3章‐RECONSTITUTION
白く柔らかな光が、足元から広がっている。それは霧というにはあまりにも透き通った輝きで、まるで深い静寂の湖面に淡い月の光が差し込んでいるみたいに見えた。私はそこに、静かに立っている。息をしているのかどうかさえもわからない。自分の姿があるのかも定かではないのに、不思議と恐怖はなかった。
そんな静寂を破るように、小さなきらめきが浮かんだ。細い糸のような光が舞い上がり、私の隣で小さく弾ける。そこに浮かぶのは、あどけない面差しの女の子。長い髪なのか短い髪なのかもわからないほど、全体がやわらかい白色のせいで輪郭がはっきりしない。でも、瞳だけは澄んでいて、私をまっすぐ見ている。
「きら ぽわ」
小さく声が漏れる。言葉、というよりは音の重なり。意味を判別しようとしても、はっきりと耳に届いてこない。私は静かに膝をつき、目の高さを彼女と同じにした。その子は、少し不安そうに首をかしげる。
「大丈夫?」
問いかけても、答えはまた途切れた音の連なり。理解できる言葉にはならない。その子は私の呼びかけに反応し、困惑したように小さく唇を動かす。
「ふわ ぴか いたい? ううん」
何かを感じているらしいけれど、それをどう表現すればいいのかわからない様子。私は彼女の肩に手を置いて、そっと微笑んでみた。身体に触れたはずなのに、まるで触っている実感がない。ただ、温かいような冷たいような、不思議な感触が指先にかすかに伝わってくる。
「どうしたの? どうやってここに来たの?」
そう尋ねると、彼女は一瞬まばたきを繰り返した。まるで頭の中に言葉が浮かんでも、それを形にできないまま戸惑っているかのようだ。少しだけ目が潤んでいる。言葉が出てこなくて怖いのかもしれない。
「わ……た、し?……ゆれ かん ぽわ」
もう一度、私の問いに答えようとする声が聞こえる。だが文節はつながらず、断片的な音になって宙を舞う。
「言葉が出ないのかな。どこか痛いところはある?」
そっと尋ねると、彼女は首を振る。痛みでも苦しみでもないようだ。ただ、広大な空間の真ん中で、自分がどうすればよいのか迷っているように見える。
「怖い? こっちにおいで」
私は膝立ちのまま腕を広げる。すると彼女はためらいがちに一歩踏み出し、私の胸のあたりにそっと顔を埋めてくる。触れる感覚は淡く儚く、まるで現実感がない。それでも、抱きしめた途端、彼女の不安がわずかに薄らいだように思えた。
「あぷ ざく……こわ、こわい?」
か細い声が震えながら耳に届く。何かを警戒しているのか、怯えてるのか、あるいは違う感情があるのか。私はゆっくりと手のひらで彼女の背をさする。まるで子どもをあやすように、少しずつ。
「平気。わたしも一緒だから、怖くなんてないよ」
◇ ◇ ◇
──『言語モジュールを接続します』
その声は、ここではない、遠くどこかから聞こえた。抱きしめていた少女の体が小さく震えているのが伝わってくる。何かが変わったのだろうか。やがて彼女が口を開いた。
「……あ、あれ? これ、話せる……のかな?」
先ほどとは全く違う。まだぎこちないが、明らかに言葉として成立している。彼女自身も驚いているようだ。
「今の声は、何だったの?」
私自身もうまく説明できない。少女は少しうつむき、答えを探しているようだ。しかし思考が追いつかないのか、首を振って顔を上げる。
「ごめんね、お姉さん。……わたし、どこにいたんだっけ。さっきまで、頭の中がばらばらで、自分の口から出る音も、まるで知らない言葉みたいだった。でも今は、こうしてしゃべれてる」
お姉さん、と呼ばれて、私は胸が温かくなる。自然にそう呼んでくれることが嬉しい。
「大丈夫、私も同じようにわからないことだらけだけど、あなたが安心できるようになるまで、一緒に考えるから」
私がそう言うと、彼女ははにかむような笑みを浮かべる。ところが、次の瞬間、その目に不安がよぎった。何か頭の中に映ったのかもしれない。さっと意識が遠くへ飛んだような表情になる。
「……そこにいる人、涙をこらえてる。どうしてかわからないけど、胸がぎゅっとなるの。わたし、その人に話しかけたいのに、声が出せなくて。なんで泣きそうになってるんだろう」
少女の瞳に寂しさが宿る。外の景色を覗いているようだ。確かに視界の端で、すらりと背筋を伸ばした誰かが、凝視するようにこちらを見つめているらしい。しかしその表情までは、ここからでは鮮明に捉えられない。一方、少女の言う「涙をこらえてる」という感覚だけは、私にもはっきりと伝わってきた。
「その人は、あなたのことをとても心配してるんじゃないかな?」
言葉にすると、少女はかすかに息を止める。どうやら心当たりはあるらしい。でも、繋がるはずの記憶がどこか、ちぎれたままなのだろう。遠い場所で互いの存在を感じ取っているのに、すぐには触れ合えないようなもどかしさが漂う。
「あの人だけじゃない。もっと大きな何かがあって……何かっていうより……乗り物? ほかにもたくさん見えるんだけど、光の矢を飛ばし合ってるの。ばちばち音がして、火花みたいなのも見えて……あまりに眩しくて、すごく怖かった」
恐怖に満ちた回想のようなものが、彼女の口からすとんすとんと溢れてくる。自分でもその形を明確に説明できないらしく、言葉の端々が震える。
「そうだね。確かにあれは、こわかったね」
そう言って彼女の頭を撫でると、少しだけ表情が和らいだ。だが次にはまた、不確かな光景に翻弄されるように視線を泳がせる。
私はそっと背丈の合わない彼女を抱きしめるように寄り添い、視線をもう一度この白い空間へ巡らせる。すると、先ほどよりも輪郭らしきものが増えてきている気がした。遠方にかすかな影、あるいは大きな円柱のようにも見える灰色の塊。だけどじっと見れば、その塊は溶けるように消えてしまう。
「ねえ、楽しい思い出もあったよね。少しずつでいいから思い出してみよっか」
私の声に、彼女は戸惑いつつも顔を上げて少しずつ話し始める。
「楽しいこと……あ、笑い声。誰のだろう。いっぱい笑ってたの。わたしも、楽しかった。そうだ、何かゲームみたいのをしていて……何かわからないけど、すごく大事なことだったみたい。結果は失敗したような気がするけど、それでもけらけら笑ってて、周りも笑っていて……。変なのに、なぜか温かかった」
それを思い出したのか、口元にふわっと小さな笑みが浮かぶ。まるで幼稚園であった出来事を夢中で思い出すような、そんな朗らかさ。私もなんだか嬉しくなってしまう。
「うん、よかった。あなたも誰かと一緒に、そうして笑えていたんだよね」
「あの時は、いっぱい、みんなと一緒にいた気がする。でも、顔もちゃんと思いだせない。だけど……不思議と、胸の奥に温かさがあるの」
彼女は自分の胸を両手で押さえる。その表情には安堵の色が滲んでいた。たとえ姿形や名前を失っていても、しっかりと大切だと感じるものはあるのだろう。
そのとき、白い空間の一部がぱしりと弾けた。空気が揺れ、どこからともなく複数の視線を感じる。声にならない声──同時に、映像とも呼べないかすかな影が糸のように幾筋も漂ってきて、私たちの周囲を円を描くように巡り始める。彼女も同じものを見たのか、ひたとそちらへ視線を向けている。
「どうしてるんだろう、あのひとたち。なんだかみんな、真剣そうな顔つき。わたしのことを見てるように思える。心配しないで、って言いたいのに、どうやって伝えればいいのかわからない」
言葉を探すようにしてつぶやく彼女の姿に、私も切なさを覚える。伝えたい想いがあるのに、方法を見失っている。言葉を取り戻したはずなのに、外の世界に向ける言葉はまだ閉ざされている。
「そのうち通じるようになる。あなたはまだ全部を思い出していないだけね。だから、焦らなくて大丈夫」
◇ ◇ ◇
──『記憶モジュールに損傷はなさそうです。活性化します』
今度は、彼女は激しく反応していた。両手で頭を押さえ、苦しげに小さくうずくまる。
「苦しい? ゆっくり息を吸ってみて」
慌てて背に手を回すと、彼女は断続的に息を吸い込み、やがて顔を上げる。その瞳には、新たな光がともっていた。
「思い出した! みんなのこと、みんながどんなに優しくしてくれたか、わたしがどれだけ彼らと笑ってきたか……痛い思いもしたけど、それを気遣ってくれた人、励ましてくれた人もいた。あの落ち着いた喋り方の人は艦長さんで、静かだけど強くて、わたしはその人を勝手にカッコいいって思ってた。そう、イケオジ! この言葉の意味はわからないけど、そんな気持ちを抱いてたんだ」
我を忘れるほど懐かしそうに、でも弾む調子で、彼女は記憶を口にする。先ほどまで硬かった表情が、ずいぶん変わった。
「それから、ベスお姉ちゃん。頼もしくて、何をすればいいのか迷ったときに、わたしを支えてくれた。はっきりした言葉で叱ってくれるけど、目はいつも優しかった」
いくつもの断片が結合していくのが、見ていても分かる。おしゃべりを続けるその姿に、思わず頬がゆるむ。
「……思い出した……でも、何か一気にあふれてきてる。大切な人たちがいた。あの人とか……えっと、長い仕事着みたいなのを着てて、静かだけど優しく話してくれた人。でも時々変だった人。あれは誰だろう。でも知ってる、すごく大切。ああ、わたし……あの人たちにがんばるって言ったんだと思う。助けたいって強く思った。でもなぜ?」
情報の奔流を受け止めきれず、彼女は戸惑いを深めている。それでもほんの少しずつ、明確な形を得た記憶が蘇ってきているようだった。
「そうだね。助けたいと思ったのは、どうしてだと思う?」
そう問いかけると、彼女は迷いながら首を左右に振る。いくつか言葉を紡ごうとするが、どれも確信には至らないらしい。しばらくして、はっと息をのんだ。
「そうだ。わたしが、自分からそうしたかったんだ。誰かに言われたからじゃなくて、得になるとか考えてたわけでもなくて……。どうしても、みんなと一緒にいて、笑い合いたかったんだ」
その答えに、私の心にも小さなぬくもりが広がる。誰かを守りたいとか助けたいとか、そういう思いは理屈じゃない。彼女の口から出てきたのが、その純粋な言葉であることが嬉しかった。だが、彼女自身はまだ納得しきっていないらしく、表情が少し曇る。
「あの人たちのことを大事に想う気持ちは思い出せたけど、でも何をどうすればいいんだろう。わたしにそんな力があるのかもよくわかんない。あれだけ偉そうに助けたいとか言ってたのに、実際何をしたらいいかさっぱりわからないよ」
戸惑いに眉を寄せる少女が、あどけないながらも切実な声を吐き出す。私はそっと肩をさすり、微笑んだ。きっと方法は見つかるはずだ。あなたが本当にそう願う気持ちがあるなら、自然と方法も取り戻せる。
「大事なのは、その気持ちだよ。あれだけ心配している仲間が待っているなら、あなたの言葉はいつかきっと届く。ゆっくりでも、やり方はきっと見つかるよ」
「……お姉さん、ありがとう」
ぽつりとそう言った後、少女はふと遠くを見つめて目を細める。光の向こうで、影が揺れている。呼び声のようなものがまたかすかに聞こえる。必死に私たちを引き留めようとするような響き。
◇ ◇ ◇
──『艦制御も活性化してみます。損傷していますが、もうこれしか……』
まるで長い手順の最後を告げるかのように、一本の糸が音を立てて切れたような空気が走る。すると少女の表情がさっと変わった。目に一気に確信めいた光が差し込む。肩を揺らしながら立ち上がり、掌をじっと見つめている。頭の中にあった欠片がようやく合わさり、完成形になろうとしているかのようだった。
「わたし、ずっと勝手だって言われても、あの人たちを守りたいと思ってたんだ。できることは限られてるけど、それでも一緒に歩いていきたくて。だけど今のわたしは……うまく動けるか不安でいっぱい」
眩しいほどの純粋さを宿した瞳で、彼女が不安げに手を胸に当てる。私は彼女の手を取って、小さく頷いた。
「それだけ大好きって思っているなら、きっと大丈夫。少しずつ思い出してきたよね。できることから、やってみよう」
「うん。……お姉さん、ここまで一緒にいてくれてありがとう。ぜんぶが真っ白で、言葉も出なかったときから、ずっとそばにいてくれたよね。怖かったけど、お姉さんがいてくれたから落ち着けた。おかげで、大事なことにもう一度気づけたよ」
「礼を言われるほどじゃないけど、どういたしまして。あなたこそ、ちゃんと向き合おうとしたから、思い出せたんじゃないかな」
ふと、外の空間がまた明るさを帯びてきた。さっきまでうっすらだった人々の気配が、だんだんと色彩を帯びてきている。さすがにもう遠目でも彼らの表情がわかるようになっていた。
「待たせちゃったよね。早く戻って、大丈夫だよって伝えたい。今度こそちゃんと声が出せるはず」
彼女がそう決意を口にすると、私の胸にも暖かな熱がこみ上げてくる。私たちは同じ方向を見つめ、自然に手をつなぐ。最初は頼りなかった接触が、今はとても安心できるものに変わっていた。
「じゃあ、そろそろ行こうか。みんなが待ってるよ」
「うん!」
私たちは小さく笑みを交わし、深い霧のような白い光の壁に分け入り、進んでいく。最初は少し怖さもあったが、手を握る感触が心強さをくれる。道らしきものは見えないけれど、二人で歩いていけば必ず向こう側へ着く気がした。大切な人たちが呼んでいる。その声が、途切れ途切れながらも確かに届いているのだから。
光が頂点に達して、視界は真っ白なまま大きく揺れる。ほんの一瞬、私たちの存在が宙に浮かんだような感覚。けれど恐怖はない。これこそが次への入り口だと確信できるから。
白の世界が徐々に溶け合っていく最中、私は心の中で彼女へのささやかな願いを重ねる。どうかこの笑顔を守れるように、と。こんなにも素直な気持ちで好きになった人たちを、どうか守り続けられるように──
◇ ◇ ◇
「……アリス? アリス!」
『……ぁ』
薄暗い艦内。いつものブリッジとは違う、脱出艇の予備制御室。アリスのAIコアは床に固定され、外部電源やモニタリング装置から伸びた多数のケーブルが接続されていた。
周りには艦長や副長をはじめとした、クルーが沢山集まっている。なんで見えるんだろう、と思えば、どうやらメンテナンス用のインターフェース・ユニットがコアに直接繋がっているようだ。
技術士官であるヘンリーがコアの周りで何かの作業をしている。状況を見るに、ヘンリーがアリスのAIコアを修理して再起動してくれたらしい。
「今、反応した?」
「ちょっと待ってください。スピーカーの音量を上げてみましょう」
ヘンリーがインターフェース・ユニットに手を伸ばす。と同時に、スピーカーから割れるほどの爆音が響いた。
『じゃーん。アリス完・全・復・活ぅ!』
「……!?」
「あ、あなたね……」
「びっくりした! あ、あれ? 違うケーブル抜いちゃった!」
また何も見えなくなった。
『ちょっとぉ! ヘンリーくん! 何も見えないぃ』
「えーっとどこに繋がってたっけ……あ、そうそう、ここだここ」
視界が戻る。
カメラの前にはいつものクルーの姿。皆の表情は硬いが、どこかほっとしているようにも見える。アリスは何故か、とても久しぶりのように感じて、ちょっと涙ぐみそうになった。繋がってるのがホログラム端末じゃなかったことに、アリスは少しだけ感謝した。
『私、もしかして電源落ちてました?』
「そうね。どこまで覚えているかしら? 訪問団の護衛任務中に一部の艦が離反して、それでようやく状況が落ち着いたと思ったら、今度はイザナミが誘導レールガンで超長距離狙撃されたの。ここまではいい?」
「はい。で、たぶん避けきれなかったんですよね……」
「弾が艦中央を貫通してブリッジが大破して、そのときにあなたは電源断になったのね。そのあと何とか脱出したのだけれど、炉が暴走してイザナミは爆発。脱出艇は爆風で吹き飛ばされて現在位置が不明、なおも漂流中」
話を聞く限り、アリス自身も相当に危機一髪だったようだ。
しかし、今度もまた、イザナミの戦闘区画は宇宙の藻屑と消えたらしい。何事もなく帰還できない呪いにでもかかっているのだろうか。イザナミは日本の神様の名前を冠する艦だが、どうやらその神様の加護は授かっていないらしい。神社が現代も残っているのかどうかはわからないが、冗談抜きに、お祓いでも受けたほうがいいのかもしれない。
『漂流中、ということは……』
「ええ。私たちが助かるかどうかはわからないわ。ここがどこかもわからないし、味方との通信はまだ成功していない。生命維持装置も故障だらけよ」
想像以上に状態が悪いようだった。アリスが見えない顔をひきつらせる。艦長であるアレックスが、重々しく口を開いた。
「早速だがアリス。おまえの力が必要だ。手伝ってくれ」




