18.暗殺
その日の朝、微かに不吉な予感がした。
物事が全て順調に運んでいる時に吹き抜ける、一陣の隙間風。
そんな予感を覚えたのは、朝の空気と日光があまりにも澄明で、私の心の意識しない部分までが、日を浴びて半透明に明るんでいたせいかもしれない。
――恐らく戦争は、もう少しで終わる。エルトリアが国を守り切ることで。
塔で一番に起きた私は、井戸の水でいつものように顔を洗った。不意に、世界で起きているのは自分だけではないかと錯覚を抱く。
「アレックス……」
なぜか堪らなく不安で、彼の名を呼んだ。
胸の飾りを握りしめ、ゆっくりとおまじないを口にする。
「明日は晴れる、だからそんな曇った顔……するな」
そこで私は頬を叩き、覆っている暗雲を振り払おうと、考えを明るい方へ向けようと努めた。そうだ、戦争が終われば色んなことが自由になる。
村に帰ったら、話せる限りの範囲で、城でのことを妹や弟に話してあげよう。アレックスもその頃には、兵役を終えて帰ってくるだろう。
お給金も頂けるとマリス様が仰っていた。平和の空の下、王都の街を歩き、少しだけ浮かれてお買い物をしてみるのもいいかもしれない。
姫様とも、その時にはお別れになってしまうだろうけど、二人で一緒に……。
そんなことを考えながら部屋に戻った私は、胸を締め付けられ、たまらなく姫様の顔を見たくなった。今日から再び、姫様は……。
「そうだ」
その際、折角だから起こしてさしあげようと、そう思ってしまった。昨日、姫様は自室で就寝なされた。たっぷりと睡眠を取り、再度、戦場へと向かう為に。
今まで、姫様を起したことなどなかったのに。何故、そんな風に思ってしまったのか。自分からは開けることの少ない、姫様の部屋へ通じる扉を開く。
――どうして、どうして運命は、いつも意地悪なんだろう。
普段取らない行動を私が取ったせいで、そんなことになってしまったのだろうか。部屋の扉を開ける前までは、そんなことはなくて、私が開けたから……。
「エルダ様、朝ですよ」
ギィと扉を鳴らして入室し、そう呼びかけた。朝の冷たい空気が水のように満ちた、静謐が横たわる広い部屋。反応はなく、少し浮かれた足取りで歩み始める。
部屋の中央を飾る、緋色の敷物の上に足を乗せる。装飾品の代わりに武具があちこちに置いてある、武骨な、でも姫様らしい部屋。
西側の壁に設えられた本棚には、沢山の本が収められ、隣接する机には、書き物をしていた跡が見て取れた。幼い姫様が描かれた家族の肖像画も、近くの壁に。
「エルダ様……」
その姫様は、本棚の近くにある天蓋付きの寝台で眠っていらっしゃる。寝具に潜り込み、黄金色の髪の毛と共に、ちょこんと頭部を覗かせていた。
石造りの塔でも、姫様の部屋と謁見の間は、窓が大きく作られている。早朝の淡い光が窓から部屋へ射し、埃が舞う姿を、どこか物悲しく映し出していた。
「あれ? この匂いは……」
寝台に近づくと、微かに匂っていた花の香りが、酔う程に強く自覚された。姫様の体を覆う掛け物の上には、沢山の白い花が、撒かれたような形で置かれている。
深くお休みになる為の、姫様なりの方法なのだろうか。しかし、今まで話に聞いたことはなく、質素を好まれる姫様の在り方からも想像出来なかった。
そこで私は何故か、奇妙な安堵を覚え、鼻から息を抜いた。
――そうだ、私は姫様のことについて、未だ知らないことばかりだ。
言葉に出来ること、出来ないこと。単純なことから、複雑なことまで。そういったものを、二人で分かち合っていきたい。心の底から、そう思った。
――だって、私は姫様の……。
「エルダ様、朝ですよ」
姫様が頭から被っている寝具の掛け物に手をかけ、そっと捲った。
すると、ふかふかの枕に沈み込んだ、健やかな吐息を立てる姫様の顔が現れる。私は遠慮がちな子供が父親を起こすような力で、肩をゆすった。
「起きてください」
――友達、なんだから。
姫様は薄目を開け、眩しさに眉を寄せた。だが私の存在に気づくと、「どうしてユリが?」と、尋ねたそうに私を見るも……。
「おはよう……ユリ」
そう言って、嬉しさに動かされたように微笑んだ。
「え…………?」
だが現実は、そうはならなかった。
上掛けを捲る途中、その動きを中断させられる程の異様な匂いが鼻を突いた。困惑に目を瞬かせ、姫様の顔が確認出来る位置まで掛け物をゆっくり下げる。
「エ、ルダ……様?」
姫様の顔が、生気を失ったように青白かった。
目が自然と見開かれ、絶句してしまう。それまで体を燃やしていた血がどこかへ流れ去ったかのように、徐々に自分の顔が蒼くなって行くのを感じた。
唾を呑み込み、姫様の肩に触れる。筋肉質な冷たい感触に、声が出そうになった。それはまるで、姫様が話されていた魂が体から抜き取られたかのようで……。
口の中から怯えを含んだ、熱い息が零れてくる。それに比して吸い込む空気は冷たく、胸の奥の深い道を辿り、心に触れるかのように私を戦慄かせる。
再度、姫様の顔を恐れるような心地で眺めた。褥に包まれて眠る幼児のように安らかで……微笑さえ浮かべた、美しい顔。
とても、静かで、白くて、どこか穏やかで、でも、息を、でも、それで、私は、わ、わた、わたしは、それで、わ、わたしは――。
悪寒を催したように、小刻みな身震いが、絶えず足から頭へ通り抜けていく。
「エル……ダ様? 朝、ですよ……起きて、ください」
ぶるぶると、痙攣を催したような震えた手で、毛織物の掛け物に手を付ける。
不自然にある一か所が膨らんでいるそれを捲ると、姫様の首から下が露わになった。同時に、花の香りを打ち消す、咽返りそうな強烈な匂いが私を迎えた。
視界の内に認めたソレに慄き、後ずさる。
物言わぬ冷徹な小刀が、姫様の胸から一本……生えていた。
「い……」
心臓が急き切って息をしたかのように、浅黒い血がべっとりと、姫様の胸の辺りを汚し……寝間着の上に、いくつもの赤い花を咲かせ……。
「いやぁぁぁぁあぁぁあぁぁあぁぁぁぁあぁぁぁぁああぁあ!?」
――姫様は、息を引き取っていた。
その後、私がどうしたのか記憶が判然としない。
声を聞きつけた侍従たちが、部屋に飛び込んで来た記憶はある。私は姫様に縋って離れようとせず、何かを喚きながら子供みたいに泣いて、泣いて、泣き続けた。
時間の感覚がはっきりとしないけど、その後、マリス様が遣って来た。
私はマリス様に向かって、エルダ様は寝ていらっしゃいます、お加減が悪いんです等と、よく分からないことを言って、それで、それで、それで……。
「ユリシアッ!」
乾いた音が部屋に弾ける。
ハッと意識が覚醒した瞬間、私はマリス様に抱きしめられていた。暖かな感触が心地好く、こめかみが痺れたようになり、目の奥から涙が再び溢れる。
「マリス様、マリス様、マリス様ぁぁぁぁぁあああ!」
泣きじゃくる私を、マリス様は何も言わずただ受け止めてくれた。そして、体の輪郭がぼやけ、張り詰めていた私の意識が途切れる間際―――。
「ユリシア……さようなら。どうか運命を、姫様を……ま、……いで……」
次に私が目覚めたとき、私を囲む世界が一変していた。
清澄な朝の空気の中、自室の寝台で横になっている自分を見出した私は、ぼんやりと上半身を起こした。違和感が張り付いたように、顔が酷くむくんでいた。
「あれ……私は……」
自分の状態に思いを巡らせようと努める最中、思考に引っ掛かりを覚え、大切なことを忘れている感触に苛まれる。
何だろうと思い、欠落を探り当てようと頭を働かせた。
すると――気を失う間での一切の記憶が、突如として脳裏を過った。
『エ、ルダ……様?』
『いやぁぁぁぁあぁぁあぁぁあぁぁぁぁあぁぁぁぁああぁあ!?』
『ユリシア……さようなら。どうか運命を、姫様を……ま、……いで……』
「あっ!? あぁ……」
しかし、それが何か、あたかも夢のような感触で甦り……。
「ゆ、夢……夢だったんだ」
嬉しくて、嬉しくて。涙を流すと共に、深い安堵の息を吐き出した。
すると部屋の何処かから、
「夢じゃありません」
それを否定する冷たい言葉が発せられ、私の鼓膜に突き刺さった。
「え……?」
私が顔を上げると同時に、見覚えのない女性が寝台に近づいて来た。
マリス様と同じ服装の、しかし年齢は私の姉程にも若そうな女性。長い髪を後ろで纏め、細面の中に鋭く光る切れ長の目が、理知的で美しい女性。
感情を訓練で抑制させた雰囲気を持つ彼女が、無感動に、きっぱりとした口調で言う。あたかもそれが、普遍的日常における、一つの職務だとでも言うように。
「エスメラルダ姫は殺されました。ブリュンヒルデと通じていた、侍従によって」
私は瞠目し、思考は白い空間の中に投げ込まれた。その中で浮かび上がる、突きつけられた無機質な文字の連なり。
――姫様が……殺された?
直後、その見開かれた目を睨みつけるように尖らせる。
誰なの? この人……。知らない、知らない、知らない! それなのに、いきなり現れて、姫様が死んだって、何を、一体、この人は、何を……。
怒りに体を震わせるものの、ハタと気づく。
そうだ、こんなことをしてる場合じゃない。あぁ、きっと二度寝しちゃったんだ。私は姫様を起そうと思って、それで――。
「ど、どいて下さい!」
寝台から飛び降りると、マリス様と同じ格好をした女性と肩をぶつけ、廊下に出た。そんな粗暴な態度を取ったのは、生まれて初めてのことだった。
何かに急かされるようにして、姫様の部屋の前に辿り着く。
「エルダ様……」
扉を開いて中を覗くと、磨かれた朝日が窓から射し込んでいた。静謐な空間。動く物は一つとして無く、光に照らされた塵が、物悲しくはらはらと散っている。
「ん……」
なんだろう、変な臭いがする。そんなことよりも、早く姫様を起こさなくちゃ。姫様はきっと寝坊してるんだ。早く、起こさなくちゃ。
「エルダ様~、起きて~、起きてください」
天蓋付きの寝台に近づく。でも姫様の姿はそこには見当たらない。おかしい。まだ出発なされていない筈だ。城内で何か用事でもあるのだろうか。
気付くと姫様の部屋の入口に、あの変な人が立っていた。
私はその姿を視界に認めると、なんだか嫌な気分になった。
「エルダ様は、どこれすか?」
でも仕方ないから尋ねた。姫様がいない。
何処に行ったんだろう? 宴会の間で昼食をとってらっしゃるのだろうか?
「エスメラルダ姫はもういません。亡くなられました」
「ふ~~ん」
よくわからない。ちょっとこの人、頭がおかしいんだ。
あれ、そういえば……。
「まりふああは?」
まりす様のすがたも見えない。
ひめ様といっしょに、どこかに行ったのかな?
ん? なんだろう。しゃべりにくいな。
よだれがたくさんでてくる。早く、ぬぐわなきゃ。
あ、そんなことよりもまりす様だ。
おんなかんちょうという、りっぱなやくしょくをつとめてらっしゃる方だ。
この人には、そのいみも分からないかもしれないけど。すごいんだ。まりす様は。きびしいけど、やさしくて。
「マリスもおりません。あなたが意識を失っている間に、この塔に務めていた侍従らと共に、秘密裏に処刑されました」
「ふ~~ん」
やっぱりだめだ。このひと。なにをいってもつうじない。
しょけいだって。あはは、なに、それ。ひみつり。なに、それ。
「あ、そうは、えふらはままは、ひっともうたたはいにへはへたんは。えふとりあのいふはひめ! へも、わたひはひってるの。えふははまは、ほっへもむひひへるっへ、だはは、わたひは」
「失礼」
直後、その場に崩れ落ちそうな程の激しい平手打ちが、私の頬へ見舞われた。
私は現実の連続性を失い、目を数度瞬かせた。
「あ……わ、私は……」
顔を上げて目の前の女性を見る。
職務に忠実な冷徹な瞳。私を推し量ろうとする、冷たい色の瞳に迎えられた。
やがて明滅したように頬が痛み出した。そっと頬に手を当て、これと似た痛みを最近、どこかで味わったことを思い出す。切れ切れな、でも大切な……。
『ユリシア……さようなら』
ある理解に、私は刺し貫かれた。
「マリス様が……みんなが、処刑……された?」
冷酷無比な現実の連続に、私は口を小刻みに震わせる。
そんな私を前に、マリス様と同じ格好をした女性は、自分が人間であることを忘れているかのように冷たい口調で言う。
「はい。女官長であったマリスを始め、この塔に関わった侍従が全員処刑です」
変な笑いが、私の口から洩れて来た。
へ、へ、へ、と、すきま風が扉を揺らすような、変な笑い声。
目の前の女性は私の様子にも動じることなく、続いて淡々と自己紹介を始める。
「申し遅れましたが私、アリアと申します。本日付けで女官長の栄職を賜りました。以後、エスメラルダ様の侍従として邁進する所存です」
そしてアリアと名乗った女性は、茫然自失となっている私の手を取ると、厳かな調子で言った。耳慣れた、しかしもうこの世にはいない筈の人の名前を。
「では着替えて、急ぎ宮廷に参りましょうか。エスメラルダ様……」と。