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浴室へと続いていた廊下を少女は駆ける。
見事な銀髪を揺らしながらシルヴィはロイアの自室の扉を開け、中に入るなりしゃがみこんだ。
やってしまった。
顔を覆い、深いため息が口からこぼれた。
けれど――シルヴィは顔を上げ、テーブルの上に置かれた小さな籠を見やる。ほのかに甘い匂いを漂わせている籠には、シルヴィの作った菓子が入れられていた。
甘いものが好きだというロイアのためにケーキを作ったのだ。もともとお菓子作りだけではなく、家事全般が不得意だった彼女は周りが驚くほどに練習した。
すべては婚約者であるロイアのため。
「……ほんとに解消されたらどうしよう」
先ほど自分で婚約を解消する気はないと宣言したものの、立場上はロイアの方が断然上である。彼がやめると言えば多少の混乱はあれど、あっさりとこの話はなかったことになるのだろう。
シルヴィはため息をつく。
最初はこの話に反対だった。名のある家の娘で、結婚相手は親の決めた人――そんな将来はわかりきっている。けれど、名も知らない顔も知らない、おまけに話したことなど一度もない相手との結婚などシルヴィは嫌だった。
父の手前そう言うわけにはいかなかったけれど、もしその類の話が出た時ははっきりそう言ってやろうと心に決めていた。
そして運命の日。突然父から言われた婚約という言葉にシルヴィは反対しようとして、その相手の名前を聞いた瞬間彼女は動きを止めた。
カルティア国第二王子、ロイア。
温和で争いごとを好まず、無邪気に微笑み兄である国王との関係は良好――そう人々の間での話だったが、なぜかシルヴィにはそうは思えなかった相手である。
一度だけ、顔を見たことがあったのだ。
式典での彼は優し気な笑みを浮かべていたが、その笑顔に一瞬陰りができるのをシルヴィは見てしまった。それは決まって国王であるウィルを見るときで、黒い瞳の奥には深く禍々しい何かが渦巻いているのを感じていた。
何を抱えているのだろう。
王子という立場で育った彼は、一体何を抱えてそこに立っているのだろうと思った。
相手が了承してくださったぞと嬉しげに語る父の言葉を聞きながら、シルヴィは生まれて初めてお菓子を作った。
お世辞にもうまいとは言いがたい出来で、表面はところどころ焦げ付いている。それでも構わないと、シルヴィは失礼にあたると知りながらもそれを持ってロイアの住む屋敷へと訪れた。
詳しくは聞かされていないが、カルティア城にクラリドの使者がいたらしい。その者を通じて自国の情報が敵へ流れ、カルティア城は攻め込まれた。
幸いにも王とその婚約者、そして王子であるロイアは無事とのことで、被害があったのは城だけだとも聞かされた。そしてその城を守る役目を背負った兵士たちと、シルヴィと同じ貴族の人間は何人か巻き添えを食らったらしい。
クラリド兵たちに撤退の命令が届き、そしてその後クラリドの王は死亡。もともと争うつもりなどなかったカルティアとの今回の戦いは冷戦となった。
そんなことがあった数か月後、ロイアは何かしらの理由をつけてこの屋敷へと移り住んだ。屋敷に住んでいるのは彼だけで、ロイアの居場所を聞いた結果ここで暮らしているのは一部だけが知っている話だという。そのためこのことは絶対人には言うなとも。
シルヴィは移動の際も細心の注意を払い、後をつけられることのないようにと気を配った。
そこまでしてロイアに会うことの、意味は何だろうか。
シルヴィは深い溜息を吐いて双眸を閉じる。
彼に会う意味は――ただ、あの胸の内に触れてみたいと思ってしまったから。