11.戦姫
宮廷詩人が語り終えると、真珠色の静寂が宮廷に横たわることになった。
やがてその場の空気は、熱く、陶酔するような溜め息を漏らし――。
「まさしく、エルトリア国の救世主だ!」
そんな声が上がると、それに類したものが次々に発せられた。それぞれの感想でざわめき出す会場。
手垢のついてない表現を探そうと機知を競い、姫様の武勇を讃えると同時にエルトリア王家を讃える。国王様の自尊心を満たさんとする宮廷貴族たちの姿。
国王様はその様子を、柔和に微笑み、満足そうな面持ちで眺めておいでだった。
対して王妃様は終始無関心な様子だった。氷柱のような横顔。政治にも学問にも、母親であることにも興味がない女性だと、姫様から伺っていた。
では何に興味があるのかと考え、思わずその視線の先を探ってしまった。するとそこには、一人の年若い宮廷貴族の子弟の姿が……。
私は姫様が言葉を濁した意味を悟り、浅はかな詮索を早々に打ち切った。
そもそも、人のことにかまけている余裕などなかったのだ。
油断すると宮廷詩人が語ったあの場面が、不意に、また、意識に……浮かんでくる。
『私が、エルトリアだぁぁぁぁぁぁぁぁぁああ!!』
塔にお戻りになられた際の、苦しみに濡れている姫様のお姿。その姿を知っているからこそ、身も世もない深い悲しみを、この身に感じずにはいられなかった。
私は感情が声や瞳から零れないように、冷静であろうと努めた。乾ききった火のようなものが、息苦しい程に、胸の中を満たしているのを感じながら。
そうして初陣勝利の祝宴は、つつがなく終了した。
席から立ち上がり、用意された原稿を私が読み終えると、最後に国王様が着席したまま、有難いお言葉を述べられる。
同じように、王都での吟遊詩人の物語りも、成功に終わったと聞く。そしてその夜、ティレイアの街は姫様の話で持ちきりとなり、眠らなかったそうだ。
またその物語をしかと頭に焼き付けた吟遊詩人たちは、各地に赴き、姫様の英雄譚を送り届けた。その働きで以て、国民感情の統一を促した。
以降、姫様は国民から『エルトリアの戦姫』と呼ばれるようになる。
翌日には再び、姫様は王都から出陣なされた。ごく少数での出陣。絢爛な出陣でないにも関わらず、初陣の時よりも多くの国民に見送られた。
沿道の人々に姫様は笑顔を向け、手を上げて声援に応える場面も。
一歩離れた位置で姫様を見送っていた私は、その光景を前に、胸が締め付けられる思いだった。喜びと悲しみは、どうしてこうも似ているのだろうと考えながら……。
やがてエルトリアの戦姫の伝説は、単なる伝説、英雄譚ではなく、様々な戦場で現実のものとなっていく。
その陰で、姫様が王都に戻られる度に開催される祝宴に、私は参加し続けた。労をねぎらわれ、戦争継続の為に必要なお金を、宮廷貴族から寄進される。
今や宮廷貴族にとって、『エルトリアの戦姫』の戦いに貢献することが、各々の貴族の歴史に一行を刻む為の、重要な感心事となっていた。
人間は自尊心の為になら、どんなことでもする。
愛想笑いの中、私はそのことをまざまざと実感した。
一方、後に『第二次エルトリア防衛戦』と称されることになる戦争は、開始から一週間近く経つ頃には、新たな局面を迎えていた。
ブリュンヒルデ第一軍の本隊が、征服されたオスラリア領に到着し、そこを足場として侵略を開始する。左右に隣接した領地は、オスラリア陥落を合図に、エルトリアに反旗を翻していた。
オスラリア領が占領されて間もなく、その他の幾つかの領地にも、ブリュンヒルデの工作の手が及んでいたことが明らかになったと言う……。
そのことを私は、姫様が再出陣してから数日後に、マリス様から知らされた。
「内……乱……?」
「余計な心配はさせたくないとのことで、姫様からは黙っておくようにと言われたのですが……。次回の祝宴の際、宮廷で話に上がることがあるやもしれないと思い、話すことにしました。ただ、落ち着きなさいユリシア。多くは北方の領地です。貴女の出身である、クリスト領ではその動きはありません」
戦争が勃発すると共に、国内で局地的な内乱が発生していたのだ。姫様が初陣に臨まれる際には、既に幾つかの領内で裏切りが起きていたと聞かされた。
北の大山脈の抜け道を発見したことで、第一皇子が勇み足だって宣戦布告を行ってきた。それも一つの事実ではあった。
しかしそれ以前に、随分と前からブリュンヒルデはエルトリアに対して諜報活動を積極的に行い、戦争の企てを肥らせていたようだった。
ブリュンヒルデとエルトリアの間では、通商は行われていない。だが侵入経路なら幾らでもある。国境警備の目を掻い潜り、エルトリア国内に諜報員を派遣する。
そして国家に不満を持っている人間や、忠誠心が曇っている人間を調べ上げた上で、標的に近づく。その為の方策は、宣戦布告の拙さに比べ、随分と芸が細かいようだった。
マリス様が話した一例は、このようなものだ。
金で雇った傭兵を山賊に装わせ、標的が通りかかった近くで、彼等に手駒の美女を襲わせる。標的がその窮地を救い、しかる後、他の領地の豪商の娘という偽の肩書を持つ美女が、恩返しにやってくる。目も眩むような、素晴らしい品々と共に。
それも一度ならず、二度、三度、四度と。
宴を催す回数が増える毎に、標的と美女の仲は深まり……そして……。
ここから先については、私は具体的な言及を避ける。とても現実的な話だ。私のまだ知ることのない……とても現実的な話。
マリス様も口にすることを厭うている様子だった。
やがて標的にされた人間は、ある日、彼女の目的を知らされる。戦争の際にはブリュンヒルデ側に寝返るよう、話を持ち掛けられる。
何らかの策略と気づきながらも、そうなった段には様々な弱みを握られ、周りを囲いこまれ、彼らは進退を選べなくなる。
ブリュンヒルデとの戦争は、随分と前から、水面下で始まっていたのだ。
そしてエルトリア側は、姫様は、確証こそ得られないものの、そのことに気付いていた。だからこそ――。
「ですが……ブリュンヒルデ軍と合流し、指揮系統を奪われた領地ばかりはどうにもなりませんが、それ以外の領地の内乱は、無事に収まりそうです」
「え? それは、どうしてですか?」
私たちは謁見の間で、そのことについて話していた。私の問いを受けたマリス様が、ゆっくりと窓の外の空を仰ぎ見る。ここではない何処かを見る、透明な表情。
「姫様が反乱を起こした領地へと、兵士らと共に説得に向かわれたという直接的な理由が一つ。そして、もう一つは……」
澄み渡った空を眺めながら、マリス様は言った。
恐らく視線の先に、姫様のお姿を思い浮かべながら。
「姫様が、エルトリアの戦姫となられたからです」
困惑に私が声を漏らすと、マリス様は入口の方角へ向き直った。「入ってきなさい」と、誰かに呼び掛ける。
視線をマリス様に揃える。いつの間にか、姫様付きの侍従が、謁見の間の入口に立っていた。早足でマリス様に近づき、何事かを耳打ちする彼女。
女官長であるマリス様は、「分かりました。下がりなさい」と言って、侍従を退席させた。
私は関係性の外に置かれたように、自分を持て余し、不安げにマリス様を眺める他ない。するとマリス様は、口角を和らげて言った。
「どうやら、姫様の説得が成功したようです」
それからマリス様は、諸侯貴族様と姫様の関係を交えながら、事の詳細について語り始めた。
諸侯貴族のみならず、騎士道に縁ゆかりのある者は皆、姫様の幼い姿を記憶し、その成長を心から祝福していた。
その心に嘘偽りはない。宝物のように尊い、快活で愛らしい姫様は、常に彼等の敬愛の対象となっていた。
『諸侯貴族の皆様あってこその、エルトリア国なのです。宮廷貴族などという訳の分からぬ輩は、我が国に生じた膿に過ぎません』
諸侯貴族に優しい声を掛け、微笑みかけてくれる姫様。宮廷の礼儀や規範を重要視せず、王族であることを忘れたかのように、気さくに振舞う姫様。
その人徳で、諸侯貴族を明るく照らすエルトリアの第一王女。
『お父様はお父様、そして私は私です。いつかの日が来たとき、私は……戦場に立てる人間でありたい』
ある時から剣を手に取り、騎士たちと共に剣技を研鑽し合った姫様。華麗さを競う宮廷の舞踏会よりも、武勇を競う剣闘会を好まれる、そんな……。
そんな姫様が、今、一国の危機に瀕し戦場の最前線に立っている。
一体、彼らの内、誰が忘れることが出来るだろう。姫様があの日、あの時、自分に微笑みかけてくれた時の感動を。
普段は感情を抑制して話すマリス様が、その時ばかりは熱を込めて語られた。
私も体の芯に熱が灯ったようになる。思わずお守りを握りしめると、手が汗で、じっとりと濡れていることに気づいた。
小さな小さな愛らしい姫だった彼女が、逞しく成長し、剣を手に戦っている。勇ましくも悲しい、身につまされるような英雄譚が耳に届いてくる。
やがてブリュンヒルデに工作を受けた人間は、呵責の念に捕らわれ始める。
――それに比べ、自分がやっていることは何だ? 自分を育んでくれたエルトリアの大地を蹂躙する敵国に加担し、死の間際には、何を抱えて満足とする?
彼らが生来、誇り高ければ高い程に。疾しさは頭をもたげ、疑問は、自らの存在意義を貫く程に、激しいものとなっただろう。
結果、ブリュンヒルデの内乱工作が明らかになる。
工作を受けていたある諸侯貴族は、オスラリア陥落と共に、彼の子弟の騎士と徴兵した領民に向け、決意表明を行った。
腐敗したエルトリアを打つには今が好機……と。それと共に現行の徴税制度に疑問を唱え、ブリュンヒルデに与して勝利した暁には、自治が約束されたと説明する。
当然ながら、皆がその言葉に困惑した。しかし領内での諸侯貴族の力は強く、理解出来ぬままに、他の領地へと侵略を開始した。
だが内乱の最中、エルトリアの戦姫の話が聞こえてくる。情報統制は盤石ではない。娘をブリュンヒルデの人質に取られていた諸侯貴族は、苦悶することになる。
やがて彼は決心し、他の領地への進行を中止した。こう説明すると簡単だが、そこには煩悶が、愛娘の死を天秤に懸けた葛藤が、嵐のように渦巻いていただろう。
彼は降伏すると共に、エルトリアにブリュンヒルデの工作について伝えた。娘の命は……助からないと知りながらも。
多くの欺瞞、自らの醜さ、弱さをじっと見つめて。我が娘可愛さの為に、領民を無益な戦闘の犠牲として、死なせてしまったことを悔いながら。
突発的に始まった内乱は、同じく突発的に終焉を迎えた。
多くが自発的降伏と姫様の説得の賜。彼らは、脳裏から姫様の姿を消し去ることが出来なかったのだろう。
『良いのです……とは、決して言いません。ですが、内乱で失った領民の命を、その重さを背負い、共に戦いましょう。私は、失った国民の命を背負い、戦います』
そして自らの進むべき道を決した。一度は揺れた自分の弱さを抱えて。
内乱に与した諸侯貴族は領地運営を次代に託し、エルトリア国に命を差し出した。姫様と肩を並べて戦場に立ったのだ。
中には、反旗を翻し続けた諸侯や地域もあったが、ことごとく鎮圧された。
南に押されがちだった戦線も、各地域の諸侯が集まり、北へ北へと押し上げられた。またどんなに不利な戦場でも、姫様が王国騎士団と共に遣って来ると――。
姫様が前線から王都に戻られた、その日の夜。
私は息を呑みながら、宮廷詩人が紡ぐ、戦姫の物語に耳を傾けていた。




