30.お守り
「戦争が終結し、少し経った頃のことだと聞き及んでいます。兵士崩れの盗賊の一団に、その……村が襲撃されたようです。調べたところ、どうも奴らが宴会を開いている最中に火が回ったらしく、盗賊は逃げ出し……村は壊滅。村人は縄で縛られ、村長の家に集められていたようですが……彼らも火にまかれ、そこで……」
村の目の前で馬車から下りた私は、伝令官の言葉に茫然自失となった。
意味が重過ぎて、かえって現実味が湧かない。
――盗賊の一団。村が、襲撃? みんなが火に?
「い、生き残りは?」
口から零れた言葉は、私を支える脆弱な現実感を表すように震えていた。
伝令官は躊躇うような間を開けるが、やがて事実を私に届ける。
「……何人か浚われたことは分かっていますが。村にいた人間は、残念ながら」
瞬きすら忘れ、焦点の定まらない目を、黒く煤けた色すら風化し始めた村に投げかける。私の生まれ故郷。私のラスフル村。だがその細部に何かを認めることが出来ない。次第に一枚絵としての風景は掠れ、あらゆるものの輪郭がぼやけ始めた。
「そ、そんな、こと……って……」
――この”人生”というものは、まともではない。
その考えが私の意識を占める。人はその中に意図せず入り込み、行く先も分からず、いつか出ていく。その最中は何をしているのか、本人も、誰も分からないままに。ただ入り、出ていく。その一つの結果が、眼前に広がっている光景だ。
不意に、コーリアの涙の意味が、アリア様の言葉の意味が、伝令官の目に籠らせた光の意味が、一度に理解出来たような気がする。体を小刻みに震わせた。
「な、ぜ?」
何も映したくない目で村を映し、喉の奥で押し潰されたような声で尋ねる。
「火が、回る……おかしいでしょ。盗賊、なのに……なんで、村を……」
「それは、宴会中の火の不始末ではないかと……ユリシア様?」
脳裏を過るのは、この国で神のような力を持つ男の叫び。
『逃亡したら村を焼く、一家もろとも殺す、始末する』
盗賊に姿を装わせ、事前に村を焼かせていたのだろうか。分からない。だが、それで国王様が何か得をするのか? 伝令官が言うように、火の不始末なのかもしれない。しかし、そんなもので私の生まれ故郷が燃やされ、村人が殺されたのか?
わから……ない。
私には、何も、何も分からない。姫様の死の真相も、ある時まで私には分からなかった。何も、私には分かれない。突然現れた雲に、太陽という事実は隠される。
「どうして!?」
気付くと力の限り叫んでいた。伝令官に顔を向ける。
「どうして!? 私を!! ここに!? 連れて…………来たのですか……」
伝令官が息を呑むのが伝わる。発作のような言葉は、吐き出された途端、遣る瀬無さで自然と冷めた。涙を湧かせた瞳で視線を合わせ、拳を握り込む。
「もう、どこにも、逃げ場はないと……一生、エルトリアの戦姫として生きる他ないと、そう……私に、思い知らせる為ですか?」
「ユリシア様……」
「アリア様も、アナタも!? 最初は……怖かった。とっても、とっても、怖かった。だけど、優しさに気付いて、好きに……なった。私を、私を……見て、くれていたと、そう……思ったのに……。どうして、どうしてこんな、仕打ちを……」
途中から前髪で表情を隠し、激情と悲しみの波に襲われながら言う。
時間が風にまかれ、植物の綿毛のように空へと舞った。ゆっくりと落ちてくる。
「全てを……」
体ごと向き直る音を聞き、顔を上げた。そこで迷いも自責もない、この場で死することすら辞さない覚悟と決意を持った、そんな印象を与える大人の顔と出会う。
「全てを知った上で、あなたに選んで頂きたかったからです」
その一言は静けさを支配した。漠々とした静寂が足元から這い上がる。
「な、何を……」
言い淀んだ私に、挑みかかるように伝令官が言葉を継ぐ。
「優しいだけではない、過酷な、無慈悲な、この世界で……あなたはどう生きるのか。エスメラルダ様が信頼し、その傍で生きたあなたがどう生きるのか。それを選んで頂きたかった。だから私とアリアは、ユリシア様をここに連れて来たのです」
空に舞った綿毛は営みの支配者の手に取られ、時間という糸車となって回る。
――姫様が信頼し、その傍で生きた私が、どう、生きるか?
何か言おうとして口を開くと、そこから怯えという黒い蛇が突如として入り込んだ。胴体の長いソレを無理矢理押しこまれたかのように、口が戦慄き続ける。姫様の死した姿が浮かび上がると、私は現在を忘れたように身動きが取れなくなった。
『王女といえど、ただ飾られている花とは思うな!? 私が、私が……』
『私、ユリの元に必ず帰って来るから』
姫様は死んでしまい、それでも私は、生きている。
喉を動かし、どうにかその感慨を飲み込むのに、どれだけかかっただろう。
私の意識に、生ある限り生きねばならぬという、紫色の憂鬱な事実が重く圧し掛かった。姫様もマリス様も、生まれ故郷すら既にない、世界で……。
――生ある限り、私は、生きていかなくてはいけない。
怯えを孕んだ息が、震えながら口から抜ける。顔を俯かせた。
「近くを……歩いてきます」
そう伝令官に声を掛け、置き去りにされた子供が泣きながら両親を探すみたいな足取りで、よくアレックスと遊んだ小川へと向かう。村の残骸を、横に見ながら。
「ここで、お待ちしております」
伝令官の視線を、背後に感じながら。
全てが移り行くとしても、人が死に絶えたとしても、自然は営みを途切れさせることがない。川は昔と変わらず、単純で大きな法則の元に流れ続けていた。
水際に屈み込み、故郷の水を掬って顔を洗う。水面に映る顔を他人のそれを見るように眺めた。酷い顔をしていた。人生に病み疲れたような……。
『優しいだけではない、過酷な、無慈悲な、この世界で……あなたはどう生きるのか。エスメラルダ様が信頼し、その傍で生きたあなたが、どう生きるのか』
知らず自嘲が零れる。今なお、村が滅びたことに現実味が湧かない。ただ身も世もない深い失望と、人生に対する遣る瀬無さだけが胸中を支配していた。
悲しみですら、実感が持てない。全てが無感動だ。感情ではなく、理屈で悲しい筈なんだと考えている自分がいる。悲しい筈の自分を、泣きたい筈の自分を、そんな自分を冷静な目で、遠く離れた場所から見ているような自分が……。
夢を持ち、希望を抱くことの出来る素質が人には与えられている。そう私は考えていた。その限りでは、どれだけ悲惨な状態でも、決定的な絶望とはならない。
希望、夢、将来。
誰もがそんなものに、微かな望みに縋りついて生きている。傍目にはどれだけ滑稽に見えても、実現不可能に見えても、それがあるからこそ人は生きていける。
明日を思い、将来を思う力が備わっている限り……人は、必ずしも不幸のどん底にいることにはならない。歯を食いしばって来た私の、それは一つの実感だった。
――ただ……。
本当に手の施しようもなく悲惨なのは、自分が今まで努めてきた一切のものが、無駄であったと知ること。今が無益に塞がれること。自分の存在が、人生が、過去が、現在が――未来に繋がっていないと知ること。それが本当の悲惨。
私の希望。ラスフルの村。アレックス。生きてさえいれば、捕らわれの戦姫とはいえ、いつか、戻れると、再び出会えると、何処かでそう思っていた。
服の内に潜ませていたアレックスのお守りを、首から外す。彼の面影をそこに探すように、じっと眺めた。戦場に立った時も、塔に幽閉された時も、このお守りは私に生きる力を与えてくれた。これこそが、私と希望を繋ぐ唯一の橋だった。
しかし、彼岸の希望は火に焼かれ、橋にも燃え移り、今、奈落の底に落ちようとしている。縋りつくように、お守りを抱きしめた。
――私はこれから、どうやって生きればいい? 何を希望に生きれば……。
どれ程長い間、そうしていただろう。時間が自我に没入し、私は現在を再び忘れ、現在も私を忘れた。出来るなら時間の挟間に私を永遠に閉じ込めて欲しかった。私も現在を見ないから、現在も私を見ないで欲しい。もう一人にして欲しい。
『ユリシア様』
そんな私に届く、過去からの声。私を虚脱状態から救ってくれたコーリアの声。忸怩たる面持ちに顔を歪め、顔を上げる。どうしようもない現実が帰って来る。
――ここにいても……仕方がない。
そう考えて立ち上がろうとすると、銀色の粒が視界に踊り、立ち眩みを覚えた。体を支えることが叶わず、上体を投げ出しそうになるのを両手で防ぐ。
何処か遠い世界で、水の跳ねる音が聞こえた気がした。
倦怠感が一度に私を覆い、砂利に苛まれた両手が鈍く痛む。その痛みを通じて自己を眺めるように、掌に視線を注ぐ。瞬間、瞠目し、手の虚ろさに寒気を覚えた。
一際大きい鼓動の音が身の内で鳴る。驚きに促されて立ち上がり、大切なものを無くしてしまった子供の姿そのままに、辺りを見回す。すると――
「え……」
私の手から離れたお守りが、川に絡め取られ、川下へと過ぎ去ろうとしていた。行くばかりでついに戻らぬ物の悲哀を纏い、自然の流れのままに。
「ま、待って!」
私は懸命に後を追った。偶然が助け、何処かにそれが引っ掛かることを願いながら。川の流れは絶えず、まるで私を嘲うかのようにお守りを下流へと流していく。
「きゃっ!」
足を速めようとするも、縺れた足が私を躓かせ、大地に縛り付ける。地に伏したまま手を伸ばし、お守りが流れていくのを黙って見守ることしか出来なくなった。
「い、行かないで……待ってよ……ねぇ……」
その光景がある種の寓話のように私の人生をなぞると、怖気に似た感慨に襲われる。運命という大河は、私から様々な物を奪っていった。ただ私だけを残して。
「どうして、どう……して……」
気付くと熱い涙が頬を伝っていた。鼻を啜り上げる。私はもう、何も取り戻すことが出来ない。姫様も、村の皆も、アレックスも。彼がくれたお守りすらも。
食いしばった歯の間から嗚咽が漏れると、もう涙を止めることは出来なかった。
「あ、あぁ……あぁ! あぁぁあぁあぁぁああぁああ!?」
さめざめと、私は涙に暮れた。吐き気のようにこみ上げてくる、虚しさという、重く鈍い痛みを感じながら。涙と共に、私も消えてしまえばいいと、そう思いながら。体中の水分を絞り出し、報われぬ世界の最果てで一人、蹲って泣いて……。
その最中、下流側で、水の割れる音が突如として上がる。
顔を伏したまま、体を反射的に震わせた。人が川へと入り、出てくる音を聞く。その人物が近づく気配を感じると共に、小石を蹴る足音が川辺に響いた。
二歩、三歩、四歩。五歩、六歩、七歩。私を目指し、近づいてくる。
緩慢な動作で、涙に濡れた顔をゆっくりと引き上げた。
「あ、あぁぁあ……」
目の前の光景に、私は動きを止めた。
足音が止むと、陽光が注がれるように、ある言葉が私に降り注ぐ。
「明日は晴れる。だからそんな曇った顔するな」
目から玉のような涙が落ち、地面にぽつぽつと湿った音を響かせる。
失われていくばかりの世界で、誰かがそこに立っていた。その手に自分で作ったお守りを持ち、私の目の色と同じ鉱石の飾り物を、胸元に下げた誰かが。
金色の髪を持つ、碧眼の誰かが。
少し見ない間に身長が伸びた、幼馴染の、優しくて、照れ屋で、いつも呑気に笑ってて、格好つけたがり屋で、お調子者で、それでも……私の大好きな……。
「ア、アレックス……」
「よぉ、ユリシア」
私がその名を呼ぶと、彼は笑みを深めた。懐かしい、笑顔だった。
温かい陽ざしの下にいるような、心地よい喜びをもたらす笑顔。彼の口から紡がれる「ユリシア」という名を、もう何十年も聞いていなかったような錯覚に陥る。
アレックスの手に掴んだお守りから、光を宿した雫が光の糸となって垂れ落ちた。それは、作り手と巡り会えた喜びを表す、涙のようにも見えた。
左肩に掛けたずだ袋を掛け直し、左手で鼻の下を擦って彼が言う。
「ちゃんと持っててくれたんだな、このお守り」
苦笑する彼の子供っぽい顔。焦点を結んだ筈の像はぼやけ、それに比して世界の眩しさは強固になる。陽は空から豪奢に光を捨て、目に痛い程に降り注いだ。
「あなた……生きて、生きて……」
何かを答える代りに、アレックスは片頬を窪ませて笑う。私に近づいて地面に膝を着くと、手にしたお守りを服で擦って水分を拭い、私の首にかけてくれた。それから彼の胸元に下がった緋色の鉱石を指し、次いで私の首にかかるお守りを指す。
「仲良しこよし、ってやつだな」
そう言って、子供を思わせる無邪気な顔で笑うのだ。
褪せていった心に色が戻るのを感じ、唇が自然に微笑の形を紡ぐ。頭上では太陽が輝き、果てしなく燃え続けていた。二人の再会を祝福するかのように、眩しく。
哀しみとは異なる理由で私は涙を流し、彼がまた笑う。
――百年は忘れることの出来ない、アレックスとの再会だった。




