19.偽の戦姫
「ユリシア・リリーズ。汝はこれから、その名を捨てろ」
今まで入室が許されなかった、宮廷二階の国王様専用の部屋。
姫衣装に急ぎ着替えさせられた私は、その豪奢な一室に足を踏み入れていた。
そして国王様から、意味の伴わないことを告げられる。
「汝はこれより、エスメラルダ・リ・エルトリアを名乗るがよい」
その一言は、精神が衰弱した私の頭を混乱させるのに十分だった。
突如として、世界との間に架け渡されていた親和性を失ったようになる。前までの自分と現在の自分が連続していない、奇妙な体感。膝が笑い、がくがく震えた。
――こ、国王様は何を仰っているんだろう?
私は、ユリシアだ。ユリシア・リリーズ。
姫様の宮廷での身代わり。ラスフル村に生まれた、ただの村娘。
「わ、わた……し……は……」
何か答えようとするが、喉が塞がったように言葉が出てこない。国王様に覚えのない威圧を、恐怖を感じてしまう。その国王様が眉根を寄せながら言う。
「ユリシアよ、私も娘を暗殺されて辛いのだ。それはお前と一緒だ。だが先に説明した通り、ブリュンヒルデと通じ、エスメラルダを暗殺したと目される侍従は直ぐに捕えることに成功した。それも警備中の兵が、塔のすぐ傍でだ。戦姫暗殺の情報は、ブリュンヒルデには届いておらんだろう。ならば汝がエスメラルダとなれば、何ら問題はない? そうではないか、ユリシア? いや……エスメラルダよ?」
「ちっ、ちがい……ま、」
――私はエルダ様じゃ、エルダ様じゃ、な……い。エルダ様じゃ……。
そう否定しようとすると、姫様の死に顔が脳裏に明滅して蘇る。
私は姫様の死を、自分の中で上手く位置づけることが出来ていない。全てが余りにも突然で、それなのに、現実が余りにも淡々と進んで。
「あ、ああぁ……あぁぁあ……わた、わたしは」
喉を締め付けられるような恐怖に狼狽え始めた私は、後ずさり、頭を横に振ろうとするが、痺れたみたいに動かない。視界も涙でぼやけ始め……。
そんな私の左肩を、誰かが強く掴んだ。
「あ……」
視線を横に向けると、背後に控えていたアリアと名乗る女性がそこに立っていた。両手を私の肩に添えて対面させると、作り物のような眼で私を見て叱責する。
「ユリシア様、よく聞いて下さい」
「あ……あぁ、そ、そう、私はユ、ユリシ――」
「あなたがエルトリアの戦姫とならなければ、エスメラルダ様の努力が、全て水泡に帰すことになります」
言葉を遮られ、彼女の口の動きをただ茫然と見つめていた私は、一呼吸挟んだ後に呆けた声を上げた。
「……えっ?」
マリス様の役職を継いだ女性は、冷静に続ける。
「もう少しで戦争は終わります。しかし今ここで、エルトリアの戦姫が城内で、しかも自室で暗殺されたと知れたら……どうなりますか?」
次いで国王様がその言葉を引き取ると、私の眼を驚愕に開かせることを仰った。
エスメラルダが戦場で死ねば、戦意の高揚材料に使えただろう、と。
「ざい……りょう?」
国王様は私の反応を気にするでもなく、御自身の調子を崩さずに話し続ける。
「しかしだな、エスメラルダはエルトリア国の中心である城内で、やすやすと命を手折られてしまった。それを戦意高揚の材料に使用するには、判断が難しすぎる」
私の抱く感想は、とても不遜なものだと分かっている。しかし、こう感じずにはいられなかった。
――どうしてそんなにも、国王様は落ち着いていらっしゃるのか、と。
その考えが、冷や水を浴びせられたように、途端に私を冷静にさせる。
また私には、感情を込めずに淡々と語る国王様の目に、悲哀の色が灯っていないように思えた。実の娘の死を前にして、それは一国の王たる威厳なのか。
それとも……。
私が動揺している間にも、国王様は続ける。
ならば調度よく、姫と瓜二つの人間がいるのなら、それを本物の姫に仕立て上げた方が遙かに確実性がある、と。
そして優しく微笑みながら問いかけた。
「なぁ、そうは思わんか? わが娘よ?」
流転する運命に再び弄ばれ、私はその日以来、姫様の代わりにエルトリアの戦姫として戦場に立つことになった。
アリア様は私付きの侍従となり、私は姫様の部屋を与えられ、彼女はかつて私が寝起きしていた部屋に住まうことに。
新しい生活が……始まる。
親しんだ侍従は塔から姿を消し、エルトリアの暗部へと投げ込まれ……姫様の死を知らぬ、新しい侍従たちとの生活が。偽の戦姫としての生活が。
「何も考えないでください」
「え……?」
その生活の最中、頭がおかしくなりそうな私にアリア様は言った。
「何も考えず、ただ戦姫を演じてください。あと少しの辛抱です。エルトリアの戦姫という伝説を残して、戦争は間もなく終わります。そうすれば貴女も故郷に帰ることが出来る。いいですね? 何も考えてはいけませんよ」
何も考えない……そうすれば、楽になる。
あぁ、きっとそうなんだろうな、と、そう思った。
感情が凍り付く。体がバラバラになった感じ。腕に触れてみてようやくそこに腕があると分かるような、そんな無感覚。何も考えない、何も、何も。
私にまず求められたのは、大剣を頭上高く持ち上げることだった。
当然ながら、私は姫様のように戦うことなど出来ない。士気高揚が私の戦場での存在意義。宮廷のみならず、戦場でも、姫様の代わりをしなくてはいけない。
アリア様同伴のもと、姫様が亡くなった翌日の午後には、塔から出て訓練を開始した。いつかの日、ヒュンケルと戯れて遊んだ、木漏れ日が溢れる城内の庭園。
ドレスの下に鎖帷子を着用し、装甲を纏う。それだけでも汗をかき、真っすぐ歩くのにさえ困難を要した。刃から臓腑を守る戦装束の重みを実感し、喉が鳴る。
「エスメラルダ姫は鋼を身に纏った格好で、訓練場を毎日走っていたそうです」
「え? エルダ様が……?」
アリア様は私の問いに、小さい動作で頷いた。そして抱えるようにして持っていた大剣を鞘から抜き放ち、刀身を寝かせた状態で、両手に掲げ持つ。
「エスメラルダ様。では、こちらを」
大剣の巨大さ。その重量。
いつも涼しい顔をしたアリア様の手が重さに震え、それが私に現実感を与える。
受け取ったエルトリアの大剣は、無感動に無機質に、絶対的な質量を伴って、私の腕を軋ませた。心地よい重みとは無縁で、鉄の塊の静けさを私に物語る。
「これを、エルダ様は……」
何とか剣先を大地へ降ろし、深呼吸した後、柄を掴んだ両手に力を込める。剣先が地面から離れるも、脆弱な腕の筋肉は直ぐに震え、手首が悲鳴を上げた。
「くっ!? だ、駄目っ!」
いくら試しても、肩先以上には持ち上がりそうになかった。灼熱した大気を体の内に宿したかのように熱く、汗が額と言わず、体中から染み出て流れる。
「あっ……」
そして何度目かの練習中。剣は私を拒否するかのように、震えた手から零れ落ちた。ガランと、爽やかさとは無縁の音を、緑の絨毯に響かせる。
俯きながら、自分が吐き出す荒い息を絶望の内に聞く。
姫様はこんなものを携えて、一度は戦場で、敵将の命を奪ったのか。
『ユリ……』
するとまた、姫様のことが脳裏を過って、私に、私に笑いかけて……。
『私、絶対にあなたの元に帰って来るから』
そう言って、姫様は、私に、そう言って……。
『それでも私は、顔を曇らせない。なぜなら――明日はきっと、晴れるからです』
――凍りついていた筈の感情も、悲しみにだけは溶かされる。
「くっ……うぅ……うぅぅ。明日は……きっと、きっと晴れる。だから、だから……そんな曇った顔を……」
目の奥が燃え、温かい水玉が次々と頬を流れた。脱力した体をのろのろと動かし、剣の柄を再び手に取る。
そんな私にアリア様が、吠えたてるように言う。
「何も考えないでください! あなたは、エルトリアの戦姫なのですよ!?」
涙に濡れた面を上げ、負けず嫌いな子供のように歯を食いしばった。大剣を頭上に掲げる為、剣の柄を両手で握り直す。
何も考えない。何も考えない。考えては……いけない。
私は、私は――。
「うぅぅ、うあぁぁぁあぁああぁぁあぁぁぁぁぁぁあ!」
偽の戦姫を演じるに際して、もう一つの重要な問題があった。
私は馬を駆ることはおろか、一人で乗馬することすら儘ならない。また、一から訓練してヒュンケルを乗りこなせる程の、悠長な時間もなかった。
そこで、姫様が前回の戦で足を負傷していたことにし、鞍を改良し、アルベルト様の馬で随伴出来るようにしてもらった。
姫様が亡くなって数日後。アルベルト様が戦場から王都へ急遽戻り、塔の謁見の間で対面した時。二人の間に、名状し難い無言が物憂げに圧し掛かった。
どんな自分でアルベルト様と向かい合えば良いのか、私には分からなかった。
アルベルト様もまた、同じような心境であったと思う。
ただ、お互いの心中にあったのは、もう姫様がいないという暗い事実。
アルベルト様を困らせた、無邪気で、時に我儘で、それでも決して憎むことの出来ない……あの姫様がいないという事実。
一度悲しげに眼を伏せた後、アルベルト様は私を真っすぐ見据え、跪いた。
私はハッとなり、その意図を察して手を差し伸べる。
恭しい手つきで、アルベルト様はその手を取ると、
「この命、エスメラルダ・リ・エルトリア様と……いつまでも……」
その場にいない誰かに向け、敬虔な祈りを捧げるように、手の甲に口づけた。
私はその光景を前に、どんな言葉も返すことが出来なかった。
そうやって、偽の戦姫の日々が過ぎていく。
でもそんな日々に……私は、どうしても慣れることが出来ずにいた。
一日が終わる頃には、精神が摩耗し、ひどく疲弊しているのを感じる。
他人のそれのように重い体を引きずり、宴会の間――姫様の位置に着席して夕飯を摂る。訓練で重い物を持ち過ぎて、食器を取った手が震えた。
「ご苦労様でした。明日は――」
アリア様から明日の予定を聞き、眠る為に姫様の部屋へと” 帰った ”。
扉が閉まる音を背後に聞き、静寂に包まれる。
そこでようやく、自分を取り戻せる時間がやって来る。
しかし、私に深い安堵は訪れなかった。無表情が、何らかの生き物のように強固に顔に張り付き、剥がれ落ちようとしない。
ピクリとも動かない顔で、部屋を眺めるともなく眺める。
「そうだ……寝なくちゃ」
部屋の中を進み、灯された蝋燭の火を吹き消した。崩れるように寝台に腰を下ろす。そこで私は思わず、壊れた、壊れそうな、壊れかかった頭を抱えた。
私に無関心な運命に、無意味に突き当たりながら歩いていることの虚しさを、感じずにはいられなかった。かといって、私に他にどんな選択肢があろう。
纏まらない頭で考えた。
誰に私が必要なのだ。そして――何が、今の私に必要なのだ。
整理したいことで頭が一杯だった。でも次々と新しい現実が私に覆いかぶさり、何もかもが未整理で、私の理解はあたり一面にぼろ切れのように散らばっていた。
――何が、何が今の私に、必要なのだろう。そもそも、私は……。
『何も考えず、ただ戦姫を演じてください。あと少しの辛抱です。エルトリアの戦姫という生きた伝説を残して、戦争は間もなく終わります。そうすれば、貴女も故郷に帰ることが出来る。いいですね? 何も考えてはいけませんよ』
アリア様の言葉が脳裏を過ると、筋道を立てて考えることも、新たに質問を設定することも出来なくなった。
頭は混とんとして渦を巻き、朦朧として、意識の明晰さが失われている。
ぼうっと、虚ろな視線を床に投げかけた。そうして時間を無為に過ごす。その際に私は、憧れに似た幻を見た。扉が開き、悄然とした顔の私の前に姫様が現れる。
『ユリ、そんな曇った顔しないの』
『え……?』
『だって、明日は晴れるんでしょ? ねぇ、ユリ……』
姫様が手を差し伸べ、私たちはそこで手を取り合って、楽しく笑い合う……。
全部、夢だったんだ。全部、夢で、それで、それで――。
「エルダ……様、う、う……うあぁぁぁぁぁぁああぁああああぁぁぁぁ!」
慟哭が激しい力で私の中から生まれ、咄嗟に枕に顔を埋める。思い出さないようにすればする程、他のことを考えようとすればする程、姫様のことが思い出される。
「あっっあ! あぁぁぁあぁぁぁぁぁぁ! あぁあぁぁぁぁぁああぁ!」
報われぬ世界の最果て。時を忘れたように、私は涙を流した。
姫様との日々は、決して遠い昔のことではない。この僅か数日の間に、こんなにも深い溝が、大きな隔たりが生まれてしまったことを、私は恐れた。
どうして、こうも突然に、新しい世界が始まってしまったのか。私は出来るなら、いつまでも古い世界にいたかった。それこそ、塔に来る前の世界に……。
『へへっ、よぉユリシア。何泣いてんだよ?』
戦争も、何もない、牧歌的な村娘で。時々に大変なことはあっても、人生に劇的な大事件もなく、アレックスと家族となり、命を生み、守っていく。そんな……。
『ユリ……あなたは、強いのね』
『ユリシア、さようなら』
姫様やアレックス、マリス様、姫様に仕えた侍従たち。
あらゆる人々の姿が、旋風に巻かれたように、私の病める頭の中にちらと浮かんでは、跡形もなく消えていった。
――私はいいようもなく、一人だった。