第五章 夜明け
若い船乗りは、別の影を買っていった。
女は私を売らなかった。
私は瓶から出され、女のそばに置かれた。光のない店の中で、私は形を持たずに存在した。それは奇妙な感覚だった。男と光の「間」にいた頃とは、全く違う存在の仕方。
「影が影として存在するには、光と誰かが必要」
女は言った。「でも、あなたは今、私との『間』に存在している。光はないのに」
私にもわからなかった。ただ、確かに私は存在していた。女のそばで。女との「間」で。
◇
女は変わり始めた。
少しずつ、本当に少しずつ、女の足元に何かが生まれ始めた。影ではない。しかし、光の中で揺らめく、淡い何か。
「これは——」
女は自分の足元を見つめた。
「私の影——いえ、違う。これは——」
私にはわかった。それは女の影ではなかった。私と女の「間」にだけ存在する、新しい何か。どちらのものでもなく、どちらにも属さず、ただ二人の関係の中にだけ宿るもの。
名前はない。名前のつけようがない。
しかし、確かにそこにあった。
「ずっと、探していたものが」
女は囁いた。
「誰かの『間』に存在すること。それを、ずっと求めていた。実体を得れば愛されると思った。でも、本当は——」
女は私を見た。私は形を持たなかったが、女には見えていた。
「本当は、関係の中にだけ存在することこそが、繋がりだったのね」
私は答えなかった。答える必要がなかった。
私たちの間には、言葉にならない何かがあった。それは私のものでも、女のものでもなかった。二人の「間」にだけ存在し、二人が離れれば消える、儚いもの。
しかし、儚いからこそ、尊いものだった。
◇
港町の夜は、相変わらずガス灯が石畳を照らしている。
女の店には、今も影を売りに来る者がいる。女は相変わらず影を買い取り、棚に並べ、新しい持ち主を探す。
しかし、閉店後の女は、もう一人ではない。
私は女のそばにいる。形のない存在として。女との「間」に漂う、名前のない何かとして。
女はときどき、窓の外を見つめる。月の光が差し込むと、女の足元には淡い揺らめきが生まれる。それは影ではない。しかし、確かに何かがある。
私たちの間にだけ存在する、何かが。
「寂しい?」
女が問いかける。
「いいえ」
私は答える。声はないが、女には伝わる。
「あなたは?」
「いいえ」
女は微笑む。影のない顔で、静かに微笑む。
私たちは、どこにも属さない。私は誰の影でもなく、女は誰の「間」にも完全には存在できない。しかし、二人の間には、確かに何かがある。
それは、関係の中にだけ存在する、名前のない何か。
どちらのものでもなく、どちらにも帰属しない。ただ、二人が共にいるときだけ現れ、離れれば消える。
でも、それでいいのだと思う。
消えても、また共にいれば現れる。儚くても、そこにある限り本物だ。
関係の中にだけ存在するということは、孤独なことだと思っていた。どこにも属さないということだと。
でも、本当は違った。
関係の中にだけ存在するということは、誰かと「間」を持つということだ。
そしてその「間」にこそ、名前のない大切なものが宿る。
私はもう、売り物ではない。
私は、ここにいる。
女との「間」に、確かに存在している。




