1章‐5
艦内にほっとした空気が広がり、特にブリッジ要員は肩の力が抜ける。練度確認のための訓練とはいえ、思った以上にハードで、砲撃・機動ともに激しかったのだろう。アリスが嬉々として指示を出しすぎる分、クルーはすさまじい集中力を要求されていた。
しかし新型艦イザナミとしては素晴らしい結果を出したことになる。演習監査官からの暫定評価も高く、「イザナミの指揮下で艦隊が統制をスムーズに行えた」とのまとめが届いていた。
「全目標の停止を確認。演習コントロールより終了との通達を受領……艦長、ミッション完了です」
「了解。各艦の健闘を称える。砲撃システムとシールドをクールダウンしろ」
アレックス艦長が締めくくりの言葉を落ちついた声で言う。そこへアリスが、『あー、面白かった……』と心底楽しげに呟く。副長エリザベスは跳ねそうになった髪を手ぐしで直し、アリスのインジケータが浮かんでいるパネルをちらりと睨んだ。
「……あなた、ほんとに少し目を離すと突っ走るのね」
『えー……そんなでもないですよ。私としては最適解を示しただけなんですけど』
「最適解ね──まあ、とにかく、よくやったわ、アリス」
そう言った副長の表情には、薄く笑みが浮かんでいた。べつに悪印象というわけではないのだろう。アリスも『ありがとうございます!』と明るい声を返す。
そこへ整備班長グスタフがごつい作業服のままブリッジに顔を出してきた。灰色混じりの髪をかきあげつつ、にやりと笑う。
「姫さんよ。やるじゃねえか。ただ、ブーストのかけすぎでハウジング周りが過熱してるぞ? 演習とはいえ、あんまり無茶させんでくれ──こっちは汗だくだ」
『あ、ごめんなさい……でも姫さんて呼ぶのやめてくださいよ。なんか変な感じ』
「いいじゃねェか、愛着込めて呼んでんだ。AIだろうが何だろうが、うちの艦の脳みそはお転婆姫さんだって、みんなそう呼んでるぜ」
グスタフが笑いながらそう言うと、何人かのクルーもうんうんと頷いている。アリスにとっては何ともむず痒くなる呼称だが、「そういうことならまあいっか」と呑気に受け入れることにした。そうこうしていると、副長が短く咳払いをして、場の注意を引く。
「さて、艦長が公式報告をまとめるまで少し時間があります。私たちは次の予定──艦隊の軌道を組み直して、この辺りの小惑星帯を経由して帰投するらしいわ。なんでも、小惑星帯を迂回せず、むしろ精密機動の試験を兼ねてわざと近くを通るとか、やれやれね」
「へいへい、また手間がかかるな。うちの艦長はミッションをしっかりこなすタイプだ」
グスタフが肩をすくめると、副長は「というわけで、準備に着手してください」と全員に指示を飛ばした。
◇ ◇ ◇
演習の終了処理を終えてから約一時間後。イザナミは指定空域を出発し、宇宙の暗黒に幾多の小惑星が散らばる小惑星帯へ向かっていた。大小の岩塊が複雑な軌道を描き、ときおり遠方で光が反射する。その光景をメインスクリーンの高解像度映像で見つめながら、副長が指示を出す。
「ここからは重量バランスと推進力を微調整しつつ、アリスのナビゲートを頼りに安全最適ルートを探る。訓練項目は三つ。回避行動と機動制御の精度確認、光学センサーとレーダー複合レーダーの比較テスト、そして最後に──」
彼女は艦長の方へ視線を投げる。艦長は軽く頷いて、続けさせた。
「最後に、小惑星破砕の模擬射撃、ですね。もし邪魔な小惑星がコースにあるなら……」
「そうだ。だがむやみに砲を撃っていいわけではない。ほとんどは回避で対処だ。危ういと判断した場合のみ攻撃に移れ」
艦橋の空気に張り詰めた緊張がほんのり混ざる。演習と言えども、機動中に小惑星と衝突すれば洒落にならない。AIの正確な予測が不可欠だ。アリスは大張り切りといった様子で声を上げる。
『了解です! えっと、ではまず数十キロ先にある中型小惑星群を攻──』
艦長がアリスの提案を遮るように指示を出した。
「探査用ドローンを三機発進させる。安全マージンを確保するため、アリス、そちらの運用も頼む」
『ドローンですか? もちろん、すぐに出します。──でも艦長、私ならレーダーでも十分把握できますよ』
「それで万全だと思い込むな。ドローンからの探知情報と突発的な重力偏差を合わせれば、より正確になる」
『はーい』
ドローンが艦底部から射出され、先行しつつ小惑星帯を走査。イザナミのブリッジにはリアルタイムで3Dマップが描き出されていく。副長も興味深そうにそのビジュアルを見やり、つぶやいた。
「うーん……これなら安全に航行できますね。若干ゴツい岩の集団があるけど、回避に問題はなさそう」
『そう思います……艦長、推力を三〇%に上げて一気に近づきますか?』
「よし、やれ。しかし接近したら速度を落とせ。危険を冒す必要はない」
エンジン音がわずかに高まる。星の海を滑るように進むイザナミの船体。外壁越しに、散在する無数の岩塊がひそやかな影を作っていた。
イザナミが小惑星帯に侵入していくと、視界には中型や小型の大小さまざまな岩塊が白い斑点のように散らばっている。厳かとも言える静寂が支配する宇宙空間だが、衝突リスクは常に存在する。艦の舷側には複数のスラスターがあり、これらを細やかに制御して微量な修正を加えながら進む。副長が周囲状況を逐一確認していき、アリスがデータを取りまとめては「いまのところ順調です」と報告する──誰もが、そのまま帰還できると思っていた。
しかし、宇宙航行に〝絶対に安全〟は存在しない。人知れず背後から回り込む破片や、自転軸がおかしい小惑星など、想定外の巡り合わせはいくらでもあるのだ。この日、イザナミにも不意のアクシデントが訪れた。回転を増している小惑星の一部が、何らかの引力変化で軌道をずらし、こちらへ高速接近してきたのである。厳密には隕石のかけらが一つ、イザナミを横切るコースに入ったにすぎない──だが、その破片が数メートル級とやや大きめだったこと、その回転と崩壊により予測される進路が不安定だったことが重なり、嫌なタイミングで急接近してきた。センサー上は「数メートル級の破片」と軽視できるサイズだが、この速度で衝突すれば装甲を削るダメージは避けられない。
副長がそれを見つけたとき、艦はすでに回避がギリギリ間に合うかどうかの位置関係だった。
『艦長、小惑星の破片が不安定な回転をしながら接近中! レーダーで捕捉済みですが、ドローン報告によると崩壊しながら数度進路が変わっています……間に合わないかも』
「なんだと……アリス、旋回するぞ!」
『了解……! えっと、たぶん衝突コースにはならない……あっ、いや、さらに回転軸がズレた?』
アリスは状況ログを飛ばし読みしているように焦る声を出す。舵を切って艦体を左舷側へ逸らすが、破片はまるで意地悪くカーブを描くように一瞬早く接近してくる。汎用センサーが危険アラームを鳴らし、ブリッジにじりじりとした空気が漂う。副長は息を呑みながら「CIWSを……」と叫びかけるが、すぐ艦長が手を振って「撃ち落とすには距離が近すぎる!」と制止する。
──〝ゴッ〟──
左舷外板が何かに弾かれるような衝撃振動を引き起こし、ブリッジコンソールから危険サインが上がった。若干鈍い打撃の感触。幸い、かすめる程度ではあるようだが、それでも船体の表面が砂利でこすられた跡のような損傷を被る。また、艦内部にまで揺らぎが伝わり、数名のクルーが近くに掴まって身を支える。副長はすぐに声を張り上げる。
「衝突だ……! 大丈夫か、被害は?」
『左舷甲板、軽度の損傷……浅い傷とへこみですね。二次被害はなさそう。あ……』
そこでアリスの声が奇妙に途切れ、スクリーン上のAIインジケータがちらつく。艦長は「どうした?」と鋭く問いかけるが、次の瞬間──
『うぎゃあああッ!? い……痛いっ! 痛い痛い!』
ブリッジ中に女性の絶叫が轟いた。生々しい悲鳴で、まるで誰かが体の一部を刃物で奪われたような声量に、全員が息を呑む。だが、そこに怪我人はいない。
「誰だ、今の声は……?」
「艦内には負傷者なしとの報告です……まさか……」
混乱の中、副長エリザベスが脳裏によぎる恐れを口にする。
「アリス……?」
『いたたたた……左……左腹が……ぐっ……! あぁもう、なんでこうなるの……!』
どう聞いても、本物の人間が痛みにもがいているような悲鳴である。艦長は硬い表情で叫ぶ。
「アリス!? お前、AIだろう。なぜそんな声を……痛いなんてあり得るのか!?」
『でも、痛いんです! 本当に……うわっ、じわじわ痛みが増してきた……! なんでこんな仕様になってるの……?』
ブリッジ要員が一斉に目を丸くし、一部のオペレーターは「AIに痛み……? 意味が分からない」と囁く。副長も動揺を隠せない。艦長が必死に冷静さを取り戻そうと声を張る。
「落ち着け、アリス! 被害は軽微だ。システム上も大した損傷じゃない……どんな感覚なんだ?」
『わ、わたしにも分からない……本当は軽微なんでしょうが、それが〝鋭い痛み〟として感じられて……う……うぐっ!』
アリスの声は苦しげに途切れ、小さな呻きと悲鳴を交互に漏らす。その様子にブリッジのクルーは言葉を失う。誰もそんなAIを見たことがないのだ。
「グスタフ班長、急いで損傷箇所を外から修理してくれ。こちらは何とかAIコアを落ち着かせる方法を……」
艦長が整備班長を呼びつけると、通信越しにグスタフの力強い声が返ってきた。「ああ、了解だ、すぐに行く。だが……姫さんが痛がるとかどういう話だ……?」と困惑が混じる。
同時に医療班のジェシカも駆けつけてはみたものの、AIへの治療方法など存在しないに等しい。応急処置のしようもなく、最終的に「とりあえず頭を冷やす?……ええと、つまり、システム的にログをリセット?」という素人提案しか出てこなかった。
やがてグスタフたちが左舷近くの整備区画で損傷箇所を点検し、外板をパッチ処置で補修し始める。艦内アナウンスがその作業のため一時的に静まり返り、ブリッジはどうにも言いようのない、いたたまれない空気に包まれる。AIの大声の悲鳴と小さな嗚咽がまだ頭の片隅にこだましていた。
時間にして数分後、簡易修復が終わったと報告が入り、衝突の危険も去った。しかし当のアリスはまだ痛みを訴え続ける。
『ズキズキする……あぁ、でも航行制御は大丈夫です……頑張り、ますから……』
「そんな、無理をしなくても……AIに……痛み……?」
副長がためらいがちに触れると、アリスは声を詰まらせた後、意を決したように口調を変える。
『実は……私、普通のAIとは違うみたいで……痛覚……というか、艦体が傷ついたら身体に響くんです……なんでだろう……』
彼女は息も絶え絶えという口調で言う。そこには先ほどまでの〝演習を楽しむハイテンションAI〟の影はもうない。艦長も副長もブリッジクルーも、皆が呆然として黙り込む。数秒の沈黙が過ぎ、艦長が低く静かに切り出した。
「アリス──君は、いったい何者だ? 本当にAIなのか?」
『わ、私は……イザナミのAI、です。けど……その、あたし……ずっと人間みたいに感情があって、その……隠そうとしてました……けど、艦へのダメージを痛みって感じて』
彼女の声音は震え、副長は唇を噛む。AIがそんなバグを抱えているという情報はない。新型とはいえ、こんな異常は聞いたこともないのだ。
「分かった。まずは艦体保全を最優先する。帰投して詳しく調べよう。それまで痛いのは我慢できるか?」
『……はい……でも正直、まだジンジンする感じが……あの、艦長、怒らないで……』
「怒るとかではない。ただ、これ以上の問題が起きたら艦全体が危うい。副長、ヘンリー技術士官にも調査させろ」
「承知しました、艦長」
周囲のクルーは困惑しながら、それでも〝姫さん〟を助けなきゃと必死で作業を続ける。どこかコメディじみた光景だった。AI本人(?)が「お腹痛い……」と泣きべそをかく中、軍人たちが右往左往するなど、誰が想像できただろう。
◇ ◇ ◇
帰港ロジスティクスを組み直すことで、艦への追加負荷を減らし、イザナミはその日のうちに地球連邦の軍港へ戻る。沿岸部宙域のドックに着艦した艦は、全般的には高評価を受けることがほぼ確定だ──演習そのものは完璧な成績を叩き出したため。
しかし艦内は妙な空気が漂う。AIが痛がっているという前例のない事態。記録にも残したくないような、しかし無視できない大問題だ。アリスは痛みが弱まってきたのか、ブリッジでは少し砕けた口調に戻ってきた。既に「普通のAI口調」を完全に捨てている。もっとも口調は演習の途中からだいぶ怪しかったのだが。そしてクルーは当惑しながらも、この状態のアリスをどう扱っていいか分からないまま一夜を迎えた。
後日、上層部に対してアレックス艦長は作戦成果を報告書にまとめ、「AIに軽微な不具合あり」とだけ記載。それ以上はまだきちんと説明できる材料がない。下手に大きく騒げば、イザナミ艦そのものが運用停止になる恐れがある。艦長や副長は協議を重ね、「一時的に本件はクルー内部での調査に留めよう」と決めた。
アリスはと言えば、内心ほっとしているらしい。痛覚は嫌だが、バレた以上は無理にAI然とせず、少しずつ素を出しても大丈夫かな……と思い始めている。それを象徴するように、ブリッジで副長に「エリザベスお姉ちゃん」などと呼びかけ、「ちょっと! ふざけないで」と叱られたりもしていた。
そして演習が正式に成功とみなされ、イザナミは次の任務へ備えることになる。クルーたちの間でさっそく噂が飛び交う。「あのAI、痛いって叫んでたよな?」「人間みたいだ。最近の技術はそこまで進んだのか?」と。グスタフ整備班長は「うちの姫さんは妙なツラの構造してる」と笑い、ヘンリー技術士官は「近いうちに一度徹底解析をしよう」と意気込み、医療班のジェシカも複雑な心境ながら「AIに鎮痛処置なんて……」と首を傾げる。
こうして〝痛覚を持つ戦艦AI〟という、前代未聞の存在がイザナミ艦内で広く知れ渡った。アレックス艦長や副長エリザベスも呆れつつ、危惧しつつ、その不可思議な彼女を仲間として、どうにかして前向きに受け止めようとしていた。彼らの間には、確かに従来の軍規では割り切れない温かい何かが生まれつつある。
結局、先日の演習は大成功という形で締めくくられ、一方でアリスの異常についても、ひとまず大きく騒ぎ立てられることなく保留扱いとなった。いつか上層部に詳細を報告せざるを得ない日が来るだろうが、今はそれより艦のコンディションを整え、新たな任務に向けて備えるのが先決だ。アレックス艦長の胸中には様々な思いが渦巻く。AIが痛覚を持つなど本来あり得ないが、その人間らしさが演習時の柔軟な戦術や乗組員への気遣いを生み出している可能性もあるからだ。いずれにせよ、あの悲痛な叫び──「痛い!」と繰り返す姿──が脳裏を離れない以上、もはやアリスを単なる装備とは見なせぬだろう。
宙域の暗がりに、イザナミはゆるやかに停泊する。その巨体のどこかに小さな擦り傷を残しつつ、しかし内なるAI少女は確かな意志を抱えている。泣いて笑って痛がりながらも、艦長や副長、クルーの皆を助けるためならどんな戦いもやったるわ、と──新型AI〝アリス〟は今日も、銀河の海を見据えていた。