持たざるもの ー借金魔術士と恐るべき子供たちー
ペトラ・イロ・ヨルマは、持たざるものであった。
まず金がなかった。魔術店の奥に積まれた空瓶の山と、引き出しに詰め込まれた未払いの請求書、それに今まさに底を見せている財布。証拠としては十分だった。
次に信用がなかった。王都ミクチュアの金融屋はもちろん、裏通りの金貸しに至るまで、ペトラの名は例外なく帳簿の赤字欄に刻まれている。いや、刻まれていた、が正しい。今はもう帳簿にすら載らない。最初から関わらない、というのが共通見解だった。
最後に、そしてこれが一番厄介なのだが、彼女には反省がなかった。
「……まぁええか」
濃い緑の髪を無造作にかき上げ、ペトラは瓶の口を傾けた。乱れた髪の隙間から覗く三白眼だけが、不釣り合いなほど鋭く光っている。細い体を椅子にだらしなく預け、足を組み替える。乾いた最後の一滴が、喉を落ちていった。
「終わりかぁ」
空瓶が机の上で虚しく転がった。
店はひどい有様だった。壁は煤け、棚は傾き、床には乾ききらない薬品の染みが広がっている。客用の椅子は三脚あるが、まともに使えるのは一つだけ。残りは折れているか、座ったら最後、次に立つ保証がない。
だが、それでも客は来る。
今のところは、来ていない。
「……暇やな」
ペトラは天井を見上げた。
昔いた、息苦しい場所のことを思い出すことは、ほとんどない。というより、思い出す意味がないと理解している。血筋だの義務だの家名だの、そういう重たいものは、だいたい腹の足しにならない。
なんやかんやで、今の方が楽だ。
金はないが。
「まぁ金はある時だけあればええねん」
自分で言って、自分で頷く。
直後に腹が鳴った。
「……あかんやん」
空腹は無視できない。酒で誤魔化せる範囲を超えている。ペトラは店内を見渡した。売れそうなものはない。というか、あったらとっくに換金している。
そのとき、扉が軋んで開いた。
「いらっしゃい……って」
覇気のない声が途中で止まる。
「……なんや、カスか」
入ってきたのは見慣れた顔だった。
埃っぽい店内に不釣り合いな、白に近い灰のコート。乱れ一つない銀髪と、感情の乗らない目だけが、場違いに整っている。店の煤けた空気が、彼の周りだけ避けているように見えた。
ゴールディ・ペイジ。
この世界で今現在、唯一ペトラに金を貸す男であり、間違いなく一番関わってはいけない類の人間でもある。
「誰がカスだ、債務者。客だぞ」
「景気悪そうな客やなぁ」
「債務者の店よりはましだ」
ゴールディは店内を見渡し、鼻で笑った。
「前より悪化してるぞ」
「細かいこと言わんといてや」
ペトラは棚から構成安定剤を二本、回復薬を二本、ひびの入った護符を一枚取り出し、乱暴に投げた。
「ほれ、いつものや。早よ、金」
ひらひらと出された手を、ゴールディはゴミでも見るような目で見下ろした。
「借りた金も返さず、いいご身分だな。代金は利子に充てる」
「あほな! ウチ餓死してまうで。昨日から酒しか飲んでへんのや。赤子の頃におしめ変えたった恩、忘れたんか!」
「酒飲む金はあったんだろ。恩はとっくの昔に利子で相殺してる」
ペトラは大袈裟にしなだれかかり、次の瞬間、ぱっと表情を変えた。
「せや、ゴル坊。金貸してぇな」
「急に気色悪い声を出すな。仕事ならある」
「金は?」
「飯代は出る」
「聞こか」
「城壁外まで来い」
「嫌や」
「安い肉も付ける」
「行こか」
「変わり身が早いな」
「肉なんて何ヶ月ぶりやろなァ」
ペトラはゴールディを完全に無視して、引き出しの奥から黒ずんだ金属ケースを引っ張り出した。
蓋を開けると、暗い赤色の玉が三つ、音もなく転がった。
ゴールディの眉が動く。
「それで最後か」
「あん? 最後や」
「補充しろ」
「腹減ってんねん。質が落ちる」
ペトラはケースを腰の袋へ放り込み、最後に空の瓶を一本つかんだ。
「それは何だ」
「武器」
「酒瓶だろ」
「割ったら武器や」
ゴールディはため息をついた。
「行くぞ」
「飯は?」
「終わってからだ。早く歩け、債務者」
ペトラは小突かれながら外套を羽織り、夜のミクチュアへ出た。
◆
城壁外の夜は、街の内側より少し冷たかった。
内側では魔灯が眠らず、白い石畳が整然と続く。曲がる道さえ、曲がる理由を持っている街だった。外側にあるのは、岩と裂け目と乾いた風だけ。遠くにそびえる円筒の城壁には淡い魔術紋章の光が走り、巨大な影が夜空を切っている。
「ほんま、ろくでもない街やな」
「世界の中心だぞ」
「中心が一番腐りやすいねん」
現場には治安機構の制服を着た若い男が立っていた。灯具を抱え、二人を見るなり安心したような、逆に不安になったような顔をする。手袋の指先が、何度も胸元の護符を探っていた。
「外部委託の方ですね」
「せや。外部や。できれば内側に戻りたい」
「ええと、鎮術士のゴールディ・ペイジ氏と……」
担当官の視線がペトラで止まる。
「……本当に、この方が?」
「このお方や」
ペトラは片手を上げた。
「安くて早くて信用ない。よろしく」
「不安しかありません」
「正直でよろしい」
ゴールディは地裂溝の方へ目を向けた。
「回収物の扱いは、治安機構が決めるのか」
担当官は首をかしげた。
「回収物、ですか」
「異常物が出た場合の話だ」
「通常は、治安機構が封印し、必要に応じて連盟へ照会します」
「所有権は」
「所有権……?」
ペトラが横目でゴールディを見た。
「おい、カス。金の匂い嗅ぐん早ないか」
「確認だ」
「犬か。銀色の犬か」
「お前にだけは言われたくないな、債務者」
担当官は二人を交互に見たあと、小さく咳払いした。
「それで、調査内容ですが」
「聞いてへん」
「聞いていないんですか」
「飯代が出ることしか聞いてへん」
「……赤子の泣き声です。少なくとも、聞いた者は皆そう言います」
ペトラの眉が、ぴたりと止まった。
「どこで」
「あちらの地裂溝です。夜になると底から聞こえると。聞いた作業員が、翌日から近づかなくなりまして」
「人が寄らんようになってから調査かいな。仕事が遅いわ」
「怪談扱いでしたので」
「怪談ならもっと嫌や」
その時だった。
夜の奥から、細い声が聞こえた。
おぎゃあ。
担当官の肩が跳ねる。
おぎゃあ。おぎゃあ。
赤子の泣き声に似ていた。似すぎていた。風鳴りと呼ぶには湿っていて、獣の声と呼ぶには人に近い。
ペトラは黙って耳を澄ませた。
赤子の泣き声は嫌いだった。
本物でも、偽物でも。
ああいう声は、いつも誰かに都合よく使われる。
「泣いとるんちゃうな」
ゴールディが目を細める。
「何だ」
「数えとる」
「何を」
「自分の数や」
地裂溝は、すぐ先にあった。
大地が黒い口を開けたような裂け目だった。灯具を近づけても底までは見えない。縁には古い保守柵があるが、半分ほど倒れている。
ペトラはしゃがみ、地面を指でこすった。指先についた泥を鼻に近づける。
「馬鹿の仕業やな」
「分かるのか」
「高い薬を、安う捨てた臭いや」
担当官は青ざめた。
「ここは外壁保守区域です。不法投棄など」
「しとるやつに言えや」
ペトラは地裂溝を覗き込む。暗がりの奥で、虹色に濁った液体がわずかに光っていた。壊れた処理槽らしき破片も見える。
ゴールディが担当官へ言った。
「この区域に出入りした工房の記録は」
「確認します」
「後でいい。消される前にな」
「消される……?」
「債務者、続けろ」
「命令すな、カス」
ペトラは腰の袋から、暗赤色の玉を一つ取り出した。
「使うのか」
「一個だけや。あとで請求する」
「債務者のだろ」
「ウチのもんは高いねん」
ペトラは赤い玉を指で弾いた。
玉は地面に落ちる前に砕けた。乾いた結晶のはずなのに、欠片は赤い液体となって空中に散り、細い線になって岩肌を這い始める。
担当官が息を呑んだ。
「血……?」
「見るだけにしとき。触ると機嫌悪なるで」
血は、魔力の流れだけを選んで這った。
赤い線は地裂溝の縁をなぞり、途中で止まった。赤い線に触れられた岩肌が、傷跡のように光る。ペトラはそれを円にしなかった。欠けた線の一画だけを血でなぞる。
すると、死んだはずの古い魔法陣が、嫌々ながら目を開けた。
「何だ」
「保存陣やな。死にかけやけど」
「何を保存していた」
「知りたくないわ」
「知る必要があるだろ」
「ほな、カスが覗け」
「断る」
「ほらな」
底の闇で、何かが動いた。
おぎゃあ。
今度は近い。
闇の中から、白いものがふわりと浮かび上がってきた。
短い円柱だった。
胴体の前に、赤子の顔がついている。手足は短く、飾りのようにぴこぴこと動いていた。地面を歩かず、夜風に逆らうように浮いている。蝋細工めいた白い皮膚の下に、赤い筋が薄く透けて見えた。
目だけは赤子のように潤んでいた。
口の中だけが、獣よりも正直だった。
にたり、と笑う。
針のような鋭い歯がびっしり並んでいた。
「な、なんですか、あれ」
「古いやつや」
「古い、とは」
「赤子の顔しとる兵器なんぞ、まともな時代のもんちゃう」
白い胚が、音もなく歯を鳴らした。
かちかちかち。
その音が地裂溝の壁に反響し、泣き声のように歪む。
担当官の手が胸元の護符へ走る。
「撃つな。術で刺激したら」
護符が光った。
ペトラの舌打ちより早く、小さな炎が飛ぶ。白い胚に当たり、胴体を焼いた。
赤子の顔がぐしゃりと歪み、落ちる。
次の瞬間、焼けた肉片が二つに分かれて浮かび上がった。
赤子の顔が二つ。
どちらも笑っている。
担当官の顔から血の気が引いた。
「……増えた」
「せやから言うたやろが! あんたの耳、地裂溝に捨ててきたんか!」
「す、すみません、反射で」
「反射で古代の厄ネタ増やすな!」
二体の赤子もどきが歯を鳴らす。
かちかちかち。かちかちかち。
顔は違う。焼け跡も違う。だが、歯の鳴る間隔だけが完全に同じだった。
底に溜まった廃棄物から魔素が吸い上げられ、白い皮膚の赤い筋が濃くなる。二体が四体に分かれた。四体が八体に。
増えた顔のどれもが、初めからそこにいたように同じ笑みを浮かべていた。
ゴールディはまだ動かない。
「見とるだけか、依頼受けたんカスやろ」
「処理するのは債務者だ」
「最低限の下請け以下やな」
八体の赤子もどきが空中に並ぶ。ただ浮いているのではない。輪を作っている。
ペトラの顔から、だらしない笑みが消えた。
「まずい。数で陣を組む」
「魔法陣か」
「生き物の顔した魔法陣や。趣味悪いにも程がある」
歯鳴りが重なる。
かちかちかちかちかちかちかち。
それはもう泣き声ではなく、詠唱だった。白い胚の群れが円環を作り、互いの赤い筋を共鳴させる。地裂溝の壁に残る保存陣が、赤黒く明滅した。
地裂溝の底から、見えない糸が城壁へ引かれたようだった。
遠く、ミクチュアの城壁に走る光が一瞬だけ乱れる。
「外壁の防護陣が……」
担当官が震える。
「見たら分かるわ!」
ペトラは二つ目の赤い玉を砕いた。
血が線になる。地面を走り、地裂溝の縁から底へ、底から壁面へ、壁面から空中の円環へ伸びる。
赤い線は円環に触れた瞬間、油の上の水みたいに弾かれた。
「ちっ」
「無理か」
「血がない」
「生物だろう」
「血の代わりに魔素が回っとる。似とるけど滑る」
空中の輪が、さらに大きくなった。赤子たちの歯鳴りが、城壁の光を揺らす。
ペトラは最後の赤い玉を取り出した。
「手伝えや、カス」
ゴールディの眉が動く。
「債務者一人で足りるだろ」
「足りる。けど、カスの手ぇ借りた方が早い」
「つまり、足りていない」
「帳簿に屁理屈載せるな、カス。下を押さえろ」
ゴールディは舌打ちし、白い手袋を外した。
「追加料金だ」
「赤子に請求し」
「払わんだろうな」
彼の指先が地面に触れた。
石が石であることを思い出したように、沈黙した。
地裂溝の縁を走る細かな亀裂が、ぴたりと止まる。岩が重く沈み、風に揺れていた砂粒まで、その場に縫いつけられたように静止した。乾いた草の先端さえ、音を失う。
鎮術。ものの流れを沈め、重さで動きを殺す魔術。
空中の赤子たちが作る輪が、わずかに下がる。歯鳴りの間隔が乱れた。
「長くは持たん」
「それでええ。持たせたらカスやない」
「褒めているのか」
「罵っとる」
ペトラは最後の玉を口に放り込み、噛み砕いた。
赤い結晶が歯の間で割れ、唇から血が垂れる。さらに、自分の指先を噛み切った。流れた血は地面に落ちず、細い糸となって空中に伸びる。
担当官が目を見開いた。
「あなた……ヴァンパイア……」
「せやで。今なら握手はやめとき。血ぃ足りんから噛むかもしれん」
ペトラの目が赤紫に光った。
夜気が冷える。
彼女の血が、一本の線になる。細く、赤く、頼りない。それが赤子たちの作る円環へ紛れ込もうとする。
「赤子を起こす陣なんぞ、昔からろくなもんやない」
「昔?」
「百年以上生きとったら、大抵の嫌な音は二回聞く」
血の線が円環へ触れた。
今度は弾かれなかった。
赤子もどきの顔が、一斉にペトラを見た。
泣いているようにも、笑っているようにも見える。針のような歯が開き、全員が同じ呼吸で息を吸った。
ペトラの血の線が、ぐい、と引かれる。
「っ」
細い腕の血管が浮いた。唇から血の色が消える。
円環が、ペトラの血を食い始めていた。
「おい、債務者」
「分かっとるわ!」
赤子たちの体が膨らむ。白い皮膚の内側で、ペトラの血が細い根のように広がっていく。
八体が十六体になりかけた。
地裂溝の底で、眠っていたものが、さらに身じろぎする。
ゴールディの指先に罅が走った。皮膚ではない。彼が押さえ込んでいる地面の方だった。重さを与えられた岩が、その重さに耐えきれず、低く軋む。
「早くしろ。底が抜ける」
「急かすなや。食われながら針に糸通しとんねんぞ」
「失敗したら肉はなしだ」
「今それ言うか、カス!」
ペトラは笑った。
ひどく薄い、血の気のない笑みだった。
「起動、分裂、摂食……うるさいなぁ。赤子のくせに注文多いわ」
赤子もどきがさらに血を吸う。
ペトラの膝が折れかけた。
その瞬間、ゴールディが地面を叩いた。
鎮術が一段深く沈む。
石が沈み、風が沈み、歯鳴りさえ一拍だけ重くなった。
ほんの一拍。
だが十分だった。
ペトラは自分の血を、食わせたまま裏返した。
赤い線が円環の内側でほどける。血ではなく、血の形をした枷になった。赤子たちの体内を走る魔素の流れに絡み、分裂の命令だけを掴んで潰す。
「寝ろ、クソガキども」
ペトラの三白眼が、赤紫に燃えた。
「百年早いわ」
赤い線が円環を貫く。
増えようとしていた輪が、ほどける。
食らおうとしていた赤い筋が、閉じる。
起きかけていたものが、眠りへ落ちる。
歯鳴りが崩れた。かち、かちか、か、という壊れた音に変わる。赤子たちの顔から笑みが消え、まぶたが閉じる。
一体、二体、三体。
乾いた種のように、白い胚が地面へ落ちていく。
地裂溝の光が消えた。
城壁の防護陣も、何事もなかったように静まる。
ペトラはしばらく立っていたが、やがてふらりと揺れた。
ゴールディが腕を掴む。
「ペトラ」
「……名前呼ぶなや、ゴル坊。調子狂う」
ゴールディは答えず、腕を離さなかった。
「借金返してから死ね」
「ほんま金のことしか言わんやつやな」
「肉は?」
「報酬次第だ」
「今の見て肉出んかったら王都滅べ」
担当官は眠った白い胚の群れと、地裂溝と、ペトラを順番に見た。
「あの……これは、報告書にはどう書けば」
「夜間異音。処理済み」
ゴールディが即答した。
「古代生物兵器らしきものが」
「らしき、で止めろ。報告書が死ぬ」
「王都の外壁も一瞬揺れましたよね」
「軽微や」
「軽微……」
担当官が地裂溝の底へ視線を落とす。壊れた処理槽の破片と、眠った胚珠を見分けようとしているらしい。
ペトラは地面に座り込んだまま、低く言った。
「なぁ、カス。わざわざこの怪談話、なんで受けたん」
「飯代が出るからだろう」
「ウチの飯代で動くほど安ないやろ、カスは」
ゴールディは答えなかった。
ペトラは、乾いた白い胚珠のように転がるものへ目を向ける。
「最初から、回収物の所有権なんぞ気にしとったな」
「確認だと言った」
「知っとったやろ。起きとるとは思わんでも、未覚醒の胚珠くらいは残っとるかもしれん。そう踏んだんやろ」
「仮定の話だ」
「欲しがる連中には、ええ値がつきそうやもんな」
ゴールディの銀色の目が、ほんの少しだけ細くなった。
それが答えだった。
「やめとき、ゴル坊。連盟もアホちゃうで。古い兵器の胚珠なんぞ、下手に動かしたら臭いが残る。金で帳簿は消せても、魔素の足跡は消えへん」
「忠告か」
「ちゃう。カスが危ない橋から落ちたら、ウチの飯代の出所が減る」
「貸しているのは俺だ」
「細かいこと言うなや、カス」
ゴールディは小さく息を吐いた。
「今回は、見送る」
「今回は、な」
「しつこいぞ、債務者」
「最低やな、カス」
「褒め言葉として受け取る」
「受け取るな」
ペトラは座ったまま、担当官へ片手を上げた。
「あと不法投棄。上の工房や。底の処理槽拾っとき」
「あなたは」
「嫌や。服汚れる」
「今さらか」
◆
夜明け前、二人はミクチュアへ戻った。
街は相変わらず完璧だった。白い街路も、整った建物も、遠くの魔灯も、何ひとつ乱れていない。誰も、城壁の外で赤子の顔をした何かが増えかけたことなど知らない。
店に戻るなり、ペトラは椅子に倒れ込んだ。
「飯」
「精算だ」
ゴールディは帳簿を開く。
「差し引きで、借金は増えた」
「なんでやねん、引いて増えたらおかしいやろ!」
「血玉を作り直すための食費と薬代だ」
「ウチの飯代やろ!」
「必要経費だ」
「食事に利息つけるな、カス!」
その頭の横に、硬貨が数枚置かれる。
ペトラが片目だけ上げた。
「なんや」
「飯代だ」
「帳簿は?」
「つける。借りるんだろ?」
「つけるなや!」
「冗談だ。食って寝ろ。次の血玉が作れん」
「結局、血目当てやんけ」
「資産管理だ」
「気色悪い言い方すな、カス」
ペトラは硬貨を掴み、のろのろと立ち上がった。
「肉食う」
「安い店にしろ」
「肉は肉や」
扉を開けると、朝の光が店の埃を照らした。
ペトラ・イロ・ヨルマは金を持たない。信用を持たない。反省も持たない。
けれど、その朝だけは、飯代を持っていた。
十分だった。
今のところは。
お読みいただきありがとうございました。
創作の励みになりますので、感想・評価をお願いします。
今回は、金も信用も反省もない魔術士ペトラと、金勘定で人情を処理しようとする魔術士ゴールディの短編でした。
舞台は完璧すぎる王都ミクチュア。
その外側で聞こえる赤子の泣き声、という怪談めいた入口から、酒臭い借金女が血で魔法陣を縫う話になりました。
ペトラはかなりろくでもない人物ですが、ろくでもないなりに現場では頼れる女です。
ゴールディもだいぶカスですが、カスなりに仕事はします。たぶん。
この二人はまた、別の怪しい下請け仕事や、帳簿に載せてはいけない厄介事に巻き込まれる気がします。
少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
お気に召した方は、他の短編『続きそうな短編集』もぜひ、ご一読ください。




