第一章 売り物
港町の夜は、ガス灯の炎が石畳を淡く照らす。
私は男の足元に伸びている。男が歩けば私も歩き、男が立ち止まれば私も止まる。それが私の存在のすべてだった。生まれてからずっと、私は男の影として在り続けてきた。
男は船乗りだった。若い頃は遠い海を渡り、見知らぬ港で珍しい品々を手に入れては売りさばいた。しかし今、男は年老い、船を降り、この港町の片隅で細々と暮らしている。
「もう売るものが何もない」
男は独り言のようにつぶやいた。私は黙って聞いていた。影である私に声はない。ただ、男の言葉を、男の人生を、ずっとそばで見てきた。
その夜、男は酒場で奇妙な噂を耳にした。
「影を買う女がいるらしい」
酔った船乗りが言った。
「馬鹿な。影なんぞ売れるものか」
男は笑った。しかし別の男が続けた。
「いや、本当だ。港の外れ、古い灯台の下に店を構えている。影を持っていけば、金貨と交換してくれる」
男の目が光った。私はその光を知っていた。何かを企むときの、あの目だ。
◇
翌日、男は灯台へ向かった。
石畳の道を歩きながら、私は奇妙な感覚に襲われていた。これまで、自分が「売られる」などと考えたことがなかった。私は男の一部だと思っていた。男がいなければ私は存在しない。それは当然のことだった。
しかし、売られるとはどういうことなのだろう。
灯台の下に、小さな店があった。扉には何の看板もない。ただ、窓から漏れる光が、不思議な色をしていた。白でも黄色でもない。影のような色——そんな矛盾した表現しか思いつかない。
男が扉を押すと、鈴の音が響いた。
「いらっしゃい」
声がした。店の奥から、一人の女が現れた。
私は息を呑んだ。いや、影に息はない。しかし、そう表現するしかない衝撃が走った。
女は美しかった。しかしそれだけではない。女の存在そのものが、どこか「ずれて」いた。この世界に完全には馴染んでいないような、奇妙な違和感。
そして何より——女には影がなかった。
「影を売りに来た」
男が言った。
「見せてもらいましょう」
女は男の足元を見た。つまり、私を見た。
女の目と、私の目が合った。影に目はない。しかし、確かに目が合ったのだ。女は私を「見て」いた。私という存在を、認識していた。
「立派な影ですね」
女は言った。「長い年月、この方とともにあったのでしょう」
男は不審そうな顔をした。影を褒められるという経験がなかったのだろう。
「いくらで買う」
「金貨五十枚」
男の目が見開かれた。それは大金だった。船を一隻買えるほどの。
「売った」
男は即答した。
私は——何も言えなかった。




