美園の。
フローライト第七十話
それは初夏を思わせるような日差しの春。小学五年生になった美園が学校から帰宅すると「お腹が痛い」と言った。ただの食あたりかと思っていたら、夜中に「痛い、痛い」と唸っていたので咲良は焦って奏空を起こした。
「奏空、美園が大変」
「え?」と奏空が飛び起きた。
一緒に美園の部屋に行くと、美園はベッドに起き上がってお腹を押さえて苦しんでいた。
「痛いの?美園?」と奏空が美園のお腹を触ってからハッとしてその手で美園の額を触った。
「熱あるよ。もしかして虫垂炎とか?」と奏空が言う。
「え?虫垂炎って盲腸のこと?」
「そうだよ。救急病院行こう」と奏空が立ち上がった。
「美園?ちょっと待ってね」と咲良も立ち上がった。
「救急車呼んだ方がいいかもしれないね」と奏空が言う。
「うん、わかった」
咲良が救急車を呼んで十分ほどで救急車が到着して、美園を抱きかかえた奏空と一緒に咲良も救急車に乗り込んだ。
救急病院でやはり「虫垂炎かもしれない」と言われ、病院が開くまでとりあえず痛み止め点滴をした。
朝になって病院に入る。検査をしてから即入院となった。
「かなり白血球の数値が増えてるから、これは手術した方がいいかもしれないですね」と言われる。検査をして午後から手術となった。
「奏空は?」と美園が不安そうに言う。
「今、電話しに行ってるよ。すぐ来るから」
「うん・・・手術ってすぐ終わる?」
「うん、すぐだって。大丈夫だよ」
手術室に入る前に奏空が来て美園に「大丈夫だよ」と声をかけていた。
手術が無事終わり、美園が病室に戻って来た。思ったより顔色は良かったので、咲良はホッとした。
「痛くない?」と咲良が聞くと「うん、全然」と美園が答えた。
奏空が医者から説明を聞いてから美園のところに来た。
「美園、大丈夫?」
「うん、大丈夫」と美園が明るく答える。
「経過が良ければ三日で退院できるって」と奏空が言った。
奏空がその日は帰り、咲良だけが病院に残った。個室なので気を使わなくていい。奏空がナースステーションで声をかけられたり、患者だけでなく看護師にまで握手やサインを求められていた。奏空は愛想よく答えて引き受けていた。
次の日、朝の検温の時に何気なくベッドに貼られてある美園の名前を見てドキッとした。
(A型?)
名前の横に血液型が記されてあったのだ。まだ美園の血液型は調べていなかったが、手術なのだし、血液型をみるのは当たり前だろう。
咲良はB型だった。
(確か奏空もB型のはず・・・)
奏空がB型だったら絶対にA型の子供は生まれない。
(利成は何型何だろう・・・)
美園の経過は良く、医者の言う通り三日目には退院となった。マンションに戻って美園が「お腹空いた」と言う。
「まだあんまり食べたらダメだよ」と咲良は言った。
夜には奏空が帰宅して美園に「ちゃんと安静にしてなよ」と言っていた。「うん」と明るく答える美園を見つめながら、今日こそ奏空に聞かなきゃ咲良は思っていた。実はなかなか勇気が出なくて血液型のことを聞けなかったのだ。
「奏空は何型?」
夜、寝室に入ってからようやく咲良は聞いた。
「何のこと?」と奏空がベッドに入りながら咲良を見た。
「血液型」
「血液型?Bだよ」
「・・・そう・・・」
咲良は何となく奏空から目をそらした。次の言葉はなかなか出ない。
「咲良は何型?」
「・・・私もBだよ」
「そう・・・で?何を気にしてるの?」
「・・・・・・」
「美園のこと?」
「ん・・・」と咲良はうつむいたまま言った。
「A型だったね。病院のベッドのところに書いてあったの見たよ」
「・・・うん・・・」
「気になるの?」
「ん・・・だって美園に聞かれたら・・・」
「そうだねぇ・・・」と奏空が布団をかけた。それから「咲良も早くきてよ」と言う。咲良がベッドに入って横になると奏空が抱きしめてきた。
「どっちかがA型ってことにしておこう」と奏空が言う。
「ん・・・A型なのは・・・」
咲良はそこまで言うと口をつぐんだ。
「A型なのは利成さんだよ」
「そう・・・」
やっぱり美園はあの時の子なのだと実感が湧いてくる。それまではまだどこか違うのではないかと思っていた。
「やっぱり気にしてる?」と奏空が咲良を見つめてくる。
「・・・奏空の気持ちがわからない・・・」
「俺の?どんな?」
「だって何で平気なの?嫌でしょ?普通」
「そうだね。気分がいいわけじゃないけど、でも結局は美園は俺の子だからね」
「・・・・・・」
咲良は奏空がどうして許してくれていて、おまけに美園を可愛がってくれているのが理解できなかった。自分なら絶対に無理だろうと思う。
「咲良、気にしないでよ。一回親子っていうしがらみを自分で解いてみな。”家族”っていう呪縛に気づけるよ」
「呪縛なの?」
「そうだよ。こうじゃなきゃならないって言うのは全部呪縛」
「・・・・・・」
「そういう意味では咲良のお腹を通って美園が来ただけなんだよ。誰の子だとかそういうことじゃないんだ」
「そんなのって世間じゃ通用しないよ」
「世間って?」
「世間って、人のことだよ」
「そうだね。通用してないのは”世間”の方なんだよ。こっちの方が断然リアルだからね」
「よくわからない・・・」
「ん・・・」と奏空が口づけてきた。
「とにかくいいの。俺の子なんだから」
「・・・ん・・・」
「・・・じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」と咲良は奏空に言う。
それから数日して美園は学校に行き初めて、日常生活に戻った気がしていた。けれど一週間後の週刊誌の見出しに<天城奏空 子供は父親天城利成の子?>という見出しが出て、咲良は血の気がサーッと引いた。
(どういうこと?)
何がどうしてそんな話が出たのか・・・。
<血液型の謎>と言う言葉もあった。もしかしたらあの美園が虫垂炎で入院した病院の誰かが漏らしたのだろうか?
(病院では用心してそのことを奏空には聞かなかったのに・・・)
「どういうこと?」とその日の夜美園が寝静まると咲良は寝室で奏空に聞いた。
「俺もわからないよ」
「だって、こんなの誰も知らないはずでしょ?」
「そうだね」
「どうしよう・・・子供のことなのに・・・こんな記事が出るなんて・・・」
「まあ、そういうことはあんまり考えてないからね」
「そんな!吞気に言わないでよ!」と咲良は怒鳴った。
「咲良、落ち着いて。大丈夫だから」
「何が?大丈夫?美園が知ったら?」
「あのね、騒げば思うつぼだよ。美園には否定すればいいだけだよ」
「思うつぼって?誰かがわざとこういう記事を載せたってこと?」
「んー・・・そうだね・・・わざとはわざとだろうね」
「ひどい!そんなの」
「咲良も一時は芸能界にいたからわかるでしょ?・・・多分だけど、これは利成さん側から来てるよ」
「利成?」
「そう。咲良をやりこめたい思いを持つ人もいるでしょ?明希がやられたようにね」
「・・・・・・」
「だから騒がないのが一番だよ。噂の範囲なんだから」
「でも・・・美園が・・・」
「美園が聞いてきたら今は普通に否定したらいいでしょ?」
「そうだけど・・・」
「そうだよ。大丈夫だよ」
奏空は大丈夫だと言ったけれど、咲良は美園のことが不安でしょうがなかった。
(利成側って・・・)
どうしても気になって利成にラインを入れた。
<今回の記事で話があるんだけど・・・>
その日の夜に利成から電話があった。
「もしもし?」と咲良が出ると「今回の記事って?」と聞かれる。
「週刊誌、見てないの?」
「見てないけど、俺も記者から聞かれたよ」
「何て答えたの?」
「いちいち答えなかったよ」
「何で?ちゃんと否定してよ」
「否定したところで同じことだよ」
「同じじゃないよ。黙ってる方がそうだって思われるでしょ?」
「黙ってようが否定しようが人の心の中の問題だからね。一度出てしまったものを回収はできない。騒がないのが一番だよ」
「じゃあ、美園には?!みんな美園のこと考えてないでしょ?」
「美園にはあの記事は違うと答えればいいだけでしょ?」
「そうじゃないよ・・・」
咲良は涙が出てきた。自分がそもそも悪いのだという思いでいっぱいになってくる。
「咲良・・・大丈夫だから落ち着いて」
「落ち着けって?!利成のせいでもあるじゃない?」
咲良は大声を出した。だんだん自分の感情を制御できなくなっていく。
急に「利成さんのせいって?」と声が聞こえて咲良は飛び上がらんばかりに驚いた。美園は部屋にいるとばかり思っていたのだ。
「あ・・・」と咲良は咄嗟に声が出なかった。
「咲良、利成さんのせいって?」と美園がもう一度聞いてくる。
「何でもないの、美園。部屋に戻ってて」
「何でもないわけないじゃない。電話、利成さんなの?」
「そうだけど・・・」
「じゃあ、貸して。何の話ししてたか聞くから」
「美園には関係ないことだよ」
「関係あるじゃん。きっと」
「ないって。あっちに行ってて!」
咲良が思わず大声を出すと美園が「じゃあ、自分でかけてみる」と言ってリビングを出て行った。
「咲良?」と利成の声が電話から聞こえる。
「聞こえてた?美園が今利成にかけるって」
「そう。わかったよ。ちゃんと話すから咲良は心配しないでいいよ」と利成が言う。
咲良が通話を切って美園の部屋の前まで行くと、中から美園の声が聞こえてきた。利成はうまく話してくれるだろうか・・・。気になるけどしょうがない。
咲良はまたリビングに戻ろうとすると、玄関の扉が開いて奏空が帰って来た。
「ただいま」とちょうどいた咲良に奏空が言った。
「おかえり」
「どうかした?」と奏空がリビングに向かいながら言う。
「・・・・・・」
咲良は黙ったまま奏空の後ろからリビングに入った。
「美園が利成に電話してる」
「そう。何で?」
「今回のことだよ」
「美園にわかっちゃったの?」
「わからないけど・・・何だか美園、知ってるみたいな口ぶりだった」
「そうなんだ」と奏空がソファに座った。
すると足音が聞こえて美園がリビングに入って来た。
「奏空、おかえり」と美園が言う。
「うん、ただいま」と奏空が手を広げると、美園が奏空に抱き着いた。幼い頃からの習慣だ。
「美園?利成さんと話したんでしょ?」と咲良が聞くと「話したよ」と素っ気なく答える美園。
「何て言ってたの?」
「さあ」とつっけんどんに美園は答えて、奏空の隣に座った。
「さあって何よ?」
「・・・いちいち咲良に言わなくてもいいじゃん」と美園がひどく反抗的だった。
「何よ、その言い方」
「じゃあ、咲良もさっき利成さんと何話していたか言ってくれる?」と美園が言う。
「・・・・・・」
「ほら、言わないでしょ?だから私も言わない」
「美園?!何なの?その反抗的な態度は」と咲良は感情的になっていく。
「反抗なんてしてないよ」と美園。
「してるよ!」と咲良が怒鳴ると奏空が「咲良、ちょっと来なよ」と自分の隣のスペースを手で叩いた。
「何で?!」と更に苛立って咲良はリビングから出ていった。
寝室に入ってベッドの上にどさっと座る。自分でもどうしてこんなに苛立つかわからなくなってきた。確かにあんな記事など放っておけばいいのだ。美園には「あんなのデタラメ」だと言えばいい。
でも気持ちが騒いだ。咲良はあれから妊娠していない。何故か奏空との間には子供ができないのだ。
イライラが収まらないままじっとしていると、まだ握りしめていたスマホが鳴った。表示は利成からの電話を示していた。
「もしもし?」
「咲良?」と利成の声が聞こえる。
「・・・何?」
「さっき美園にちゃんと言っておいたから」
「何を?」
「週刊誌の記事のことだよ。あれはデタラメだからって」
「週刊誌の記事って・・・美園、知ってたの?」
「知ってたみたいだよ。ネットで見たらしいよ」
「そうなの?・・・で、美園は何て言ってたの?」
「納得してたよ。嘘だってことに」
「そう・・・」
「美園は大丈夫だよ。咲良の方がまずそうだね」
「私?私は大丈夫だよ。美園のことが気になっただけで」
「そうか・・・」
「明希さんは何か言ってる?」
「明希?明希は特に何も言ってないよ」
「そう・・・何か昔明希さんも悪く言われて色々書かれてたでしょ?」
「そうだね。明希もあの頃はひどく参ってたけどね。今はおそらく大丈夫だろうね」
「強くなったってこと?」
「そうだね。でも元々明希は強いからね」
「そうなんだ・・・」
「けど、咲良は明希と違うからね」
「・・・弱いってこと?」
「弱いっていうより不安定かな」
「どういう意味?」
「咲良自身は強いけど、立っている場所が不安定だから、倒れる可能性があるって意味だよ」
「どういう意味?」
「奏空に聞きなよ。その方が早いから。それとも俺のとこに来る?」
「利成のとこって?家にってこと?」
「違うよ。いつも言ってるでしょ?俺のところにおいでって。咲良が不安定なのは奏空のところにいるからだよ」
「・・・そんなことない。今、利成とのせいでこんなことになってるのに、よくそんなこと言えるね」
「・・・そうだね。ごめんね」
「・・・・・・」
「気が向いたらおいで。俺はいつでもいいから。じゃあね」
いきなり通話が切れる。
(何で?何で・・・)
そうなのだ、いまだに咲良は利成が好きだった。それが今回のことに繋がっているようで、誰かのせいにしたかったのだ。
(どうしたら忘れられるのだろう・・・)
利成に「俺のとこにおいで」と言われるたびに心が揺れる。飛び込んで行きたい思いが苦しかった。
ベッドに横になってうとうとしていたら、奏空が寝室に入って来た。
「咲良?」と肩を少しゆすられて咲良は目を開けた。
「ちゃんと布団かけなよ」
奏空の声に咲良はベッドの上に起き上がった。
「美園は?」
「多分寝たよ」
「そう・・・」
「咲良、美園のことだけど、きっといつかはわかっちゃうよ。だから咲良がまず頭の中整理して自分に向き合わないと」
「・・・私が?どうして?」
「美園は大丈夫なんだよ。自分の力で何とかするから。でも咲良は不安定だからね」
(不安定・・・)
「さっき利成にも言われたけど・・・何?その不安定って」
「利成さんに?」
「そう、電話で」
「・・・不安定っていうのは、咲良がまだ利成さんを引きずってるってことだよ。明希の二の舞になりそうだってこと」
「明希さんの?明希さんと私は違うでしょ」
「違わないんだよ。同じなの。だから頭の中整理しすれば、気持ちも落ち着くんだよ。美園を望んだのは咲良なんだよ?」
「私?私ってどういう意味?」
「咲良は望んで美園を受け取ったんだよ。でも大丈夫、まだ何とかなるよ。咲良が気持ちを整理できたらね」
「意味わからない話はやめて!」
咲良は怒鳴った。頭がおかしくなりそうだった。奏空が黙っている。
「もう意味わからない。疲れた」
咲良はそう言った顔を両手で覆った。
「ごめん、咲良」
奏空が隣に座って咲良の肩を抱いた。
「何で謝るのよ」
「意味不明なことばかりだよね。咲良の気持ち考えなかった」
「いいよ。そんなこと。そもそも私が悪いんだから」
「自分を責めないで・・・」
「・・・・・・」
「寝ようか?」
「奏空、セックスして。最近してない」
「・・・・・・」
「嫌?」と咲良は顔を上げて奏空を見た。
「嫌じゃないよ。そうだね。してなかったよね」
咲良は立ち上がって服を脱ぎ始めた。そして下着だけになるとベッドに入った。奏空もベッドに入ってくる。
奏空からの口づけも、愛撫もすべて咲良にはじれったく感じ、ただ苛立ちだけが身体の奥底から湧いて出ていた。
奏空が中に入って来た時、咲良の頭の中には昔利成に抱かれた時の映像が浮かんでいた。
(何で奏空じゃダメなの?)
咲良は自分に聞いた。だって利成とのことなんて・・・あれはもうだいぶ昔の話し・・・。
「中に出して」と身体を揺さぶられながら咲良は言った。奏空との子供が何故できないのだろう・・・。奏空との子供ができれば・・・もしかしたら忘れられるのではないか?
奏空がそのまま咲良の中に射精した。奏空が咲良の上に脱力した。それでもまだ咲良の中の苛立ちはくすぶったままだった。