだろう。嬉しい筈なのに、退路を断たれたかのように困惑している自分がいた。


「さぁ、後は何がお前を躊躇わせてる?」


 注意力が散漫になる。迷うように視線を彷徨わせた。


「わ、私は……」

「あぁ」


 逃げることに対する後ろめたさの極地。それを解き明かそうと、必死になる。自覚すら出来ず、未だ言語化することが叶わない、当人の歴史と感情が紡ぐ領域。


 その先に佇むあの人の影。笑顔。


『ユリ』


「エルダ……様」


 それを言葉にし、ハッとなって続けた。


「エスメ、ラルダ、様……」


 心を通り抜けるような、風が吹く。草を揺らした。視界の端では透き通った豊かな水の流れが陽光を跳ね、眩く輝いていた。さくりと、夢が甘く傷つく音がする。


「そうか」


 アレックスは私の肩から手を離すと微笑み、川に視線を置いた。


「エスメラルダ姫は、死んじまったみたいだな。理由は手紙にも書いてなかった」


 咄嗟に口を開いたが、言葉にならなかった。口を噤ませ、また俯きそうになる。


「だがな、」


 それをアレックスの声が押し留めた。


「エスメラルダ姫は死んでも……エルトリアの戦姫は、死んでない」


 その言葉に体を硬直させた後、私は恐れるようにアレックスの顔を見た。

 彼と視線がぶつかり合う。アレックスの口が、再度開かれた。


「エルトリアの戦姫は……死んでないんだ」


 そして雲一つない空を仰ぐ。硝子のように輝く、彼の瞳のように澄んだ空を。


「エルトリアの戦姫は……この国に生きる皆の希望だ。何の実りもなく、疲弊しちまった国の現状。再興も中々進んでないと聞く。だけどな、俺は町で噂を聞くんだ。エルトリアの戦姫の噂をな。苦しい中でも、皆がエルトリアの戦姫に期待してる。あの人なら、きっとこの国をより良い方向に導いてくれる筈だってな」


 愕然とした面持ちとなる自分を、どうすることも出来なかった。


 戦姫の噂が流れていることなど、知らなかった。当然だ。私は狭い世界にしか生きていない。エルトリア国の首都、姫様の塔。その塔に暮らすのは、皆が希望として仰いでいるのは、偽の戦姫。国王様と元老院の傀儡。何の力もない……。


「それは……違うの! 本当は、戦姫には、何の力もない。エルトリアの戦姫は、私、なんだから……エルダ様じゃない! だから、何も、何も出来ない……」


 私の激情は、やがて湿った沈黙に飲み込まれていった。


 思わず項垂れる。何も考えたくなかった。奔流のようにしてやってきた様々な印象や出来事の前に、私は上手く纏まりをつけることが出来ないでいる。


 心の奥底が、暗い水面のように黒々と静まり返るのを感じる。怒りを溜めこむように体が震えた。反感や憤りだけが、心の内側に深く、深く沈みこんで――


「なぁ、ユリシア。お前に見せたい手紙があるんだ」


 そんな私にアレックスが声を掛ける。「え?」と言葉を漏らし、顔を上げた。

 アレックスは苦しげに笑うと、懐から一枚の手紙を取り出す。


「戦争中、領主様のところで兵役についていた頃の話だ。手紙が来たんだよ、俺宛てにな。王家の人間からの……エルトリアの戦姫からの、手紙だった」


 そう言って王家の紋章が捺印された、封が切られた便箋を私に差し出した。


 ――エルトリアの戦姫からの手紙……?


 言葉を無くした私は、手を震わせながらそれを受け取る。慎重な手つきで手紙を取り出した。懐かしい、何度か見たことのある姫様の字がそこに綴られていた。


『アレックス・エルスマン殿』


 驚きに打たれ、思わずアレックスに視線を注ぐ。彼は内心の複雑な思いを語るように微笑むと、続きを読むように目で合図を送った。


 私は意を決し、その手紙へと向けて心を研ぎ澄ました。

 言葉が私の意識へと、隔たりなく、飛び込んでくる。



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