16.在り方
宮廷詩人が語り終えると同時に、しんと宮廷が静まり返った。
やがてその静寂は、夜露が花弁を転がるように、地面へと零れ落ち……。
――弾ける。
直後、異様な空気にその場は包まれた。
その物語をどう解釈すれば良いか迷い、臆するように、互いの顔を見合わせる人々。囁く声がどよめきに変わり、私の心も同じように乱れ……。
だが当事者たるエスメラルダ姫ならば、泰然自若としていなければならない。私は目を閉じ、口元を引き絞る。不安な心持が、周囲に漏れることがないように。
私自身、その話をどう解釈していいのか、分からないでいた。
事実がどこまで含まれており、どこからが創作したものなのか。何故、敵国であるブリュンヒルデの大将に、一種の哀れを催すような語りにしたのか……。
知らず背中から汗が滲み出て、玉となって流れ落ちる。
しかし宮廷貴族たちは、そのことについて言及してこなかった。また祝宴後、ブリュンヒルデとの攻防戦が膠着状態になったと、マリス様の口から聞かされた。
「あの、エルダ様は?」
「今は塔で、ぐっすりとお眠りになっておられます」
「そうですか……よかった」
今や名実ともに、姫様はエルトリア国の希望であった。姫様はそれが偶像であると知りながらも、必死に鑿を振るい、その偶像を完璧なものに仕立て上げた。
詩人たちはこぞって姫様に詩を捧げ、謡い、伝説を紡ぎあげた。
曰く、恐れを知らぬ戦女神。
曰く、夜空に燦然と照り輝く希望の星。
彼らは博識で、知見豊かで、明敏であった。
だが真実と言う観点から見るならば、もっとも愚鈍でもあった。
『ユリシア……私は、私は……! うっうっ』
だだ私だけが、姫様の弱さと脆さを知っていた。
戦場から王都に戻られる度に、夜毎に、姫様は私の部屋を訪れるようになっていた。そこで私は姫様を甘えさえせ、時に仲の良い姉妹のようにお喋りを楽しんだ。
そして――その祝宴が催された翌日の夜。
私はかねてより疑問に思っていたことを、姫様に尋ねた。聞きたいことは沢山あったが、質問責めにしても悪いと思い、たった一つのことを伺ったのだ。
「どうしてエルダ様は、戦場に立とうと思ったのですか?」
寝間着に着替えた私たちは、並んで寝台の背もたれに背を預けていた。姫様は一瞬、躊躇するような息遣いを見せたが……。
「それが、エルトリア国の王族に生まれた、私の在り方だと思ったからよ」
やがて微笑を口の端に湛えながら、そう答えた。
蝋燭の光が夜の中に黄昏を作り、姫様の緋色を照らす。瞳の表面は強い優しさで溢れていたが、奥に、同じくらい強い哀しみが潜んでいる。私には、そう見えた。
「在り方……ですか?」
その印象に少し気後れしながら、私は再度尋ねる。
姫様はどこか一点を見つめながら、口角を引き絞る。過去と向き合い、何かと決別するように。強くあろうとして、無理に笑うように。
「えぇ、姫という自分に対する、自己納得の在り方……」
それから姫様は、昨日別れた親しい友を想うような表情で、昔話をなされた。
「私には、昔、友達と呼べる女の子がいたの」
姫様は幼い頃から闊達で、よく城を抜け出して王都に遊びに赴いていたらしい。
後になって、王国騎士団の騎士が隠れて護衛していたと知ることになられたそうだが、それはまた、別の話だ。
そこで姫様は一人の町娘、カーネルという名の少女と出会った。
『エスメラルダ……? 王女様と同じ名前ね』
『え? そういえばそうね。でも、よくある名前でしょ?』
家が果物屋を営む彼女は、姫様を貴族の娘と勘違いし、姫様も努めて否定しなかった。空気で惹かれ合うのか、お互い、何故か気になる相手。
以降、城を抜け出す度に、姫様はカーネルの前に顔を出す。
『あの……こんにちは』
『って、えぇ!? エスメラルダ? またお屋敷から抜け出してきたの?』
『えぇ、カーネルに、会いに来たの』
『わ、私? そうなの? ふ~~ん。じゃ、じゃあ、家の手伝いが終わるまで、待っててくれてもいいけど? べ、別に、一緒に遊びたい訳じゃないからね!?』
そうして何度も会う内に、いつの間にか二人は、友達になっていた。カーネルは姫様に気を許すようになり、二人で都を駆けて遊び回る。
『エルダ! こっちこっち!』
『もう、待ってよ、カーネ!』
二人はお互いのことを、愛称で呼んだ。姫様には初めての経験で、不思議と妙に嬉しくて……。同年代の友人を、無自覚にも、強く欲していたことを知った。
『もぉ、エルダは何にも知らないのね。いい? この果物は、こうやって、齧りひゅいて、はへるほよ? わかっは?』
『カーネ、くっ! 食べながら喋るから、な、何を言ってるのか、分からない。あはっ! はははっ!』
『なっ!? わ、笑うなぁ! もぉ!! ふんだっ』
しかし、そのように友情を温めていたある日、姫様の立場がカーネルに露呈する。途端に彼女は以前の親しみを忘れ、畏まり、姫様を姫様としか見なくなった。
『カーネ? どう、して? ねぇ、一緒に遊ぼ――』
『か、数々の無礼のほど、ひ、平にご容赦ください……エ、』
『あ……』
『エスメ……ラルダ様』
それが辛くて、言葉にならない程に、悲しくて。姫様はその一件以来、城を抜け出して遊びにいくのを止めた。またその際に、姫様はお考えになられた。
――どうして私は、姫なのだろう……と。
以前は全くに気にならなかったことが、途端に気になり始めた。苦しい程に張り詰めた注意をもって、自分の目に映る全ての物を眺める。
そうやって自分自身に考えを及ぼす努力を、姫様はなされたのだ。
城や宮廷では誰もが、姫である彼女に傅く。
ただ存在しているだけで、皆が愛情を注ぎ、敬意を払い、時に怯えてくれる。
望めば、手に入らない物は、恐らく何一つとしてないだろう。
服も、宝石も、本も、お菓子も、或いは人の……。
だが自分が得ているその環境は、生まれによって獲得したものに過ぎない。姫様はそう悟られた。王家に生まれたからこその、不自由のない生活。畏怖と威厳。
――自分は自分でありながら、姫であって第一王女であって……自分ではない。
当時はそこまではっきりと言語化し、意味を捕えることは出来なかった。しかし幼くも聡くあられた姫様は、漠然と真実の感触を掴み、愕然となされた。
水のような悲哀が、ひったりと心を浸す。
そこには人生への愛と、運命への悲しさがあった。
ただ姫であるという、その事実だけが重くのしかかる。慰めのない感情と共に。向けられる注意も、尊厳も、一切の物が、姫という立場への捧げ物。
そこで更に考える。
――では姫とはどんな存在なのか。
子をなし、王家の命脈を未来に繋ぐ存在? では、そもそも王家とは? 生まれが王家というだけで、尊敬を集める理由は何処に? 何故、偉そうに振る舞える?
幼い姫様は一人、日夜苦悶なされた。
答えの出ない答えを求め、眠れない夜を過ごした日も。
そんな日々の中、ふと、エルトリアが採用している諸侯への統治政策に思いを馳せた。家庭教師から、エルトリア国の歴史を習っている最中のことだった。
『ここで重要になってくるのが、エルトリア国における” 騎士道 ”ですが……』
内乱を防ぐために制定された、王家にとって都合のよい騎士道。それは文章化されず、諸侯貴族の文脈――集団の思考の領域にのみ存在していた。
” 高貴なる血の定め。戦においては陣頭に立つ。 ”
高潔にして領民から信任を集める、名誉ある在り方。諸侯の存在意義を固定し、不満の昇華先にもなりえる。国からの洗脳思想とは思われない、合理的な政策。
しかし姫様はその時、何かに打たれたようになられたそうだ。風に浚われた枯葉の群れさながらに、頭の中に舞い踊る、無数の考え。
やがてある考えが、磨き上げた鏡面のように、意志の中で光を放つ。
――王家……王家とは、民の安寧を守ってこその存在ではないのだろうか?
そして考えた。騎士道を突き詰めた先にある、無私と自己犠牲の精神。それこそが本来的な、国民から尊敬され得る、王族の在り方ではないかと。
国家の大事、国民の危機に瀕しては、戦の陣頭に立って国民を守る。高い地位に腰を下していられるのは、命を失うような、自己犠牲の覚悟があればこそ。
――そうだ、それ無くしては、王族は安逸を貪るだけの存在に堕してしまう。
騎士道の規律に縛られた、優雅さを知らぬ諸侯貴族。彼等に対する印象は、その時まで姫様には薄いものだった。その印象が、徐々に変わり始める。
思い返してみると、彼らは何処か、自分の在り方に誇りを持っているように感じられた。それは恐らく、彼らを支える確固とした軸が存在しているからこそ。
――私が王族としての自分に存在を乱されるのは、そういう軸がないからだ。
またそれから後、とある諸侯貴族の子弟の話を、姫様は宮廷で耳にした。領内の賊を退治し、治安を守り、領民から感謝されているという話を。
宮廷貴族が語る、笑い話の一つとして。
警備兵を雇う金も、彼らにはないのかと。
お考えあってのことだろうが、国王陛下はその話を、愉快そうに聞いていたと言う。しかし姫様は、自分は笑いたくないと思った。いや、笑えないと。
そのように考える中、第一王子であらせられる弟君に次いで、姫様の妹君もご生誕なされた。エルトリア国の第二王女、ティナルス・リ・エルトリア。
――王家の命脈を継ぐ役目は、きっと、妹が果してくれる。もし彼女が自我に目覚めることがあったなら、その時にまた考えればいい。
微かに痛む良心の疼きを、じっと眺めながらも、姫様はそうお考えになった。
――ならば私は私で、自分の王族としての在り方を体現しよう。
それは父親である、国王陛下とは違う考えかもしれない。
――私は女で、きっと政治の道具で。王子ではない。それでも、私は……。
民を税収を生む麦穂としか考えず、特権と快楽だけを求める宮廷貴族。王族に寄生する彼等と決別し……騎士道を体現する、諸侯貴族と共にあろう。
――そこに、王族として生まれた私が、私でいられる根拠がある。
有事の際、剣を手にし、騎士たちと共に戦場に立つことこそが……。




