29.ラスフル村
朝日が空を切ない色に染めるのは一瞬のことだ。その光は夕陽のように優しくはないが、いつまでも見る者に弱さや寂しさを感じさせはしない。
アリア様から話を持ち掛けられた翌日の早朝。姫様の部屋で懐かしい侍従服に着替えた私は、窓から空を見てそう考えた。村で自慢だった長い髪はコーリアの手によって綺麗に編み込まれ、エスメラルダ姫としての特徴は隠されている。
「失礼します」
扉が開く音と共に、控え目な声を背に聞く。目を閉じ、耳を澄ませるように、その慣れ親しんだ気配を体全体で感じ取ろうと試みた。小さくて可愛い足音が響く。
「それでは、ユリシア様」
呼び声を合図に目を開け、顔をゆっくりと振り向かせる。
「えぇ……行きましょうか、コーリア」
鳥の囀りと窓から射す陽光が人をくすぐり、町が目覚めようとする頃。夜が遅い宮廷人たちが、一日最後の快楽である睡眠をまだ貪っている頃。私は塔を出た。
「背筋の伸びた人間は自然と視線を集めます。その点、お気を付け下さい」
塔の入口でアリア様の言葉を受けて振り返る。無機質に光る硝子細工のような目の中に、温かさが灯っていることを私は知っていた。その輝きをじっと眺める。
「お気遣い、有難う御座います。気を付けるようにいたします」
目を合わせながら、確かな口ぶりでそう応えた。
アリア様は口の端に微笑の影を浮かべると、意志を込めた表情で頷かれる。
それから私は隣に並ぶ、食料などを運ぶ籠を背負ったコーリアを見て、最後の確認をするように首肯し合った。名残を惜しみながらアリア様へと告げる。
「それではアリア様、行って参ります」
「はい、いってらっしゃいませ。ユリシア様」
そうしてエルトリア国の首都で、城で、その庭で、村娘のユリシア・リリーズとしての一歩を私は踏み出した。本来は許される筈のない一時的な帰郷であれ、この身を痺れさせるには十分だった。歓喜が静かに渦巻き、青い空へと舞い上がる。
一歩二歩と歩み、思わず立ち止まった。信じられない。
三歩四歩と進み、また足を止めてしまった。呆気に取られる。
果たして大地とは、こんなにも確かな弾力を足の裏に感じさせるものだっただろうか。その心地に無表情を作ってしまう。今までのように、現実に対して死んだフリをしていた訳ではない。哀しみと同様に、喜びも過ぎれば無反応になるのだ。
以前も戦姫として外出はしていた。なのに感触が全く違うのだ。試しに飛んでみた。村の小さな子供たちが祝祭日を前に、嬉しさを隠しきれないみたいに。
トン、トン、トン、トン、と。
「ユリシア様……」
背後から声が掛かる。城を出るまで私に着き従う予定のコーリアに、喜色を湛えた表情を向けた。自然と顔が笑ってしまう。まだ村に帰った訳ではないのに、侍従服に身を包んで庭に立っているだけなのに、喜びを、どうすることも出来ない。
「面白い、すごく感触がいいの! ふふ、あはははは!」
緩んだ口から、城に来てからは上げたことのない種類の笑い声が漏れていた。
「ねぇ、コーリアも一緒に飛んでみて。足の裏が気持ち良くて、すごく……あ」
そうやって奇妙な昂揚に包まれていた私は、コーリアの泣きそうな、アリア様の自責を籠らせて目を伏せるような姿を見たことで、静かに自分を取り戻した。
はしたないことをしてしまったと、自分に恥じ入る。
「ごめんなさい。私……浮かれてしまって……その、」
「いいんです。いいんですよ。さっ、参りましょう、ユリシア様」
肩を並べたコーリアが手を取り、私たちはアリア様に揃って一礼すると、その場を後にした。城の物資搬入口へと向かうべく、緑の絨毯が敷かれた庭を進む。
鼓動が新鮮に早まるのを感じた。王族の暮らす場所は城の敷地内の奥まった位置にあり、人通りも絶えている。塔の付近に警備兵はおらず、監視の目も無いとのことだった。そして私の姿は侍従に扮されている。誰が私を姫と見抜けるだろう。
昂ぶる気持ちの中、私の心を遮る物など、怯えさせる物などありはしなかった。
そのような印象の元に曲がり角で振り返ると、塔の入り口でアリア様が微動だにせぬ儘、私たちを見ている姿が確認出来た。黒い花が咲く。脳裏に何か暗い影が過り、足を止めてしまう。「ユリシア様?」と、コーリアが訝しんだ声を上げた。
『ユリシア……さようなら。どうか運命を、姫様を……ま、……いで……』
不意に何故か、姫様の死を前に錯乱し、マリス様に抱きとめられた時のことを思い出す。結果として、あれが私の中でマリス様との最後の場面になった。
――縁起でもない。どうして今、そのようなことを……。
そうは思えど、アリア様がある種の覚悟を抱いて私を見送っていることは、間違いようのない事実に思えた。そのことに今更ながら気付き、再度己を恥じた。
「いかがなされましたか?」
「……大丈夫、何でもないの。さ、行きましょう」
コーリアに返事し、再び歩み始める。様々な感情が胸の奥から湧き出し、浮かれていた心は萎み、途端に厳粛な気持ちに包まれるのを感じた。無言で足を動かす。
ふと隣に視線を移せば、肩を並べて歩くコーリアが、眉を下げた気弱な表情を覗かせているのに気付いた。彼女に心配をかけまいと薄く微笑んでみせる。
「コーリア……迷惑をかけるわね」
「いえ、私は、」
そこで彼女は何かを言い掛けたが、俯き、口を噤んでしまった。その代り私の手を強く握り込む。妹が姉に対し、不安な心を上手く言葉に出来ない時のように。
その先は何度か迂回した後、外壁の内側に沿って進んだ。城の人間に、侍従に、兵士とも顔を合わせることがあったが、会釈を交わして何事もなくすれ違った。
王族の人間を間近に、顔を覚えるほど頻繁に見ることが出来る人間は限られている。それは戦姫として衆目に晒される機会が多い、エスメラルダ姫でも事情は変わらない。衣装や化粧、髪型を変えるだけで、驚く程に同一性は消えてしまう。
形式の持つまやかしや力を、改めて知る思いだった。
広い敷地内を歩み続けること数十分。初めて城に訪れた際に目にした、外へと繋がる物資搬入所が遂に視界の内に現れた。警備兵と思しき数人の兵士らと共に、一台の豪華でも貧相過ぎもしない、幌が張られた馬車が停まっているのを確認する。
――それから事は、事前に予定されていたかのように滑らかに運ばれた。
コーリアの手がすっと離れる。警備兵に歩み寄った彼女がその内の一人に話しかけ、小ぶりな袋を渡すのを離れた位置で眺めた。紐を開いて中を確認した男が、にやりと微笑む。周りの人間が覗き込み、男が馬車に向けて顎をしゃくった。
私の元まで小走りで来たコーリアが、停車中の馬車の荷台に急ぎ乗るよう促す。
『城へ入って来るものは厳重に検査されますが、出ていくものの検査は杜撰です』
アリア様の言葉を思い出しながら、緊張感を伴わせて縁に足を掛け、荷台へと乗り込んだ。暗く湿った質感が覆い被さる中、塔の食糧庫を思わせる雑多な臭いが鼻をつく。物は既に運び込まれた後なのか、空になった樽や木箱が幾つも見えた。
私がその場で周囲に視線を巡らせている間に、コーリアは御者の男と何か話をしていた。パタパタと駆ける足音。自分を持て余していた私に背後から声が掛かる。
「ユリシア様、こちらを」
荷台後方に回ったコーリアが、籠に入っていた袋を押し上げるようにして渡す。
「着替えが入っています。少々大変でしょうが、城から抜けた際に馬車の中でお着替えになって下さい。先にお伝えした通り、馬車が止まった先には別の人間がいる予定となっております。以降はその者の指示に従って下さいとのことです」
昨日、アリア様とコーリアは様々な準備に追われていた。これもその一つだろう。赤子程の大きさの袋を受け取りながら、私は咄嗟に彼女の名前を呼んでいた。
「コーリア!」
それに泣きそうな微笑みで応じるコーリア。
「はい、ユリシア様」
視線を交錯させ、互いの存在の名残に揺れる中、私はどんな言葉を掛ければ良いか分からないでいた。これは永遠の別離ではない。一時的な別れだ。その筈なのに、私は望んで故郷へ帰るというのに、感じている、この寂しさは何だろう。
――私を支え、癒してくれた彼女。
アリア様もコーリアも、私がそのまま逃亡することがないと信じているのだろうか。そのような事態になれば、二人とも処分は免れない。それなのに……。
「コーリア、あの……」
「はい」
どうしても言葉が見つからず、目を伏せ、言い淀んでしまう。結局、逡巡した後に口から零れたのは、有り触れた、でも何度述べても述べ足りない言葉だった。
「ありがとう……本当に、ありがとう」
私を見て、気遣って、励ましてくれて。無邪気に接してくれて、遊んでくれて、話を聞いてくれて、ユリシアと呼んでくれて。泣いてくれて、頑張ってくれて、ここまで連れて来てくれて――ありがとう。
そういう意味が、全部、全部、伝わればいいなと思った。あなたの名前を呼ぶ度に、私は幸せになるのだと。笑顔を見る度に嬉しくなるのだと。あなたの優しさに救われていたのだと。コーリアと出会えてよかったと。そういうことが……全部。
「ユ、ユリシア様……」
コーリアは何かに打たれたように目を見開いた後、口角を引き絞り、拳を握り込んだ。それから必死で笑おうとしたが、上手く笑えないようで、「あれ? あれ?」と困惑した声を上げ、ぽろぽろと涙を流しては、手の甲で拭っていた。
「コーリア……」
心配で声を掛けると、コーリアはすんすんと鼻を鳴らし、ごしごしと目元を擦る。それから私を見て、笑った。雲の切れ間から太陽が現れるようにニッコリと。
「いってらっしゃいませ、ユリシア様」
私もつられて微笑む。彼女の涙の意味は、最後まで分からなかった。それでも、あなたの笑顔を見ることが出来て嬉しいと、そう伝えるように。
『お辛かったでしょう。本当によく、頑張りましたね』
『ユリシア様、おはようございます』
別れの実感が回顧を運ぶ。でもいつまでも、別れに甘えている訳にもいかない。コーリアは鼻を啜って笑みを深めると、涙の跡を頬に残した顔で告げた。
「それでは、ユリシア様。お戻り下さい、ご自身の人生に」
「えぇ、行ってくるわね。コーリア」
機を見計らったかのように馬車が動き始め、コーリアとの距離が徐々に離れ出す。私はいつまでもいつまでも、彼女の姿を見ていたかった。しかし感傷を律すると、荷台の暗闇へと戻っていった。荷物の間に身を隠し、座り込んで膝を抱える。
馬車の振動に翻弄され、車輪の無骨な音を聞きながら思った。馬車の姿が遠ざかり、消えても……きっと、その後をいつまでも見ているであろうコーリアの姿を。
# # # #
城へ架かる橋を渡り切るまで隠れていたが、問題なく馬車は城を脱したようだった。蹄の音の変化で察すると、足元に気をつけて後方に移動し、空を仰いだ。
捕らわれていた堅牢な城を荷台から眺めると、それは不思議と儚くも霞んで目に映った。自由の実感が静かに爆ぜ、昂りに思わず、服の内側にあるお守りを掴む。
――姫様、私は……。
そこで渡されていた袋の存在を思い出し、用意された服に着替え始める。町娘の衣装。姫衣装とは比ぶべくもないが、それが高価な品であることは素材の感触や作りなどから直ぐに分かった。着丈もあつらえたかのように身に馴染んでいた。
着替え終えて息を吐き、再び腰を下した。全てが順調に進んでいた。問題は起こっていない。と、ある感触に背筋をつつと撫でられたかのように、体を震わせた。
――簡単に事が、運び過ぎていないか?
その冷たさを私は恐れた。努めて見せまいとする苦しみを、喜んで眺めている人達がいる。仕組まれた逃亡劇ではないのかという考えが、ちらと脳裏をかすめた。
宮廷人から話を持ち掛けられたアリア様が、コーリアを通じて私を操っている可能性はないか。逃亡した先で彼らが待ち構え、事実を知らされた私が落胆する姿を哄笑されはしまいか。捕えられて処刑される最後の最後まで、笑い物にされるのではないか。「実に面白い見世物でしたね」と、歪んだ笑みで私が終わる姿を……。
「は、はは。私は、何を……」
自嘲が零れ、薄暗い荷台の隅から伸びてくる、悪意の手に首を絞められていた自分に気付く。あの体験は私から抜けることはなく、意識に強く刻印されている。
頭を振ることで、妄念を追い払った。アリア様とコーリアの善意を信じようと心に決める。信じるという行為そのものは、ひょっとしたら思考停止の一つの形なのかもしれない。そう思いながらも、私はその行為こそを無性に欲していた。
そうしている内に再度、蹄の音が変わる。馬車が町に入った。生活の気配が、都市のざわめきのようなものが耳朶を打ち、私は意味もなく息を潜めた。
それから、どれだけ時間が過ぎ去っただろう。不安な心が時間を平坦に引き延ばす。侍従服を収めた袋をぎゅっと抱きしめ、揺れ動く荷台で気配を殺す。
やがて馬車が止まった。
「あっ……馬車が……」
御者に声を掛けようか迷ったが、アリア様との約束でそれは禁じられていた。意を決して立ち上がり、荷台の後ろから外を覗く。石畳の街、陰に支配された人気の無い入り組んだ一角。首都の隙間のような場所に停車していることが分かった。
震える体をなだめ、袋を持ったまま恐る恐る荷台から下りる。視線を彷徨わせているとパシンと打つ音がその場に響き、例の如く馬車は無感動に去っていった。
「……これから、どうすれば……」
途方にくれ、胸中の不安が言葉となって路上に落ちる。すると、
「お待ちしておりました」
背後から男性の声が掛けられ、冷たい緊張が全身を走り抜けた。咄嗟に振り向くと、誰かが近くの角からこちらに歩んで来ようとしていた。記憶が囁き、聞き覚えのある声に予感を抱かせる。建物の陰に落とされた顔が次第に明らかになった。
「お久しぶりです」
「伝令官の……お方」
その場に現れたのは、あの日、私をラスフル村から城へと導いた初老の伝令官だった。口の上に髭を蓄えた、勤勉実直を絵に描いたようなお方。それが今は格式ばった公務用の服ではなく、上等そうな、町に溶け込んだ私服に身を包んでいる。
『あなたの旅は、これから始まるのですよ』
城へと向かう途中に彼が述べた、予言めいた言葉が不思議と思い出された。
その伝令官が柔和に微笑みながら、私へと歩を進める。
「よくぞ、苛烈な運命に立ち向かわれてきましたね。ユリシア様」
その時の気持ちを、何と言おう。
「え?」
思いもよらぬ彼の労わりの言葉に、私は一度に力が抜けてしまった。それも悲壮感からではなく、温かな感慨に呑まれてのことだ。誰も私のことなど分かってくれないと、誰も私を私として見てくれないと、ある時まで私はそう思い込んでいた。
でも違ったのだ。そこにはアリア様がいた、コーリアがいた。
そして……彼もまた、私のことを見てくれていた。知ってくれていた。
「わ、私は……」
その感慨に胸を締め付けられながらも、口角を必死に上げ、でも眉を下げた、困ったようにも泣きそうにも見えてしまう顔で微笑んだ。
「はい、有難う、御座います」
伝令官の男性は遠くを見るように目を細めた。それは娘の成長を父が慈しんでいるようにも、大きな悲哀を呑み込んでいるようにも見えた。
そこから先は伝令官の娘として、馬車を乗り継ぎ、二人でラスフル村を目指すことになった。公務ではなく、休暇をわざわざ割いて頂いた私人としての旅だ。
村から首都へ向かった時のように、二頭立ての専用馬車がある訳ではない。町と町を結ぶ、一頭立ての二人乗り馬車を使用した旅となる。速度こそ二頭立てには劣るが、屋根付きの立派な馬車で揺れも少なく、二人並んで腰かけて街道を往く。
道中、伝令官の男性は少しずつ色んな話を聞かせてくれた。
古い知り合いに会う為の旅に娘と赴くと偽り、休暇を取ったこと。若くして女官長となったアリア様を昔から知っていたこと。ご自身の出自に関することなどを。
「私の生まれは、北の地域の諸侯貴族の三男でした。後を継ぐ筈だった長男が戦死し、今は次男が父を補佐しています。次男が正式に領地の運営を任されることになったら、私も補佐役として領内へ戻るつもりです」
「そうでしたか……お悔やみ申し上げます。そんな中、休暇まで使用して私の我儘にお付き合い頂き、有難う御座いました。しかし、どうして、その……」
私が言い淀むと、正面を向いていた彼が鼻から息を優しく抜き、こちらを見た。
「戦争が終わって、暫くした頃のことになります」
「え? 戦争が終わって……」
「アリアから聞かされたんですよ。エルトリアの、戦姫の……話を」
エルトリアの戦姫の話。その含みに瞠目し、膝を固くする。
私の反応を前に、伝令官は自嘲するように唇を曲げた。前に向き直ると、深く大きく深呼吸をする。再びチラと私を見ると薄く微笑み、顔を正面に戻して続けた。
「話は、エスメラルダ姫の暗殺未遂にまで遡ります。女官長であるマリスがブリュンヒルデと通じており、その配下である侍従の一人がエスメラルダ姫を暗殺しようとした……。そう侍従が自白したことで、マリスは処刑され、女官長も塔に勤める侍従も交代した。私たち城に勤める人間は国王陛下にそう説明され、信じ切っていました。陛下の言葉は絶対です。動揺こそすれ、疑う人間など一人としていない」
何処かで予感していたが、マリス様がそのような汚名を……。厳しさと優しさ、懐かしさと愛おしさ、それらが混ざり合った名を聞き、知らず両手を握り込んだ。
「そして私が村にアナタを迎えに赴く際には、陛下からは”ただ影武者にする人間を連れてくるのではない”と聞かされておりました。そこには複雑な事情があったようですが、エスメラルダ姫の顔を立て、宮廷での代役を務めさせると……。私たちは職務上、国家機密と関わり合うこともあります。守秘を破ったことが発覚した場合、訪れるのは家族の死です。ですからそのことを誰にも漏らさず、邪推せず、忠実に職務をこなすことに励んでいた。一切の個人的感情を抜いて」
車輪の巡る音が響く車内で語られる、小さな声の大きな秘密。今話していることは、今行っていることは、規則に反することには繋がらないのか。私は衝撃に襲われながらも、何とか自分の心を落ち着かせようと、「えぇ」とだけ応じる。
「そんな私にアリアは言ったんです。戦争が終結して暫くしたある日、城内ですれ違った際にね。“ユリシアは頑張っています”と、あの無口で無表情なアリアが、言葉に感情を込めて。“この城に務める人間の、誰よりも頑張っています”……と」
その光景が意識の中で立ち上がると、私は言葉を無くした。
伝令官の一語一語を彫り込むかのよう口調に、熱が込められる。
「頭と出自が良く、感情を仕事に持ち込まない、勤勉な、理想的な城の勤め人の彼女。同時に無口で無表情でもあり、何を考えているのかが分からない。しかし、それも女官長という秘密を扱う役職では長所と考えられていました。実際、国王陛下からの評価は極めて高かったのですよ、アリアは。その無感動な面も含めて」
『ユリシアは頑張っています。この城に務める人間の、誰よりも頑張っています』
先程の言葉に体を満たされ、私は満足に言葉を操ることが出来ないでいた。体が感じやすい、一本の張り詰めた神経と化したかのように耳を澄まし、ただ頷く。
「そのアリアが私に語りかけてきた。エスメラルダ姫と瓜二つの顔を持つ、ただ影武者ではない少女の名を交えて。不可解に思ったものの、彼女が意味の無いことを言う筈がない。その意味を自宅に戻って考え続け、ある日、震えるように一つの結論に至りました。そうか、そういうことかと。戦争終結後、エスメラルダ姫が少しお変わりになったと城で噂されていたのですが、それが私を確信へと導いたのです」
それから先、二人が暗号じみた断片的な交流を重ねていったことが伝令官の口から語られる。彼もまた、子を持つ親の身として私のことを憂いてくれたという。そして今から何十日も前、アリア様が私をラスフル村へと導く計画を持ち掛けると、
「その役目を担うのは自分を置いて他にないと、そう考えたんです」
事実を知ったものだけが持ち得る静けさを湛えた眼を向け、彼はそう告げた。
世界は常に自分の知らない所で動く。時間もまた、私が嘆こうと悲しもうと、素知らぬ顔で日々を刻み続ける。それが私の実感だった。そうした中で、自分を気にかけてくれる人がいる。それは……救いだと、喜びだと、そう強く実感した。
「ありがとう……ございました」
憂愁に閉じ込められた心が歓喜に打ち震え、新しい輝きを迎える。
瞳に涙を溜めながら、深々と頭を下げた。
「いえ、とんでもないことです。どうぞ頭を上げて下さい」
そんな私に伝令官の男が恐縮したような声で述べる。
狭い車内。上体を元の位置に戻して目尻を拭い、微笑みながら彼を見る。
――え?
そこで私は、悲哀を籠らせた伝令官の目と出会った。一瞬の怯えが彼に走る。
僅かな違和感を覚えている間に、伝令官は躊躇いがちに口を開いた。
「ユリシア様……アナタの旅は、物語は、まだ続いています。他の誰でもない、アナタだけの物語が……。そのことをどうか、お忘れなきように」
その言葉は虚を突くように作用しながら、現実を私に思い出させた。一時的に村に帰ることが出来ても、アレックスに会えたとしても、それで何かが解決する訳ではない。私は捕らわれの、傀儡の、偽の戦姫のままだ。事実が重くのしかかる。
「えぇ……わかっております」
そう伝えると、心の痛みを知る人間同士、苦い笑みを伝令官と交換した。
車内でそういった遣り取りを交わし、馬の休憩を何度か挟みながらも、馬車は目的地へと進んで行く。夕刻前にはクリスト領のとある町に予定通り辿り着いた。
お気遣い頂き、宿屋では別々の部屋に泊まることになった。夕食後、興奮で眠れないかもしれないと危惧して寝台に就いたが、旅の疲れが私を眠りの海へ誘った。
翌日。朝食を終え、アリア様の手配による馬車でいよいよラスフル村に向かう。
「それでは、参りましょうか」
「はい、宜しくお願いします」
走り始めて数刻が過ぎると、窓の外に見覚えのある景色が飛び込んで来るようになった。その事実が私を昂ぶらせ、ほとんど叫び出したいような気持ちへと駆る。
――もうすぐ会える。アレックスに。村の皆に。
丘を越えた先には、村が、私の生まれ故郷ラスフルの村がある。幾度も思い描いた彼の笑顔がある。お守りを強く握りしめた。胸中では喜びがもたらす戦慄と恍惚が小波のように寄せては返し、歓喜というざわめきが光のように波打っていた。
はしたなくも腰を上げ、小窓を開いて外に顔を出した。頬を打つ風が心地よい。鼻から新鮮な空気を取り込めば、むせ返りそうな高原の緑が口にまで溢れ返る。
私には感じられた。鼻孔を擽る、故郷が織り成す懐かしい匂いを。耳を澄ませば川の流れも聞こえる筈だ。仰げば空は、その底が突き抜けたかのような青さだ。
――ラスフル村、帰って来たよ。皆、ユリシアが、帰って来たよ!
丘から座って見下ろせば、小さな村の全てを眺めることが出来る。言葉少なく座っているだけで、うっとりと眠るような感慨を運んでくれる場所。
そこは私の故郷。人生の殆どの期間を過ごし、家族が、幼馴染たちが、アレックスがいる村。私という肉体を産み、育てた、懐かしい温かい村。
私は丘を越えた先に広がる光景を前に、言葉にならない声を上げる。
「あぁ! あぁ!……あぁ!?」
そこには、そこには、
――そこにはただ、廃墟と化した村の跡だけが残っていた。




