第1章:辺境の村の日常と小枝の始まり(1)
辺境の小さな村、フェリダ。
広大な王国エルデリアの端に位置し、人々は豊かな自然と共に穏やかに暮らしていた。
王都で繰り広げられる貴族の派閥争いや、教会をめぐる権力競争などは、ここでは遠いおとぎ話に近い。
だが、この村の日常がやがて大きな波乱の幕開けになるなど、誰も予想していなかった。
◇◇◇
フェリダの朝は早い。
東の空がうっすら白み始めると、農家や猟師が動き出し、鶏の鳴き声が村中を包む。
細い道には家畜をつれた農夫が往来し、パンの焼ける香ばしい匂いがかすかに漂う。
そんな村の一角に、質素ながらも暖かみのある古い木造の家があった。
家の扉がきしむように開き、中から、カイル・ファーヴェルが現れた。
まだ十七歳だが、幼い頃に両親を亡くしてからは、この家を自力で守ってきた。
朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込むと、肩についた薄茶の短い髪がふわりと揺れる。
背は高くはないが、すらりと伸びた手足と、どこか優しげな瞳が印象的だ。
「今日もいい天気だな」
カイルはそう呟きながら、家の周囲を掃き始める。
家を囲む柵には少々くたびれた針金が巻きつけられ、元は犬用の柵だった名残がある。
両親を喪って以来、村人総出で手伝ってもらいながら最低限の生活空間を維持してきたのだ。
この村には孤児は他にもいるが、フェリダの人々は血のつながりを問わず何かと助け合う。
カイルはそんな村の優しさに感謝しつつ、今日も淡々と日課をこなす。
そこに、勢いよく砂埃を上げながら駆け寄ってくる少女の姿があった。
赤茶色の髪をポニーテールにまとめ、身軽そうなズボンをはいている。
ライナ・アシュベルだ。
「おーい、カイル! さぼってないわよね?」
「さぼるわけないだろ。朝の掃除は大事なんだから」
ライナは駆け寄ると、息も切らさずにカイルの持つほうきの柄をひょいと掴む。
「こんな細々したことばっかりしてるから、鍛錬がおろそかになるのよ!」
「それでも、村の生活を整えるのも大切だし……俺は、ライナみたいに剣を振り回して生きていくわけじゃないんだ」
少し照れたように眉尻を下げるカイルに、ライナは大げさに溜め息をつく。
「はぁ……だからいつまでたっても自信がなくなるのよ。いい? 村だって、いつ何が起きるか分からないんだから」
彼女は自分の腰に携えた剣の柄を軽く叩く。
小柄な体格ながら、しなやかな筋肉を感じさせる腕と、鋭い瞳。
村でも屈指の剣の腕前を持つライナは、いつもカイルを奮い立たせようと躍起になる。
だが、カイルは穏やかな笑みを浮かべて肩をすくめた。
「分かってるって。剣が得意じゃない俺は、ライナに守ってもらうしかないからね」
「調子のいいこと言って……もう。でも、そういうとこがあんたの憎めないところよ」
二人のじゃれ合いはいつもの朝の風景そのもので、周囲の村人たちも微笑ましく見守っている。
互いに軽口を交わし合うその姿は、幼馴染みの特別な距離感があるからこそだ。
ライナは口調こそ荒っぽいが、カイルが一人で暮らしていることもあって、何かと心配しては世話を焼いてくれる。
そんな彼女にカイルも感謝している。
それでも、心のどこかで「自分には特別な力が何もない」という思いがあった。
ライナや他の村人が褒めてくれるような才能――例えば剣の才能や魔力――とは縁遠いと感じているのだ。
やがて、カイルは掃除を終えると、ライナと並んで村の小道を歩き始める。
いつものように村の朝の空気を感じ、野菜畑の成長を気にし、狩りに出かける人々に「いってらっしゃい」と声をかける。
ライナはそんな様子を見て、ちょっと目を細めた。
「カイルがいると、なんか皆が落ち着くのよね。あんたの雰囲気っていうか……」
「え? そうかな?」
「そうよ。皆、あんたの笑顔を見て安心してるの。まあ、あんたはもっと自信持っていいと思うけど」
素直に褒められたカイルは照れくさそうに笑う。
このふとした会話こそが、彼らの日常の小さな幸せだった。
◇◇◇
二人は村はずれの森へと足を向ける。
フェリダは森や畑に囲まれ、簡単な狩猟や薬草採取は日常の一部だ。
ライナは日々の鍛錬も兼ねて森に足を運び、カイルは気まぐれに彼女を手伝ったり、森の果実を集めたりする。
この森は大した魔物も出ず、村人たちにとっては貴重な生活の糧の場所だった。
しかし、自然が豊かなぶん、迷い込んだ外来の猛獣や希少な植物が時々見つかるため、油断は禁物だとも言われている。
「今日の目標は薬草採取と、あとライナの剣の素振りだっけ?」
カイルが袋を手にして尋ねると、ライナは既に剣を抜き、軽く素振りを始めていた。
「そうそう。剣の感覚を鈍らせたくないし、いつか冒険者ギルドに登録するときが来たら、ちゃんと戦力にならなきゃいけないでしょ」
「ギルド、か。村から出るってなったら大変そうだけど……」
カイルはつぶやきながらも、まるで他人事のように感じている。
ライナが都会にあこがれているのは昔から知っているが、カイル自身は村の外の世界になかなか実感が湧かない。
彼は魔術も剣技も凡庸で、特別な力を持つ多くの冒険者たちに太刀打ちできると思えなかったからだ。
森の中へ入ると、樹々の合間を通り抜ける柔らかな光が足元の小草を照らしている。
鳥のさえずりが上から聞こえ、少し湿った土の匂いが鼻腔をくすぐる。
ライナは手慣れた様子で目ぼしい薬草を探すが、カイルは珍しい実を探してキョロキョロと視線を巡らせていた。
「ねえ、ライナ。これって薬草だっけ?」
「それは雑草。役に立たないわ。まったく、ちゃんと覚えてる? 前に教えたやつよ」
「ごめんごめん。色が似てるんだもん」
ライナは少し呆れたような顔をしながらも、丁寧に違いを教えてくれる。
そんなやり取りが何度か続いた後、カイルの目が妙なものを捉えた。
キラリ――。
森の地面に落ちているはずの木の枝が、一瞬だけ光ったように見えたのだ。
もちろん、太陽の光が葉の隙間から差し込み、反射しているだけかもしれない。
だが、カイルは何故か気になって仕方ない。
「ライナ、ちょっと待って。何だろ、あれ……?」
カイルは足元の葉をかき分けるようにして近づいていく。
そこには一見、どこにでもある木の枝があった。
しかしよく見ると表面が薄く透き通っていて、まるで水晶を内包しているかのような不思議な質感を持っている。
「何だこれ? まるで宝石が埋まってるみたいだ」
「そんな高価そうには見えないけど……何か変ね」
ライナは怪訝そうに眉をひそめると、剣の鞘でちょんちょんと枝の先をつつく。
しかし特に危険な反応はなく、ただの小枝のように見える。
カイルは好奇心が抑えきれず、そっと手に取った。
すると、一瞬だけ体の芯に小さな電流が流れるような感覚があった。
「ん? 何か、変な感じだ」
「大丈夫? 毒とか、呪いとかじゃないでしょうね」
「わからない。でも、痛くも痒くもないよ。ただ……妙に温かい気がする」
カイルは小枝をひらひらと振ってみる。
だが、当然何も起こらない。
「ただの気のせいじゃないの? ほら、もう行こうよ。これ持って帰っても薪にもならないしさ」
「うーん……まあ、でも面白いし、ちょっと持っておくよ」
ライナは呆れたように肩をすくめる。
カイルは何故かその小枝を放っておきたくなかった。
見た目よりも軽く、手にしっくり馴染む。
不思議な感触。
まるで、微弱な鼓動のようなものを指先が感じているかのようだった。