23.眩暈
戦争が終わっても、私に自由は訪れなかった。
運命は私に、” 偽の戦姫としての人生 ”を用意していた。
防衛戦が終結した数日後には、用意された、聞くものに感動を催す演説を国民の前で打つことを余儀なくされ、「エルトリアの戦姫」は生きた伝説となった。
私はそこで、姫様の死を公表するのだとばかり思っていた。
戦争が終わった今、いつまでも私が偽の戦姫を演じている必要はない筈だ。英霊として、姫様の葬儀だって取り行う必要がある。それにこの機会を逃してしまうと、姫様の死と私の存在を国民に公表するのが困難となる。
しかし台本には、そういった内容は何ら含まれていなかった。
次第に私は、私の立場に困惑するようになる。
水で満たした容器に黒い液体を一滴落とす。そこにぼんやりと生まれる、滲んだ霞のような感慨。不安、焦燥、言い知れぬ恐怖。日々私は、私と云う器にその液体を注ぎこまれ、元の色を失いかける。
祝典等に担ぎ出され、ただ冷えた笑顔を送る日々が始まる。多くの国民と接したが、国民は私のことに気付かない。誰も私を見ない。私は私ではない。
姫様の弟君と妹君と場を同じくする機会もあった。彼らの目に私がどのように映るのか、また私の存在をどのように教えられているのか。
第一王子であらせられる弟君は私を一瞥するも、どんな感慨もその瞳に灯さず、モノを見るような目を私に向けていた。第二王女の妹君は、人間らしい、何か躊躇うような、悲しそうな、不安そうな目で私を見ていたのが印象的だった。
「アリア様、私は……いつまで戦姫を演じれば良いのでしょう?」
ある時たまらずそう尋ねたが、彼女は無言のまま首を横に振るだけで、何も答えてはくれなかった。感情が全く見えない無表情。警戒心が霜のように冷たく、私という存在に音もなく降りてくる。無限の暗闇を前にしたように、表情が消えた。
そして宮廷貴族は復興に際し、「元老院」という宮廷貴族からなる国王様への助言機関を立ち上げようとした。いや、事実立ち上がってしまった。諸侯貴族の反対を押し切り、復興増税が各地域になされる。
「復興増税だと? 宮廷貴族どもは何を考えているのだ!? 確かに、奴らの基金で戦に必要な装備は整えることが出来た。しかし、命を賭して戦ったのは我ら諸侯貴族の筈だ。多くの命が失われ、領土も荒廃しているんだぞ! 戦争に参加していない南の、奴らの領地にだけ増税すれば良いだろう!?」
戦争終結後には、現実的なお金と云う力を持った宮廷貴族が、更なる力を持つこととなる。戦争で疲弊した諸侯貴族たちは憤ったが、情けなくも無情に、私に彼らの代弁者たる発言権はなかった。
諸侯貴族たちを実質的に纏め上げていた存在。宮廷貴族に物怖じすることなく発言なさる、求心力を持った姫様がご存命であれば、決して今のような事態にはならなかっただろう。落胆の声に、疑惑の眼差しに、私は耳を塞ぎ、目を閉じた。
一人、姫様の塔へ訪れることが許されていたアルベルト様も、今更ながらそれが、宮廷貴族によって問題視されてしまった。結果、アルベルト様の来塔は禁じられる。式典の際に、顔を合わせ挨拶をする程度。儀礼的な言葉しか重ねられない。
エルトリア国に、何かが起ころうとしていた。目に見えない怪物が城の中を跋扈しているような、身の毛のよだつ不気味さ。怪物とは誰だ。怪物とは何だ。
この国の在り方に対し、漠然とした恐怖を抱くようになる。今まで素通りしてきた景色の不自然な点が頭を掠めると、笑いながら、私と云う存在を威圧する。
国王様も元老院の設立には反対なされなかった。ただ一言、発足を記念した祝典の前に唇を歪ませながら、こう呟いただけで……。
「苗を植え、作物を育て、刈り取って収穫する。なんと美しい自然の摂理か」
瞠目しながら、その言葉を聞く。
エルトリア国を何か、得体の知れない化け物の棲み家の如く感じ始める自分がいた。姫様が命を賭して守ろうとした国。でも私は偽の戦姫として、どんな言葉も差し挟むことが出来なかった。
そもそも、どう立ち向かえばいいのだ? この理不尽な人生に? 目に見えない圧力に? 私と私を取り巻くこの奇妙な構造に?
その祝典を終えた後、国王様に無礼を承知で思わず詰め寄った。
「私を……私を返してください!」
国王様は眉を上げるも、直ぐに柔和な表情となって応じる。
「エスメラルダよ? どうしたのだ? そなたはそなた。そなたの帰るところもまた、城に他あるまい」
「違います。私は、私はエルダ様では――」
国王様はその先の言葉を、私に言わせなかった。目尻を和らげながらも、有無を言わせない目で私を見ると、ゆっくりと仰られる。
「エスメラルダよ。分かってくれ、お前はこの国の希望なのだ。国民は誰もがお前を慕っておる。ブリュンヒルデとの戦争では得るものも少なく、徒に国力を疲弊させるのみだった。もっとも……ふふっ、いや、何も言うまい。どうかこの国の復興の為、お前の力を貸してはくれないか? なぁ、我が娘よ」
だが驚くことにそれから数日後、国内のある娼館から、私そっくりの女性が宮廷二階の国王様の間に連れて来られた。宮廷人たちには隠されて。
「拝謁の栄を賜り恐縮しております。わたくし、アリス・キューレットと申します。以後、エスメラルダ様の侍従を務めさせて頂くこととなりました。宮廷の礼儀に馴染まぬ粗忽者ですが、どうぞ可愛がって下さいませ」
「なっ…………!?」
その際にアリア様が、彼女の出自を耳打ちの中で明らかにした。アリス・キューレットと名乗る妖艶な微笑を仮面のように張り付けた女性が、姫様の影武者――その第二候補であったことも。私は第一候補だった。
それと共に彼女が、国王様の命令で召喚されたことも報らされる。私の頭は一度に混乱し、目が無自覚に見開かれ、手足が小刻みに震えていることに気付く。
「あ、貴女は……誰ですか?」
気付けば私の口から、そんな疑問が零れていた。
「アリス・キューレット、貴女様の侍従で御座います」
隙のない笑みでそれに応じる彼女。
「そ、そうじゃない……だって、貴女は、私に、そっくりで……」
「一介の町娘の顔が、エスメラルダ様の御尊顔と酷似しているなどと……。御冗談も嗜まれるのですね。そのように場を和ませる話術、敬服いたします」
動じず、たおやかに微笑む彼女に、人を手玉にとって来た人間の強さを。嘘にまみれた場面を幾つも潜り抜けて来た、強かさを感じた。
そうして私が動揺している間にも、彼女は言った。
「では私も一つ、拙いですが冗談を申し上げます」
静かな声で。口の端を片方吊り上げ、挑戦的に、露悪的に笑った後に。
「仮に、町娘に姫様の御尊顔と酷似した人間がいるのなら……国内中を探せば、村娘にも同じような人間がいるかもしれませんね。ふ、ふふ、あは、あはははは!」
直後、私は存在に対する強い眩暈に襲われる。自分が何処から来たのか、これから何処へ向かうのか分からなくなり、意識は嘲笑の中に吸い込まれ、朦朧とし始めた。彼女が私の出自を知っていることは明らかだった。
――何故、どうして?
悪寒は私の背筋に指を這わせ、身を竦ませた。視線に気づき、とっさに顏を向ける。その先で、国王様が口元だけで笑んでおいでだった。
その瞬間、刺すような痛みを伴って私は理解に貫かれた。稲光のような閃光が意識を走る。自分の存在が国王様の手中にあることを、私は悟らざるを得なかった。
欲しいのは「エルトリアの戦姫」の偶像。
中身は……誰でも構わない。農村の娘でも、娼館の娘でも大差ないのだ。気付いていた筈なのに、気付かない振りをしていた私の立場。
孤独が、寂寥が、哀しみが、私の中で回転する。
――私はもう決して、ユリシア・リリーズには戻れない。
なら私は誰なのだ? 何なのだ? エルトリア国の第一王女? いいや、違う。取り換えの出来る人形。自由意志の無い、単なる傀儡に他ならない。
そのことを認めると同時に、疑惑が、蛇のように音も立てずに忍び寄って来た。
――姫様は……一体、誰に殺されたのだ?
『だが先に説明した通り、ブリュンヒルデと通じ、エスメラルダを暗殺したと目される侍従は直ぐに捕えることに成功した。それも警備中の兵が、塔のすぐ傍でだ。戦姫暗殺の情報は、ブリュンヒルデには届いておらんだろう』
国王様と視線を交錯させながら、あの日の説明を思い返す。
そもそもブリュンヒルデと通じていた侍従とは、誰のことだ。そんな人間が、姫様の塔に忍びこめる余地があったとでも言うのだろうか。
争った様子もなく、剣の達人である姫様の命を手折ることが……。
聞こえる筈のない、何かが軋む音が聞こえた。それは二つの奔流がぶつかり合う音によく似ていた。私と云う器の中で、真実と事実が激しくぶつかり合っている。
多分、人の数だけ真実はある。事実を事実として見ないで、自分の中の勝手な真実だけを見つめて生きることが出来たら、どれだけ良いだろう。
しかし人は、正しいものを望まずにはいられない。暗闇の中でも光を察知する能力があるように、光を、正なるものを求めてしまう。気付いてしまう。
考えてはいけないと、思考を停止させた。だが考えまいとすればする程、疑問の声が大きくなる。支えとなるべき自分の心さえ、どこか軛の如く感じられ……。
「お利口に立ち回るには、ただ利口なだけじゃ不十分なのよ。知ってた?」
私によく似た、姫様によく似た目の前の少女が何かを言う。絵に描かれた貴婦人のように微笑みながら。問い掛けるように。
真意を確かめるべく目を向けるも、彼女は微笑のみを答えとした。
人の心が見えないことが、私を苦しめた。
それからも偽の戦姫としての日々は続く。
課せられた戦姫としての業務の合間、ふと空を見上げた。何日も変わらぬ空は、人間を思い起こさせる漠たる寂寥の広がりの上に、乾いた光を浴びせていた。
そしてある日の夜、宮廷でのことだ。
「ごきげんよう、村娘さん」
「はい……えっ!?」
私は宮廷貴族から、そう声を掛けられることになる。




