Part 4
「美沙子! お前か!」
晋平は思わず叫んだ。今までパステトとばかり思っていたが、この相手こそが美沙子だった。晋平は暗闇の中をずいと進み、パステト、いやもう今は美沙子にしか見えないこの相手に手を伸ばした。
「美沙子! 美沙子! 何をしているんだ!」
催眠術にでもかかったような虚ろな瞳でじーっと晋平を見つめていた美沙子の目に、ようやく人間の光が戻った。暗黒の空間もいつの間にか元の古ぼけた和室に戻っている。晋平は、美沙子の腕を掴んで廃屋の外に連れ出した。あの受付の女性は、受付カウンターと共に姿を消していた。
まだぼんやりしている美沙子の顔を覗き込みながら、どうしたことかと問うと、美沙子は夢から冷めたような表情でぼちぼちとを話し出した。
晋平が部屋を出て行った後、美沙子もふてくされて二日間を過ごしたが、三日目になって岡山の幼なじみから電話が入ったのだという。彼女が言うには、美沙子が生まれた犬島は今、過疎化が進んで、ますます寂れようとしているのだが、最近になって岡山の県と企業が一緒になって観光地として再開発をしているのは美沙子も知っていた。その再開発プロジェクトがさらに拡張されることになったらしい。さらに、いずれ大々的に観光誘致をするに当たって、増え続ける猫たちを駆除する話が進んでいるというのだ。美沙子は特に猫のボランティアに取り組んでいるわけではなかったが、幼なじみがしきりに猫を救わねばならないのだと嘆願する言葉にほだされて、とりあえず彼女と再会がてら島に行ってみることにしたのだという。
しかし、島で十数年ぶりに再会するはずの幼なじみは姿を現さず、代わりに使いの者だという小さな人がやって来て、この廃屋に案内した。そこからの美沙子の記憶は曖昧で、夢を見ているようだったという。親しい人に追いかけられる。子供が布袋に押込められる。皆が海の中に沈められる。そしてまた別の人間に追いかけられる。そんなイメージが波のように現れては泡のように消えた。次に、使いの者とは別の小さな人が現れ、自分はいつか晋平と島を訪れた時に助けられた子猫だという。そしてもう一度助けて欲しいと嘆願したのだった。自分を呼び出した幼なじみは何処かと美沙子が問うと、彼女はここにはいない、美沙子と話したのは彼女ではなく、彼女の声を借りた自分だと言う。これは夢なのか、幻なのか、美沙子はそう思ったが、気がつけば晋平に腕を引っ張られていたのだった。
美沙子の話を聞き終わった晋平は、今出てきた廃屋を振り返った。先ほどは屋内から光が漏れていたのに、今はその光もなく、ただの朽ち果てた住居にしか見えなかった。ここは再開発なんてされていない。廃屋のままを見せるプロジェクトだなんて嘘だ。よりによって廃屋が並ぶ中でも一番奥の方にある物件だけが選ばれるわけがない。むしろ、人目を避ける事が出来るこの奥まった場所は、島に住む猫たちの格好の隠れ場所になっていたのだ。今、再開発が進められ居場所を失う危機を敏感に感じ取った猫たちは、救いを求めた。この猫たちの情念が島から飛び出し、常識では計り知れない力で美沙子に届いたのに違いない。
美沙子の手を引いて元の場所まで戻ってくると、ジョン爺さんも丁度向こう側から戻って来るところだった。
「おお! お姫様が見つかったんか?」
そう言って美沙子の顔を見たジョン爺さんは驚いた表情で言った。
「美也ちゃん、美也子ちゃんと違うか?」
それを聞いた美沙子も驚いて言った。
「美也子は、母の名前です」
晋平は、ジョン爺さんと共に美沙子を連れて、寝小屋まで戻った。美沙子は顔色が悪く、疲れたというので、部屋で休ませることにして、美沙子から聞いた話をジョン爺さんに伝えた。
「不思議な話もあるもんやなあ。確かにな、何年か前にこの島でも猫が増え過ぎた言うて猫の駆除がされたらしいな。わしとこに来る猫もめっきり減っとったけど、最近また増えてきたかな。そうか、また駆除されるんかいな。」
「猫たちは、ジョン次郎さんには助けを求めなかったのですか?」
「さぁなあ。わし、そういうのん苦手やさかいな。いっぺんお役所とは揉めとるし。」
「でも、あれほど猫を可愛がっているのに、前回の猫駆除を止めなかったんですか?」
「さあ、それやがな。わし、こんな世捨て人みたいな暮らししとるやろ? 町のことやら、何も知らへんかったんやなぁ。あとから風の噂に聞いたんや。」
ジョン次郎はそう言うと、目を細めて遠くを見るような顔をしたかと思うと、湯のみに入った焼酎を、お茶みたいにズズズッとすすった。
「そうかぁ。不思議と言えば、わしらの出会いも奇妙やな。わしゃあ、てっきり昔から知ってる美也子ちゃんかと思うたわ。お前さんの奥さんがあの美也ちゃんの娘やったなんてなぁ。」
「ジョン治郎さん、奥さんじゃないっす。彼女っす」
「おお、そうやった、彼女か。で、その彼女の苗字が山本かぁ。わしゃあすっかり忘れとったわ。美也ちゃんは美也ちゃんやから、彼女の苗字が山本やったちゅうことは意識してなかったからなぁ」
「ともかく、お陰さまで見つけ出すことが出来ました。ジョン治郎さん、ありがとうございました」
「そういやぁ、当時美也子ちゃんは、わしの同僚やった晋太郎っちゅう男と付きおうとったが、彼女はその娘やろか」
「晋太郎って……苗字は?」
「ええーっと、晋太郎は晋太郎やから……苗字なんかあったかな? ああ、そうそう、確か霧なんとか……霧崎! わしゃ切り裂き晋太ちゅうて、よおおちょくっとったわ」
「それ、俺の父親です」
なんてことだ。俺の親父がこんな島で働いていたとは聞いていないぞ。親父がこの爺さんの同僚で、美沙子の母親の恋人だった? ということは……美沙子は、俺の兄妹? こんなことってあるのだろうか。昨夜、海辺で猫人間が忠告したかったのは、このことだったのか? もし、俺と美沙子が兄妹ならば、俺たちは近親相姦ということになるのか?
「おい、晋平。あんた……。夕べ変なもん見たと言うたな。そういや実はわしも昔同じようなモノを見たことがあるんやった。こう、猫の頭した人間みたいな神様がな、“あかん”言いよるねん。なんか知らんけどな、死んでしまうー言いよったわ」
「それって……夕べはあるはずがないって……」
「それはやなあ、エジプトの神さんなんぞおらんて言うたんや」
「ジョン次郎さん、もしかしてそれが猫からのメッセージだったのではないですか! 」
「あ、なるほど、そうやったか」
ジョン爺さん、呆けているのか、とぼけているだけなのか、どこまで信じて良いものやら。そうかそうかと繰り返しながら、既にいい塩梅に酔ってきているジョン爺さんにもっと問い詰めるべきかどうか迷っていると、すーっと襖が開いた。隣の部屋で眠っていた美沙子が目を覚まして開いた戸口に立っていた。
「ジョン次郎さん、晋平のお父さんとはいつ頃一緒だったんですか?」
「そうやなぁ……わしが三十の時やから、ええーっと、三十五年前か。もうそないになるんやなぁ。」
ジョン爺さんの目はまた遠い所をった。
「でいつ頃まで?」
「おお、それはやなぁ、わしが晋太郎と一緒やったんは二年間だけやな」
「なんだ、二年間だけ?」
「そう言うな晋平。そのかわり濃い二年間やったで。お前のお父っつあんは、わしと違てすぐに出世して都会に行ってしもたからな」
「それで、私の母とはずっと?」
「あ、いや、それもな、その二年間だけやな。晋太郎がおらんようになってから、わしも寂しゅうなって、追いかけるように島を出た事があるんや。いったん神戸に帰ったんやがな、五年ほどでヘマしてしもて、また島に戻ってきたんや。わしが島に戻ってきた時には、もう美也ちゃんも結婚して子供できておらんようになっとったわ」
「ふうん、そうだったのね」
晋平と美沙子は、翌朝早く寝小屋を出た。ジョン治郎さんが名残惜しそうにいつまでも二人を見送っていた。晋平が東京に帰ったらお礼に焼酎を送るよ、と言ったら、泣きそうな笑顔で頷いていた。
二人は船に乗る前に、島の役所を訪れていた。昨日聞いた猫駆除の事を調べるために。確かにそのような予定はあるという。だが、猫駆除というのは、その言葉が暗示するような殺生や殺戮というものではなく、島にいる野良猫たちを安全に保護して別の場所に移すという、動物愛護条例に則した内容のものだった。猫たちが島にいられなくなるという事はあっても、命を失うのではないかという不安は杞憂にしか過ぎなかったのだ。
二時間後、二人は島の港を離れる定期船のデッキにいた。穏やかな瀬戸内の午後の風が
心地よく二人の頬をくすぐる。一夜明けて美沙子も元通りの元気な笑顔を取り戻していた。
「なぁ、結局あのパステトはなんだったんだろうな」
「パステト? なあに、それ?」
そうだった。美沙子は知らないんだ。自分自身がパステトになっていたという記憶もないんだった。それに、本当に俺が見たのはパステトだったのだろうか? 浜で見たのも、廃屋の中で見たのも、現実だったのかどうか、今となっては自分自身でも分からない。パステトはエジプトでは民の守り神だが、ここ日本に於いては、むしろ猫の守り神なのだ。瀬戸内海辺りの島々で、子猫が生まれては殺されてしまったという哀れな歴史の中で、生きたいと願う猫たちの想いがあのような姿を俺に見せたのではないだろうか。
「あのさ、美沙子。俺たち、もしかしたら……」
「うふふ。そうよ、私たちは兄妹! ……だったらよかったかもね!」
「え? 夕べの話、聞いていたのか?」
「ちゃんと聞こえてたわよ。あなたのお父様と私の母のロマンス話」
「……でさ、そうだとしたらな……」
「ばーか。私、何歳だと思ってるの?」
「え? えーっと、おれより三つ下だから…」
「まだ二十八歳にもなってないわ」
「つまり?」
「ほーんと、晋平って鈍いわね!」
「なにぃ!」
「ジョン次郎さんがあなたのお父様とあったのは三十五年前って言ってたでしょ?」
「そうだよ。で、その二年後には別れた。」
「ということは、その時に子供がいたとしたら、その子は若くても三十三歳。あなたよりも年上よ。」
「あっ!」
「それにね、ジョン次郎さんが島に戻ってきた時には、もう私の母は島を出てたのよ。つまり、ジョン次郎さんは、私が生まれた事を知らないはずなの」
「おっ前〜! 頭いいなー」
「私が頭がいいのではなくて、あなたの理解が遅いの!」
「あ、またっ!偉そうに!」
晋平は隣であかんべえをしている美沙子の額を指でつつく。つつきながら、ふと美沙子の胸元に目をやると、いつからそうしていたのか、美沙子の胸元には黒いペンダントがぶら下がっている。そう、忘れていた。古代エジプトの女神パステトのアクセサリーだ。そういえば美沙子と一緒にメトロポリタン・ミュージアムを訪れた時に、もともと猫好きな美沙子が「可愛い」と言って欲しがるから買ってやったのだっけ。
不意に美沙子が言った。
「ねぇえ、ウチで猫、飼わない?」
ああいいよ、と言いかけて晋平は思った。猫より犬の方がいいかなぁ、俺としては。
だって、また美沙子が猫に乗っ取られでもしないかと心配だもの。
「そんな事よりさ、俺たち、式上げないか?」
ウッソー!そんな、突然!とでも言いたげな視線を頬に感じながら晋平は、十日前に喧嘩して家を飛び出した事などすっかり忘れて、美沙子の肩にそっと腕を回した。