第1章:辺境の村の日常と小枝の始まり(2)
森の奥へ進むにつれて、鳥の鳴き声が不自然に少なくなっていくことにライナが気づいた。
「ねえ、何か変じゃない? さっきからやけに静かなんだけど」
「言われてみれば……。いつもならもっと小動物の気配があるのに」
二人は警戒を高め、ゆっくりと足を進める。
やがて、樹々の向こうに人影が見えた。
そこにはローブ姿の少女がいた。
銀色がかった白髪を肩まで伸ばし、見るからに神官の制服らしきものを纏っている。
何より、その少女は深い森の中で息を切らし、怯えた表情をしていた。
「君、大丈夫……?」
カイルが声をかけると、少女ははっと顔を上げる。
大きな瞳は不安に揺れているが、その奥にはかすかな決意のような光も宿っている。
「た、助けて……追われているの……!」
息も絶え絶えにそう訴えると、彼女――エレーナ・ホワイトウッド――は倒れそうになりながら木にもたれかかった。
ライナが慌てて駆け寄り、エレーナの腕を支える。
「追われてるって、誰に? 魔物じゃなさそうだけど……」
「……騎士団……王国の……ううん、闇に通じる……何かを、探しているようで……」
言葉も上手くまとまらないまま、エレーナは怯えた目つきを辺りに走らせる。
やけに緊張した様子が伝わってくる。
その時、茂みの奥から荒々しい足音が迫った。
「そこだ! 捕らえろ!」
現れたのは王国騎士団らしき装備の男数名。
だが、その雰囲気はどこか禍々しい。
正規の騎士団とは思えない、陰湿な殺気を漂わせていた。
ライナが目を見開くと、騎士らしき男は嘲るように口元を歪めた。
「お前たちも共犯か? そいつを匿うとはいい度胸だな」
「待ってよ、何かの誤解じゃないの?」
カイルが必死に弁明しようとするが、男たちは聞く耳を持たない。
「いいや、そいつを教会に連れ戻す命令が出ている。邪魔をする奴は処分する!」
男たちは剣を抜き、一斉に二人とエレーナを囲もうとする。
ライナはすぐさまエレーナをかばうように前に立ち、カイルも震えながら腰に差していた小さなナイフを構える。
だが、剣の腕など到底敵う相手ではないと直感する。
ライナはともかく、カイルにはどうしようもない。
「くそ、ここは全力で逃げるしか……」
ライナが歯を食いしばる。
しかし、背後にはエレーナが怯えきった様子で立っている。
このまま放置するわけにもいかない。
そのとき、カイルの手元の小枝が微かに光を放った。
まるで心臓の鼓動が高鳴るようなリズムで、じわりじわりと熱を帯びる。
カイルは驚いて小枝を見下ろす。
(何だ、この光……? さっきは何も起きなかったのに……)
騎士の一人が鋭い剣先を振り下ろそうと踏み込んだ。
ライナが咄嗟にそれを受け止めるが、衝撃に体がよろめく。
「ライナ!」
カイルは半ば無意識に小枝を振り上げた。
まるで何かを拒絶するように必死に振り回す。
その瞬間、小枝が放つ光がライナの剣と共鳴し、眩しい閃光が走った。
「何……っ!?」
騎士の剣が弾かれたように吹き飛び、ライナの剣筋がそのまま別の騎士の防御を砕く。
まるでライナの剣技が増幅されたかのようだった。
カイル自身も何が起きているのか分からない。
「すごい……何これ、こんなに力が湧くなんて……」
ライナが目を見張る。
その横で、エレーナは驚きに唇を震わせる。
「あなた、もしかして『あの力』を……?」
騎士たちの陣形は崩れ、一人が慌てたように叫ぶ。
「バカな……ただのガキが……!? くそ、撤退だ!」
男たちは傷を負った仲間を引きずるように森の奥へと散っていく。
ライナは追撃しようとするが、カイルが小枝を片手に息を切らしているのを見て、思わずその腕を支えた。
「カイル、大丈夫!?」
「だ、大丈夫……分からないけど、体が少し震えてるだけ……」
カイルの手からはまだ微かな熱が伝わってくる。
だが光はすぐに収まり、何事もなかったかのようにただの小枝へと戻った。
「すごい力だった……まさか、あんなふうに……」
ライナは呆然と呟き、エレーナも困惑気味に胸に手を当てる。
「ごめんなさい……私のせいで危険な目に合わせてしまったわ」
彼女の銀色の髪が弱々しく揺れ、薄いローブの袖には落ち葉や泥が付着している。
見たところ、彼女の体も衰弱しているようだ。
「いや、僕たちこそ……何が起きたのか分からないけど、助かったね」
カイルは膝に手を当てながら必死に息を整える。
手にした小枝を見つめても、先ほどの奇妙な力は感じられない。
まるで一瞬だけ目覚めた幻のようだ。
ライナは一度深呼吸し、エレーナへと向き直った。
「とにかく、安全な場所に移動しましょう。森の奥でまた出くわしたら厄介だし……」
「ええ、ありがとう……」
「俺はカイル・ファーヴェル。こっちはライナ・アシュベル」
エレーナはほっとした表情を浮かべると、小さく微笑んだ。
「私はエレーナ・ホワイトウッド。教会で見習い神官をしているのだけど……訳あって、王国騎士団に狙われているみたいなの」
「騎士団が君を……?」
カイルの問いかけにエレーナは言葉を濁す。
具体的には話せない事情があるようだが、いずれにせよ見習い神官が追われている状況は尋常ではない。
ライナは決然とした表情でエレーナの手を取る。
「とりあえず村に戻って休もう。詳しいことはあとで聞くわ」
エレーナは戸惑いながらも、助けを乞う以外の選択肢はなさそうだと感じ、ライナの提案を受け入れた。
カイルは手にした小枝を握りしめたまま、さきほどの力の余韻と不安を同時に抱えつつ、森を出る道を急ぐのだった。
◇◇◇
フェリダの村へ戻ってきた三人は、村外れのカイルの家に身を潜めるようにして落ち着いた。
エレーナは回復魔法の心得があるというが、疲労から魔力の制御がままならず、まずは体力回復が必要だ。
狭い家の中、カイルは火をおこし、簡単なスープを作ってエレーナに差し出す。
ライナは窓辺で外を警戒している。
もし先ほどの騎士たちが村に踏み込んだら、すぐにでも対応しなければならない。
「助かるわ……ありがとう、カイル」
エレーナは礼を言いながら、カップに口をつける。
その横顔はまだ不安に満ちているが、どこか安堵の表情も混じっている。
カイルは苦笑する。
だが、どうにも落ち着かない。
このままエレーナを村に匿い続けるのは得策なのか。
騎士団がもし本腰を入れてやってきたら、村の人々に被害が及ぶ可能性がある。
ライナも同じ思いだったのか、吐き捨てるように言葉を紡いだ。
「村に迷惑はかけられない。奴らが何を狙ってるか分からないけど、エレーナをこのままここに匿うのは危険すぎる」
エレーナは俯きがちにスープを見つめる。
「そうよね……私のせいで、村の人たちにまで害が及ぶかもしれない……」
カイルはエレーナに問いかける。
「話せる範囲でいいから、教えてほしい。どうして王国騎士団が君を追っているんだ?」
エレーナは少し口ごもった。
だが、ライナの真剣な視線も受け、覚悟を決めたように言葉を続ける。
「教団の内部で、何か大きな動きがあるの。私は見習いとして修行を積んでいるだけだったけれど……ある日、上層部が『異端の儀式』を計画していることを知ってしまったの。詳しくは言えないけど、その儀式に必要なのが私――という噂を聞いたの。意味が分からなかったし、怖くて……逃げ出してきた。でも、その直後から騎士団に追われるようになったの」
「教会の上層部が、異端の儀式……?」
ライナは驚きを隠せない。
王国に根を張る聖典教会は、人々を救済し、回復魔法や平和をもたらす組織だとされている。
そんな裏の姿があるとは容易には信じられない。
「とにかく、このまま村にいるのはよくないね。ライナ、どうする?」
カイルが問いかけると、ライナは強い眼差しで答えた。
「決まってるじゃない。エレーナを守るわよ。あんな連中に渡すわけにはいかない」
「でも、村だと危険だ。だったら、安全な場所に逃げる……けど、そんな場所があるのか?」
エレーナは少し考えるように視線を落とす。
「王都には王立魔術院があるわ。そこなら、一部の魔術師が教団や騎士団の動きに疑問を持ってるかもしれない。少なくとも、私一人で行くよりは、あなたたちと一緒なら……」
ライナは力強く頷く。
「そうと決まれば、準備して、明日にでも出発しましょう」
「でも、俺たちがそんな大事に首を突っ込んで大丈夫なのか……?」
カイルは小枝を見下ろす。
先ほど起きた謎の現象。
自分には到底、そんな力があるとは思えないが、あの不思議な光は確かに存在した。
もしかすると、この力がまた発動すれば、少しはエレーナの助けになるかもしれない――そんな微かな希望と、大きな不安が胸を揺らす。
ライナはカイルの目をまっすぐに見つめ、言い放つ。
「村にいても同じことよ。それに、あんたがいたからこそ、さっき私の剣はあれだけの力を出せたんでしょ? ほら、自信持ちなさいよ。私にはあんたが必要だし、あんたには私が必要なんだから」
その言葉に、カイルは一瞬息を詰まらせた。
ライナがこんなにも率直に自分を認めるような言葉を発するのは珍しい。
「ありがとう、ライナ。じゃあ、俺も行くよ。エレーナを放っておけないし、何より俺自身、この小枝のことを知りたいんだ」
エレーナは改めて頭を下げる。
「ありがとう……本当に。助けてくれて……」
こうして、まだ見習い神官のエレーナを守るため、そして謎の小枝が秘める力を探るため、幼馴染の二人――カイルとライナ――は旅立ちを決意する。
静かな村の暮らしから、まさかこんなに早く飛び出すことになるとは想像もしていなかったが、これが彼らの運命を大きく変える『始まり』だった。
◇◇◇
カイルはその夜、出発の用意を進めながら、自分の家の中を見回した。
両親が残したわずかな形見と、この村で築いてきたささやかな日常。
(本当に、出て行くんだな……)
畳んだ服や保存食、そして今は何も起こらないただの枝のように見える『小枝』を袋に収める。
その枝を手にした瞬間、昼間感じた微かな熱の記憶が蘇った。
(あれは何だったんだろう……。でも、みんなを守る力になるなら、きっと無駄じゃない)
心に不安もあるが、ライナの力強い言葉とエレーナの必死な思いが背中を押してくれる。
もし自分が弱かったとしても、仲間と支え合えばどうにかなるはず。
そう信じたい――そう信じなければ踏み出せない。
「大丈夫、私たちならやれるわ」
ライナのその言葉にカイルは深く頷き、自分に言い聞かせるように足を踏み出す。
こうして、辺境の村の日常は終わりを告げ、冒険の始まりの一歩が刻まれたのだった――。