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エルトリアの戦姫  作者: マグロアッパー
■二章 戦争
13/33

13.弱さ


 話は、初陣勝利の祝宴が終わった後に遡る……。

 宮廷での役目を終えた私は、マリス様と共に姫様の塔へと帰った。


 宴会の間にて、侍従の手で姫衣装から室内着に着替えさせてもらう。その傍らでマリス様が、別の侍従に姫様のことを尋ねた。


 すると――。


「それが、食事も取らず、伏せっておられるようで」


 私とマリス様はごく自然な感じで、お互いの顔を見合った。それだけで、互いの心中は手に取るように分かる。


 静寂を前にした、枝葉のさざめき……。

 風が凪いだように、次第に心が静かなもので覆われる。


 私は一人、宮廷詩人が語った戦場での姫様のお姿を思った。いくらか誇張されてはいるだろうが、あれに類したことを経験なさったのだ。


 同時にまた、戦から戻られた際の、一種乱暴な昂ぶりに思いを馳せる。あのようにしないと、自身を保っていられなかったのではないかと想像した。


 寂寞に近い色をした……孤独。一人の人間を殺した少女。

 その時私は、初めて孤独の意味を知った気がした。


 孤独というのは、それまでは一つの状況であると考えていた。寂しかったり、悲しかったりする際に陥る、一つの状況であると。


 しかしそれは、人間の本質なのかもしれない。人間は初めから孤独の中にいて、その孤独から、決して外に出ることは出来ないのではないか……と。


 何故なら、楽しい、嬉しい、悲しい、或いは怒り、寂しさ――そういった感情が消えた際に、それは常に寄り添うようにして、人間の隣にいるのだから。


 ふと、抽象に過ぎる考えを巡らせている自分に気づき、自嘲する。

 疲れているんだろう、そう思うことにした。


 遣る瀬無さに、お守りを握る仕草をしてしまう。今はそれは、私の胸に下がっていないというのに。


 ――アレックス、私は……。

 

 結局、何か力になりたいのだけれど……自分には何も出来ないことを悟ると、私はユリシアに戻り、やがて寂しさに甘えて寝所に入った。


 夜も更けていた為、マリス様も塔に宿泊なされた。私が自分の部屋を提供しようとするも、宴会の間で寝具を敷くと拒まれてしまう。


『それではおやすみなさい、ユリシア』

『はい、マリス様』


 姫様の塔は物音を無くし、ひっそりと静まり返る。

 そして――水底(みなそこ)にいるように、月の青い光が寝具を照らす深夜。

 


「ユリ……?」



 眠りに就いていた私は、か細く名前を呼ぶ声で目覚めた。


 物憂げに寝台から上半身を起こす。宙をぼんやりとした眼で眺めた後、視線をゆっくりと部屋の入口に移した。


「……ユリ……」


 その先では姫様が、怖い夢を見て眠れないでいる妹みたいに、所在なく佇んでいた。私は薄く微笑み、「どうしました?」と声を掛けようとすると、


「――っ!」

「エ、エルダ様?」


 姫様は前髪に表情を隠したまま室内を駆け、飛び込むように抱きついてきた。

 寝台が人間の重量を受け止める、軋んだ音が、塔の最上階の一室に上がる。


「あ……」


 そこで私は、姫様が震えていることに気づいた。その事実を認めると、困惑は他人事のように何処かに消え去る。


 姫様は何も仰らず、小さな子が母親に(すが)るように、頭を体に押し付けて来た。久しぶりに感じる人の体温。胸に当たる熱い吐息を感じながら、少しだけ迷ったが、片手を姫様の後頭部に添えることにした。


 そのまま頭を撫でて差し上げていると、姫様の口から、くぐもった声が漏れた。


「ユリ、私……私」


 私は手を動かすのを止める。

 一呼吸置いた後、姫様は続けた。




「初めて人を……殺したわ」




 自然と目が見開かれる。

 その言葉を前に、私は絶句するより他になかった。


「エルダ様……」


 胸を締め付けられ、名前を呼ぶのですら精一杯で……両手でぎゅっと、姫様の頭を抱きかかえる。すると姫様は、更に強く額を押し付けながら言った。



「戦場にいる人間は、敵も味方も、皆、誰かの愛おしい人。私はその誰かの愛おしい人の命を……奪ったの。情けない、情けないわ。自分で、自分で望んで戦場に立ったくせに。自分で、望んで……殺したくせに。それなのに、私……私……」



 水のように色彩の無い悲哀が、私の心をひたひたと浸す。私は何かを言いたかった。しかしその何かが、私の中に存在していないことに気づく。


 一体、誰が今の姫様に、相応しい、何か適切な言葉を掛けられるだろう。そもそも、そんなものは存在するのだろうか……人間を殺し、苦悶する人の前で。


「エルダ……様……」

 

 私はまた名前を呼んで、その頭を再び撫でた。細く美しい絹のような髪が、少しだけ荒れているのに気づく。

 

 結局、私に出来ることは、ただ無言で姫様の存在を受け止めるだけ。強い無力感の中で、ふと、妹をあやす中で感じたこと、自分が姉や母にあやされていた時のことを思い返した。


 ――こういう時に、言葉は必要ないのかもしれない。


 言葉は本質的なものではなく、ただ受け止めるだけで、受け止められるだけで十分だった。癒えない傷を癒えると言ったり、優しくない運命を、優しいのだと言いくるめることは、きっと役に立たない。



『政治にも学問にも、母親であることにも興味がない方だから……』



 その際、母親である王妃様を指して、姫様がそう評しておられたことが気になり始めた。姫様はこんな風に、誰かに甘えたことなどなかったのではないか。


 幼い日のエルトリア国の第一王女の姿が、脳裏に幻視される。二本の細い足で立ち、ギュッと小さな両手を握り込む、意志の強そうな目をした小さな姫様。


 甘えたくても甘えられない。

 そんな少女時代は、とても悲しいと思った。


 例え姫という身分に生まれついても、人生は単純じゃない。色んな所に躓きがあって、打ちひしがれて、人に縋りついて……。


 甘え方を知らないと、それだけで、生きるのが辛くなってしまう。

 単純に見えて、それはきっと、多分、人生を貫く程に、大切なこと。


「ユリ……私、私……」

「エルダ様……」


 だからこそ――――。


 こうして甘えてくれるのは、奇跡のようなことだと思い直す。心を許し、開いてくれる。不器用な方法で。でもきっと苦しくて、どうしようもない程に……。


 ――寂しかったんですか、エルダ様? 


 これは私の憶測に過ぎない。だけど、お生まれになってから、周りは姫様を姫様としか見ずに、同い年の気心の知れた友達など、望むべくもなく……。


 ――私は、あなたを癒すことが出来ますか?


 姫様もまた、エルトリア国の第一王女である前に、一人の少女に過ぎない。そんな当たり前のことが、急に私の理解に沁み入った。


 でも一つ違うことは……。


 ――この娘は泣かないのね。意地っ張りな男の子みたいに。


『ははっ、ユリシア!』


 アレックスと過ごした幼い日の記憶が、幻の風にように通り過ぎる。

 姫様を楽にさせてあげようと思い、言葉を、彼女の意識にそっと落とした。




「お辛かったですね。エルダ様」




 

 姫様の体がビクッと跳ねる。

 次いで胸に収めた姫様が、何かを恐れるように顔を上げた。


「……え?」


 小刻みに震える姫様の口。そこから漏れる当惑の声。


 甘く切ない思いに、胸を塞がれそうになる。口角を意図的に上げ、目を細め、出来るだけゆっくりと、慈しい誰かに向けて編み物を編むように、言葉を紡ぐ。



「よく、頑張られました」



 すると姫様の瞳は見開かれ、月の光りを宿した。


 次第にその目を、水の膜が覆い始める。白く清いものがゆらゆらと踊り、熱い雫が、一条の、線を、描いて――。



「うっ、うっ、うあぁぁぁぁぁぁぁあぁぁあ!」



 そして姫様は泣いた。生涯で初めて、恐らくただ一度、人の前で。

 泣き崩れ、しゃくりあげ、さめざめと涙に暮れたのだ。


 かけがえのない命を殺したことを思い。戦の理不尽に苦悶しながらも、それでも自身の王道を体現する為に……泣いた。


「エルダ様、いいんですよ。いいんです」

「ユリシア……私は、私は……! うっうっ」


 私は当然ながら、人を殺したことはない。


 姫様に言われるまで、敵の兵士にもまた愛しい人が、彼を愛おしく思う誰かがいたかもしれないことにすら、思い至らなかった。


 戦場で一つの命を、自らが奪う。それは、他の誰かの命を奪う命かもしれない。だがそんな仮定は関係なく、今、この自分がその命を奪う。


 想像すると思わず震えた。そんな記憶を、経験を抱えて、人は生きることが出来るのだろうか。また戦場に立って、人を……。


 だが人間は、どんなことにも慣れるものだ。


 今まで一つとして、最初は辛いと思ったことが、習慣の中に組み込まれ、その辛さの鮮度を保ち続けたものはなかった。


 現に、今の私もまた……。

 つまりは戦場で人の命を奪うことにも、人は同じように慣れるのかもしれない。


「うわぁぁぁぁぁぁ! うわあぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁ!」

 

 私はそのことを、無限に嬉しくも悲しく思いながら、姫様を受け止め続けた。


 開け放たれた扉に半身を覗かせ、口元を抑えながら、やがて音もなく立ち去ったマリス様の姿に気づきながら。


 暫くして、姫様は泣き疲れたのか、すやすやと健康的な吐息を吐き出された。


 そのお姿に、私は愛しさから来る苦笑を浮かべた。人間の健全な強さを思って。

 全ての後には眠りがある。それは救いだと思った。


 一瞬迷ったが、そのまま姫様を、寝具の中に引き入れることにした。母が昔してくれたように、肘をついた姿勢で横たわり、姫様の頭を優しくポンポンと叩く。


 同じ顔をした姫様の顔を、じっと眺める。


 もし姫様が私に生まれたら、姫様はどんな人生を送っただろう。そして私が姫様に生まれたら、私も同じく、戦場に自ら望んで立っただろうか。


 愚問だった。


 今の私を作った環境からは、そんな考えは到底出てこない。勿論、全く同じ環境に放り込まれれば、そういう思いが芽吹くのかもしれない。




 でも少なくとも、今は……全く、そのように考えることなど出来なかった。



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