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空気が裂ける。
力強く振った剣を横へ薙ぎ、今度は上から振り下ろす。
そしてふっと息を吐き、ロイアは体を起こして肩の力を抜いた。
「ロイア様は、剣術もお上手なんですね」
その時感心したような声が聞こえ、ロイアは首をひねった。
さわさわと踊る木々や花を後ろにして、銀に輝く髪の一部を後ろで結んだそれを風によってさらりと揺らしながら佇む少女はシルヴィである。
大きく見開かれた瞳は透けるように蒼く、どこまでも広がる空を連想させた。
「……今日も来たの、シルヴィ」
「はい!」
にっこりと微笑んでそう口にする彼女にため息をつく。
「あ、何か拭くものをお持ちしますね」
「シルヴィ」
ロイアの頬から流れる汗にはっとしたシルヴィは屋敷の中へ戻ろうとし、けれど背後からかけられた声に肩越しに振り返る。
「どうしてここまでするの?」
「え?」
「まったく顔を合わせたことのない人と婚約するって言われて、それでどうしてその婚約相手にここまでできるの?」
その答えは知っているのに。
立場上断ることもできず、父の名誉のためロイアに気に入られなければならないためだと。
いつの時代も変わらない、ただの政略結婚。そこに心などないのだ。
けれど、シルヴィの答えはロイアの考えとはまったく違っていた。
「どうして、ですか? ……初めて会った方、だからでしょうか」
小首をかしげつつそう言うシルヴィは、ふわりと微笑んでロイアを見る。
「確かに政略結婚で、その相手との仲など考えなくてもいいのかもしれません。でも、お互いをよく知ったら仲良くなれるかもしれませんから」
私はロイア様のこと知りたいです、と蒼い瞳を細めて微笑んだ。
それに、とシルヴィは続ける。
「ロイア様はお優しいので」
「……優しい? 俺が?」
「はい」
にっこりと微笑む彼女は明るく何の陰りもない。
ロイアは口を開こうとし――けれど結局何も言わず、シルヴィから視線をそらして汗を拭った。それを見て慌ててタオルを取りに行った彼女を横目に、ロイアは顔をしかめる。
優しくなどない。
兄を恨む黒い気持ちは、ウィルから離れた今でもなくなることはないのだから。
復讐のためにたくさんの血を流し、それでもなお気持ちが鎮まることがない自分の、どこが優しいというのか。
「真っ黒だよ」
心を闇に染めたロイアには、明るく笑うシルヴィが純白に見えた。
何の穢れもない、真っ白な少女。
そんな彼女に、自分は不釣合いだと思えた。
「ロイア様! お待たせしました、これで早く拭いてください!!」
屋敷から出てきたシルヴィは汗を垂らしながら佇むロイアに顔を青ざめさせ、手に持っていたタオルを押し付けた。
「風邪を引いてしまいます!」
温かな日差しが照りつける今の季節とはいえ、汗だくでしかもそれを拭かずに外で立っていれば風邪を引いてしまう。あぁ、と小さく返事をしてタオルを頬にあてるロイアにシルヴィは手を伸ばし、強引にそれを奪った。
「ちゃんと拭いてください、ロイア様! 体を大事にしない人は嫌いです!!」
額から頬へ、そして首へと流れた汗をシルヴィは素早く拭いていく。そんな彼女に、ロイアはされるがままの状態でちいさく口角を上げた。
「じゃあ嫌ってよ」
吐き出された言葉にシルヴィは顔を上げる。
「俺のこと、嫌ってよ」
「ロイア様……?」
「もうここへは来ないで。迷惑だから」
シルヴィの手を弾き、ロイアは踵を返す。残されたシルヴィはきゅっと唇を噛み、そして大股で彼のもとへ近づいた。
「ロイア様、そういうことではありません! 子どもみたいなこと言わないでください!」
「なに――」
「風邪を引くと言ってるんです、私は! 大人しく言うこと聞いてください!!」
苛立ったような声とともにタオルを押し付けられ、さらには腕を掴まれロイアは引きずられるようにしてシルヴィの後を追う。
ずんずんと突き進む彼女は庭を出て屋敷へと入り、風呂場へと続く廊下を指で示した。
「汗を流してきてください。今すぐです」
きっぱりと告げるその口調に反論の余地などなく、ロイアはしぶしぶ浴槽のある場所へと足を運んだ。
その様子を見届けてからシルヴィは深く息を吐いて体を反転させ、ロイアの自室へと駆けて行った。
――確かに、汗ばんで気持ちが悪かったのはある。
ロイアは上から流れる温かな湯を全身にかけ、そんなことを思いながら眉をひそめていた。
けれど、なぜかシルヴィがタオルを持ってくるのを見て無性に苛立ったのだ。
余計なことはするな。俺に構うなという言葉が口から出そうだった。
「ロイア様」
扉の向こうから声が聞こえ、ロイアは弾かれたように顔を上げる。
「お召し物、ここに置いておきます」
断続的に流れる湯の音にかき消されることのない、澄んだ声。一点の曇りもないその声は、どこかロイアを苛立たせる。
「俺に、構うな」
気付けばそう口にしていて、その言葉に扉の向こうの声は一瞬止まった。
「……そうはいきません。私はあなたの婚約者ですから」
「そんなもの、解消すればいいだろ。そしたらもう婚約者でもなんでもなくなる。俺に会いに来なくてよくなるんだ」
「ロイア様に会いに来るのは私の意思だと申し上げたはずですが」
ぽたり、と濡れた髪から頬へと滴が流れる。
「それに、私は婚約を解消する気はありません」
体を包む温かな水の音の合間に聞こえた声はそこで終わり、かすかな足音がした時にはもう彼女の気配は消えていた。