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「……ももちゃん?」
太郎さんが、視界の中でぼやける。
頬を、冷たいものが滑っていく。
胸の奥から溢れ出した叫びは、言葉になる前に砕けて
そのまま、目から零れ落ちた。
「太郎さん……私、太郎さんが……羨ましいです」
笑うつもりだった。
ちゃんと笑って、お兄ちゃんの話を聞こうって決めてたのに。
……無理だった。
止まらない。
涙が、どうしても止まらないんだ。
ごめんなさい、太郎さん。
困らせて……ごめんなさい。
今になって、輝く。
あの日々が。
もう二度と戻らない、あの日々が
遠い思い出だけが──
私には酷く、眩しかった。
失ってから気づくなんて、遅いのに。
どうして……。
どうして、今になって……!!
俯いた視界に映るすべてが、滲んで歪んで見えた。
そんな時、向かいにいた太郎さんの動く気配がした。
ゆっくり視線を上げれば、太郎さんは私の横まで来て、少し離れた場所に両膝をついた。
私はただ、彼が何をしようとしてるのかわからず、眺めていることしかできなくて。
次の瞬間──
太郎さんは、両手と額を床につけた。
私に……土下座を……。
「太郎さん、やめ──」
「すまなかった……!!」
遮る私の声を押し潰すように、太郎さんが叫んだ。
「お兄さんから君を奪ったのも、君からお兄さんを奪ったのも、全部俺だ……俺のせいなんだ……!!!」
張り裂けそうなその声は、胸の奥をそのまま曝け出したようで。
痛いほどに自分を責める声音。
過去の“何か”を、激しく悔やんでいるその姿。
こんなに大きな人が……
肩を小刻みに震わせて、頭を下げている。
その光景が、私から言葉を奪った。
「あの人は、俺の弟を……次郎を、命懸けで助けてくれた。次郎のために……命を、落としたんだ」
次郎……?
ジローさんを助けて、お兄ちゃんは死んだ……?
なぜ、そこに彼の名前が出てくるの。
私の好きな人の、名前が──。
ただ戸惑いと混乱に支配され、何も考えられなかった。
太郎さんの言葉が頭の中で何度も反響し、虚ろな目で宙を見つめることしかできない。
“次郎を助けて、命を落とした”
頭を下げ続ける太郎さんをぼうっと瞳に映していると……ずっと埋もれていた記憶が、ゆったりと目を覚ました。
そうだ……
あの時。
お兄ちゃんのお葬式の日。
参列者の中に、ひとりの若い男の人がいた。
お兄ちゃんと同じ歳くらいの。
『本当に……申し訳ありませんでした……!!!』
ただ一人、私たち遺族の席に向かって──
手と膝と頭を地面について、叫びに近い声でそう言った人。
全身全霊で、お兄ちゃんの“死”に謝罪を表した人。
今、彼と目の前の太郎さんが、重なった。
──あの人は、太郎さんだったんだ。
私は会っていた。
そうとも知らずに、この人と……会っていたんだ。
人が土下座をするということ。
それがどれほど重い意味を持つのか、完全にはわからない。
けれど、それがどれだけの決意と痛みを伴う行為かは、なんとなくでも理解できる。
それも太郎さんほどの人が、私なんかにここまでするのは……それだけ重要な意味があるんだと思う。
だから、聞かなきゃいけない。
彼が背負っている“罪の意識”を。
“奪った”と言った、“俺のせいだ”と言った……その意味を。
「太郎さん、顔を上げてください。そして、教えてください。お兄ちゃんと次郎さんに……何があったのか」
不思議と、私は落ち着いていた。
太郎さんはありったけの誠意を、示してくれた。
私にはそれが胸に迫るほどに、伝わったから。




