26.コーリア
「エスメラルダ様、おはようございます」
昔に比べ遙かに遅い朝。覚醒した瞬間から、私は脱力の底にいた。起き上がりたくない、何もしたくない。無気力に押さえつけられ、身動きが取れずにいる。
「エスメラルダ様」
すると、物言わぬ躯のように寝台に横たわる私の視界に、太陽が現れた。
自然がその力を発揮し、光で樹木を照らすような。生命力に溢れたその笑顔。
「さ、朝ですよ。起きてください」
「……コーリア……」
コーリア――少し年下の、森の小動物を思わせる愛らしい女の子。
目覚めても寝台から直ぐには背を離せずにいる私は、侍女のコーリアに促され、どうにか起き上がる。情けない話だが、それが今の私だ。
用意された桶に張られた水で顔を洗った後、彼女に手伝ってもらい服を着替える。優しく髪を梳かしてもらう。世界は音もなく時を刻み、静かな時間が流れる。
私の生活はコーリアによって支えられていた。姫様の死後に入れ替わった侍従たちは、彼女を除き、戦争終結後のある時期から急に姿を消した。残った彼女が専従となり、料理から掃除、洗濯など、生活に必要な世話をしてくれている。
アリア様も姫様の塔で寝起きしているが、必要なことは全て一人でこなしていらっしゃった。これは彼女が女官長の職に就いてから、ずっと変わっていない。
現在を忘れ、時間が自我に没入する。椅子に腰かけてコーリアに身を任せていると、無から生じたように、アリア様が眼前に姿を現していた。
「おはようございます。エスメラルダ様」
「……アリア」
彼女は瞬きを忘れたかのような目で私を見据えると、
「コーリア。エスメラルダ様を頼みましたよ」
「はい、お任せ下さいアリア様」
「ではエスメラルダ様、私は城に参りますので」
そうコーリアに言いつけ、私に一礼し、部屋を去った。
コーリアがその後ろ姿に、敬愛に似た柔らかな声を投げかける。
「いってらっしゃいませ、アリア様」
何故かコーリアは、アリア様によく懐いていた。そのコーリアのことも私は詳しく知らないが、話の端から戦災孤児であることは察していた。侍従としての能力を身につけているのも、元はどこかで侍従をしていたことが関係しているらしい。
侍従……。
『拝謁の栄を賜り恐縮しております。わたくし、アリス・キューレットと申します。以後、エスメラルダ様の侍従を務めさせて頂くこととなりました。宮廷の礼儀に馴染まぬ粗忽者ですが、どうぞ可愛がって下さいませ』
アリス・キューレットと名乗る女性は、私の侍従と云いながらも、その実、塔に訪れることは一度としてなかった。私と似た顔をした、あの女性。
『お利口に立ち回るには、ただ利口なだけじゃ不十分なのよ。知ってた?』
あの日以来、顔を合わせることもなく、何処で何をしているのかは分からない。
ただ、国王様のお気に入りという話を小耳に挟んだ。宮廷に出入りすることが殆どなくなった私は知る由もないが、宮廷で日々遊んでいるのか。或いは、嘗ての私と同じく、エスメラルダ姫となる練習を積んでいるのか……。
「エスメラルダ様? いかがなさいましたか?」
「…………」
役割としての名を呼ばれ、この場に属していない、透明な眼差しで彼女を見る。
「エスメ、ラルダ様?」
困惑したコーリアの翡翠色の瞳に、偽の戦姫の顔が映っていた。
今の私にとって一番身近な存在。コーリアは、私を本物の姫様だと思っている。
当たり前だ、偽物だと疑う理由がそもそもない。
私は姫様の名前で自分を呼ばれる度に、全てを吐露したい気持ちになった。だが分かってもいた。もし彼女が事実を知り、その噂が広まりでもしたら……。
彼女と私の命は、路傍の花を摘み取るよりもた易く、摘まれるであろうことを。
「いえ、なんでもないのよ……」
無理に微笑もうとして失敗した、死にかけの笑顔を向ける。
「ところで今日は……晴れるのかしら?」
「あっ、はい! 空や雲の動きを見る限り、雨は降りそうにないですよ」
「そう……ありがとう」
式典などの予定がない限り、塔での生活は至極単調に流れる。単調という果実は煮詰められ、ぐずぐずに溶け、ついには焦げて異臭を放つ。何もすることがない。
一日一日の輪郭は、限りなく、薄い。
明日も多分今日で、今日こそは明日なのかもしれない。今日と明日に明確な区分はない。常に夕刻の中にいるような、限りない憂鬱に覆われた私の世界。
――アレックス……。
姫衣装の中、一つだけ不調和で色彩の違う木製のお守り。今や寝る時も肌身離さず首から下げているそれを服の外に出し、握りしめた。
「あの、エスメラルダ様」
「……何?」
呼び掛けられて弱々しい視線を向けると、コーリアは懸命に笑う。
「よろしければ昼食の後、また少しお遊びをしませんか? あのっ、最近は気分が滅入っておいでなのかと思い、気晴らしも必要かと考えまして……その……」
コーリアは……眩しい。以前は単なる一人の侍従だった。自分から話し掛けてくることもなく、常に緊張していた印象しかない。それが涙を流した姿を目撃されて以降、こうやって私を泥から引き揚げてくれようと、手を伸ばしてくれる。
先日は、お手製のお手玉を見せてくれた。自分の部屋から、植物の種の入った丸い布袋を持ってきた彼女。謁見の間で、空虚さを居座らせるように椅子に腰かけていた私に向け、右手に二つ、左手に一つのお手玉を持ち、構えてみせる。
『これは、お手玉と云いまして――』
説明を終えると、『では、お見せしますね』と、右手のお手玉を一つ上に放った。続いて左手の物を。そうやって中の種をしゃらしゃらと鳴らしながら、打ち上げては収め、打ち上げては収めを繰り返し、器用に三つのお手玉を回していく。
『五、六、七、八、九……』
小さな躍動感が、視界の中で次々に打ち上げられる。一時現実感を失うような、不思議な光景でもあった。彼女は一生懸命に、秩序を空中に敷こうとする。
『あっ……』
途中、操り切れなくなった一つがコーリアの頭に当たった。
『し、失敗しちゃいました』
生きるという輝きを顔から放射し、恥ずかしそうに微笑むコーリア。
それから何度かお手玉を繰り返し、失敗しては照れたように笑う。
『コーリア』
そんな彼女の顔を認めた私は、気付くと呼び掛けていた。
『はい。如何しましたか?』
『お手玉、かしてごらんなさい』
『え……? エスメラルダ様がですか?』
気力をなくした自分からそんな衝動がやってくるとは、酷く意外だった。何故だろう、無性にお手玉をしてみせたくなったのだ、コーリアに。
手渡されたお手玉を懐かしく眺め、宙に放り、途切れることなく回してみせる。
『わっ!? わっ!? エスメラルダ様、すごい!』
こういった遊びは、村娘の私にコーリアが敵う筈がなかった。村の同世代の中でも、お手玉は私が一番うまかった。四つでも回すことが出来る。
『三十二、三十三、三十四、すごい、すごいです! エスメラルダ様』
お手玉を回した数を数えながら、興奮したコーリアが声を上げる。
彼女の賛辞には、厭らしさがなかった。こうすると私が喜ぶだろうという損得勘定が、卑しさが、そういったものが透けて見えることがない。情緒が素直なんだと思う。なによりも純粋に、私がお手玉を出来るとは思いもしなかったんだろう。
無邪気に喜びながら、コーリアは感嘆の声を上げ続けていた。
――あれは……楽しかったな。
「そうね……」
コーリアとの一間を想起し終え、口を開く。
「え?」
「また、遊びましょうか」
「……や、やったぁ! あっ、し、失礼しました。う、嬉しくて、つい……」
顔を赤くして弁解する彼女の顔を眺めながら、私は、薄く、笑った。
うたかたの日々はそれからも続く。何の希望もない日々だ。だが私は徐々にコーリアという存在に癒されていった。彼女を妹のように、時に慈しみながら。
「エスメラルダ様、見てください! 雲があんな形を!」
「エスメラルダ様、そんなところでお眠りになると、風邪を引きますよ」
「おはようございます、エスメラルダ様。今日も晴れです、良い天気です」
「おやすみなさい、エスメラルダ様。どうぞ、よい夢を」
「エスメラルダ様。今日の夕飯は、私が腕によりをかけて……」
「いってらっしゃいませ、エスメラルダ様。お帰りをお待ちしております」
あたかも自然が一つの季節を開くように、時々に応じ、様々な表情を見せるコーリア。人を喜ばせる為にあるような笑顔。その愛らしさ。与えられた天然の心を天然のままに顔に出す、作為のない無邪気な尊さ。
当初、そういったものを無感動にやり過ごしていたものの、コーリアはめげなかった。反応のない私にも話し掛け、笑顔を向けてくれる。凝り固まったものが解れていくように、コーリアの存在は少しずつ私に作用した。息苦しさが抜ける。
――何故、彼女は笑っているのだろう。
その中で、そう考えることもあった。コーリアの人生も楽しいことばかりではなかっただろうし、ないだろう。それでも彼女は今という時間の中、微笑んでいた。
「ねぇ、コーリア……」
ある日、私はふと彼女に感想を述べたくなり、口を自ら開いた。
「え……? は、はい。如何しましたか? エスメラルダ様?」
天気を聞く以外、私からコーリアに声を掛けることは殆ど無い。常ならぬ事に戸惑いながらも、感激しているような息遣いを彼女は伺わせた。
そのいじらしさに眉根を寄せてしまい、困ったような顔になって、
「コーリア、あなたは……」
――強いのね。
そう言おうとした瞬間。意識の中、私に向かって過去から風が吹いた。自然と目が見開かれる。ある光景が衝撃を伴い、私の中で鮮明に蘇った。
『ねぇ、ユリ……あなたは、強いのね』
『え? わ、私が、ですか?』
『これは私の持論なのだけど、普段、強そうに見せている人ほど……本当は、』
姫様が今の私と全く同じような感想を、当時の私に対して述べたことを思い出す。自分の悲しみを見つめるような、そんな、寂しい目をしておいでだった。
あの時、姫様はどんな心境でその言葉を仰ったのだろう。そして私は今、どんな心境でその言葉を述べようとしたのだろう。強い姫様。強いエスメラルダ姫。
でもそれが虚像だと、私だけが知っていた。私だけが、姫様のことを……。
「エスメラルダ様?」
言葉を途中で萎ませたことに、心配そうな顔を見せるコーリア。私は苦笑してみせると、「ごめんなさい、なんでもないの」と、言い繕った。
「あっ……」
機微を読むことに長けた彼女は、この場面で気遣うことで、相手に与える心的な負担を知っている。深刻さを打消し、全てを呑みこんで、ただ笑った。
「そうですか」
「えぇ、そうなの……」
私もつられるように、引き絞った苦みを和らげ、笑った。
言葉に出来ない物を共有した間柄に訪れる、親和に富んだ静寂が二人の間に下りてきた。コーリアを近くに感じる。多分、彼女もそうではないかと思う。
「ではエスメラルダ様、直に夕飯の時間になってしまいますが、それまでおはじきをしませんか?」
そうやって笑顔を交換していると、コーリアが一つの提案を持ち掛けた。
「おはじき……?」
「はい、色の入った綺麗な硝子玉を弾くお遊びです」
言うと彼女は、品のある紫の袋を取り出し、中を覗かせた。世界の色彩を凝縮したような、川のせせらぎの輝きを集めたような、そんな光がそこにはあった。
幾多の内の一つを手に取る。丸く薄い硝子細工に、鮮やかな赤と黄色が閉じ込められていた。両者は相反する思想のように、互いの征服を目指してせめぎ合うように見えながらも、うねりの中で美しい調和を保っていた。
「綺麗……」
そう口に零した瞬間、懐かしい過去に誘われたような気がした。
『べ、別にお前の為に買ったんじゃないけどよ。その、なんだ、あの行商のおっさんが、だから、その……。だぁぁ~~!? とにかく貰っとけよ! なっ!?』
あぁ、お前だったのかと、私は記憶に呼びかける。いつかの日、アレックスが私の目の色に良く似た鉱石が飾られた、首飾りを贈ってくれたことがあった。
あれはラスフル村での記憶。まだ姫様とも出会っておらず、戦場に立ったこともなかった、村娘としての、そんな、私の……。
「お気に召して頂けましたか?」
コーリアの声に意識を現在に呼び戻す。おはじきの一つを手にしたまま感慨を深め、結果、それに見惚れていたような形になっていた。
「おはじきという遊びで、その石を指で弾き合って遊ぶんだそうです」
満足そうに微笑むコーリアの眼差しが、胸を打つ。
私のことは誰も知らないのだという寂しさを隠すように、呼吸を合わせた。
「そう……そんな遊びがあったのね。知らなかったわ」
「はい、これは貴族のご子女様の間で、流行している遊びで――」
そこでコーリアは、おはじきという遊びの輪郭を語った。硝子玉の他にも珍しい形や色の石、貝殻などを収集し、それらを使って遊ぶのだという。
楽しんで語る彼女の頬が興奮で上気してか、可愛らしかった。
「しかし、これは……随分と贅沢な品ですね。どうしたのですか?」
でも私がそう尋ねると、「あっ」と言葉を零し、微かな躊躇を滲ませた。
――どうして戸惑う必要が?
訝しんでいると、やがて彼女は応じた。おずおずと、私の反応を伺うように。
「アリア様が……下さったんです。二人で、遊べるように」と。
感情を表さない、無表情なアリア様。
その顔が脳裏に冷たく浮かび、意表を突かれる思いに言葉を無くす。
「アリアが……?」
「はい、アリア様が……」
不可解な風が心を撫で、虚空に向かって姿を消す。私の印象や思考が、急に覚束ないものになった。狼狽している自分を発見する。
「アリアは……」
そう口を開いた直後、自身に驚いた。一体自分は、何を聞こうとしているのかと。しかし一度芽生えた不安から解消されたいという願いが、その先を促した。
視線を合わせず尋ねる。
「アリアは私のことが、嫌いなのかしら?」と。
「え……?」
小さな驚きが、コーリアから漏れる。
御粗末な質問だと、そう思う。一国の王女が、戦姫とも呼ばれる存在が、女官長からの印象を知りたがるなど。個人的な嫌悪に気を揉むなど……。
それはコーリアにとっても、不可思議な質問であったに違いない。
視界の端の彼女は驚いたようで、言葉を失っていた。落胆するような、それも仕方ないことだと言うような、悲しい息遣いをする。
「どうして、そのようにお考えになるのですか?」
彼女の声は静かで、どこまでも優しい響きを湛えていた。
「それは……」
口籠るとコーリアが近づき、両手で私の右手を取る。
「勘違いされ易いのですが、アリア様はお優しい方ですよ」
「え?」
恐れるような気持で、目の前の彼女と視線を交錯させる。
その大きな瞳には、悲哀のような、慈愛のような色が溜まっていた。
「戸惑われるかもしれませんね。ただ、戦災孤児の私を引き取ってくれたことが、その何よりの現れです。身を売るしか、なかったかもしれない、私を……。私だけではなく、アリア様に救われた孤児は沢山います。アリア様はご自身の給与を全て投げ打ち、孤児院を運営されてもいるんです……決して、多くを語りませんけど」
自然と目が見開き、「へ?」と、間の抜けた声が口から落ちる。躊躇うように手を離したコーリアは、愕然とした心地に陥っている私に薄く微笑みかけ、続けた。
「生まれは諸侯貴族の娘様ですが、痛覚を初めとした感覚が、生まれつきないそうです。そういった出自故か、辛いことも経験なされ、感情に乏しく、無表情で怖いかもしれません。物腰も固いですし。ですが、いつもエスメラルダ様のことを大切に考えていますよ、アリア様は。私には……それがよく、分かるんです」
開かれた事実は、私を厳粛な気持ちにさせた。
――コーリアを引き取った? 孤児院を運営している? 諸侯貴族の娘? 生まれつき……痛覚がない? そして私のことを、大切に考えてくれている?
コーリアは嘘を言わない娘だ。その事実が私を更なる混乱に導く。
正直な話、アリア様の優しさが私には分からなかった。
『エスメラルダ姫は殺されました。ブリュンヒルデと通じていた、侍従によって』
常に彼女を不愉快にさせてしまっていると、そう思っていた。言葉遣いは丁寧だが、隙や余裕といったものがない。ともすれば高圧的にも見えた。頬を打たれたこともある。「しっかりしなさい」と、国王様の前で叱責されたことも。
『ユリシア様、よく聞いて下さい』
『あ……あぁ、そ、そう、私はユ、ユリシ――』
『あなたがエルトリアの戦姫とならなければ、エスメラルダ様の努力が、全て水泡に帰すことになります』
だがふと、或いは、それが無骨な優しさであったのかと……。
分からない。私の思考は病み疲れ、正常に機能していなかった。何かを信じようとすると、宮廷人たちの嘲笑が脳裏に響き渡り、身が竦み上がりそうになる。
『皆さん、彼女は村娘でありながら、こんなにも賢い。哀れな賢さだ。それでこそ、我らが演劇の主役と言えます』
――でも……私は、本当なら……何かを信じたかった。
そんな私に向け、コーリアは光を散らすように笑いかける。
「アリア様は、本心を人に語らない方です。それでも、私とエスメラルダ様の心が通えば良いと願い、少しでも支えになればと願い、ある時から、職分を超えて話し掛けるよう仰って下さったのは……アリア様なんです」
口が戦慄いた。翡翠色から緋色へと、視線は真っ直ぐに注がれる。彼女の真実と私の真実。統一を目指す真なる光は薄闇を照らし、やがて一つの想いを運ぶ。
「畏れ多くも、それは私の願いでもありました。アリア様に導かれ、他の侍従とこの塔に初めてやって来た時は、体が震えました。詩人に伝説として紡がれる、あのエルトリアの戦姫様の、侍従となれることに。実際にあなた様は戦装束を身に纏い、この塔から戦地へと赴かれた。しかし絶えず、何かに苦しんでいらっしゃる様子だった。戦争が終わり、専従となっても、私はそんなエスメラルダ様を、ただ黙って見ていることしか出来なかった。それを、アリア様が……」
堰を切ったように、感情が昂って来る。私は一人だと、誰も私のことなど気にかけてくれていないのだと、そう信じ切っていた。それでも、その中で……。
『申し遅れましたが私、アリアと申します。本日付けで女官長の栄職を賜りました。以後、エスメラルダ様の侍従として邁進する所存です』
「……駄目ね……私は、疑ってばかりで……」
感覚を失った場所に、生気が吹き込まれる。疑いの雲を吹き飛ばす風が吹いた。心に生まれる懐かしい温かさに感じ入り、瞳の奥が熱を持つのに気付く。
意識の底にはいつも、怯えがあった。あの日、あの夜、宮廷で私は笑い物にされた。私という舞台で演じられた一つの演目。その名は「エルトリアの戦姫」。
『何も考えず、ただ戦姫を演じてください。あと少しの辛抱です。エルトリアの戦姫という伝説を残して、戦争は間もなく終わります。そうすれば貴女も故郷に帰ることが出来る。いいですね? 何も考えてはいけませんよ』
アリア様のことが怖かった。嘘を吐かれたと、利用されたと、何処かでそう思っていた。だが凄惨な姫様の死を前に、考えないこと以上に、私が精神を保つ術があっただろうか。夜明け前の廃墟のように横たわる、不気味な確信。
――恐らく、ない……。
また戦争終結後、私がいつ帰ることが出来るかと尋ねた時、無言の彼女には自責に似た情が滲み出ていた。あれは演技なのか? いや、きっと、それは……。
生死の二者択一を控えたかのような、永遠にも等しい一瞬の沈黙の後、
「ねぇ、コーリア」
気付くと、私はコーリアに呼びかけていた。
自分自身への哀を抱え、二条の線を頬に走らせながら。
そして言った。
「私……本当は……姫様じゃないの」
その言葉に瞠目し、息を呑むコーリア。
「エスメラルダ様? 何を仰って……」
「違うの。私は、エスメラルダ様じゃないの」
声が震える。たまらなくなったのだ。縋り付きたくなったのだ。人間が持つ温かさに触れて。私は、私は……。アリア様の存在に、私へと託されたコーリアに。
きっと、彼女なら……。
「私は、私の名前は――」
言い止して表情を無くす。
「あ……あぁっ……」
それは小さな、でもとても大きな、存在を脅かす衝撃だった。
私は直ぐに、自分の名前が出てこなかった。
『ユリ』
『よぉ、ユリシア』
一体、どれだけ経つだろう。私がその名で呼ばれなくなってから……。姫様もアレックスも、私の人生から遠ざけられてしまった。もう誰も、私を本当の名前を呼んでくれる人はいない。ユリシア・リリーズという、村娘の私の名を。
自分をこの世につり上げている糸。その一つが切れたような寂しさが胸に迫るのを、どうすることも出来なかった。嗚咽が零れ、視界がぼやける。
涙が湯水のように体の奥深い所から湧き上がり、私は声を上げて泣いていた。
「わ、私は……私は、ああっ! あぁぁぁぁああぁっ!」
寂しい世界の中心に投げ出され、居場所を失った、迷子のように。
「エスメ、ラルダ……様……」
コーリアは頭のいい娘で、それだけで何かを理解したような息遣いをみせた。
驚きに息を抜かれ、躊躇いが混じった吐息。一呼吸の間を置き、拳を握り込む気配が伝わる。それから彼女は意を決したように、私をそっと抱きしめてくれた。
「コ……コーリ、ア?」
「お辛かったでしょう。本当によく、頑張りましたね」
かつて私が、姫様を抱きしめた時のように。
『よく、頑張りましたね』
戦場で初めて人を殺し、塔に帰ってむせび泣く姫様を、腕に抱いた時のように。
「あぁっ、あぁあぁぁぁあっ! コーリアァァ!? コーリアァァ!?」
「コーリアはここにおります。大丈夫ですよ、大丈夫」
「私はっ、私はぁっ!」
「大丈夫です……大、丈夫」
私はその後、無我夢中で自分のことを話した。ユリシア・リリーズの生を。同時に姫様の王族としての在り方を、その生き様を。アリア様が私とコーリアの仲を意図したところには、その甘えも含まれている。そう信じながら。
幾つもの思い出が風にまかれ、空へ舞う。その一つ一つが、意識の平野に、嬉しい悲しい花を咲かせる。その中で純粋な言葉が、隠れていた言葉が露になった。
「私……会いたい。アレックスに、会いたいの……」
床に崩れ落ち、母親に縋るような恰好でコーリアに告げた。窓の外では日が落ち始め、空が山裾へ向かい、青から紫、橙へと、鮮やかな色を織っている。
「ユリシア様……」
腹に私を抱き止め、腕に力を込めたコーリア。嗚咽が響き渡る謁見の間で、私の名を呟くその声が、消えかけた虹のように、遠く、儚く聞こえた。
それは私が久しぶりに、私の名前を得た瞬間だった。




