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空気が澄んでいる。
晴れ渡った空を少年――否、青年と呼ぶにふさわしいほどの年齢となった彼はぼんやりと眺めていた。
まるで、あの騒動がなかったかのように感じられる穏やかな午後。
青年――ロイアは外から視線を削ぎ、部屋の中へと移した。
広い空間にはテーブルと椅子、ベッドと棚に少しの調度品。驚くほど簡素なこの部屋は、幼少期に何度か訪れた別荘とも言える小さな屋敷である。
他にはいくつか同様の部屋があり、父と母、そして兄と年に何度かお忍びと称して遊びに来た場所だった。
兵士も侍女も数人しか連れず、家族水入らずの――楽しいひと時を過ごした思い出の地。
そんな場所で、ロイアは侍女さえも連れてこず一人でここにいるのには理由があった。
兄であるウィルをこの手で傷つけたあの日。深手を負ったものの、王の命令を無視して駆けつけてきた兵士たちによってウィルは何とか一命をとりとめたのだ。
ロイアの握る剣にべったりとついた血に周囲の兵士は困惑するが、ウィルは関係ないとの一点張りだった。
これは敵兵によるものだと。けれどその兵士はロイアによって傷つけられ、どこか遠くに逃げたと。
うわ言のように繰り返すウィルに周りは困惑しつつもうなずき、これからのことを彼の言うとおりに従った。
それから数日後。怪我が完治したウィルはロイアを呼び出し、この地へ行くことを勧めてくれた。
憎んだ兄とともに暮らすのは無理だろう、ならば適当な理由をつけて一人ゆっくりと過ごすのも悪くはないだろうと。
その提案にロイアは迷いもなく頷いた。
そんな彼を寂しげに見つめたウィルは、さっそくこの屋敷へ行く手配を済ませてくれた。
――そして現在、ウィルの配慮で侍女も兵士もいない屋敷でゆっくりと暮らしている。
「兄上は、俺のことを憎んではいないのか」
ウィルを憎む気持ちは今も消えない。どうしてあんなことをしたのだと――そう思う感情はこの先消えることはないだろうと思っている。
けれど、ウィルはどうなのだろうか。
実の弟に剣を向けられ、受け入れてはいたがそんなロイアのことをどう思っているのか。
考えても答えは見つからず、ロイアはふっと息を吐く。
――巻き込むこととなってしまった仁和は、無事にこの世界へと帰還を果たしたと聞いた。
その時は素直に安堵し、こんなことになってしまったことへの謝罪を胸の内で呟いた。
もう二度と会うことはないであろう彼女へと。
凛とした表情が眩しい、兄がただ一人愛した少女。
「失礼します」
その時、柔らかな少女の声が扉越しに聞こえた。
それに思わずため息をつきそうになったが何とかこらえ、ロイアは扉に向かって返事をする。
「失礼します。ロイア様」
静かに扉が開けられ、小さく頭を垂れた少女は顔を上げた。ロイアと目が合うなりぱっと微笑み、軽やかな足取りで彼に近づく。
「……シルヴィ。君、暇なの?」
少女――シルヴィはロイアの言葉に首を傾げた。
綺麗に伸ばされた見事な銀髪はさらりと揺れ、二つの瞳は透けるような蒼い色。白い肌を包む服は純白で、清らかで柔らかな雰囲気を漂わせている。
ロイアより三歳も年下の彼女は目を瞬いた。
「どうしてですか?」
「どうしてって、毎日来てるだろ? 家から近いわけでもないのに」
シルヴィは呆れた表情のロイアを見つめ、一言大丈夫ですと返した。
「ここに来るのは好きなので、少し時間がかかっても大丈夫です」
そういうことではないのだが――ロイアは小さくため息をつき、嬉しそうに微笑んでいる彼女を見やる。
一か月ほど前、兄から言伝が届いた。
ある人から自分の娘をロイアの妻にどうか、と。
以前世話になった家との話だったので無下に断ることもできず――けれど内心兄であるウィルはこの機会にどうかと思っていたのだが――とのことだったが、ロイアは何の感情もなくそれを断った。
しかしなぜか相手の娘はすでに家を出発していると、そしてその行き先がロイアの暮らすこの屋敷だと聞いたときは思わず目を見開いた。
強引ともいえるその所業にロイアはため息をつくが、ウィルはこれ幸いにと断りの連絡はしばらくあとにするという。
気が向いたらどうだ、という兄の言葉に苛立ちを覚えながら、ロイアは初めてその日シルヴィと出会った。
それからというもの毎日のように、こうしてシルヴィは一人でこの屋敷へと訪れる。
「そうだ、今日はお菓子を焼いてきたんです」
手に持ったいつになく大きな籠はそのためかと思っていると、シルヴィが甘い匂いの漂わす菓子を取り出した。
「何度か失敗しちゃったんですけど……あ、これは成功したので大丈夫です! 味見はしてませんが、大丈夫です!」
小さく拳を握ってそう頷く彼女に、そこは大きく宣言するところではないと胸中で突っ込む。
慎重に取り出された菓子は丸く、網状になった生地の下に甘く煮たりんごが並んでいた。すでに切り分けられていたそれをシルヴィは皿に分け、ひとつをロイアに渡す。
独特の匂いが鼻腔をくすぐった。
「……シルヴィ」
「はい。あ、何かお飲み物を――」
「いや、いい」
諦めたように首を振ったロイアは皿に乗った菓子にフォークを突き刺した。一口の大きさに切ったそれを口に含むと、甘さの中にりんごの酸味が広がる。丁度いい触感で、しつこくない甘さはロイア好みのものだ。
一切れすべてを食べ終え、気付けば二切れ目へと手が運んでいた。
思わずはっとするも、シルヴィが嬉しそうに微笑んでいるのが視界に映りロイアは無言でフォークを進めた。
それを満足そうに見つめて、シルヴィは自身も皿に手を伸ばした。
奇妙な空間。
それが、カルティア城を出て一人屋敷で過ごすロイアの毎日であった。