八
次の朝、観子は早くに目が覚めた。前の晩もなかなか寝つくことが出来ずにあてどなく何かを考え続けていたはずだったが、その記憶が途中で唐突に途切れているので、恐らくはその辺りで自分は眠りに落ちたのだろうと彼女は考えた。外はまだ薄暗かった。眠ることの出来た時間は長くはないはずだったが、その割に悪い目覚めではなかった。 観子は昨日、眠りに落ちる前に考えていたことの続きを考えようとした。しかし上手く行かなかった。頭ははっきりしていても、考えようとしている対象は自らに手を触れることを観子に許さなかった。水棲の生き物を素手で捕まえようとするようなもどかしさを味わっているうちに、夜が完全に明けてみんなが起きてきた。
今日の公判に、シギの町に住んでいる人間で参政権のあるものは、ほとんど全員が出席することになっていた。だから公判には、ワニヤもエリセも出向くことにはなっていたが、観子とチロウはこうした人たちよりも先に広場に出頭せねばならず、ごく簡単な朝食を、二人だけは先に済ませたのだった。
出かける前に、どうしてもこれだけは言っておかなければならない、と観子は思っていたことを口にした。「すみません。面倒を起こしてしまって。」ワニヤは、観子がこんなことを言い出すのが必ずしも意外ではないようだった。彼女はこう答えた。
「いいかい、ミコはただでさえ代理に立つんだから、この上あたしたちのことまで気にしていたらどうにもならないよ。うちを出たら、広場に着くまでにあたしたち二人のことは忘れるんだよ。じゃないと邪魔になるからね。考え事は少なくしておかないと、大事なことが考えられなくなるよ。」
そんなことが出来るものかと、観子は反論したかった。しかしワニヤはこうすらすらと話していてもそれが本気であるには違いないらしく、隣にいるエリセの険しい表情もまた、彼一流の力強さでこれに同意していた。エリセは観子と目が合うとはっきりとうなずいて見せさえした。それで観子は、黙ってワニヤの言葉を受け取るしかなかった。
チロウと二人、声を揃えて「行ってきます。」と言う時にも観子は、自分たち二人がこうして先に出かけるのをワニヤとエリセが見送るという、この普通ではない事態を作り出した原因に自分も関与していることに、自分の責任を思い出さないではいられなかった。ワニヤの店から広場までは近く、歩けばすぐに着いてしまう。頭の中で渦巻いているもやもやしたものを落ち着かせるには、到底時間が足りなかった。
広場はすでに人が集まり始めていた。公判の場であるからといって、そこに設備されているものは全然なく、ただ広場の真ん中に小さな木箱のようなお立ち台が据えられているのと、それを挟んで向かい合わせに椅子が置かれているだけだった。集まった人たちはこれらを遠巻きに取り囲むように、切れ目だらけの大きな円を作っていた。
中央の木の箱は粗末な証言台であった。原告と被告は代わる代わるに、この証言台に上がって自らの陳述を行うのだ。証言台の手前には椅子が二つ置かれていて、すなわちこれが観子とチロウの座る位置であった。そして証言台の向こうにこちらを向いて置かれた今一つの椅子には、すでに原告のウニヨが着席していた。
空の二つの椅子の右手には、やはり証言台に向いていくつかの席が設けられ、そこには何人かの人間が、座ったり立って話したりしていた。その中にゼドの姿を認めると、観子は近付いて行って自分たちの到着を告げた。するとゼドは、仲間の一人に声をかけた。椅子に座っていたこの人物は名をカイシェと言い、この男がオドの国の首長であった。カイシェは立ち上がると、観子たちに席に着いて待っているようにと指示をした。
やがて人が集まって来て、あっという間に、人だかりは観子たちを取り巻く完全な円となった。人だかりのところどころから、しきりに駆け出してくるものがいて、彼らはカイシェやゼドやほか数人の座しているあの席のところへと駆けて行き、何かを報告すると、また元の人だかりへと混じって消えた。しばらくするとそうして駆けて行く人間は少なくなり、最後には誰も動かなくなった。これが、集うべき全ての人間の揃ったこと、その出席が全て確認されたことを意味していた。
集まった人々の間からは、そう騒がしくもないかすかなざわめきが絶えず聞かれていたが、それが今、誰に命じられるでもなく自然と静まっていた。そしてあの席からカイシェが立ち上がった時、この場にさっきまではなかったはずの緊張が、はっきりと、目に見えるような形で、人々の中を走り抜けて行った。
カイシェは一歩、前へと歩み出ると、びりびりと響く低い声でこう言った。
「これより公判を行う。この訴訟は昨日、原告であるシギに滞在中のフツの人、ウニヨによって起こされた。扱われるのは一昨日の出来事である。被告はシギの人、チロウ。当人に言葉の不自由が認められるため、必要な陳述は代理として、シギの人でチロウの目付けであるミコが行う。」
原告の陳述が始まった。ウニヨは、落ち着き払った態度で、ゆっくりと証言台へと近付いて行った。余裕のある、優雅でさえあるその所作は、訴訟を起こしている人間らしくはなく、まるで招待された賓客か何かのようだった。証言台に立ち、ウニヨは陳述を始めた。
「私がここに訴えるのは、そこにいる、チロウという人物によって私の身に加えられた、傷害についてであります。一昨日、私は以前から交流のあったある女性のお宅へお邪魔していました。そこへこの男、このチロウという男が突然現れたのです。私と彼の間には面識はありません。私は、突然現れた、その女性の家へ断りもなく入って来たこの男に、内心非常な不審と、また恐怖さえも感じたのですが、努めて丁重に、相手が一体何者であるかを尋ねようとしました。」
しゃべり続けながら、ウニヨは手元で何かごそごそやり出した。彼はチロウに嚙まれた右手を包帯でぐるぐる巻きにしていたのだが、今、語っているさなか、彼はその包帯を解き始めたのだ。
「しかし尋ねても、彼は答えませんでした。後で分かったのですが、彼はしゃべれないのです。彼は私の問いかけに答えることはなく、意思疎通は取れませんでした。それだけならば良かったのです。答えの代わりに、彼はもっとひどいものを寄越しました。彼は私の目を突きました。私の股間を力一杯蹴り上げました。うずくまる私の髪をつかみ、彼は、私の手に思い切り噛み付きました。」
そう言うとウニヨは、包帯を解き傷のあらわになった右手を、高々と掲げた。血はもちろん止まっているが、傷口の赤くいびつな表面は、それを見る人間の心に自然な反応を起こさせるだけの力を持っていた。人々の間では何人かの、息をのむ気配があった。
「私は、自分は指を失うのだと思いました。この男が本気でそうしようとしているのが、この男が歯を突き立てている指の骨を通じて、私の体にじかに伝わって来るようでした。私は悲鳴を上げました。男の噛む力には変わりがありません。私は手を引き抜きたかったのですが、出来ませんでした。そんなことをしようとすれば、自分で自分の指を引き千切ることになると、そう思われたのです。どうすることも出来ず、凄い痛みに襲われながら、どうもしなくてもそのうちにこの男の歯が、私の指を噛み切ってしまうのではないか、そう思って、私は泣きました。それが、その時私に出来た、唯一のことだったのです。」
ウニヨの声が震えた。自分が語っているその場面を、あたかも今経験しているかのような、怯えた様子を彼は呈していた。
「そして、男は噛むのをやめました。歯が離れた後も、指には痛みが残りました。一昨日の出来事です。今では血も止まっていますし、傷はひとりでに、少しずつ治っていこうとしています。しかしまだ、痛みは全て去っては行きません。そして、あの時の恐ろしい思いは、むしろ日が経つにつれて大きくなるようにさえ思えるのです。」
ウニヨは上手く抑揚を付けて語った。そしてこの最後の部分へ来ると、彼は目一杯の力強さをその声に込めて言った。
「オドの国の皆さん!私はフツの人間です。私は、この国が、シギの町が好きで、今までに何度も訪れています。私は、皆さん、不可解なのです。納得がいかないのです。どうして、このような仕打ちを、私は受けなければいけなかったのでしょう。どうしてこのような暴力がありうるでしょう。このオドのような、良く治められている国家において、いわれのない、理不尽な、一方的かつむごいこのような行いが、どうして看過されうるでしょう。皆さん、私の好きな国の国民である皆さん、どうか皆さんの正しさに基いてこの件を扱って頂きたい。私が訴えを起こすのは、ひとえに、裁かれるべき悪が、皆さんの正義の目をかいくぐって逃げおおせるのを、許さないためです。それを許すことがないよう、皆さんにどうか、お願いしたい。」
こうしてウニヨは陳述を終えた。彼が語っている間、その声に耳を傾けて言葉の一つ一つを追いかけることに、この場の誰よりも熱心であった一人が、観子だった。彼女がここにいる一番の理由はチロウの弁護であったが、潜在的にはユアンの名誉を守ることも、この訴訟の意義に含まれていた。そしてそのどちらの立場から言っても、ウニヨの語った言葉に、観子は完璧に刺激されていた。
(良く分かった。こいつは馬鹿野郎だ。)そう怒れる観子は思った。(暴力!暴力だと!それはお前のだろう、お前がユアンに振るったものの名前だろう。一体どの口が、自分自身不法にも振りかざした力に対する咎を、他者に向かって言い渡すことが出来るんだ?お前が名指しにしている罪はお前自身のものだ。チロウのじゃない。絶対に違う!)
そして観子の番が来た。待ってました、とばかりに証言台に上がった観子には、言いたいことが山ほどあった。粗末と言うほかない、簡素な、ただの木で出来た箱に過ぎない証言台は、しかし実際に立ってみると、そこが特別な場所であることを確かに感じさせた。観子は少し高くなった視点から受け取る光景に、ひるまないようにしようと意識をした。これだけの人数、この場の全ての人間が、自分に注意を向けている。この人たちの全てに対して、チロウの無実を証明し、ウニヨの悪を暴くのだ。そういう意気込みを胸に、観子は語りかけた。
このウニヨという男の言葉に耳を貸さないように、そう聴衆に呼びかけるところから観子は始めた。その根拠として観子は、このウニヨがいかに浅ましい人格の持ち主であるかということについて指摘した。この人物は自分の悪だくみが失敗に終わった腹いせに、それを阻止した人間をいわれのない罪によって攻撃しようとしている。しかしそれは、悪人が、自らの悪行を妨害するものを、彼の視点から悪人呼ばわりするのと同じことである。ウニヨという人物のねじ曲がった精神が、そうした詭弁を弄するという恥ずべき行為を可能のものとしている。彼は他者を非難するよりも先に、自らを反省すべきである。そうして初めて、彼は自分がここでこうしていることの意味を、客観的に理解するだろう。自分が現在していることの間違いと、この間違いに先立つ同じく間違った自らの行為と、そのような行為に自分を走らせた、自分自身の中にある間違いに、自らをよくよく省みたのち、初めて彼は気付くことが出来るだろう。等々、こうしたことを観子は力強い言葉で語った。
全てこうした言葉は、先のウニヨの陳述が行われているさなかから、観子の内部で次から次へと湧き出ていた。観子はこれらの言葉を慎重に選び、その順序を整えた。怒りが言語の姿をまとうことで現れたこれらの言葉は、その源泉である感情とは不可分であり、そのため観子はこれを頭の中で整理する間だけでも、何度もその感情に引きずられるのを感じたのだった。
自分が口にしている言葉の持つ、人に働きかける感情の強い作用を、観子は良く分かっていた。これを声に出す時、それは聞き手にも同じく作用するものだと、彼女はそう思っていた。何かがおかしいということにある時点で気が付いて、依然として語りながら、一体この違和感は何であるか、彼女は考えその答えを探し、ついに、自分に注目している聴衆の表情にその解を見出した時、彼女は、自分が期待していたような言葉の作用が、聴衆の中の誰にももたらされてはいないことを知った。
(まずいよ、ミコ。)
ミトカはそう心の中で言った。観子が違和感として感じ取ったのと同じものを、ミトカもやはり感じていたのだが、彼はこれを観子の違和感のように漠然と感じるのでなく、その正体と、何よりその深刻さに、気が付いていたのだ。
(ミコ、良くない。そんな人の悪口なんかどうだっていいんだ。いや、どうだっていいなんてもんじゃない、君がそれをやればやるほど、君と、君がかばわなきゃいけないチロウの立場が、どんどん悪くなっていくっていうのに。しまったな、説明の仕方を間違えた。訴訟はもっと淡々と、事実を述べる場なのに。そんな風に心情に訴える言葉は、なるべく排除しなくちゃいけないのに。そういうのは道理のない人間がその贋物をこしらえて、正義を擬態するやり方として忌み嫌われているんだ。まずいよ。そんな立ち回りをしていたら、心証は最悪だ。)
ミトカは、予想外のところから失敗の可能性が出て来たのを見て焦った。今さら焦ってもどうすることも出来ないということが、余計に彼を焦らせていた。彼はまさか観子がこんなに激しやすく、こんなに簡単に相手の挑発に乗ってしまうとは、全く考えていなかった。自分が気を付けておかなければいけなかったのは、観子に忠告を与えるべきだったのは、まさにこのことについてだったのだ。今になってそれを知り、ミトカは後悔していた。彼自身の言葉の通り、ミトカはこの案件を本心から簡単なものと思っており、もしも観子ではなく彼がチロウの代弁者であったなら、実際に彼は確実な成功を収めていたに違いなかった。そしてそんな彼には、観子がかくもつまらない失敗を犯すと、予想することは出来なかったのだ。
(ミトカ、君がついていてこの有り様とは。一体昨日は何を話し合ったのですか?)
こう、心中でつぶやいたのはゼドだった。ミトカの頭を占めている問題と同じもののことを、ゼドもまた考えていた。ただ彼がそれを捉える切り口はミトカとは異なっていた。こうした場合にゼドがすぐに思うのは、彼の隣に座っている、首長のカイシェのことだった。
(こういうのを、彼は何にもまして嫌う。そして皆、カイシェがこれを嫌うことを分かっています。すると結局、こういう立ち居振る舞いは誰からも嫌われる、ということになる。ミトカがこれを教えていなかったのだとしたら、失態ですね。この地に不慣れな人間にとって、これは多分予備知識の問題なのに。もめ事を起こして、仲裁者の前で自分の言い分を述べる時、人間誰でもああいう風になるのが普通でしょう。周りの人々も、最後にはどうしても、心情に引きずられて判断を下す。それは事実で、どうにも出来ません。その心情に最初から訴えることをカイシェが嫌う理由も、恐らくは、そこにある。)
渦中にあるもう一人の人物、ウニヨも、やはりこの場の雰囲気を感じ取っていた。このウニヨが、こうして訴訟を起こすにあたって持っていた考えとは、昨日ミトカが予想して見せたものと、内容から言っても程度から言っても、おおむね一致していた。ただミトカも、観子も、誰も予想し得なかったことには、彼、ウニヨは、今この場にあるこのような形勢を初めから期待していたのだった。彼には彼なりの勝算があった。今、彼はこの場に見出された自分の有利を、余裕の態度で眺めているところだった。
(しかしまあ、何という茶番だろう。この国では、これが裁判なんだ。馬鹿馬鹿しいが、本人たちは本気なんだから、余計に馬鹿だ。専業の裁判官もいなければ明文化された刑法もない。おまけに、名誉罰!こういうおままごとに精を出して、これで、この国の人間は自分たちの国を治めている気でいる。この手の田舎者の国はみんなそうだ。これは国家なんてものじゃない。フツをその首都とするキキという巨大な国家の、属州に過ぎないんだ。フツの人間はみんなそういう目で、オドやオドのようなほかの国のことを見ている。これらの国が掟と呼んでいる古ぼけた風習を保存出来ているのも、結局はフツの寛容さのおかげなんだ。しかしまさか自分がその風習に巻き込まれることになるとは。初めて入国する時に少しその辺のことを調べておいたのが役に立った。)
これが彼の、訴訟を起こすことに思い至った心理的背景だった。彼は訴訟を含め、オドの国でとり行われている社会制度全般を、用をなさない古びたものとして軽視していた。それは彼の考えている通り、彼の国、フツの、特に都市部の人間の間では、誰もが同様にしていることでもあった。
(あの暴力馬鹿が妙にどもるから、とっさにひらめいたことだったが、結果、上手く行きそうじゃないか。しゃしゃり出て来たあの娘が同じく馬鹿で良かった。いずれにせよこの国とはこれでおしまいなのだから、私には失うものがない。だが後少しでものに出来たはずのことを台無しにされて、黙って許してやると思うなよ。仕返しに痛い目を見せてやる。可能性があるに過ぎなかったものが、どうやら成功しそうだぞ。)
ウニヨはこのような考えを、声を発することなしに視線を通じて相手に伝えようとするぐらいのつもりで、心の中で念じた。彼がそんな風に力を込めて注目している対象、観子は、しかし自分の陳述とそれがどうも上手く行っていないらしいことに対する困惑とに忙しく、ウニヨの熱い視線には気付くことがなかった。
観子が陳述を終えるとウニヨが再び証言台に上がり、彼の二度目の陳述を行っていた。オドの訴訟では、原告と被告の双方が、それぞれ二度の陳述を行うことになっていた。ウニヨの話す言葉が観子には聞こえていたし、その内容も理解出来ていた。しかしそうした理解力とは別のところで、観子は今、考える能動的な力を一時失っていた。彼女は目の前で起きていることをただ眺めるばかりで、それに対してどう振る舞うべきかを考えることの出来ない、無力な傍観者と化していた。一つだけ、彼女は判断を下すことが出来た。それは、このままではいけない、ということだった。それ以上のことを彼女は考えることが出来なかった。眼前の、一定の速度で確実に進行していく事態を見ていて、観子は、絶対に太刀打ちの出来ない強大な存在が自分を踏み潰しに来るのを、どこか他人事めいた気持ちでただ待っているような、そんな不思議な気分を感じていた。
観子は呆然としていて、その声が聞こえているからと言って特にウニヨに注意をしていたわけではなかった。不意に、ウニヨがその言葉のどれかに強い抑揚を与えたことで、ああ今、この男がこうして話をしているところだった、そう観子はまた意識を取り戻した。ウニヨがそこにいてしゃべっていることを思い出すと、観子には続けてほかの人間の存在が思い出された。彼女が視線を右へやると、そこに並んでいるカイシェやゼドたちの、何となく厳しさのある表情が目に入った。観子はそこからすぐに目をそらしたい気持ちになった。かといってほかに視線を向けるあてがあるのでもなかったが、むしろそのことがきっかけとなって、彼女は、おかしなことに自分がこれまで失念していた、すぐ隣に座っているはずのチロウのことを思い出したのだった。
観子は隣にいるチロウを見た。チロウもすぐこちらを向いて、目が合った。観子はその目をよくよく覗いて見たが、いつも彼の目に見つけられるもののほかには何も見られなかった。例の呆然とした力ない状態のまま、観子はこのチロウという人物について考え始めた。
(チロウ。チロウはきっと、争われているのが自分のことだと分かっている。だけど傷付けられるかも知れないのが自分の名誉だということは分からないだろう。それが実際に傷付いた後でも、チロウはその意味を理解しないんじゃないか。その傷が理由で被ることになる不利益を感じ取ったとしても、チロウがそれを抗議するだろうか。じっと黙って、耐えてしまうんじゃないか。誰かを恨むことも、恨むべき誰かがいることも、考え付かないままで。こういう時、私たちは、それが他人の身に起きたことなら、どこかで『本人にも一因がある』と考える。そして自分が当事者となった時には、人はそんな風に、原因は自分にもあると考えているに違いない、そう思わずにいることが出来ない。チロウがそんなことを考えるだろうか。とてもそうは思えない、こいつは、そんな風にはとても見えない。どうしてこいつはこんな風なんだ?こいつが元いたのは一体どんな世界なんだ?こいつの場合、私以上に、『以前どこにいたのか』よりも『以前どんな生活を送っていたのか』が疑問なんだ。出会って早々、女と見るや、事に及ぼうとする。ユアンにしたって、その現場に出くわしたというだけで、男を力ずくで動けなくして、自分が後を引き受ける。私やここの人たちからすれば異常なことが、チロウにとってどれくらい当たり前のことなのかを、私たちは知らないんだ。もし、元々のこいつがけだもので、こいつの本性が、そんなにも滅茶苦茶なんだとしたら、今日までの間、こいつは一体どれだけ自制してきたんだ?そんな自制も、こいつにとってはやれば出来てしまうことだったのか?違う。難しいことだから失敗したんじゃないか。簡単なことじゃないから、つい、しくじって尻尾を出したんじゃないか。そういうことにならないようにするために、こいつはこいつで、真剣だったんだろうか。真剣!こいつの目が、真剣じゃなかったことなんてないのに!そうだ、きっと真剣だったんだ。必死だったんだ。だけど失敗した。そうさ、真剣にやったからって必ず上手く行くなんて、そんな保証はどこにもない。だけど、これが?真剣に取り組んだ末に、結果がそれを裏切ることがあるとしても、これがそうなのか?違う、そうじゃないだろ!私が、ここにいるのは、そうさせないために、それを覆すために、そのためにいるんじゃないか。私はここに、それをするために来たんじゃないか!)
観子は顔を上げて、証言台にいるウニヨを見た。雄弁を振るうウニヨと、その向こう、自分たちを取り巻いている群衆の表情を、観子は見た。彼女は自分の今いるまずい状況のことを思い出した。チロウの、彼がこの町で暮らし始めて今日までに作り上げたものが駄目になろうとしている、そのことを、観子は思い出した。今まさに壊されようとしているものが、壊されていくゆっくりとした過程を見ながら、また、これを食い止めることが出来る唯一の人間でありかつそれを実際には出来ないままでいる、自分の姿を思いながら、観子の中には今再び、熱意と、それに伴う焦りとが生まれていた。
(チロウは悪くない。少なくとも、一方的に非難されるほどの悪いことを、してはいないんだ。チロウをかばわないと。チロウが、かばう余地のある人間だということを、何とかして分かってもらわないと。このままじゃ駄目だ。このままチロウが悪者になるのは、そんなのは絶対に正しくない。何を言えばいいんだ。ちゃんと説明すれば分かるはずなんだ。どう言えばいい。考えろ、考えるんだ!)
それをする時間は、彼女にはなかった。ウニヨが彼の二度目の陳述を終えていた。次は、観子の番だった。
ほとんど全く、何を言うべきかについてのまとまった考えを持たないまま、観子は二度目の陳述に立った。これが最後の機会だということは分かっていたし、チロウを守るためには、自分はここで何か決定的な言うべきことを言わなくてはいけない、それも観子には分かっていた。しかしその言うべきことが何であるかは分からないままだった。それでもう彼女に出来たのは、思い付いたそばからそれを言葉にしていくということだけだった。自分が何を言っているのかは分かっていても、それがどんな文脈を形成しているのかは、もはや観子には分からなかった。それが聞く人に何を訴えるかを予見することはもちろん出来ず、現に目の前にいる人々が自分の言葉から受けている印象がどんなものかということも、彼女は最後まで、人々のその表情から酌むことが出来なかった。
「ここにいる、このチロウは、あの人を、原告のウニヨを怪我させました。二人には面識がありませんでした。二人はあの日、一昨日の、祭りの日の夜に、あの場で初めて顔を合わせたのです。チロウがあの場所にいたのには理由がありました。私もそこにいました。あの家に、ユアンという女性の家に。私たちがそこへ行ったのは、祭りの、広場でかがり火が焚かれた後、そのユアンという女性と、原告のウニヨ、二人の姿を見かけたからです。私たちは、二人が広場を離れてユアンの家の方へ向かうのを見ました。一方で私たちは、その時ユアンの母親が使用人を連れて広場にいることも、知っていました。ユアンの家には誰もいないことが、私たちには分かりました。誰もいない家に二人が行ってどうするのか、私は分からなかった。ウニヨはユアンを強引に促して、ユアンはそれに渋々従っているように見えた。だけど自分の母親が家にいないことを知っていたら、彼女がそんな風に簡単について行くとは、私にはとても思えませんでした。ユアンとウニヨの関係がそんなものではないことを、私は知っていました。私はそれを、当のユアンから聞いて知っていたのです。彼女はウニヨに心を許していなかった。無人の家でウニヨと二人だけになるような状況を、彼女が許すはずがなかった。私は不安になりました。二人の姿を見送って、その場に留まっていることが、私には出来ませんでした。私たちは後を追った。ユアンの家を目指して走って、家が見えた時、私が「あれだ!」と叫ぶと、チロウが一人先に駆けて行きました。そして私が遅れて家に着いた時にはもう、ウニヨは怪我を負っていました。彼がその怪我をどのようにして負ったのかは、彼自身の語った通りです。その場にはユアンがいて、彼女もその光景を見ていたのだから、それは確認の出来ることです。私の感じた不安は間違っていなかった。私たちが駆け付けなければいけないような出来事は、あの時、実際に起こりかけていました。ユアンと二人で無人の家へ行ったのはウニヨの策略だった。誰の助けも来ない場所で、彼はユアンを、力ずくで自分のものにしてしまうつもりだった。彼はすでにそれに着手していて、後少しでそれを完遂してしまうところだった。それを止めたのがチロウでした。彼は容赦のない暴力でウニヨを鎮圧してしまいました。鎮圧して、それ以上のことを彼はしなかった。そこへ着いた時、私は、間に合ったと思い、ただそれだけを安堵しました。その後で、ウニヨがチロウを訴えると言いました。これはやり過ぎだと。私は、皆さんに判断をゆだねる前に、チロウの行為が何のためであったかを語ろうとしました。最後に、チロウがもしも有罪とされるなら、泣いている女に覆い被さっている男に対して、手心を加えなければならない理由とはどんなものかを、説明して頂くようお願いをします。」
そして、陳述の時間はこれで終わり、次に審議が始まった。今日この場に、シギの町の人間で参政権を持っているものは原則として全員が集っているはずだった。シギの住民たちは、近隣に住まうもの同士、五戸から十戸ほどの単位で一つの集団『班』を形成しており、それぞれの班は一人の代表者『班長』を持っている。この訴訟とここに訴えられている人間とをいかに扱うべきかが、これら班の一つ一つにおいて話し合われる。しかるのち各班長はそれぞれの班における結論を提出する。カイシェやゼドたちがそれらを取りまとめ、それらの総合から、判決が導き出されるのだった。
こうしたことを、観子はミトカから説明を受けて知っていたし、今それを思い出してもいた。ただこの時間を実際に過ごすことが、自分という当事者が判決を言い渡される前段階として経験するこの審議の時間が、どんな重苦しさで自らを襲うことになるのかを、観子は教わっていなかったし、それは教わることの出来るものでもなかった。
各々の班へ散っていた班長たちが、再びカイシェたちのところへ、自分たちの出した結論を提出しに行く。つつがなく、速やかに行われるやり取りを見るうち、観子はある恐ろしいことに気が付いた。結論は、出ているのだ。話し合うと言うが、住民たちの一人一人はすでに、陳述が終わった段階で、自分の腹を決めているのだ。また話し合うと言うほど意見が対立することもなければ、覆したり覆されたりすることもなく、班長は班の総意を生成することにさして苦労もせず、ただそれを伝達する簡単な役目を果たすだけなのだ。気をもむ余地すらなく、自分の運命はすでに決まっていて、後はそれに姿を与えるだけ、そのための作業が目の前で行われるのを、観子は今見ているのだった。
(もしチロウが有罪になったら)
そんな考えが観子の中に浮かんだ。
(もしそうなったら、実際どうなるんだろう。チロウは、無闇に暴力を振るって人を傷付ける人間、そういうことになってしまう。すると、どうなるんだろう。エリセさんの仕事は客商売ではないけど、ほかの職人との関わりが常にある。周りの人間がチロウを犯罪人と見なすようになると、どういうことになるんだ。エリセさんは請け負いで仕事を取ってる。そういう仕事は、チロウが有罪となった後でも、変わらずもらえるものなのか。いや、そもそも、それこそ、もし仕事に支障が出たり、仕事そのものが減るようなことになるのなら、それでもエリセさんはチロウの面倒を見続けてくれるのか?)
考えはひとりでに、いくらでも湧いて来ては、凄い勢いで観子の中を満たしていった。
(もしそれを、選ばなくちゃいけないようなことになったら、私はエリセさんやワニヤさんに、チロウのために身を切ってくれというようなことを、頼むことが出来るのか?エリセさんとワニヤさんは、私たちが世間体の悪い存在となった後もまだ、私とチロウを自分たちのところへ住まわせてくれるだろうか。もしもそうはしてもらえないということになったら、私は、どうする。どうすることになるんだ。私とチロウの関係は、私は、目付けは、目付けの役は、ところで、降りることは出来ないのだろうか。降りる?それが可能なら、それなら私は、どうするんだ。チロウを一人、ほっぽり出して、私一人、ワニヤさんのところで身の安全をあがなうのか。馬鹿な。くそ、考える価値のないことばかり!)
自分の中で悪さをしている何かがこうした考えを生み出している犯人であるかのように、観子はその何かをしかりつけて黙らせようとした。しかし手応えは少なく、その何か、どこにいるのかも本当にそんなものがあるのかも分からないその何かは、現に、言うことを聞きはしなかった。どこか一箇所を塞ぐたびに別の箇所が新たに漏れ出すようにして、(しかし実際、私とチロウが今すぐワニヤさんのところを出ていかなければならないとしたら、何をどうしたらいいんだ?ミトカは手を貸してくれるのか?あの人、ゼドさん、いや、ユアンは?ユアン。私は、そんな風にユアンを頼るということが、出来るんだろうか。)などといった、それを考える観子自身が評価するところの『考える価値のないこと』の数々は、結局観子の意思によって止まることはなく、あふれ続けた。
審議が滞りなく進行していることはそれを見ている観子にも分かるのに、自分が今いる時間を苦しいものとして過ごしている人間の常として、観子にはこの時間が異様に長く感じられた。そしてその間中ずっと、例の、溢れ続けている不愉快な考えと闘わなければならないので、審議が終わる頃になると、観子はもう早く済んでくれ、早く終わりにしてくれ、とそう祈ってばかりいるような有り様だった。
班長の最後のものが報告を終えると、カイシェやゼドやほかのものたちが何かを話し合った。そして何かが確認あるいは合意され、彼らがうなずき合ったのち、カイシェが数歩、前へと歩み出た。
歩み出ながらカイシェは、辺りをゆっくりと見回した。それはまるで、彼が最初の一歩を踏み出した瞬間、息をのむように沈黙し、また同時に、張り詰めたような注意を彼に向け浴びせ始めた群衆に対して、彼らが必要な緊張を正しくたたえているかどうか、確かめているようであった。
そんな風に威厳を持って周囲を見渡しながら、数歩進んだ先で立ち止まり、カイシェのよく通る低い声が、次のように言った。
「今回の一件は、シギに滞在中のフツの人ウニヨが、シギの人チロウによって加えられた傷害について訴えたものである。その傷害の性質と、そこへ至る経緯について、原告と被告それぞれの言い分を我々は聞いた。それを受け、本件に対し、我々の下した判断は次の通りである。」
続いてカイシェは最終的な結論を述べた。それが語られる間、それを聞くウニヨの顔は、これだけの人数が一ところに集まっていて、しかもそのうちの誰一人として何かの強い感情を顔に出しているものがおらず、全員がただ落ち着きと少しの緊張とを表情にたたえている、この場にあって、唯一、強い感情表現のしかも急激な変化を見せていた。観子は、結果が示されて、それが安堵すべきものであることが分かってみて、かえって、辛うじて回避することが出来た悲惨な結果を、それを招き寄せていたかも知れない自分のしでかした失敗を思って、恐ろしさに身を凍らせた。
「被告のチロウにはいかなる罪も認められない。反対に、ウニヨ、このものを、強姦に及んだその罪によって、速やかな出国を命じ、以後このオドへの入国を禁ずることとする。」
この場に集まっている人々を貫いていた緊張は一気に弛緩した。至るところから人の声が漏れ、それらが折り重なってざわめきとなった。
観子は呆然としたまま動けずにいたが、視界の向こうで、やはり動けないままでいるウニヨの元へゼドが近寄るのを彼女は見た。ゼドが何かを語りかける間、ウニヨはそちらを向かず目の前の地面を見つめたまま、黙ってそれを聞いていた。そして顔を真っ赤にして怒りに震えているウニヨの姿を、観子は見たのだった。
ゼドはウニヨのところから、今度は観子の方へと歩いて来ると、こう言った。
「お疲れ様でした。公判はこれで終わりです。あなたたちには何も処分がないので、これで引き上げてもらって結構ですよ。」
あっけない終わりの言葉に、観子の中ではこれを、速やかに退席するように、という意味に捉えるべきかも知れないという心理が働いた。それで彼女は座っていた椅子からひとまず立ち上がったのだが、そのままどうしていいか分からず立ち尽くしてしまった。ゼドはそんな彼女には注意を払わず、カイシェたちのところへ戻って行った。集まっている町の人々も、段々と帰宅するなり仕事へ戻るなりして行くようだった。
「ミコ。」
そう観子を呼ぶ、チロウの声が聞こえた。観子が振り向くと、彼女の横で、チロウもまた立ち上がっていた。
「ああ、チロウ。良かった。何とかなったよ。」
観子は最初、自分がこうして固まっているせいで、チロウはどうして良いか分からず不安なのではないかと考えた。とりあえず、公判が終わって心配事が解消したことを、まず分からせてやるべきだと彼女は思ったのだった。しかしチロウは観子の言葉には反応を示さなかった。チロウは真剣な目をしていた。観子は、チロウが何か言おうとしているのではないか、そう漠然と感じた。
「ミコ。」
「うん?」
「ミコ、ありがと。」
不意を突かれて、観子は一瞬、反応が出来なかった。しかしすぐに、はにかむような笑みがこぼれてしまい、それで彼女はようやく、ここまでの緊張を解くことが出来た。
「いいさ。チロウ、私もお前にお礼を言おうと思ったんだ。ユアンを助けてくれてありがとう。ユアンが無事だったのはお前のおかげだと思う。お前がいてくれて良かった。」
自分の言葉の全てがチロウに解されたとは、観子には思えなかった。しかしチロウの表情にはもう力んだようなところはなく、安心して良いのだということをお互いが了解出来て、会話はこれで十分に成立したのだと、観子にはそう思えた。
「ミコ!」
また呼ぶ声がした。今度の声はユアンのものだった。観子が見ると、ユアンとミトカが、観子たちのところへ駆け寄って来るところだった。
「ミコ!良かった!」
「うん。ありがとう、ユアン。」
ユアンは最初から目に涙を一杯に浮かべていた。それを見た観子は自然と笑顔になったのだったが、この微笑みがかえって決め手となって、ユアンはこらえ切れずに泣き出してしまった。
「いやあ、」と今度はミトカが言った。「冷や冷やしたね。途中、結構本気であわてたよ。ミコ、君って意外と危なっかしいんだね?」
観子はこれに、答えることが出来なかった。ミトカの軽口はいつものことであり、特に今のこのからかうような調子は、彼があえてそうしているものだということが、観子には分かっていた。だが冗談だと分かっていても、彼女はそれに調子を合わせることが出来なかった。ここは笑うべきところだと頭では考えても、実際の彼女は険しい顔をして固まっているだけだった。
観子は視線を落としてしまっていて、目の前でミトカが困った顔をしているのにも気付かずにいた。ミトカは茶化すことで、過ぎ去った危機を笑い飛ばそうとしたものの、観子がこれに乗じてはくれなかったので、今や方向を転換する必要に迫られていた。彼の意図とは裏腹に、まるで糾弾を受けて沈んでいる人間のようになってしまった観子に、ミトカは改めてかける言葉を選び直した。言葉が変わり、その口調もまたさっきとは違うものとなった。ふざけたところがなくなった彼の声には、真剣さよりもむしろ、優しさが多く含まれていた。
「まあでも、上手く行って良かったよ。君だから出来たんだ。お疲れ様。」
そう言ってミトカは観子の肩に手を置いた。観子は顔を上げてミトカを見た。元々、観子とミトカにはいくらかの身長の差があったが、これまでになく近くにいるミトカの顔を見るためには、自分の顔をこれまでにない角度で上向けなければならず、それで観子は何となく新鮮な感じがした。
観子が感じたこの珍しい視界と距離感とがそこにあったのは、しかしほんのわずかの間のことだった。横から手が伸びて来て、ミトカの腕をつかんだ。それをしたのはチロウだった。彼は落ち着いた動作でミトカの手を観子の肩から取り除けると、次のように言った。
「おれの。おれが先だった。」
これを聞いて、観子もミトカもユアンも、目を丸くしてチロウを見たまま固まってしまった。この最初の反応こそ一致していた三人だったが、硬直から解けた後にとった態度は三様に異なっていた。
「あ、は、は!何だ、何か勘違いさせちゃったみたいだね。大丈夫だよ、チロウ。僕は君の獲物に手を出したりしないから。」
これを言い終えると、ミトカは盛大に笑い出した。笑いながらではしゃべれないので話す間は必死にこらえていたその笑いを、今や彼は解放して、おかしさに笑い転げていた。本人の制御を離れていて、おかしさの波が去るまでは彼が自力で笑い止むのは無理だろうということが、誰が見ても分かるような有り様だった。
ユアンはなおも目を丸くしたまま、その視線はチロウに釘付けになっていた。彼女はその顔に、何かこの世ならぬ不思議の存在を不意に目撃してしまったような、そんな驚きを浮かべていたが、この時ユアンの表情に気が付いたものはいなかった。ミトカは笑い転げていたし、チロウはミトカが退いたことに満足すると今度は熱心に観子を見つめていた。そして、彼に見つめられている観子はといえば、眉間にしわを寄せて目をぎゅっとつむり、大きなため息をついているところだった。
シギの町に来てから今日までの十数日間の生活は、それを過ごして現在に至っている観子の中に、『シギにおける普段の暮らし』として根を下ろし始めていた。しかもそのことには観子自身、気が付かずにいた。今、この三日間の特殊な時間とそれが終わったのだということが、彼女に彼女がこれから戻って行く『普段』のことを思い出させた。一昨日の祭りに始まり今日のこの公判までの、普段とは違う特殊な時間。それが今や終わったのだ。しかし、今日はまだ終わっていない。まだ半日以上残っている。
(そうだ。)と観子は思った。ほかの人々と同様、この広場に来ているはずの、ワニヤとエリセのことを彼女は思い出したのだ。二人を探そう。二人に会って、チロウはエリセと仕事へ行き、観子はワニヤと一緒に店に戻る。仕入れやら仕込みやら、夕方までの店の準備がある。今日は午前が公判で潰れてしまったから、家事も並行してやらなければいけない。こなさなければいけない色々なことが一度に思い付いたが、観子はそれらが一つ一つ、頭の中で混乱なく整理されているのを見て安心した。
ところで、この時観子が全然気が付いていないことがあった。もしかするとそれは気付く必要のないことかも知れなかった。それは小さなことで、一面的な事実に過ぎないことだった。それは、今、観子の頭に浮かんでいる用事の数々は全て、彼女が『この世界で生きていくための』行為、そう呼びうるものである、ということだった。(終)
今回で完結です。長くかかりましたがお付き合い頂きありがとうございました。次回、三月頃を目標に、完結した形で新作を投稿出来たら、と考えております。これからもどうぞ、よろしくお願いします。水原