Part 2
男が指差す先には小さな看板があって「民宿・」と書かれている。
ほどなく晋平は、男に促されるままに家の中に入り、八畳ほどの和室に座っていた。廃屋かと思わせるような朽ちた外観に比べると、家の中はもう少しちゃんとしていて、生活の気配がしっかりとある。だが、古い事には変わりはなく、いささかの気味悪さも張り付いている。
「まぁ、お茶でも飲みぃな」
男は緑茶の入った急須と湯のみ二客を盆に乗せて部屋に入って来た。の前にちゃっかり座り込んで、急須から湯のみにお茶を注ぐ。一客を晋平の前に置き、もう一客は自分の口へと運んで、ずずずっと音を立てて飲んでからぷはぁと熱い息を吐いた。
「猫でも見に来たんちゃうんか?」
男は自分の名前を菅原ジョン治郎と言った。ジョン治郎だなんて、そんな名前があるのだろうかと思ったが、本人がそう言っているのだから仕方がない。ジョン治郎はもうずいぶん昔に神戸から移り住んだという。いや、本当は尼崎という町なんだが、神戸と言った方が通りがいいし、なんとなく格好良いからと付け加えた。何十年も以前に石を切り出す仕事でこの島にやって来て、仕事がなくなってしまってからも、ここが気に入って住み着いているのだという。この家も、もともとは廃屋だったところへ勝手に住み着いて、その後役所とは、かなり揉めたのだが、先住権を主張してなんとか安い賃料で住み続けることに成功したのだそうだ。民宿とは名ばかりで、こんな宿を借りるような人間は、年に数人、それも間違えて泊まってしまったというような宿泊客ばかりだそうだ。では、ジョン爺さんはどうやって生計を立てているのかと聞けば、何もしてない、年金と裏の畑の自給自足で生きながらえていると言って笑った。
晋平が、ここに来た理由を話そうと口を開きかけたとたん、ジョン爺さんが言った。
「ぼちぼち、飯にしまひょか」
家の真ん中の小さな食堂にある古びた食卓に、魚や煮物の入った器が並べられた。思いの外ちゃんとしたメニューは、ジョン爺さんが夕方裏の海で釣り上げたという小ぶりのチヌの煮物とハゼの天ぷら、裏庭で採取した菜っ葉や里芋を、上手に汁や小鉢に仕立てたもの。客は来ないと言いながら,ジョン爺さんのもてなしぶりもなかなかちゃんとしたものだ。
「ほんで、これはサービス」
ジョン爺さんは食卓に焼酎瓶を置いて、晋平の真向かいにどかりと座り込んだ。本当は、百年に一度の晩酌相手がいることが嬉しくて、ウズウズしていたのだ。
「ところで、あんた、誰か探しに来たんやろ? さっき何か言いかけたわな」
晋平の心の内はちゃんと察知しているらしかった。この爺さんなら何か知っているかもしれない。そう思った晋平はこれまでの経緯と、山本姓の家が見つからなければ美沙子を探す手立てがないことを告げた。
「山本って家は、この島には本当にないのでしょうか?」
「知らん」
あっさり否定されてしまった。
「じゃが、こんな狭い島のこっちゃから、絶対見つかると思うわ、その、彼女」
「今日のとこはゆっくり休んだらええ。彼女のことは明日考えまひょ。わしも力貸すし」
その後もしばらく、釣りの極意の話とか、自前の畑の苦労話とか、ジョン爺さんの自慢話をひとしきり聞かされたが、印象に残ったのは、この島の猫の話だった。
「兄ちゃん、この島には猫が多いって話、聞いたやろ? 何でやと思う?」
晋平はしばらく考えてから分からないと答えると、「わしにも、分からん」とジョン爺さんは言った。
「そやけどな、こんな話があるねん」
ジョン爺さんが語り出したのは、ひと昔前の隣の島での話だった。瀬戸内海にはたくさんの島が点在していて、その中でも比較的大きな島がすぐ隣にある。そこには大勢の島民が住んでいて、その昔誰かが持ち込んだ猫が次々に盛りついて、みるみるうちに猫が増えていった。最初の頃は野放しにしていたが、やがて増えすぎた猫に台所を荒らされたり、漁果に手出しされたりするようになった。困った島民は、誰ともなく、子猫が生まれたのを見つけると、布袋にほうり込んで沖合まで船で運び、海に投げ込むようになったという。
晋平は特に猫好きというわけでもなかったが、この話はとても酷い話だという気がして、嫌な気持ちになった。
「こんな猫の話は、どこにでもあるらしいで。けどな、わしが思うにな、その子猫の入った袋のいくつかが、瀬戸内の流れに乗ってこの島に来たんちゃうかな。この島の人たちは昔っから優しいからな、袋の中の子猫たちを助けたんやと、こう思うのやがな。そいで、ここにも猫が住み着くようになったんちゃうかな。そうは思わんか?」
そうは思わんかと言われても、初めて来た島だしなぁと思ったが、そうかも知れませんねと答えておいた。
その晩、部屋で眠っていると、何処からか自分の名前を呼ぶ声がした。
「晋平、晋平」
はて、こんなところで俺の名前を知っている人等居ないはずだが。あっ、もしかして美沙子じゃないか? 晋平は慌てて布団から飛び起きた。もう声は聞こえなかったが、なんとなく外で人の気配がするような気がして、寝小屋の下駄をつっかけて外へ出た。深夜二時をとっくに過ぎた頃合いだが、月灯りでぼんやりと周囲の様子が伺える。通り側だろうか。いや、裏だな。晋平は直感的にそう思った。寝小屋の左側に、裏へと抜ける小路がある。そこから浜の方へと出られるようだ。薄暗い小路を晋平は、ジーンズのポケットに入っていた携帯のディスプレイを灯り代わりに、足元に注意して恐る恐る進んでいった。
浜は寝小屋のすぐ裏にあるわけではない。すぐ裏にはジョン爺さん自慢の畑があり、その向こうにはこんもりとした雑木林がある。低木や雑草の鬱蒼とした茂みの小路をすり抜けてしばらく進むと、波の音がくっきりと聞こえてきて、足もとが盛り上がった土手の様相を見せた。雑草で覆われた盛り上がりを越えると小さな崖になっていて、ようやくそう広くはない砂浜に出た。晋平は一段低くなっている足もとに気づかず、あわや足を踏み外しそうになったが、なんとか砂の中に下駄の先を突っ込むことが出来た。
ザザーッ。
ザザーッ。
穏やかな波の音。淡い月の光でかろうじて水面は見えるが、その上から空に向けては恐ろしいほどの暗闇。ずーっと向こうには宝伝あたりの岸があるはずだが、田舎の事とて、こんな深夜には灯り一つない。
つい勢いで暗い小路をここまで来てしまったが、本当に声がしたのだろうか。美沙子かも知れないなんて思ったが、美沙子が一人でこんな恐ろしげな海岸にいるわけがない。何でこんな夜中にここに来てしまったのだろう。今頃気がついても仕方がない。晋平は真っ暗な海の方に目を凝らしてみた。何も見えない。何かがいるはずもない。いや、待てよ。よくよく目を凝らしてみると、水面の上に何かがいているような気がする。
それは、最初は白い小さな蛾のように見えた。ふわふわと宙に浮いているような、水面を漂っているような。白く見えるのだが、それでいて光を放っているわけでもない。小さな蛾は次第に大きさを増し、のようにも思えてきた。近づいて来る。晋平はやっとそう悟って身震いしたが、どうしたことか体が強ばって動かない。今すぐにでも踵を返して寝小屋に逃げ帰りたいのに、脚がすくんで動けない。
今までこんなに怖い経験はしたことがない。みんなが見たことがあると騒ぐような未確認飛行物体も、ですら自分の目では確認したことがない。だが、きっとこんな感じなのだろうな、不思議恐怖体験というものは。しかし、近づいて来るあれはいったい何なのだ? 俺は恐ろしいものにとりかれて食われてしまうのだろうか。白い人影は、近づくにつれて速度を増しているようで、レールの上を移動するカメラのようにするするっと近づいて来る。猫くらいの大きさだったそれはやがて中型犬くらいの大きさになり、人間より一回り小さいほどの大きさとなって、晋平が立つ浜の直ぐ前の水面に浮いている。
猫だ。晋平は思った。いや違う。人間だ。それも違う。何かの図鑑で見たことがあるもの。そう、あれはメトロポリタン・ミュージアムで見た。確か古代エジプトの女神像だ。
バステト神。猫の頭をした古代エジプト神話の女神。太陽神ラーの娘で、豊穣と月を司り、エジプトのブバスティスという町の守護神だったという。エジプトの伝説では、最初は獅子の頭を持つセクメトという女神だったが、異常なほどの激情の持ち主で、激情が故に多くの民を惨殺するという行為を繰り返していた。これを見かねたエジプトの神々は太陽神ラーに、娘をなんとかするように進言したが、もはや親であるラーの手ですらセクメトの激情を抑えることが出来ない。そこで神々は一計を講じて、薬草を混ぜたビールでセクメトを眠らせ、酔って眠っている間に、セクメトの内面に潜んだ憎しみの感情を取り除いたところ、バステトという新たな女神に生まれ変わったのだという。
晋平は、そんなエジプトの伝説など知る由もないが、とにかく美術館で見たことのある猫人間とも言うべき女神にそっくりだということだけはわかった。
先ほどまでは体中の震えが止まらなかったのに、気が付けば平常心に戻っていた。怖れの気持ち等、微塵もない。目の前の水面に浮かんでいるバステトが晋平をじーっと見ている。ザザーンという波の音が途絶え、無音の世界。晋平自身も宙に浮いているかのような錯覚。かすかな潮の香りの中に、どこか懐かしい匂い香りが混じっている。香水? いやこれは、、ムスクの匂いだ。時おり美沙子がこんな匂いのコロンをつけていたのではなかったか。頭の中で声がした。
「晋平」
それは紛れもなく猫の顔をしたバステトから発せられた声だった。
「いけません」
聞き覚えのある声。だがどこかこの世のものではないような響き。
「連れ戻してはなりません」
み、美沙子? その声は彼女の声に違いない。
「一人でお帰り……なさい……」
なんだって? 何故なんだ。。
そう言うとバステトの輪郭がぼやけ始めた。待って。消えないでくれ。晋平はそう叫ぼうとしたが、声が出ない。美沙子、待て、いったいどういう事なんだ。遂にバステトの姿は暗闇と見分けがつかなくなってしまった。
気がつくと、寝小屋の客室に敷かれた布団の中にいた。あたりはすっかり明るくなっていて、夕べの暗闇が嘘のようだ。夢だったのか。晋平はまだ寝ぼけた頭の中を整理しながら、天井を見つめていた。足先にざらつきを感じたので、足元の布団をめくってみると、砂が少なからず散らばっていた。砂浜を歩いたまま寝床に入ったかのように。