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ぽたりと垂れる水を軽く拭きとって、ロイアは用意された服に着替えた。
飾り気の少ない簡素な服である。
「ドーリック」
思わず口から出た名に、ロイアははっとする。
そうだ、彼はここにはいない。
占拠したカルティア城で発見されたドーリックは、クラリド兵に捕まったのだと思われたまま保護され、現在は城で暮らしている。
ロイアの様子が気になっていたようであったが、少し雰囲気の変わったウィルを見てなにを感じたのか特に何も言わないままだった。
きゅっとタオルを掴み、ロイアはため息とともに小さく頭を降った。水滴が頬を打ち、濡れた髪の毛を掻き上げる。
ロイアはそのまま浴室を出ようとし――ふいにシルヴィの声が脳裏を掠め、小さく息を吐くと乱暴にタオルで濡れた髪を拭いた。完全には乾いていなくとも、もう水滴は落ちてこないため十分だろうとロイアは水分を含んだタオルを籠へと放り投げる。
そして浴室を出、ロイアはシルヴィがいるであろう自室へと足を運ぶ。
「――いない?」
王城よりも劣るが、綺麗で細やかな模様が彫りこんである扉を開けるとロイアは視線を動かした。
いるはずだったシルヴィの姿はなく、代わりにいつもお菓子を入れてあるはずの籠が空っぽのまま置かれている。
――婚約の話を解消する気はない、ときっぱりと告げた彼女。
家のためかと思わず口元に歪んだ笑みを浮かべたロイアは、ふわりと香った甘い匂いに顔を上げた。
「ロイア様」
ひょっこりと扉から顔を出したのは、いないと思っていたシルヴィであった。
その手には甘い匂いを漂わす皿が持たれており、シルヴィは目をかすかに見張るロイアに申し訳なさそうに口を開く。
「すみません。台所、少し使わせていただきました。温めた方がおいしいお菓子だったので」
ふわり、と甘い芳香が鼻腔をくすぐる。
独特の匂いはお菓子のものか、それとも――。
「帰ったんじゃなかったの?」
「いえ。今日のお菓子は温めて食べるものでしたので、その準備をしていました」
熱いうちにどうぞ、とシルヴィはフォークとともに皿をテーブルに置いた。
円形の形をしたそれは、視線に促されてロイアがフォークで割ると中からとろりとしたものが溢れ出す。
チョコレートである。
甘くいい匂いに誘われるようにしてロイアは知らないうちにそれを口へと運んでいた。口の中でチョコレートがとろけ、ほどよい苦みが甘さをしつこくなくしている。
少し冷えた体に熱いそれはロイアを温めてくれるようで、気づけば皿は空になっていた。
それを見たシルヴィは嬉しそうに微笑み、ロイアに笑いかける。
「ロイア様。お飲み物は何にしますか?」
「いらない」
「でしたら、少し散歩でもしませんか? ほら、食後の運動です」
ね、と微笑みながらシルヴィは半ば強引にロイアの腕をとる。
「この屋敷を案内してください。ここに通ってかなり経ちますが、一度も案内してくださったことがないですから」
「……シルヴィ」
「いいでしょう? あなたが過ごしたこの家と思い出を、私に教えてください」
にっこりと、シルヴィは眉をひそめるロイアにそう告げる。
そしてわずかに逡巡したロイアは小さくわかったとだけ言い、シルヴィをちらりと見やってから自室を出た。
「私、中庭が見てみたいです」
「さっき見ただろ」
「ロイア様に案内して欲しいんです」
隣で子どものようなことを言う彼女にロイアは呆れたように肩を落とし、二人並んで中庭へと足を運ぶ。
この屋敷の庭は、現在すべてロイアの手によって整えられていた。
以前は庭師たちが整えていたのだが、ロイアが移り住むようになってからはぱたりと来なくなった。その原因はウィルだろうと推測するが、ロイアは顔をしかめるだけで何も言わず庭の手入れをしている。
まだ母と父が生きていたころ。そして、兄であるウィルを恨む気持ちがなかったころ。
屋敷へと遊びに来ていた時、ロイアは決まってこの庭で楽しげに走り回っていた。
丁寧に心を込めて世話をされたとわかるほどの木々や色とりどりの花々は、見ているだけで心が癒された。花には誘われるようにして飛び降りる蝶が絶えず、無駄な枝など一本もないような木には可愛らしく歌う小鳥たちが止まる。
そんな様子を、ロイアはどこか誇らしげに見つめていたのだ。
それは今でも変わることはなく、以前と同じようにはいかなかったけれどなるべくと思いながら世話を続けている。
「わあ。綺麗ですね、ロイア様!」
アーチを描く蔦を彩るように、可愛らしい花が咲いている。そのアーチを抜けると白いテーブルと二つの椅子が置いてあり、その地面はそれらを取り囲むように円形に緑が拓かれている。
可愛らしいその場所に、シルヴィは嬉しそうに声を上げた。
「ここでお茶会ができたら素敵ですね! あ、そうだ。今度はここでお菓子でも食べませんか? きっといつもよりおいしいですよ」
風を受けて見事な銀髪を揺らすシルヴィに、ロイアは目を細め視線を外した。
まるで、とても綺麗なものを見てしまったかのように。
そしてそれを、自身が汚してしまうとでもいうかのように。
「ねぇ、ロイア様。このお庭、すごく素敵です。ロイア様の心がこもってるみたい」
好きです、と微笑むシルヴィは俯くロイアに近づきその手を取り、その顔を覗き込んだ。
「ロイア様が心をこめて育てられたこのお庭。私は好きです」
ウィルのそれとは違う、どこまでも続く澄んだ青空を連想させる瞳が優しげに細められる。
まるで包み込まれるような感覚を覚えたロイアは、とっさにその手を払っていた。
「……あっちには行くな。危ないから」
すっと指で指された方向を見、シルヴィは小首を傾げる。それが何なのか問おうとした時、すでにロイアの背中は屋敷の中へと消えていくところだった。
「ロイア様!」
思わず足を踏み出し――けれど結局その場で立ち止まり、シルヴィは拒絶するかのようなその背中を寂しげに見つめた。
「……私は、好きですよ。ロイア様」