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エルトリアの戦姫  作者: マグロアッパー
■二章 戦争
15/33

15.イグルス



 § § § § § § § § § § §



「貴様がエルトリア国の第一王女か、名前は何という?」



 雲が溶け落ちそうな曇天の下。巨大な漆黒馬に乗って現れた、ブリュンヒルデ帝国の第一皇子。彼は尊大な態度のままに、地に足を着けるエスメラルダに尋ねた。


 自国の将が目の前で打倒されたにしては、落ち着き払った声だった。しかしそれはイグルスの器を示すものではなく、単純な傲慢、死者への無関心からだった。


 沼に沈んだ凶器のように鈍く光る残忍さが、イグルスの目から伺える。不用心なのか、或いは余程の自身があるのか、従者も一人しか伴っていなかった。


「…………些か、勉強不足が過ぎるのでは? エスメラルダ・リ・エルトリアと申します。イグルス皇子」


 エスメラルダは敢て馬には騎乗せず、雨が止み、ぬかるみ始めたエルトリアの地に立っていた。イグルスに自分を一段低く見せ、侮らせるために。


 その対峙を、傍らで愛馬と共に立つアルベルトが、固唾を呑んで見守っている。


 彼も机上の戦は知れど、実際の戦を知り抜いていた訳ではない。だが、戦の実質的な総大将同士が顔を合わせるなど、聞いたことの無い話だった。


 ――不用心な……抜くか、剣を? 


 武人ならではの直感で、アルベルトはイグルスの力量を見抜いていた。磨き上げた剣技が一閃した時、馬上であれ、皇子の息の根を止める自信があった。


 ――いや、しかし……こちらから抜く訳には……何よりも……。


 彼は目の前の第一皇子ではなく、ブリュンヒルデ皇帝を見た。内乱誘発が失敗したにも拘らず、撤退しないのはイグルスの頑迷さ故なのか、それとも……。


 本国から第一皇子に増援がないことが、アルベルトを混乱させる。


 棄民の知る、秘密の抜け道からの進軍などという荒技は、出口を塞がれたら最後、二度と通用しなくなる。ブリュンヒルデという大国が、エルトリアという小国を征圧したいと思うのであれば、今がまたとない好奇。


 抜け道を利用して増援を送り込み、圧倒的な物量で、エルトリアを蹂躙し尽くせばいい。だがその様子がない。明らかに増援を行う機会を逸している。


 ――何を考えているのだ、ブリュンヒルデ皇帝は? 


 行き場のない思いに、拳を強く握り込むアルベルト。死んでいった仲間たちのことを、凌辱された民のことを思いながら、イグルスの喉元に視線を注ぐ。


「ふっ、エルトリアの戦姫か。仮に今、俺がここで切りかかったらどうする?」


 そんなアルベルトの殺気を嗅ぎ取ってか、イグルスは面白そうに視線を彼に向けた後、エスメラルダに片頬を窪ませて笑い掛けた。


「――っ!?」


 その胆力に、アルベルトはイグルスの力量を見誤ったかと汗をかく。

 

「そうですね。捌いた後、手並みを披露いたしましょう。あなたの命を奪い、戦争を終わらせます」


 対してエスメラルダは、毅然として答えた。

 氷細工のような冷たい口調で。


「ふっ、馬鹿が。俺がお前の命を奪い、戦争を終わらせるのだ!」


 部下に怒鳴りつけるような調子で、イグルスは馬上から言葉を降らせた。慢心を太らせ、驕り昂りながら。


 体力の消耗した姫を隙あらば浚い、戦争を終結させるとともに、自らの慰め者にする。そんな魂胆がイグルスにはあった。


 敵国の大将でもあり姫でもある女を、その太腕で略奪する。本国にある第一皇子の部屋に飾られた、「略奪」を主題にした一枚の力強い絵画のように。


 イグルスは粗野ではあったが、皇子故の空想的な美を愛してもいた。


「あなたは本当に……何も、分かっていないのですね」


 そんなイグルスを前に、エスメラルダは呆れたように嘆息を吐く。そして自分の悲哀を見つめるような表情で、自嘲する調子を声に響かせて、そう言った。


「なんだと……?」


 眉間に皺を寄せ、途端に殺気を(みなぎ)らせる、ブリュンヒルデ帝国の第一皇子。


「私が死んでも、エルトリアは負けません。戦場で倒れることこそ、私の本懐、戦姫の真の在り方! むしろ兵士らの戦意は、高揚することでしょう。嘘だと思うのなら、さぁ、その剣を抜いて下さい!」


「貴様……」


 見上げる程の高さにいる敵国の大将に向け、口の端を曲げ、不敵に微笑むエスメラルダ。一時的に止んでいた雨が、パラパラと音を立てて再び降り始める。


 (くしけず)るような、細い雨。

 イグルスが溜めこんだ怒気が、蒸気となって立ち昇る。


「そういえば……これは風の噂に聞いた話なのですが、腹違いの第二皇子は、随分と優秀な方のようですね? ふふ、」


 そこでエスメラルダは、怪しく笑みを深め、


「どうしたのですか? 抜かない、いや抜けないのですか? 腰ぬけの――」


 嘲笑するように言った。


「第一、皇子様?」


 瞬間、イグルスの表情から色が消えた。

 嵐の予感を孕んだ、冷たい風がその場に吹きすさぶ。

 

「…………今、何と言った?」


 怒りが極まり、感情を欠落させたかのような冷徹な声で尋ねるイグルス。

 笑みを崩さぬまま、泰然自若としてそれに応じるエスメラルダ。

 

「聞こえませんでしたか? ならもう一度言います。よ~く聞いていて下さいね」


 更に煽り立てるか、ここで留めるか。

 冷静な思考で判断を働かせた末に、


「このっ……腰ぬけ!!」


 前者を選んだ彼女。


 その努力が実り、ギリッと歯を強く噛みしめる音がすると、イグルスが腰に穿いた剣の柄に手をかけた。


 エスメラルダは緋色の目に焔を宿すが如く、大きく見開く。


 ――この機を逃してはいけない。相手から斬りかからせれば!


 傍らのアルベルトが来るべき瞬間を予見し、息を止めて踵を浮かせる。

 イグルスの従者も不穏な気配を察し、自らが騎乗した馬の手綱を――。


「……プッッ!!」

「――っ!?」


 だがブリュンヒルデの第一皇子は、その愚行には及ばなかった。身の内に宿した怒りを吐き出すように、唾を面前の少女に吐きかける。


 咄嗟のことに顔を逸らし、頬を張られたように、馬上のイグルスに横顔を晒す戦姫。それでも燃えるような色の瞳は、決して目の前の人物からは逸らさなかった。


「はっ、姫とは思えん顔だな」


 イグルスは己が度量を示すかのように、殊更楽しそうに笑って見せた。


 対してエスメラルダは、髪や顔に浴びせられた唾を拭うこともせず、射るような視線を皇子に注ぎ続ける。怒りも、憎悪もその目には映っていない。


 どこまでも挑戦的で、そして――微かな落胆が、瞳の底にほの暗く光っていた。


「………………」

「まぁ、いい」 


 イグルスが嘯くように言う。彼は(ほとばし)る怒気に支配されたものの、本能的に死を恐れてもいた。それを察知する、ずる賢さがあった。


 そう認識することすら厭わしい事実であったが、手負いの獣のような眼をしたエスメラルダを、殺せる自信がなかったのだ。


「ふっ、気に入ったぞエスメラルダ。いずれお前は、俺の後宮にぶちこんでやる」


 傲岸不遜に笑うと馬の手綱を握り直し、立ち去る仕種を見せるイグルス。


 その瞬間、エスメラルダの脳裏にある考えが閃く。

 静かな決意に身を委ねると、前髪に表情を隠しながら、彼女は尋ねた。


「イグルス皇子」

「なんだ、エスメラルダ王女よ」












「私があなたの後宮に入れば、エルトリアから軍を撤退してくれますか?」












 静かに降り続ける雨音が、途端に耳に(うるさ)くなる。

 その場にいた人間の時間は、止まってしまったかのように動かなくなった。


「……何だと? 貴様、何を言っている?」


 不器用に動かし始めたのは、イグルスだった。


「私がこの身を差し出せば、エルトリアの民を、これ以上虐殺しないのかと聞いているのです」


 冷たく肌を刺す雨に打たれながら、粛々と応えるエスメラルダ。傍らに立つアルベルトは、悲痛に声を上げそうになった。俯き、拳が震える程に強く握り込む。


 見目麗しい一人の少女としては酷な……だが姫としては正しい政治手腕を前に、己を抑え切れなくなりそうになる、彼がいた。


 ――姫様っ!? 冗談はお止しになってください!


 そう叫ぶことが出来たら、どれだけいいだろうか。だが姫と言う存在が、政治的な外交の一手段ともなりえることを、アルベルトは知っていた。


 宝物のように尊い姫が、時には、そのように使用されることを……。 


 そんな姫の、エルトリア国第一王女――エスメラルダの心には、民を想うが故の、王族に生まれたが故の覚悟が満ちていた。


 ――痛いのも、苦しいのも、辛いのも、胸が張り裂けそうな程に悲しいのも、きっといつか慣れる。


 自らの王道を体現するため、戦場に命を差し出した彼女に、迷いはなかった。


 人の命を奪い、自らの命を戦場に差し出すという決意。その中には、当然のように、このような帰結も含まれている。


 ――自分一人が犠牲になることで、一人以上の人間の命が助かるのであれば、そんなに嬉しいことはない。戦争終結の形が、どんなものであっても……。


 そうやって、出来るだけ子供みたいに無邪気に、丹念に、本心を嘘で塗り潰す。仄暗い虚無感が、硝子の上の曇りのように、意識に影を落とすのに気付きながら。


 戦の為に、自らの全存在を差し出す。

 それが戦姫である、エスメラルダ・リ・エルトリアの生き方であった。



 しかし、その決意は実らなかった。



 イグルスという男の中で急速な変化が、意識や、外界の事物に対する印象の変化が訪れたからだ。


 ――こいつ、何を突然に言いやがる。


 エスメラルダの言っていることが、イグルスにはまるで理解できなかった。


 疑念に眉をひそめながら、エルトリア国の第一王女に視線を注ぐ。しかし前髪に表情が隠れているため、その考えを伺い知ることが出来ない。


 第一王女という身分でありながら、戦に出てくるのも分からなかった。剣を手にしていることも。その技量が優れていることも。分からないことだらけだ。


 自軍にいるような、狂った快楽殺人者かと思えば、そうでないことは少し話をすれば直ぐに分かった。絶叫しながら、己を奮い立たせるように他人の命を奪う姿も、それを証明している。


 ――ならば何故、姫が戦場に立つ? 


 帝国とは違い、エルトリアの王族は戦には出陣しないと聞いていた。

 まったく自分らしくないと思いながら、一度生まれた疑問に考えを巡らせる。


 人は異質な存在に” 出会った ”とき、自らに考えを及ぼす努力を強いられ、そのことで立つ瀬を確認することがある。


 ――あまつさえ、撤退を条件に身を差し出すだと? 何故だ? 増援が来ないことには……薄々、勘付いてやがる癖に。


 それはブリュンヒルデの第一皇子が、自分と同等の立場にある、異質とも言える存在に” 出会った ”、初めての瞬間でもあった。

  

『私がこの身を差し出せば、エルトリアの民を、これ以上虐殺しないのかと聞いているのです』


 エスメラルダの言葉を反芻した直後、ぞくりと自分の体が震えたことをイグルスは察する。ある理解が、彼の意識を刺し貫くようにして訪れた。

 

 ――まさか……民のためだとでもいうのか?


 皇族からすれば、税を収穫すための()()に過ぎない民。

 苗を植え、作物を育て、刈り取って収穫する。厳然たる階級の最下層の人々。


 そのことに気付いた時、馬上から見下ろしているはずのエスメラルダの姿が、突如として、イグルスの目に大きく映った。威圧的と言っていい程に、大きく。


 ――ば、馬鹿な!? 何故、俺が怯える必要がある!?


 自身の心の動きにイグルスは愕然とし、心象の中で、後ずさりしそうになった。同時に自分が忘れていた――何か大切なものに、気付かされたような感触を得る。


 幼い日々が閉じ込められた、記憶の扉が、静かに開く。


『イグルス、イグルス……』


 ――誰だ……? 記憶の底から俺に呼びかけて来るのは? 俺の名前を呼び捨てにしやがるのは!?


 狼狽しながら、自分自身に呼びかける。そんな不安な気持ちがやってくるとは、ひどく意外だった。だが次の瞬間、驚愕に目を見開き、そして悟る。



 ――俺の名前を呼び捨て? 待て! まさか……。



 彼方から降り注ぐ巨大な光芒(こうぼう)が、イグルスを包んだ。自身の輪郭を見失う程に眩く、どこか温かい光。病弱な母と、心優しかった少年の構図が、光の中に……。



『イグルス、立派な皇帝になってね。民から愛される、立派な皇帝に……』



 その中で、彼には幼き日に病で亡くした母の、最期の笑顔が見えた気がした。

 言葉を無くし、膝を折るような心地になる。


 ――そうだ。あの日、俺は誓ったはずだ。母に向けて、俺は……。


『約束する! 立派な、立派な皇帝になってみせるよ! だから、だから……』


 最愛の人を求め、泣きながら叫んだ言葉が、イグルスの中で甦る。



『僕を、僕を一人にしないでよ! お母さまっ!』



 ――何故……俺は、あんな大切なことを忘れていたんだ。


 その声は震え、まるで彼ではないような、何か全く新しい響きがこもっていた。


 過去の景色の中で、失くしてしまった大切なものがある。それを今、何度探しても、失くしてしまったものは…………ない。無いものは、悲しい位にない。


 しかし、その失くしてしまったものが、自分という存在に触れ、自分という存在を確かめていたことに気付いたイグルスは……言葉を失くした。


 ――いつからだ、いつから俺は、こんな俺になったのだ?


 苦しい程の注意を払い、過去に思いを寄せて、イグルスは考え始める。意識の外の世界で時は緩やかに流れ、降りしきる雨が苛むように、彼を濡らし続けていた。


 ――いつからだ? 俺は最初、母との約束を守ろうとしたはずだ。


 母の病没後、イグルスは懸命に勉強し、体を鍛え始めた。遺言通り、立派な皇帝となるために。父親は多忙であり、国の父ではあったが、彼の父ではなかった。


 幼いイグルスはそうして、一人、歩き始める。


 だが彼の母親が亡くなって数年後、第二皇子が生まれ、正式な王妃が代わった。イグルスはその頃から人生に、奇妙な、名伏しがたい苛立ちを覚え始める。


 第二皇子とは当然のことながら、父との心的な距離も離れた。

 母親のいない若き皇子。孤独が深まり、彼はどんどん一人になった。


 ――いつからだ? 俺に媚を売ってくる気に入らない奴を、この手でブチのめした時……後ろめたさよりも、快感を覚えた時か?


 身体が発達して血気が盛んになると、正体不明な欲求不満を、暴力に乗せてみたくなった。横暴さが徐々に現れる。第一皇子という立場も、それを加速させた。


 腹違いの第二皇子は成長すると、様々な面で優秀さを示した。そういった噂話を耳にすると、イグルスはムシャクシャとした気になった。


 そうして、若さも手伝い、悪い遊びを覚えるのに時間はかからなかった。気に入らないことだらけで、それを紛らわす為に人に当たり、快楽や暴力に溺れ始める。


 ――いつからだ? 俺の命令で、誰もが言うことを聞くと気付いた時か?


 イグルスに帝王学を教えていた教師も、ついに彼を扱いかねるようになる。


 やがて皆が、腫れ物に触れるように彼を扱うと共に、敬い、讃え、恐れた。欲しいものは何でも、人のものですら、人ですら、簡単に手に入った。


 いつしかイグルスは、意志で生活を規定することを忘れた。そして生活に、意志を規定されるようになった。彼自身が、生活そのものとなって……。



『イグルス、立派な皇帝になってね。民から愛される、立派な皇帝に……』



 ――いつから、いつから俺は、母との約束を……。


 

『イグルスよ、第二皇子にあってお前に無いものが、何か分かるか?』


 エルトリアへと、第一皇子の名で降伏勧告を行う前夜。皇帝の間に参上したイグルスに、父であるブリュンヒルデ皇帝は問いかけた。


『はぁ? 武功だろうよ。そいつを上げれば文句はないんだろ』


 皇帝はイグルスの返答を前に、何も言わなかった。

 ただ悲しそうに目を細め、自責するような表情で、彼を見つめるだけで……。




 § § § § § § § § § § §


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