七
翌日、観子はワニヤの店で、ミトカの来るのを待っていた。エリセはすでに仕事に出ていた。ワニヤも、洗濯を早々に終えると畑へと出かけて行った。空っぽの店内にいるのは観子と、彼女のすぐ隣に座っているチロウの二人だけだった。これから、前日にウニヨが起こすと宣言した訴訟に備えての、話し合いが行われることになっていた。実際に訴訟となった場合、言葉の不自由なチロウに代わって観子が必要な証言をすることは認められうる。そのことを観子は、ミトカによって聞かされていた。しかしオドの国の訴訟がいかなるものかを何も知らない観子は、事前に出来る限りの知識を頭に入れておく必要があった。それを教えてくれるはずの、ミトカの到着を、彼女は今こうして待っているのだった。
元の世界でさえ、自身で経験することはおろかそれを身近に感じたことすらないその訴訟の、当事者に自分はなるのだ。このことだけで、観子は昨晩ろくに眠れなかった。今も頭の中では答えようのない疑問が散乱しかつ増え続けていて、観子はそれを自分で止められずにいた。そうして彼女が早く来てくれと願っているところに、ミトカが現れた。ミトカは自分の家でするような自然さで戸を開けては店へ入って来、彼の後に続いてユアンが入って来た。
「やっぱり、届けが出ていたよ。朝一番で動いたんだ。これで正式に、あのウニヨって人はチロウを訴えたことになる。公判は明日だ。じきにここへも知らせが来るはずだよ。つまり、出頭命令だね。いかめしい言葉で言えば。」
こう言いながらミトカは観子の向かいの席に座った。彼の隣にはユアンが座った。ユアンは、ミトカの言葉が切れたところにすぐさま続けて、こう言った。
「本当に、信じられない人だわ。一晩、考える時間はあったんだから、こんな馬鹿なことはよした方が良いって、普通なら誰でも気が付くわ。」
ぷりぷり怒っているユアンを見ながら、観子はまだ何と答えて良いか、何から切り出すべきかを、分からずにいた。しかしそんな彼女を待たずに、ミトカがまた言った。
「とにかく。これで僕たちも、何もしないで待っているわけにはいかなくなってしまった。いいかいミコ、とりあえず、一通りのことをざっと説明していくから、分からないところがあったらその都度聞いてよ。」
「あ、ああ分かった。頼む。」
「よし。まず、今日のうちに出頭命令が、チロウのところへ来る。その時に、チロウがあんまりしゃべれないのを確認してもらって、陳述には目付けであるミコが代理で立つことを伝えるんだ。これは前例のあることで、認められるはずだよ。さっきゼドさんにも確かめたから、間違いない。」
ミトカは今日、ここへ来る前にゼドのところへ行っていたのだった。それはウニヨが本当に訴訟を起こすのかどうかをより早く知るためであり、その場合に必要ないくつかの確認をするためであった。
「そうしたら君たちはその公判の場に実際に立ち、その陳述を、ミコ、君は実際にしなくちゃいけない。つまり明日だ。逆に言えばそれだけだけどね、君たちが自分ですることと言えば。」
「そこでは何を聞かれることになるんだ?私はそれにどう答えればいい?」
観子が、今だ緊張した様子のまま尋ねた。
「何にも!言いたいことを言っていいんだ。公判はそれをする場所なんだよ。尋問ってやつだろう、君が言っているのは。確かに、そういうやり方をしている国はある。だけどオドの訴訟はこうなんだ。当事者同士、互いに自分の言い分を言って、それを聞いてみんなで判断する。言っていることが食い違ったり、事実が不明瞭な場合も、時にはある。だからといってそれを隅々まで調べていたら、すごく時間がかかるだろう?そういったことに時間を割き過ぎることを許さないのが、この国のやり方なんだ。訴訟は第一に、もめ事を起こした当人たちが自力では出来なかった解決を、ほかのみんなに判断をゆだねて仲裁してもらう、そういう行為だと見なされているんだ。自分たちの間で収められなかったもめ事に、みんなを巻き込んでいる、ということだね。だから当事者たちは最初から厳しい目で見られることになる。どちらかが間違っているのではなく、訴訟を起こすようなこと自体が間違いだと見なされるからだ。」
「今度の場合なら、シギの町の大人はほとんど全員が駆り出されるはずだよ。判断に携わる人数が多いほど公平性は高まると考えられているし、大勢の仲間の時間を費やさせることが、訴訟を、その当事者にとって重大な責任を伴うものにさせているんだ。実際、訴えを起こす人間には、自分が勝つことにも相手を負かすことにも、うま味なんてほとんどないんじゃないかな。それでも訴訟を起こす理由は、あるとすれば、それを公然のものとして衆目にさらすこと、そのこと自体がそうなんじゃないか、僕はそう思うよ。」
聞いていて、観子はふと、ミトカの隣でユアンが腕を組んでうなずいているのに気が付いた。観子は彼女に聞いた。
「ユアンは、本当ならあの人を訴えるつもりだった?」
「ええ。そうしようと思ったわ。そうしたとして、私自身が得るものは、確かに何もない。あの人の罪を首長へ報告すれば、あの人は国外へ追い出されて二度とオドへは来れなくなる。確かに、それで済む話だわ。でもそれをみんなが見ている前で、みんなの決定によってすることには、私は十分な意味があると思うの。ミトカの言う『理由』が、私にはあることになるわ。」
こうユアンが言うと、続けてミトカが説明を加えた。
「そこへ来てあの人がチロウを訴えるなんて言い出すもんだから、事情が変わってしまった。ユアンとミコが同時に別々の訴訟に関わることになると、二人はこうして話すことが許されなくなる。未決の訴訟の当事者同士は接触が禁じられているからね。だからユアンには止むを得ず、ウニヨを訴えないことにしてもらったんだ。」
これが、ミトカがユアンを伴って出かけていた理由だった。彼らはウニヨが本当に訴えを起こしたことを確かめると、昨晩のウニヨの蛮行を明らかにした上で、それを訴訟として取り上げはしない旨を、ゼドを通してこの国の首長へと伝わるようにしたのだった。
「ユアンは、それで良かったの?」
観子が言った。そうするほかには仕方がなかった、ということは彼女にもこの説明によって理解が出来た。観子が尋ねようとしたのは、ユアンがそれをどう納得しているのかについてであった。ユアンもその意図を分かった上で、こう答えた。
「正直言って、腹立たしくはあるわ。でもいいのよ、こうするしかないんだから。私を助けてくれたのはチロウなのに、チロウが悪者にされるのを黙って見ているなんて、私にはあり得ないことだわ。それに勝ちさえすれば、あの人のたどる運命も結局は同じなんだから。あの人の悪事を追及する役を私自身が担えないのは悔しいけど、それについても悪いのはやっぱりあの人なのよ。自分で訴訟を起こすなんて馬鹿な真似をするんだから。こうなった以上、私はミコと力を合わせて、あの人をやっつけることに決めたの。そして絶対に、チロウに汚名なんか着させないわ。」
そう言うとユアンはチロウの方を向いてにっこりと笑った。しかし、当のチロウはただぽかんとしているだけだった。
観子には今のユアンの言葉の中に、引っかかる部分があった。「あの人が、ウニヨがたどる運命が同じっていうのは、どういうこと?」そう彼女は、ユアンとミトカのどちらに向けるでもなく質問した。そしてこれに答えたのはミトカだった。
「ユアンに訴えられるにしろ、自分がチロウを訴えるにしろ、負けた時に彼を待っているものは同じ、ってことさ。国外退去と入国の禁止。そして犯した罪のために名誉に傷を受けること。これだね。」
「それだけなのか?」観子が驚きながら聞くと、一方のミトカは何が疑問なのかを分からない様子で、「それだけって?」と言った。
「もっと何か、罰が与えられるとか、そういうことはないのか?」
観子のこの質問に、すぐには答えは返ってこなかった。ユアンは何を聞かれているのか全く分かっていないようにきょとんとしていた。ミトカもしばし呆然としていたが、不意に何かに思い当たったようにこう言った。
「もしかして、あれかい。君が言うのは、罰金とか、折檻とか、懲役とか、そういうもののことかい?」
「ああ、そう、そうだ。」
「なるほどね。」ミトカは何かを納得したようだった。隣ではユアンが、相変わらず話の見えない顔をしていたが、それには気付かないまま、彼は続けて言った。
「そういうのも、あるところにはある。だけどオドにはない。この国では、刑罰といえば名誉罰のことなんだ。個人の国民に対して公に下される罰はこの一種類だけで、ほかにはない。」
「名誉罰…。」
この名誉罰という概念を理解しようとして、観子は様々な質問をし、ミトカはこれに根気強く、かつ一貫性を持って答えた。
理屈は単純だった。公判の場で罪ありとされたものにとっては、そのことの不名誉それ自体が罰となる。ただこれだけのことだった。しかし罰が罰であるためには、それが厭わしいものであること、それを厭う気持ちが人々の間で共通していることが必要なはずだった。観子はこの点を何度も尋ねた。回答はただ、ここではそれが罰として機能している、それを罰とすることで、ここの秩序は現に保たれている、それだけだった。
理屈は単純で、観子は決して、それを理解するのに苦労はしなかった。しかしそれは言葉の理解に過ぎなかった。名誉に傷を受けるということが、それが唯一の刑罰となりうるほどに厭わしいものであるとはどういうことなのか。それを感覚として理解するためには、自分自身が実際にその罰を受けるか、でなければ罰を受けた人間が人々の間でどのように扱われるのかを、彼に罰を与えたものの一人として傍観する経験が、恐らくは必要で、そのどちらも、今観子が望んで手に入れられるものではないのだった。
「まあでも、普通に考えてあのウニヨって人には勝ち目がないよ。」ミトカが言った。
「そうなのか?」
「だって元々悪いのはあの人じゃないか。自分がユアンに乱暴しようとしたところをチロウに邪魔されて、その邪魔の仕方が乱暴だなんて、そんな言い分は馬鹿げてるよ。」
「それは、その通りだと私も思う。当たり前の話だ。ならこれは、ウニヨが当たり前のことを分かっていないっていう、ただそれだけの話なのか?」
観子はすぐに納得が出来なかった。ミトカの言葉を聞いても、人間とはそうも愚かでありうるものなのか、彼女には疑問だったのだ。
「あの人なりの勝算が何かあるのかも知れない。だけどね、きっと大した勝算じゃないよ。あの人はそう賢い人間でもないだろう、というのが僕の見解だよ。悪だくみが失敗して、恥をかくことが確実で、苦しまぎれのひらめきが、逆に自分が訴えを起こすということだった。だけどその発想も見込みのないまずいものだと後で気が付いて、かといって今さら引っ込みも付かず途方に暮れている。そんなところだと思うよ。」
ミトカはウニヨを見くびる態度を変えるつもりがないらしかった。観子は不満だった。彼女にはどうしてもウニヨに何かの策があるように思われて、ミトカのこの態度は用心が足りていないと感じられた。
「私だってあのウニヨという人間が分かっているわけじゃない。だけど、誰でも分かるような間違いをあえて犯して気付かずにいるほど、あれは間抜けな人間なのか?」
観子が言った。そうしようという意思はなかったはずだが、にもかかわらず彼女の語気は強くなっていた。観子はそれに自分で気付いて、ばつの悪い気がしたものの、かといってどうすることも出来ず、今度はその言葉をユアンに向けた。
「ユアン、どう思う?ウニヨは、例えば昨日の夜のことだって、入念に準備をしていたんじゃないのか?ウニヨはチロウを訴えることをあの場でひらめいたのなら、あの時点でウニヨには何かの見込みがあったんじゃないか。だからこそ一夜明けてもその決断は変わらなかった…」
するとミトカが慌てて口を挟んだ。
「ちょっとミコ、何か焦ってないかい?さっきも言ったけど、これはこっちにばかり勝ち目のある話なんだから、下手に動かなくたって向こうが自分の掘った墓穴に自分で落っこちて行くのをただ眺めていればいいんだよ。」
「相手の不利もこちらの有利も、私は理解してる。でも、だからといって出来る用意をせずにおく理由にはならないだろう。私もお前に思い出して欲しいんだが、私が訴訟を経験するのはこれが初めてなんだ。のこのこ出かけて行って、何も分からない何もかもが初めての状況で、私は自分がきっと上手くやるだろうと高をくくることが出来ないんだ。簡単だということだけでは、自分がそれをしくじらないとは断言が出来ないんだ。」
ミトカは気圧されていたし、観子は頭に血が上っていた。だから観子はこうした言葉を、まだまだ続けて言うことが出来たはずだった。だが実際には彼女はそれをしなかった。
突然、チロウが大きな声を出してあくびをした。観子は驚いて、次に言うつもりでいた言葉を声に出し損ね、そのまま引っ込めてしまった。観子は横を向いて隣にいるチロウを見た。大きなあくびをした後のチロウは、涙でうるんだ眠たそうな目を、少し伏目にして彼の前の卓に向けていた。彼は何も、この会話を遮るためにあくびをしたわけではなかった。確認するまでもない、そもそも考えられもしないことを、観子はしかし、チロウの方を向く時に無意識に確かめようとしていた。激しかけていた自分を、チロウがなだめたように、彼女には感じられたのだ。
ため息をついてミトカの方へ向き直ると、観子は言った。
「なあ。」
「ああ。何だい?」
「チロウって、非常識だよな。」
ミトカもユアンも、観子の不意の発言にぽかんとしていた。
「どうしたんだい?確かに、間違いなく、その通りだとは思うけど。」
「でも、それなら私だって非常識だ。」
「あ、ああ。まあ、でもチロウと比べるなら、ミコの方がずっと常識的なんじゃないかな?」
ミトカはうろたえながら言った。観子が何を言おうとしているのか、彼には見当が付かなかったが、彼女のこの様子には、ミトカは十分以上見覚えがあるような気がした。
そこへ、ユアンが口を出した。
「ミコ、何を言おうとしているの?」
ユアンの表情は真剣だった。観子はユアンの目をまっすぐに見つめて言った。
「ユアン、私がチロウと初めて会った時、チロウは山の中で、素っ裸でいた。そしてその格好で、私に近付いて来た。昨日、私たちが着いた時の、チロウの様子。あんな風だった。」
ユアンは何も声には出さなかった。ただ、観子の視線から目を離さないようにしたまま、うなずいた。観子は続けた。
「だけどチロウがそんな風だったのはその時だけなんだ。昨日のことは、もしかしたらチロウにとっても失敗だったのかも知れない。でも大したことにはならなかったんだし、それに私は、こいつが同じことをまたやるとは思えない。してはいけないと言われていることなら、きっとこいつはやらないように出来るはずなんだ。」
「今回のことで言えば、暴漢を止めたはいいけどもう少し手加減しなきゃいけない。それから目の前で誰かが女を襲っているからって、自分も真似して同じことをやろうとしてはいけない、ということかな。まあ確かに、チロウは言われればちゃんと言う通りにするだろう。僕もそう思うよ。」
ミトカが口を挟んでこのように要約したが、観子にはこれではあまりにも、当事者であったユアンを軽んじているように思えて、彼女はユアンの反応をうかがった。しかしユアンの表情に不愉快そうなところは一つもなく、彼女は観子の言葉の続きを待っていた。それを見て観子は自分を励まし、残りの言葉を口にした。
「チロウは非常識な、何も知らないやつだけど、何も出来ないようなやつじゃない。何でも出来るはずなんだ。現に何でもやってのけてる。エリセさんもワニヤさんも、シュウさんも私もミトカも、みんな見て知ってる。こんな失敗なんかでつまづかせたくないんだ。私に出来ることを、私が何もかもやらずにいたせいで、チロウの出来たはずのことが駄目になるなんて、そんなのは駄目なんだ。」
ようやくミトカにも、観子の一連のチロウに関する発言が、以前のどの文脈へと接続するものなのかが見えてきた。それはまたユアンも同じだった。彼女は満足そうに「ふーん」と鼻から息を吐いて、数度大げさにうなずいた。
「だからミトカ、教えてくれ。明日までに、役に立ちそうなことなら何でも、覚えておいた方が良さそうなことは何でも、頭に入るだけ入れておきたいんだ。頼む。」
観子のあまりに熱心な眼差しから、ミトカは一瞬目をそらしてユアンを見た。しかしここにも逃げ場はなかった。ユアンはすでにミトカを見ていて、目が合うと何かを促すように、「ミトカ。」とだけ言った。観念して、ミトカは言った。
「教える、教えるとも。そのために来たんだから。僕だってそのつもりなんだ。だから、少しでいいから、落ち着こうよ。まったく。」
こうして、許される限りの時間を、観子たちは問答に費やした。昼前に通達の人間が訪ねて来て、明日の公判への出頭命令を伝えた。その場所を聞いて観子は驚いた。というのも、公判が行われるのは、祭りの間、太鼓や舞やかがり火の催されていた、あの広場においてであったからだ。