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幸福の華  作者: みづき
7/8

<7>

「あれ、この前の黒猫だ」

 食後の運動にと誘ったが断られてしまったため、シルヴィは一人で庭を散策していた。

 そんな時ふと視界に掠めたものにはっとし、それを目で追うと先ほどロイアに話していた黒猫が歩いていたのだ。

「迷い込んだってロイア様がおっしゃってたけど……」

 こちらに顔を向け小さく鳴いた黒猫に思わず笑みがこぼれる。

 シルヴィは猫が好きだった。特に小さくて、黒猫ならなおさらだ。

 幼少のころ飼っていたのだが、猫と戯れているうちに体に引っ掻き傷や擦りむいた痕ができ、それを見た母親が猫を外へと放してしまった。追いかけようにも母に捕えられ、結局猫は戻ってくることもなく――時々姿を探しては見つからず涙を流していた時もあった。

 それ以来猫を飼うことは許してくれなかったため、こうして道行く猫たちを眺めてはひそかに楽しんでいる。

「おいで」

 そっと手を差し出すも黒猫は顔を背け、反対の方向へと歩いていく。その先にあるものを見てシルヴィは小さく声を上げた。

「だめ、そっちに行っちゃ。ロイア様が危ないっておっしゃってるの」

 シルヴィの言葉を聞くわけもなく、黒猫は以前ロイアが行くなと示した小さな建物へと近づいていく。

 土で固められたような外観のそれは汚れ、今にも壊れてしまいそうだった。所々崩壊し、扉だったであろう場所は上から崩れた壁や天井でふさがれ、中に入ることすらままならない。

 そんな建物と言えないであろうものの隙間に、猫がするりと入り込む。

「あっ……だめ、危ないから!」

 とっさに駆け寄るも黒猫は瓦礫の隙間から中に入ってしまっているらしく、覗いてみても姿が見当たらない。

 瓦礫をどかそうにもうまく動いてくれず、シルヴィは服や腕が汚れることも構わず体勢を低くしてその隙間に手を突っ込んだ。

 手であたりを探るも何の感触も得られない。

 猫はどこに――そう思いながらさらに腕を伸ばす。その瞬間、何かが崩れる音が頭上から聞こえシルヴィははっとした。

 上を見上げればかろうじて保っていた天井がひび割れ、ぐらりと傾く。それはちょうどシルヴィの頭を直撃する位置である。

 とっさに腕を引っ込めようとしたが何かにつっかえているのか動かず、シルヴィは焦った表情で再び上を見やった。

 崩れる。

 そう思った瞬間、見上げた顔に瓦礫ではない影ができ――目の前に落下してくる物たちが視界を占めた時シルヴィは意識を手放した。

 ――ふわり、と柔らかな何かに包まれている感覚がする。

 ふわりふわりと優しさをまとった何かがシルヴィに触れ、その心地よさに口元に笑みが浮かんだ。

 気持ちがいい。

 そう思った時、耳元でかたりと音がした。

 ゆるりと双眸を開けたシルヴィは、眩しさに目をすがめる。何度か瞬きをして首をひねると、

「……ロイア、様?」

 どうやら自分はベッドに寝かされているらしく、そばには椅子に座ったロイアがいた。

「どうして、ここに……。あ、こ、これロイア様のベッドですか? すぐにどきます!」

 勢いよく起き上がろうとしたシルヴィに、まだ寝てろとロイアの手がかかる。強引に柔らかなベッドに押し戻されたシルヴィはきょとんとロイアを見上げた。

「シルヴィ。一つ聞いていい?」

「はい」

「どうして、婚約を解消する気はないって言ったの?」

 じっと見下ろしてくる視線から顔を背け、シルヴィは小首を傾げながら思いついた言葉を口にする。

「優しい方……だからでしょうか」

「それ、前にも言ってたよね」

「はい。お優しいですよ、ロイア様は。――こうして、私を助けてくださいました」

 わずかに息を呑む気配がしたが、シルヴィは構わず続けた。意識を失う直前、当たれば無事で済まないだろうほどの瓦礫が自分をめがけて落ちてきたというのに、体はわずかに痛むだけでこれといった傷はない。

「これは今思い出したことですけど。瓦礫が落ちてくる瞬間、ロイア様のお顔が見れたので――あぁ大丈夫だって安心したんです」

 怪我はないですかと問う声に、ロイアは小さくないと返す。

「よかった。ロイア様に怪我させてしまっては、私が嫌ですから」

 ねぇロイア様、と囁くような声が耳朶を打つ。

 優しい、慈愛に溢れたような声はロイアの鼓膜を柔らかく包む。

「お慕いしております。ずっと、初めて会った時から」

 ぴくり、と今までで一番大きくロイアの肩が揺れる。いつの間にか顔は伏せられており、黒髪に覆われその表情は確認することができなかった。

 しかし、それでも構わずシルヴィは言葉を紡ぐ。

 彼の心に届くようにと。自分の言葉が届けばいいと願って。

「初めてお会いした時、失敗したにも関わらずお菓子を全部食べてくださって……それに、知ってるんですよ。わざとでしょう? いつも冷たい言い方をされるのは。私に嫌ってほしくて、わざとそんな言い方をされてる」

 冷たい、心のこもっていないような声。

 けれどそれはいつも奥深くに感情が潜んでいた。

 シルヴィを気遣う、ロイアの気持ちが。

「ロイア様が抱えていらっしゃる闇のことは知りません。無理にそれを聞くこともしません。詮索もしませんし、許されないことだったとしても私は聞きません」

 白い天井を見上げ、シルヴィは囁く。

「でも、ロイア様も傷ついたのでしょう? 闇を抱えることは簡単だけれど、それを維持することはとても辛いことですし自身も傷つきます。忘れろと言っているわけではないですが――少しでもそれを軽くするために、私が傍にいてはだめですか?」

 天井から視線を外して、俯くロイアを見つめた。

 微動だにしないロイアにそっと手を差し出せば、それに縋りつくように握りしめられる。

「……俺は、もう失いたくない」

「はい」

「これ以上、あんな思いはしたくない」

「はい。……私は、どこにも行きません。ロイア様のお傍にいます」

 ぎゅっと、力がこもる。両手で包むその手は、震えているような気がした。

「失うかもしれないと思ったんだ。瓦礫が君の上に落ちて――俺の目の前からいなくなってしまうんじゃないかと」

 怖かった、とロイアが呟く。

 シルヴィがいなくなってしまうと――もうあの笑顔を見ることができなくなってしまうと思った瞬間、ロイアの体は勝手に動いていた。

 いつの間にか駆け出していて、瓦礫とシルヴィの間に己の体を滑り込ませた。背中を襲った強い衝撃が嘘のように幸い大きな傷はなく、けれど代わりにロイアの心には恐怖で埋め尽くされていた。

 いつの間にか、心の隙間に入り込んでいた彼女。

 大切な存在になる前に、これ以上心の深い場所へ入り込ませないように距離をとろうとした。けれどそれに構わずシルヴィは容赦なくロイアに近づき、彼の意思に反してその心を占めていく。

 純白で穢れを知らない彼女。真っ黒で、ひどく歪んだ自分には不釣り合いだと――そう思い込もうとしたのに。

 彼女は自分が触れていい存在ではないのだと、関わっていい存在ではないのだと。

 シルヴィに触れてしまえば、彼女まで黒く染めてしまう気がした。

 光を浴びて輝く彼女にはいつまでも清らかでいて欲しい。そんな身勝手な、己の感情。

 多くの人を不幸にしてまで行った復讐は、成功には終わらなかったというのに。それを経てもなお兄を恨む気持ちが消えることはなく、この胸の内でくすぶり続けている。

「――ロイア様。誰にだって黒い感情はあります。その度合いは人によりますが、あれはよくてこれはだめというものはありません」

「綺麗ごとだ」

「そうですね。そうかもしれません。でも、だからといってロイア様が抱えていらっしゃる闇が、必ずしもだめというわけではありません。それは誰が決めることでもありませんから」

 ふわり、と微笑むシルヴィに、ロイアはうなだれた。

「……俺で、いいのか」

「ロイア様がいいんです」

「俺がしたことを知ったら、きっと嫌いになる」

「嫌いになれとおっしゃったのはロイア様の方でしょう?」

「恐ろしいな、君は」

「だから、今さらです。――もっと私のこと、知ってください。そしてロイア様のことも、私に教えてください」

 脱力したように小さく笑うと優しく笑むシルヴィに、ロイアは頷いた。

「あぁ」

 この胸の奥に潜む闇が消えるのは、どれほど先のことになるのだろう。

 もしかすれば、ずっと消えることはないのかもしれない。

 けれどそれでも。

「シルヴィ。会いたい人たちがいるんだ。丁度ここも出ていかなければならなくなったようだから」

「はい」

 しっかりと頷いたシルヴィに、ロイアは苦笑した。

 きっと、彼女にはすべてわかっているのだろう。

 ロイアの闇も、何に心を歪めていたのかも。

「やっぱり恐ろしいな、シルヴィは」

「な、なんでですか!?」

 いきなりの言葉にシルヴィは目を丸くする。

 その姿が可愛くて――愛おしいと感じて、ロイアは淡く微笑んだ。



 何も伝えていなかったため、ロイアとシルヴィは姿を隠すようにフードつきの服を身に纏っていた。

 人々の歓声が波のように押し寄せ、熱気が伝わってくる。

 ロイアはそっと手に触れた感触に驚いて横を見ると、シルヴィが優しく微笑んでいるのが目に映った。それに優しく微笑み返すと、一際歓声が大きくなる。

 人々は皆揃って上を見上げ、つられるようにして二人は空を仰ぐ。

 そこには、幸せそうに寄り添う二人がいた。

 復讐を誓った相手と、その伴侶である少女。

 二人を見上げていたロイアに、ふいに少女が気付いたように目を見開くと隣に佇む男も同様――否、それ以上に驚いた様子でこちらを見つめている。

 唇が震え、大きく見開かれた目はやがて嬉しそうに細められた。

 そした少女は手に持った花束を解くと、それを宙へ投げる。

 祝福するかのように、誰かの帰りを祝うように――色鮮やかに視界を埋めた。


                            =終=

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