21.戦争の終結(上)
第二次エルトリア防衛戦の終局が、目前に迫りつつあるその日。
ブリュンヒルデ帝国第一軍に虚をつかれ、占領された最初の領地。国境である北の大山脈に隣接した、オスラリア領。広大な領地の南方で、私たちエルトリア軍はブリュンヒルデ軍と対峙していた。
他の奪われた領地は取り返し、ぐるりと包囲網を敷いた戦いは激戦となった。決着はその日に着かず、次の日に持ち越しとなる。
エルトリア軍の士気は嘗てない程に高かった。
皆が” 戦争終結 ”という、打ちなさられた希望の鐘の音を聞き、疲弊した体に鞭を打つ。夜の軍儀でもそのことが話題になった。
「いよいよですな、エスメラルダ様」
蝋燭の明かりが茜色を作る、本陣奥の天幕内。十数人の諸侯貴族が集まり、車座となって椅子に腰かけている中、首座に据えられた私は頷いた。
「えぇ、ですが皆様、最後まで気を引き締めて参りましょう。などと……本陣で休んでいるだけの私が言っても、些か説得力に欠けますが。ねぇ、アルベルト」
右隣に腰かけた諸侯貴族の言葉を受け、左隣のアルベルト様に流す。
「わ、私に話を向けられましても」
「「はははは」」
姫様が叩くであろう軽口を述べると、その場に朗らかな笑い声が漏れた。それに合わせ、口角を上げる。自身の冷え切った心の温度に、自分でぞっとしながら。
そんな軍議の最中、戦争終結を象徴するような、ある明確な変化が訪れた。
ブリュンヒルデ軍の伝令官が、本陣に封書を持って訪れる。第一軍の総大将であるイグルス皇子が、エスメラルダ姫に面会を要求していると言うのだ。
封書を紐解き、中身を確認する。伝令官の言葉に相違はなく、会って話がしたい旨が簡潔に、帝国気質を表すように質実剛健な形式に則って書いてあった。
求めてきた時刻は、翌日の早朝。場所はこちらの指定に応じると記載してある。
心が空白となり、どんな言葉も感想も、感慨も湧き出てこなかった。
事態を把握すると、薄火で炙られるような焦りが、じわりと私を襲う。
――イグルス皇子と面会……私は、やれるのだろうか?
「如何なされますか? 姫様?」
私が読み終えた後は、順に手紙が回される。
アルベルト様の問いかけに、私は一人、眉を顰めた。
演技を行う上で分かったことがあった。それは、どんなに辛く苦しい時でも、眉根を寄せさえすれば、色んな感情を隠すことが出来るということ。
眉間に皺を寄せる姫。あまり見栄えのいいものではないかもしれないけど、自分自身に必死で……私はそうやって演技を保ちながら言った。
「応じざるを、得ないでしょうね」
注目が一身に集まる中で告げると、その場が少しざわついた。
黄昏の山稜に沈む夕陽のような、どこか儚い姫様の笑顔を思い出す。心は一種、堪らない気持ちに包まれる。だが私に勇気を与えてくれることも確かだ。
儘ならない人生の手綱。この手綱を放せば、どれだけ人生が楽になるだろう。
自嘲に口の端を曲げ、そっと瞼を閉じる。瞳の裏の暗幕に、過去に私に笑いかけた沢山の人の顔を映す。ラスフル村の皆、家族、そして姫様の塔で出会った……。
『ユリシア!』『ユリシアさん』『ユリシア』『ユリシアお姉ちゃん』
仮初の支えが欲しくて、そうやって、私に関わった人たちに名前を呼んでもらう。そうすればもう少しだけ、もう少しだけ、頑張れる気がするのだ。
本音を言えば、もう疲れ果てている。我慢しすぎて、辛いことを辛いと感じなくなっている。その筈なのに何故か……どうしようもなく、涙を零しそうになる。
それでも……私は……。
『よぉ、ユリシア』
『ユリ……』
そうして私は翌日の朝、戦場で、偽の戦姫としての最大の仕事をこなす。
互いの軍の将軍格を護衛に引き連れ、両軍が対峙する戦場の中間地点へ向かう。人を潜ませることが不可能な、物影のない荒野を面会の場に指定した。
その際に問題となったのが、どのような形式で皇子と対面するかだ。
前回、姫様は自らを侮らせようと、あえて騎乗なさらなかったと聞く。だが、今回は対等な立場で接する必要があり、騎士の戦場での面会の基本は馬上だという。
いつものように、アルベルト様の馬に随伴させてもらうという形では、エルトリア国の沽券に関わってしまう。
怪我を負っていることを理由に、面会の場面では地に足を着けることも考えた。しかし、相手に戦姫が怪我を負っていると勘付かせることは、危険視された。
「エスメラルダ姫にはご無理をかけますが、ここは……」
ここで偽の戦姫たる私の、偽物であるが故の問題が発生する。私には、馬を駆る技術はおろか、歩ませることすら出来ない。
焦りを悟られぬよう、眉間に皺を集めながら目を閉じる
「しかし、姫様は怪我を負っておいでなのだぞ!」
その困難を前に声を上げたのは、アルベルト様だった。
「アルベルト様。やはり、姫様の傷は、そこまで……」
「貴公らも覚えておろう!? 脇腹に矢を受け、ヒュンケルから転げ落ちそうになりながらも、戦ったあの勇士を! ご自身では決して仰らぬが、傷が癒えぬまま闘い、今や歩くことさえお辛い筈なのに……それを押して姫様は――」
アルベルト様の言説は、軍議に参加した皆の心を打つには十分だった。
しかし、幾ら傷を負っていようと、僅かな距離を馬に跨って歩を進ませるなど、騎士には何でもないことのはずだ。それを無視して会話を運ぶと、殆ど無いことだろうが、いらぬ勘繰りをされる恐れもある。
私はその事実を冷静に見つめた。
「いえ、それ位どうということはありません」
「ひ、姫様っ!?」
ブリュンヒルデの伝令官に返事を持たせ、それから軍議はお開きとなった。
その後――皆が寝静まった、夜の底のような深夜。見回りの兵士の動く様を、所々に配置された篝火が、影として浮かび上がらせる時間帯。
「何かお考えがあるので」
「それは……」
軍議の席で言ってはみたものの、私に何らかの考えや策がある訳ではなかった。だが、あの場ではそう言わざるを得なかった。
頻繁にアルベルト様の愛馬に乗せて貰い、乗馬の困難さは身に染みている。一朝一夕で身に着く技術ではないだろう。何より……馬との相性もある。
でも……、どうにかしなくてはならない。もう少しで戦争は……。
アルベルト様と二人、厩の前で相談していると、突如” 彼 ”が鼻を鳴らした。
堂々とした体躯の、栗毛の美しい馬。戦場を姫様と共に駆けた、戦友。
「ヒュンケル……貴公……」
エスメラルダ・リ・エルトリアの愛馬――ヒュンケル。
二人の相談事を理解しているように鼻を鳴らした彼を、アルベルト様がじっと眺める。本来の乗り手を失った今でも、彼は戦場の厩に収められていた。
私も自然、ヒュンケルと目を合わせる。
不可解な風が私の心を上滑りするように吹き、やがて何処かへと消えていった。
目の錯覚のように、ヒュンケルが黙って頷いたような気がしたのだ。
「ヒュンケル」
口から呟きが漏れる。じっと彼の、夜空に浮かぶ星々を映したような目を覗く。何かを語りかけてくるような、その目を。
彼は当然のように、私が姫様でないことを見抜いているだろう。誇り高き駿馬。それでも、偽物に過ぎない私を乗せてくれるというのだろうか?
――ひょっとしてヒュンケルは、もう姫様がこの世にいないことを……。
その想いに胸が熱くなり、私は感情の波に飲まれないように顔を強張らせた。
「ありがとう……ヒュンケル」
この戦争が終わったら。一緒に姫様の弔いをしようね。
その時はあなたも一緒に、姫様のために……泣こうね。
私は昂る想いを息にして逃すと、アルベルト様に視線を向けた。それ以外に道はない。彼は私の決意を汲んだような顔となり、やがて頷いた。
アルベルト様の助けを借りて跨ると、ヒュンケルは至極落ち着いた様子で私を迎えてくれた。その際、アルベルト様から跨る際の細かい指導を受ける。
乗馬に慣れた人間の挙動となるよう、馬上から降り、再びアルベルト様の手を借りて跨る。それからの時間、人目を忍び、乗馬術をアルベルト様から教わった。
走らせる必要はない。乗り慣れたようにヒュンケルと呼吸を合わせ、歩き始めから停止、旋回させる方法など、必要最小限のことを繰り返す。その他、堂々とした手綱の取り方など、偽物が本物らしく見える仕草を疎かにせずに練習した。
重要となる乗馬した際の上体の固定に関しては、宮廷での背筋を伸ばす習慣が役に立った。堂々とした騎乗姿を作るべく、訓練は朝方まで続いた。
どうにか様になったのは、アルベルト様の教え方が上手かったことは勿論だが、ヒュンケルの協力が大きかった。
彼は忍耐強く、私の訓練に付き合い、私の言うことをよく聞いてくれた。
その時ばかりは、私を主と認めてくれたかのように……。
とは言っても、私の馬術は付け焼刃に過ぎない。出来ることは、跨り、歩を進めさせ、足を止めさせること。どうにか旋回させること。
その全ての動作を慣れたように、威風堂々と行うこと。
「味方を欺くには、これで十分でしょう」
「はい……ご迷惑をおかけしました」
「いえ、さぁ、そろそろ夜が明けます」
――そして訪れる、イグルス皇子との面会の時。




