01.戦場の風 ◆イラストあり
無味乾燥な歴史に飾られた一輪の花、姫。
幼い頃には愛くるしさで国民の心を和ませ、成長してからは結婚を通じて国の安定に貢献する。平和と繁栄の象徴。王朝の命脈を未来に紡ぐ、眩き存在。
有史以来、男が戦や政治で国の『現在』を守る役目を担っていたのに対し、女たる姫は国の『未来』を担う存在であった。同時に、華やかな衣装を身に纏い、神から祝福を受けたかのように見目麗しい姫の姿は、女の子の幸福の象徴でもあった。
それ故、いつの時代でも女の子は憧れた。そんな姫に……。
――エルトリア国第一王女。エスメラルダ・リ・エルトリア。
高貴なる血統に生まれついた、エルトリア国の第一王女。姫君、飾られるべき花。多くの人々にかしずかれ、生まれながらに愛される身分にあった彼女。
第二次エルトリア防衛戦と呼ばれることになる、北の帝国との戦い。彼女は国の危機に瀕し、自らの意志で剣を手に取った。騎士団を率いて愛馬と共に戦場を駆け、兵士を鼓舞し、鍛え抜かれた剣技で時に、敵国の将や兵士の命を自ら奪った。
姫衣装の上には宮廷で感嘆を集める煌びやかな宝石ではなく、戦場で戦う為の鋼の装束を纏わせ。ただ自分が自分である為に、王族の務めを果そうとして。王家の未来でなく、愛する国民の未来をその手で掴みとろうとして彼女は戦に臨んだ。
そんな彼女を国民は、「エルトリアの戦姫」と呼んだ。
戦における勝利の象徴として。一国の未来を、希望をそこに託して。
だが………………。
その姫が暗殺されていたと知る者は、歴史上には存在しない。
防衛戦の終局が、目前に迫りつつあるその日の早朝。
疾風のように現れたブリュンヒルデ帝国第一軍に虚をつかれ、占領された最初の領地。国境である北の大山脈に隣接した、オスラリア領。
広大な領地の北方にある領主の城から南に遠く隔たり、踏み荒らされて荒野と化した地で、私たちエルトリア軍はブリュンヒルデ第一軍と対峙していた。
身長と同程度の高さがある木製の台に私は登壇している。そこに王家の大剣を突き立てながら、時が満ちるのを瞑目して待っていた。戦場の風を感じながら。
目を開けて左右に視線を送れば、一歩下がった位置で王国騎士団の主だった面々が旗を手に馬に騎乗し、一直線に並んでいる姿が確認出来る。
東の空が底光りを始めると、灰色に煙った夜の残滓を破り、泰然自若としている彼らをゆっくりと照らす。エルトリア軍、歴戦の勇士たちの姿を。そんな私達の背後には同じく勇士が、麦穂のように長槍を生やした兵士の一団が控えている。
剣を携えて台に登る最中、私は振り返って彼らの姿を視界に収めた。暗闇の中でも光る目。皆一様に、興奮と陶酔に打たれた力強い目をしていたのを覚えている。
その際、兵士の一人が私の視線に気づくと、彼は眉を上げて驚きを露にした。
私は一瞬だけ躊躇ったが、ゆっくりと頷いてみせた。
彼は口を驚愕の形に開くと、やがて激しく小刻みに何度か頷いた。
――つい先ほどの光景を思い返しながら、長く息を吐く。
兵士たちの熱気が、背後から質量を伴って圧し掛かってくるのを感じた。もう何度目になるだろう、この経験は。原始的な死の恐怖が彼らの中に存在していることは確かな事実だ。それでも彼らは、その恐怖に圧倒されてはいなかった。
何故なら彼らは今まさに、この国の生きた伝説と共に戦場にあるのだから。
家族、恋人、それぞれが守りたい物を胸に抱きながら……。
――国民の希望である、エルトリアの戦姫と共に。
私の中を、火のような戦慄が駆け抜けた。怖気にも似た感触に舐められ、額に汗している自分に気づく。その感触を反芻するように、口の中で転がして味わう。
――ただし私は……偽物の戦姫。
大地を這う乾いた野風が吹きつける。風は烈しい笛の音のようにヒュウヒュウと鳴り、騎士団が掲げ持った旗をバタバタと躍らせた。大きく息を吐く。
普段なら不快なその砂塵混じりの風も、今はひどく心地よかった。
私は戦場にも関わらず、敵と味方の視線を一身に集めるような姫衣装を鎧の下に着こんでいた。共に戦う兵士が直ぐに見つけられるようにと、姫様が常に着用しておいでだった衣装。白と赤を混ぜ合わせたような、変わった色のその衣装。
その下には実戦を重んじた、編み込まれた鎖帷子を着込んでいる。衣装の上の胸や肩、手、足といった箇所には、金属板で作られた鎧が装着されていた。
戦姫の特徴的な戦装束は、鎖帷子で上半身を覆い、太腿以外の部分は鎧で身を固めた騎士団の中でも一際目を引いた。それこそ、エルトリアの戦姫の在り方。
息をすることさえ困難と思える張りつめた戦場の空気の中で、私は胸を波打たせ、喘ぐように呼吸をする。これからなすべきことに、思いを馳せた。
皆一様に、誰かの愛しい人である兵士たちの命。その愛しい人の無事を願う国民の祈り。それらを双肩に背負い、私はエルトリアの戦姫として戦場に立っている。
瞬間、荒涼としたものが体内に吹き荒れる。そんな私には、誰の祈りの声も聞こえることがない。私が私であると知る者は、故郷にはいない。それでも……。
胸の装甲にそっと片手を当てる。
私はある一つの絆を感じながら、明けつつある空を仰いだ。
――アレックス。
彼の名前を心の中で呟くと、緊張し続けていた気持ちが、僅かに柔らかくなるのを自覚した。瞼を閉じながら、二人のおまじないを口にする。
「明日は……きっと晴れる。だからそんな曇った顔するな」
これは私を奮い立たせるための儀式。理不尽とも思える運命に翻弄された私を鼓舞し、勇気を与えてくれる、そんな……。
おまじないを唱え終えた私は、やがて決然と目を見開き、口元を引き締めた。
視線を空から転じ、決意を込めた眼差しを彼方、前方のブリュンヒルデ軍に注ぐ。
意識をこれからの戦に、登り台に突き立てた大剣に向けた。
第一次エルトリア防衛戦で用いられたその大剣。そこには、姫様の始祖たるライコフ様が実際に戦で用いて、ブリュンヒルデ軍を撃退したという伝説がある。
大柄であった始祖様と違い、ただの村娘に過ぎない私はおろか剣術の嗜みがあった姫様でも決定的に腕力が不足し、その剣を自由自在に扱うことは叶わなかった。
だがこの大剣は王家の象徴として、勝利の象徴として、戦場では常に姫様と共にあった。最前線で掲げられ、兵士達の士気を高揚させてきた。
――そう、それが私の務め。姫様から渡された私の……。
後ろに退きながら、大剣を倒すようにして握りを両手で掴み直す。
背後の兵士達の息遣いが俄かに変わったことを悟る。
息を吸う。怯えを吐き出すように長く吐く。汗が背中から滲み出て玉となって流れるのを感じながら、ただ剣を掲げる為に心を研ぎ澄ませた。
――姫様、見ていてください。
歯を食いしばると、自然と目が見開かれる。体がカッと熱くなった。私は出来る、私は出来る。そう唱えながら、満ちつつある覚悟を携えて全身に力を込め、
「はぁぁぁぁあぁぁぁぁあ!」
大剣を一息に、頭上に掲げた。
足元がふらつかないように、足に力を込める。腕といわず全身の筋繊維が悲鳴を上げ、柄を持つ手ががくがくと震えた。それでも剣に震えが伝わらないように、腕を高く、高く、垂直に伸ばす。最後尾の兵士にもこの剣が見えるように。
――エルトリアの戦姫の存在を、全ての兵士に伝える為に。
東の空から顔を出した太陽から剣へと陽が降り注がれる。鏡のように磨かれた刀身は光を受け止めると、祝福が宿ったかのように神聖な輝きを周囲に拡散させた。
そしてその剣を私が振り下すと……。
「「「「うおおぉぉぉぉぉぉおぉぉぉぉぉ!!」」」」」
兵士達の雄たけびが地鳴りするように戦場に轟き、今日もまた戦が始まる。