七夕
ふと気が付くと、僕はどこか知らない家の中で立っていた。 目の前の大きな窓の外には真新しい木の匂いがするウッドデッキがあった。 ふらふらと僕は窓の外のウッドデッキに出ようと歩みを進めた。窓の前に見知らぬサンダルがあった。 オレンジ色の少し汚れた便所サンダルのようだった。 誰の物か、分からないが、外に出るにはそのサンダルを履くしかなかった。 少しためらったが、そのサンダルを履くというしか思い浮かばず、とりあえず、そのサンダルを履いて外に出てみた。 外は心地よい風が当たりを包んでいた。 空を見上げると太陽が沈みかけていた。今、この場所が何処かも分からず、季節や時間も分からなかった。どうして、ここに自分が佇んでいるのかも、何ひとつ分からなかった。無駄に考える事に疲れた僕は、ふと目の前に置かれた二脚のアウトドア用の椅子が目に入った。 どちらに座るか、迷いもせず右側に置かれた、青い椅子に座った。 椅子に座った僕は、背もたれに体を預けて、空を見上げた。 夕陽はさらに沈んで、空はスポイトで墨を垂らしているみたいに、少しずつ、夕闇にな
っていった。その様子を僕は飽くことなく、ぼーっと空を見上げ続けていた。 すると、家の中から、声がした。どうやら、僕を呼んでるようだ。 僕は空を見上げながら、え、なに?とにという文字の後を横棒二本分伸ばした、幾分か間の抜けた返事をした。開け放たれた窓の前に、見知らぬ女性が立っていた。 その女性は身長が僕の胸くらいしかなく、ぽっちゃりした、少し茶色がかった目をクリクリさせた女だった。 その女は僕に向かって『はい、ビール』と言って二本の缶ビールを差し出した。その缶ビールは見たことがないビールだった。 それどころかそれがビールなのかも分からなかった。女がビールといって差し出してきたので、あっこれはビールなんだと、頭の中で解釈しただけだった。僕は『うん、ビール』と言って、何となく二本の缶ビールを受け取った。 女はビールを渡すと、窓に片手を支えとして預けて、ウッドデッキに置いてあったサンダルを突っかけた。サンダルは水色の小さな女性らしいサンダルで女にとても馴染んでいた。 『さっきからジロジロ、何サンダルを見てるのよ』と不審そうな顔で女は言った。
『いや、何かそのサンダルが・・・』と僕が言い澱んでいると、『ねー虫でも付いてるの?』と今度は目をクリクリさせて、少し怒った顔で女は言った。『いや、違うんだ、何かとても似合ってるからさ』と少し伏し目がちに僕は言った。 『もー、なんで、今頃そんな事言うのよ、六年前に島に旅行に行った時に買ってくれたでしょ』とため息まじりの呆れた顔で僕に呟いた。『そうだ、そうだったよね、うん、確かそうだ』と僕は慌てて、言った。そう言われるとそんな事実があるんだとぼんやり思えてきた。『ねぇ、座っていいかな?さっきから立ちっぱなしなんだけど』と女は僕に向かってまたため息まじりで言った。『どうぞ、どうぞ』と、顎をしゃくって、僕の右側にある赤いアウトドア用の椅子を勧めた。さっきから座る人がおらず、待ちぼうけを食らわされていた、その椅子は女が座ると、初めて存在意義を果たしたような佇まいになった。 ビールのひんやりした感触を両手に感じている事に気付き、片方の缶ビールを女に差し出した。 女は無言で受け取り、プルトップを開けた。プシューと炭酸が外に放出され、爽快な音と共に、缶ビールを恭しく、
肩の高さまで上げた。そして、乾杯と缶ビールに語りかけるように言った。 その様子を見ていた僕も慌てて、開けてない缶ビールを掲げ、乾杯と言った。『とりあえず、ビール開けちゃいなさいよ』と女は僕の缶ビールを見つめながら言った。 僕は頷くと、プルトップに指を掛けて、缶ビールを開く瞬間を見ていた。缶ビールを口に持って行き、飲もうとした瞬間、僕は考えた。僕はビールの味がどんなものなのか知っているのか? ビールを飲んでいたっけかな?と思い起こした。 答えは出せなかった。記憶がない。 開けた缶ビールをまじまじみていいた。『ぬるくなるよ、ビールが』と女は言うと矢継ぎ早に缶ビールを飲んだ。 その旨そうに喉を鳴らして、飲む姿を羨ましく僕は思った。 女は缶ビールを飲みながら、目で僕に早く自分も喉を鳴らして、飲んでみなよと言っているようだった。僕はビールの味など覚えちゃいなかったが、僕は多分、ビールを飲んだ事があるのだと思うしかなかった。再び、ビールを口に持っていき、喉に少しずつ流し込んでいった。 喉に流れ込んだ液体は喉の至る所で沖網漁の漁師が網を投げて
るみたい広がって行った。『うまい』とぽつり、僕は呟いた。 女は当たり前でしょという顔で僕を不思議そうな顔で見た。 人心地がついた僕は、女の顔をじっくり見た。さっきから女の顔を見てるが、正直、見覚えがなかった。だが、女は僕を知ってる事は間違えなかった。 その事を相手に聞いて、見たかったが、流石にそれは躊躇われた。 少し、僕は考えてみた。 僕は兄弟がいないから、姉や妹ではい。友達か、彼女がはたまた、妻なのか、そこれぐいしかないはずだ。しかも、この家やここはどこなのだ? 分からない事だらけだった。相手の名前も当然、分からなかった。今度は僕について考えてみた。しかし、それについては、かなり驚いた。 何故なら、自分の名前以外、何ひとつ思い出せなかったからだ。名前は北村太郎。え?本当にそれ以外は分からなかった。 年や身長、体重、それどころか、自分の顔の造形さえ、分からなかった。 そんな不安をよそに、目の前にいた女が僕を見つめていた。『太郎ちゃん、どうしたの?何か変だよ』と不安げな顔で僕の顔を覗き込んできた。 『ううん、なんでもな
いよ』と言うのが僕には精一杯だった。僕はなんとか場を繋ごうと、『今日は何日だっけ?』と当たり障りのないどうでもいい事を言った。 『今日?7日、7月7日だよ、忘れちゃったの?』といたずらっ子ような顔で僕を見てきた。 『7月7日、ということは七夕だね』と僕はまたどうでもいい事を言った。『うん、七夕だよ。大切な日だもんね、一応。』と女は照れを隠すように、うつむきながら僕に囁いた。 僕は今度は、7月7日、七夕について、考えてみた。七夕は確か、一年に一回、離れ離れになった彦星と織り姫が出会う日、そんな事くらいしか知らなかった。とても、そこに大切な思い出があるなんて、何にも覚えてない。すると、『やっぱり今の太郎ちゃんには無理か』と突然、女は訳知り顔で言った。『え?何か、知ってるの?』と言い、僕は女に詰め寄った。 『んー。知ってるもの何も私達は夫婦で、今日は結婚記念日なんだよ。』と自慢気な顔付きで女は言った。僕は混乱と不安で、思考停止状態になっていた。 『あっそろそろ帰らなくちゃね』と女は母親ように諭すように言った。『どこに?』と僕は思考停止の渦から何とか
顔だけを出して、僕は声を振り絞った。女はそれに答えず、空を見上げた。 僕もそれに習い、空を見上げた瞬間、僕はまたまた思考停止状態に入りそうだった。 何故なら、さっきまで夕闇だった空が、いつの間にか、朝陽が登る真際の夏の爽やかな早朝の空だったからだ。空を見上げたままの女が、『ね、分かったでしょ。もう帰らないと』と困ったような声で言った。 僕は女の方を向いて、『やっぱり分からないよ僕には』と尋ねた。 『七夕だから、私と太郎ちゃんは出会えたの』と女は先生が生徒に問題を投げかけるような優しい微笑みで語りかけてきた。僕は無言で頷き、納得するしかなかった。『それじゃ、目をつぶって、』と僕の目を見ながら、女はまた優しく言った。僕は目をゆっくり、つぶった。 『次に目を開ける時は、元の場所に戻っているからね』と女は少し寂しそうに言った。 『バイバイ、太郎ちゃん。また逢おうね』と今度は、うって代わって、明るく、最初の女の口調に戻っていた。 僕は薄れいく意識中で、今更ながら、女の名前を聞かなかった事を後悔していた。 それからどれくらいたったか分からな
いが、夢現の中に僕はいた。 その意識の中で、遠くで僕の名前を呼ぶ声がした。 太郎、太郎と確かに、僕を呼ぶ懐かしい声がした。 少しずつ、目の薄皮を剥がすみたいに僕は目を開けていった。僕はどうやら、木のベンチで仰向けに寝ていた。 僕に声を掛けてきたのは短い髪の毛を、白いつばの大きい帽子ですっぽり隠すいつもの母であった。 『太郎、随分寝たわね、疲れちゃった?』と優しい顔で聞いてきた。『ううん、疲れてないよ。それより、何か楽しい夢を見てた気がするんだ』と僕は必死に今、見た夢を思いだそうとしていた。 『どんな、夢だったの?』と母は満面の笑みで聞いてきた。『んー。覚えてないや、とにかく、楽しい夢だったよ』と僕は思い出せない悔しさより、楽しかった気持ちを大切にした。『じゃあ、そろそろ帰りましょう。帰ったら、七夕様に短冊書かないとまだ書いてないでしょ』と母は眉毛を寄せて、少し困った顔で言った。それを聞いた僕は何か七夕に関係があった夢だったような覚えがあった。 しかし、母がなおも帰るのを急がせたため、記憶の尻尾は僕の手をすり抜けていった。僕は母に手を
ひかれながら歩いた。ふと後ろを振り返ると、木のベンチの奥には、交通公園があった。そこで僕はさっきまで母に見守られながら、車のミニカートや10メートルくらいある高さのレールの上を自転車で漕ぐ遊具などで遊んでいた。もう夕方になろうとしていたからか、公園で遊んでいる子はほとんどいなかった。一番手前のブランコに、揃いのピンクのオーバーオールを着た、僕より少しだけ幼い姉妹が二人だけでいた。 怖がる妹をブランコに乗せ、髪の短い、ボーイッシュな感じの姉の方がゆっくりとブランコを押した。妹の三つ編みが少しずつ風に揺れていた。『くーちゃん、怖くないよ、ちゃんと持ってるからね、大丈夫だよ』と姉の方が優しく、怖がる妹を諭していた。『みっちゃん、しっかり持っていてね』と妹は姉に頬をこわばらせながら頼んでいた。 少しずつ離れていったが、僕はその姉妹の姉と目があったような気がした。 ボーイッシュな姉は目が合うと、茶色の目をクリクリさせて、口元だけで笑顔をつくっていた。僕も口元だけで笑おうとしたが、うまくいかず、手を振った。彼女は気づかなかったのか、手を振り替えしてはくれなかった。
でも、僕はいつまでも、その彼女の笑顔が頭から離れず、母に帰り道に話しかけられても上の空だった。 【終】