一章
広い、それはもう広い部屋の中で私はスーツに身を包んでいた。
この頃スーツを着る機会というのも中々なくって、どうしても私には狭苦しくて仕方がなく思えてしまった。
ただ、この苦痛もあともう少しで終わるのだと思うと少しだけ寂しくも思う。
その理由というのも、私の首元にかけられた黒いネクタイが物語っているのかもしれない。もしかしたら、これこそが私の悲しみだったのかもしれない。
よくテレビの中では笑顔での離別みたいなことがあるけれど、あれも結局のところこういった心だったのかなと思う。
何だか重苦しくて、もっと早く時間の流れることを祈るばかりで、この悲しさなんてものも誰を思ってのものか分からない。
ところで、随分と奥の方ではあるけれど、そこには沢山の花が山のようになっている。
白い花々の山は私にはとても綺麗なものに思える。
こういった景色も人が死んだからこそ見られる景色なのだろうけど、どうにも現実感のない、おかしな光景に思えてならない。
その花の山の下には、ただ一つの小さな棺がぽつんと置かれているのだけれど、この中の人のことを正直私はあまり好きじゃなかったと思う。
ただいざ死んでしまうとどうしようもないけれど、彼の顔が思い出されてしまう。
最近はもう彼との関わりはなかったけれど、生涯の終わり際には相当に苦労をしたらしいというのは噂で聞いたことがある。
それも先程古い知り合いが小さく話していたことなので、信用が出来るかというと違う。
何を言っているのかが全く分からないお経に、小さく泣いているふりをした。きっと私の周りにいる人も同じように泣く真似をしているだけだろう。
これが終わるとすぐに、葬式など存在しなかったように笑うことが容易に予想できてしまう。すぐに忘れてしまうのだろう。
ただそう考えていると、どうしようもなく涙が出てくる。
死んだ彼のことは確かに苦手であったが、かといって忘れられるかと言えばその限りではない。
彼の存在は私の人生に確かな、黒とも白とも言えない不思議なグレーの影を落としている。
それも本人が死んでしまったのだから、すぐに消えてしまうものだ。だから更に悲しく思ってしまう。
さて、葬儀が終わると各々が帰路へとついている。その中でどうにも葬儀場の前から去るのが憚られた。
これに何か理由がある訳ではない。ただ、駐車場で葬儀場の名前を何度も読み直していた。
何か読み直す中でその名前が変態して、私にまた何か新しいことを見せてくれるように思えたのかもしれない。
ただ現実にそんなことはあり得なくて、依然としてその現代的な名前を見せてくる。
夏の暑さでぬるくなった炭酸はどうにも飲む気にはならなかったが、ゆっくりと口をつける。
小さな痛みが私の喉を伝って、胃の中へと落ちていく。甘ったるい味は下の先に絡みついて離れなさそうだ。
先程も言ったように、私は何とはなしにここで立ち止まっていた。
これはもしかしたら、私が誰かを待っていたことを、無意識的に正当化していたのかもしれない。
道路に目を移すと、妙に長い黒い車が葬儀場の目の前を走っている。
あの中にはきっと彼がいるのだろうとなんとなく思う。その車は急いでいるように黒いアスファルトを走っていく。
空を眺めると、雲一つない快晴であった。
ただ、その色は水色から始まって青色、紺色と続いてどこまでも暗くなっていく。最後は名前も分からない。
アスファルトは熱く、もし私が涙を落としてもきっとすぐに乾いてしまうのだろう。そう考えると、今になっても彼が死んだことで涙を流せないことが、少しだけ許された気がする。
ペットボトルの気泡はゆっくりと昇って弾けてしまう。
そして、次に開いたときに空気に混じって、その行方なんて誰にも分からなくなってしまうだろう。今流す涙なんてものは、これと同じに思えてしまう。
だからこそ、より悲しくも思う。
涙の有無にかかわらずに、きっと後に残っているものは全部気の抜けたジュースのような、そんな一つの他愛無いものなのだろう。
そう。気の抜けたジュースだ。
ここで色々思うことはあったが、そのどれもがきっとそれと同種の一瞬のうちにしか存在できないものだったのかもしれない。
誰もがその事実を覚えていないようなことだ。
だからこそだろうか。今、私の中に一つの鮮明な記憶が蘇ってきた。
彼──今更ながら名前を、宮島ひとしという──との小さな夏の、どうでもよい出来事である。
純文初挑戦かもです。
暫くの間、お付き合いください。




