五
「おおい、ミコ!酒持って来てくれ!」
「ミコ!俺んとこも!」
こんな声が、がやがやとしている店の中でその上を飛び越えるようにして響いた。これに「はい!」と返事をしたのが観子だった。彼女は先の男たちの声に負けないくらい大きな声を出していたが、そのために彼女のこの「はい!」はほとんど怒っているような声音となっていた。しかし飲み食いしている客の中でそれを気に留めたものはいなかった。観子自身もそれは同じで、彼女が自覚しているのは『必要な返事を必要な大きさでした。』ということであり、それ以上でも以下でもなかった。酒を頼む男たちの後少しで怒号とさえ呼べそうな声と、それにやり返す観子と、それくらいの声でなければ聞こえないような周囲の喧騒。全てはいつものことだった。このワニヤの店で、この新しい日常を観子が過ごすようになって、十日以上が経過していた。
ここでの毎日は忙しいものだった。最初の日、ワニヤは観子に「祭りがあるんだよ。それで今は忙しい時なんだ。来て早々、大変だけどね。まあ頑張っておくれ。」と言った。観子は至って真面目に「はい。」と返事をしたが、やる気は本物でも、やらなければいけない全てのことが自分にとって未体験のものであるとはどういうことなのか、そこで避けられない苦労とはどんなものなのか、彼女には見通すことが出来なかった。
一日の前半はいつも家事に費やされた。掃除、炊事、洗濯。それだけのことが多くの労を要した。というのも、ここでは何をするにもまず水を汲むところから始めないといけないのだった。それらが済むと店の支度があった。ワニヤは自ら畑で作物を栽培するということをやっていて、店で出す料理のための食材も、そのいくらかはここで採れたものだった。従ってこれも仕事の一つだった。その日使う食材を収穫したり、草を抜いたり虫を取ったりしなくてはならなかった。
自家でまかなえない食材は買いに行かねばならなかったが、そうする必要のあるいくつかの品のうちの一つに酒があった。ワニヤは酒の販売権を持っていたが酒造権を持っているわけではなく、酒はそれを売るためにまず買わなければならないものだった。これは、そうする余裕のある時ならば、観子が関心を持ったかも知れない事柄であった。しかしその余裕は現状、観子にはなかった。彼女にとって酒とは、重くて運ぶのが大変な荷物でしかなかった。酒に限らず、起きてから寝るまでの間、事あるごとにやらなければならない、何らかの液体を担いでうろうろするという行為に、観子は完全に疲弊した。
肉体的なことで彼女は過酷な思いばかりしていて、もしそれだけを単独で経験していたのなら彼女はこの生活を耐えられなかったに違いなかった。しかし実際には、これは彼女が体験している全体の一部に過ぎなかった。ほかの部分、精神的なことから受ける全然別の印象があるために、これらの日々は観子にとって必ずしも辛いものとはならなかったのだ。
(デジさんと、シュウさんに酒。)観子は、注文を受けた常連客の名前を頭の中で唱えながら調理場へ入った。そこには忙しく手を動かしているワニヤがいて、そばには一つの鍋が煮えていた。エリセとチロウも仕事から戻ってはいたが、今はこの場にいなかった。二人はどうやら、外で薪割りか何かしているらしかった。(あの鍋、さっきほかの客が頼んでいたやつだ。)観子はそう考えると、ワニヤに言った。
「ワニヤさん、これ、もう出していいですか?」
「ああ、そうだね。持ってってくれるかい?」
ところが、観子が「はい。」と返事をするとすぐに、口を挟んだものがあった。
「いいわよ、ミコ。それは私が持って行くわ。デジさんとシュウさんにお酒、頼まれたんでしょう?先に出してあげて。お酒飲みのおじさんたちを待たせてもいいことがないわ。」
声の主はこう言うとにやりと笑って、言葉の後半が皮肉であることを表現していた。しかし観子は、ぎこちなく笑って「ああ、ありがとう、ユアン。」と言っただけだった。ユアンと呼ばれた女は優しく微笑んで、「ミコは仕事熱心ね。」と言った。
このユアンという二十歳の美しい女が観子の同僚だった。観子はワニヤが一人で仕事をしているものと思っていたが、最初の日、店が開く時間になってこのユアンが現れた。ワニヤは観子たち二人に対して、二人それぞれの素性を簡単に説明した。ユアンがワニヤの仲介を要したのはこの時が最後だった。この気さくな女は、観子がまだ何も尋ねないうちに、自らについてのより詳細な説明を、次から次へと話し聞かせたのだった。
「私は毎日ここで働いているわけじゃないの。何日かおきにしか来ないわ。それに一年中いるわけでもなくて、今みたいに人手が要る時だけ。私のお父さんが少し前に死んじゃって、私が働くようになったのはそれからなの。それは何も、必要に駆られてということではないの。贅沢さえしなければ、今すぐに働かなくても暮らしてはいけるわ。でも私は、これは良い機会だと思ったの。この機会に自分で働いてみようって、そう思ったの。だけど腰を据えて、仕事を人生の、むしろ人生を仕事の中に据えるところまでは踏ん切りがつかなくて、そんな私のわがままを、ワニヤさんはこうして叶えてくれているのよ。」そう言って彼女は笑い、次に観子のことを聞いた。「ミコ、ミコはここに住んでいるんでしょう?」にわかに不安が観子を襲った。どこか遠い世界からこの地に流れ着いたばかりの観子にとって、何よりも後ろめたく思われたのがこの、即座に提示の出来る身分を持たないということだった。しかし観子の思いとは関係なく、快活なユアンは物事を前向きに捉える以外の方法を採らなかった。「凄いわ。自立して、自分の労働によって生活しているってことだわ。女の子で、少しだけど私よりも年下なのに。格好良いわ。」
ユアンが評価したようなものを自分が実際には持っていないことを、観子は痛感していた。彼女の感じる後ろめたさも、まさにここから湧いて来るのだった。彼女は昨日ここに来たばかりで、今のところただ外的な要因に翻弄されているだけであり、語るべき『普段』も『自分でそれを行ったと言える何か』も持ってはいないのだった。元いた世界でも、彼女は学生の身分にある自分の現在を、将来のための準備の期間と考えて過ごしていた。彼女の頭にはいつも、自分が現在の身分を終えた後で生きていくことになる世界で何をするかということばかりがあって、『今』何をするかが問題となることはなかった。彼女は働いたことがなかった。やがて働くことになるのだから、というのがその理由だった。部活動も友達付き合いも、高校に入って以来していなかった。中学までに、彼女はそこで得られるものは全て見て取ったと考えていた。そんな観子に、現状何も持っていない自分と、今この瞬間に食い下がって生きているようなユアンとの対比は強い印象を与えた。観子にはユアンがまぶしかった。ユアンの明るさと、今という時間から全てを吸収し終えるまで時間の方を待たせておこうとするような奔放さとが魅力となって、一緒に過ごすほどに観子は彼女が好きになった。
「ミコは仕事熱心ね。」
そうユアンが言った時も、観子はただ黙って褒められているということが出来ず、こう返した。
「ユアンだって。」
するとユアンは顔一杯に笑みをあふれさせ、こんな一つの会話が嬉しくてたまらないかのように言った。
「だって私の方がお姉さんだもの。ちょっとだけね。それに、ちょっとだけ先輩でもあるわ。だからおじさまたちの相手に困ったらすぐに言ってね。助けに行くわ。みんな、お酒が入ると調子が良くなるけど、ワニヤさんに言いつければ一発なんだから。」
観子は何かを答えようとした。ユアンのこの肝心のところでワニヤを頼っている点に言及して、彼女の冗談を一緒に笑いたかった。それに言及することが、誤って否定的な発言となりはしないか、そんなことが頭をよぎった。そして、観子の口からは何の言葉も出ては来なかった。
しかしそうして生まれた間の長さが不愉快なものとなるよりもずっと早く、ワニヤが横から会話に混じった。
「二人とも真面目だねえ。これだけ若くて真面目な人間が二人もいたら、うちの店にはもったいないねえ。」
「でもワニヤさん、いくら真面目に仕事をしても、素敵な方との出会いに恵まれないのは、これはどうしたら良いのでしょう?」ユアンが言った。
「あんたはそればっかり言ってるね。」
これを聞いた観子は(確かに。)と思った。ワニヤとユアンが話し始めて、観子は会話を離れた。常連たちが頼んだ酒を用意して、後はこれを持って行けば良かった。その間もユアンとワニヤの会話は聞こえていた。
「ワニヤさんはいいわ。エリセさんと、幸福な運命を共有しているんだから。どうぞ私にも、幸せの秘訣を教えて下さいな。」
「そんなもん、幸福やら運命やら、こっちじゃどうにも出来ないんだから、真面目に生きて待っているしかないさ。真面目にするのは一人だって出来るんだから。」
「ああ、力を尽くして時を待てと、そういうことなのでしょうか。」
「あんた誰と話してるんだい。」
ワニヤが呆れて言った。ユアンはもはやワニヤに対してではなく、また独り言でもなく、頭上のどこかにいる目に見えない存在に向かって語りかけていた。盆を持って出ていくところだった観子は、ちょうどそのユアンの姿を見てしまい、思わず噴き出した。
「見て、ワニヤさん。ミコが笑ったわ。」ユアンが嬉しそうに言った。
「あら、知らなかったのかい?ミコはいつもあんたを笑ってるよ。」
「もう!」
こう叫ぶユアンの声を背中越しに聞きながら、観子は逃げるようにして調理場を出て行った。くすぐったかった。その感覚は嫌なものではなかった。こんなちょっとしたやり取りが、自らをもっとはっきりと快いものとして完成させるべく、そのために必要な最後の要因が付け加えられるのを待っている。その最後の因子は観子が持っていた。彼女はそれを知らなかった。しかしそんなことは知らなくても彼女は、ユアンとワニヤが作り出している温かい受容の雰囲気に、何かによって応えたい、これを無視したくはない、そう漠然とかつ強く感じていた。
(ユアンはちゃんとしてる。どう見ても不真面目な人間じゃない。おしゃべりで、ふざけたことばかり言っているのが、彼女の場合、まるで自分が真面目だということを自分でごまかしているみたいだ。ユアンはいつも、二言目には『素敵な出会い』と言う。あれだって、ユアンにとってどんな意味のあることなのか、つまらないことじゃなく、しっかりとした考えが本当はあるんじゃないか。)
観子の中にはこんな考えがいくらでも浮かんで来た。こうしたことを考えるのは楽しいことでもあった。頭に浮かぶ考えに答えを与えるためには、自分が一歩踏み込みさえすればいいのだということ、その先で待っているものが、一人で考えている時の楽しさと比べてどんな価値を持つかということ、そういったことを、彼女はなかなか思い付かないのだった。
デジと、シュウという二人の客のもとへ、観子はそれぞれ酒を持って行った。デジという客は一人でいた。この男はいつも一人で飲みに来るのだった。一方でシュウという客は、同僚らしき男と二人で来ていた。シュウは観子から酒を受け取るとこう言った。
「これ飲んだら今日は帰るからな。」
「ああ、そうなんですか。」
観子がこれだけを答えると、同僚らしき男がにやにやしながら、さもおかしそうに言った。
「長居はデジさんがしてくれるからな。俺たちは早めに退散だ。」
「デジさんも、普段は誰も相手してくれねえが、今はミコもいるし、ユアンも出て来てるからな。頑張りがいがあるさ。」
こう言って二人の客は笑った。この二人が帰った後すぐに新たな客が入って来たが、この客とはミトカであった。ミトカが来たことは観子には少し意外だった。というのも、ミトカはこれまで毎日、少しの時間ではあるが日に一度は必ず、観子たちのところへ顔を出していた。しかしそれはいつも、日中、店が開く前の時間か、反対に、夜もう店が閉まる頃のことだった。こうしてこの時間帯に、客としてミトカがやって来たのを、観子は今初めて見たのだった。
ミトカは一人の年長の男と一緒だった。観子はこの男には会ったことがなかった。ミトカは入って来るとすぐに観子を見つけて手を振った。そしてすぐ近くの空いている席に座ったのだった。観子が注文を取りに行くとミトカが言った。
「やあ、忙しそうだね。」
「ああ。まあ、毎日のことだから。」
こう答えて観子は、連れの年長の男をちらと見た。すると男の方も自分を見ていたので、何か言わなければ、と観子は思った。しかし観子がそれを考えるより先に、ミトカがこう言った。
「ミコ、ゼドさんに会うのは初めてだよね?この人はゼドさん。僕は普段、この人について回って、仕事を教わったり、手伝ったりしているんだ。ゼドさん、彼女が例の、僕が目付けをすることになったミコです。」
するとゼドと呼ばれた男が言った。
「初めまして、ゼドです。」
「初めまして。観子です。ミトカには、あの、お世話になっています。」
言いながら、ぎこちない挨拶だと観子は思った。ミトカに笑われるかも知れない、とさえ彼女は思ったが、反してミトカは愛想良く笑ったまま黙っていた。そしてゼドが微笑みながらこう言った。
「ミトカから少し、事情は聞いています。困ったことがあったら、ミトカに限らず、誰かを頼って下さい。この町は、そうしたことに寛容だから。」
注文を取ると観子はその場を離れた。彼女が調理場へ入ると、いつの間にかエリセとチロウもそこにいた。エリセは食器を洗って、そのやり方をチロウに見せてやっていた。チロウはそばに立ってエリセの手元をじっと見つめている。そしてエリセが「やってみろ。」と言って促すと、その通りにするのだった。観子が見てきた限り、何か初めてのことを教えるエリセのやり方とそれを教わるチロウの様子とは、いつもこういう具合だった。(良き子弟って感じだな。)と観子は思った。
ミトカとゼドのところに出来上がった料理を持って行った時、二人が何か話しているのを観子は聞いた。しかしその内容が何のことなのかは分からなかったし、挙がっていた人名らしきものも、観子が知らない名前だった。
「ゼドさん、明日はカイシェさんと?」
「ええ。会いますよ。」
「何か急ぎの案件があるんですか?」
「そんなものはない、ということを確認し合うだけだよ。君は安心して羽を伸ばして下さい。」
観子が「お待ちどうさま。」と言って現れると、二人は会話を中断した。「ありがとう」と言って料理を受け取りながら、ミトカが言った。
「チロウの方も、何だかしっかりやっているみたいじゃないか。」
「うん、そうみたいだ。」
「正直言うと、彼がこんなに手がかからないとは思わなかったな。まあ良いことだけどね。君が目付けとして何かしなきゃならないような事態も、この分なら起こりそうもないし。」
こうミトカは言った。そのような事態が起こる可能性が念頭にありながら、ああも簡単に目付けになるよう促したのか、そう観子が食ってかかってもおかしくない発言だった。しかし当の観子は違うことに思いを巡らせていた。それはほかでもないチロウのことで、実際、彼女はこの相当手のかかると思われた青年のことに、毎日注意を払い続けていたのだった。
観子とチロウがここで働き始めた日、つまり二人がここへやって来た翌日の朝のことだった。観子が起きるとすでに、ワニヤが全員の、四人分の朝食を用意していた。昨晩はミトカも、チロウと同じ部屋に泊まっていったはずだが、この時点ではすでに姿を消していた。観子の頭にはすぐに(これも本当は私がすべき仕事なんじゃないか。)という考えが浮かんで、彼女はつい「すいません。」といった。ワニヤはただ微笑んだだけで「さあ食べようよ。」と言って、それから四人での食事となった。
ところが観子以上にこの朝食に面食らっているものがあって、それはチロウだった。目が覚めた直後に食事が提供され、それを皆で囲むというのは、チロウにとってはこの上なく異常な事態だった。もちろんそれは、信じがたいことであると同時にありがたいことでもあったが、いずれにせよチロウの感じた驚きを理解出来るものはこの場にいなかった。食事を前にして、今すぐそれに手を付けたいのに、かえってほかの三人の様子をきょろきょろとうかがってばかりいるチロウの姿は、三人からすれば不審そのものだった。しかし少なくとも観子は、チロウのこの、日常的な出来事の一つ一つにいちいち戸惑っている様子に、早くも慣れ始めていた。「チロウ、食べな。」と彼女は声をかけた。言葉の意味が分かっていないチロウに、彼の食べ物を指差して促してやり、自分が食べ物を口にするところをも見せてやった。そうして初めてチロウは安心して、昨日からの空腹を癒すことが出来たのだった。
同じような出来事が、そのすぐ後に続いた。ワニヤは朝食を作る際に、エリセとチロウの分の弁当も用意していた。一緒に仕事に出かけて行く二人にワニヤが弁当を手渡すと、チロウはそれが食べ物だとすぐに察した。またしても驚きと喜びが彼を襲った。彼は包みを開けてその場で弁当を食べようとした。だが観子が気付いてそれを止めた。「それは昼の分だ。今食べちゃ駄目だ。見ろ、エリセさんも手を付けないぞ。」そう観子が言ってエリセの方を示すと、チロウはエリセが自分と同様に受け取った弁当を、手に提げたままでいるのをじっと見つめた。観子はもう一度「チロウ。」と言って彼と目を合わせた。そして「エリセさんの言うことを良く聞くんだぞ。」と言った。チロウの目は真剣で、例によって透明だった。何かの勘が働いて、観子はエリセの方へ向き直ると、「エリセさん、チロウをお願いします。」と言って深々と頭を下げた。
食について、それを得るという行為と食べるという行為とが切り離されているこの新しい生活様式に、チロウはしかし、すぐに順応した。一たびそれが当たり前となると、日に三度、あると分かっている食事は、彼を期待させる、待ち遠しいものとなった。ところがある日、出がけに弁当を持たされないことがあった。家に残っていた食材の都合と、その日エリセが修繕の仕事をすることになっていた家屋はワニヤの店からも近い場所だったため、弁当は昼までに用意をして観子が届けに行く、そういうことになっていたのだった。だがチロウにはこれらの事情は全て分からなかった。チロウはこの時にはすでにエリセにすっかり懐いていて、そのエリセはと言えば、弁当のことなど気にかける素振りもなく出かけて行こうとしている。チロウは昼に食べるものの不安を抱えたまま、それを表明することも出来ず、黙ってついて行くだけだった。昼時になって観子が弁当を届けに行った時、チロウは現れた彼女の姿を見てもぽかんとしていた。しかし観子が弁当を持って来てくれたことが分かるとチロウの態度は一変した。「ミコ!」場違いに大きな声で彼は言った。そう、チロウは日に日に、少しずつではあるが言葉を話すようになっており、『ミコ』は彼が現在扱うことの出来る数少ない語彙のうちの一つだった。観子の方ではチロウの大げさな反応にももう構えが出来ていて、ごく落ち着いた調子で「ああ。お疲れさま。」と言うだけだった。しかしチロウはまだ何かを訴えようとして。開いたままの口をわなわなと震わせている。この時、彼の感じているものを表現するに適当な語を、チロウはまだ知らなかったのだ。そのことを、観子はすぐに知ることになった。隣にいたエリセが、弁当を受け取ると「ありがとう。」と言った。「いいえ。」と観子がまだ返事をしている時に、ぎこちない、あえぐようなチロウの声が聞こえた。「あ、りが、と!」そうチロウは言ったのだった。観子は目を丸くしてチロウを見、そしてわざとらしく、妙にかしこまった言い方で「どういたしまして。」と返した。
用が済み、ワニヤのところへ戻る道すがら、観子は今しがたのやり取りを思い返して一人、クスクスと笑った。
(幼い人間というよりは、むしろ、賢い動物、って感じだな、あいつは。)
こう観子は考えた。そしてこの認識が、チロウに対する彼女の態度を、ひとまず決定した。目付けという役を担うことは、確かにそれ自体単独で観子の責任感をくすぐるものではあったが、今やそれを抜きにしても彼女は、『自分がこのチロウという男の面倒を見るのだ』とそう強く意識をしたのだった。
以上のようなことから、チロウに関する話題は観子にとってどうでもいいことではなかったし、監督者を自負する彼女は、チロウという人間には問題などないという自身さえ持っていた。
「私も、自分にも関わりのあることと思って気にしているけど、見ている限り、あいつは、チロウは、全然大丈夫だと思う。」
観子が言った。ミトカも、最初からその点に異論はないようだった。
「まあエリセさんもいるしね。エリセさんとの相性は悪くないだろうなと、僕は初めから踏んでいたんだ。」
これには観子にも心当たりがあった。少し前に帰った常連客のシュウという男が、エリセとは時々仕事を一緒にする仲間で、この店で、シュウの口から、観子は普段目にすることのないチロウの仕事の場での働きぶりについて聞かされたのだった。「最初はさ、全然しゃべんねえから、何だこいつ、って思ったんだよ。エリセもしゃべらねえだろ?二人ともそんなだからすげえ静かだ。だけど見てるとさ、ちゃんとやってんだよ。エリセはごちゃごちゃ言わなくても必要な指示が出せるやつなんだ。だがあいつもあいつで、エリセになにか言われたらいつでも聞けるように、用意が出来てる感じなんだよ。言われたことはすぐ覚えるしな。見てりゃ分かるよ。分かってる仕事をしてる人間と、仕事が分からずに言われたことをやってるだけの人間とじゃ、動きが全然違うからな。」これがシュウの口から聞かれたチロウの評判だった。
これを聞いて、観子の中には新しい気持ちが生まれたのだった。それは決して、チロウがエリセと結んでいる信頼関係に対する、嫉妬や対抗意識ではなかった。エリセとしっかりした関係を作ることは、その徒弟となって仕事をしていくチロウにとって、働く上で必要不可欠なことだった。それは、観子がいくらチロウの監督責任を自負しているからといって、そのことと背反するようなものではなかった。観子が感じたのはもっと対等な感情だった。彼女を刺激したのは、この世界において、この世界における社会人の一人として、チロウが早くも周囲から認められているという事実だった。それは彼女を励ますものだった。観子の中に生まれたのは、チロウが受け入れられていることを喜ばしく思いながら、負けてはいられない、自分もしっかりやるのだという、熱い気持ちだったのだ。
観子はミトカに言った。
「チロウが頑張ってるんだ。私も頑張るよ。ミトカの仕事の話も、今度ゆっくり聞かせてくれ。」
その奥で何かが燃えている観子の瞳を見て、ミトカは苦笑しながら「ああ」とこたえた。意図せず観子の中にある闘志のようなものに触れてしまったことに気付いて、ミトカは困った顔をした。静かに話を聞いていたゼドも、この二人の間に生じているちぐはぐさには気が付いているようだった。ただ一人観子だけが、そうしたこと一切を気に留めず、鼻息荒く、仕事へ戻って行くのだった。
そう長居もせず、ミトカたちは帰って行った。ちょうど日が暮れる時で、外は一気に真っ暗になった。もう新しい来客はないものと思われたが、ミトカたちの出て行った後すぐに、男女二人組の客が新たに入って来た。観子は二人の客の方を見た。客の一人は中年の女で、もう一人の男は夫にしては若く、かと言って息子にしては女と年が近過ぎるように見えた。二人とも、観子の知らない顔だったが、何となく慣れた様子があって、何度か来ている客かも知れない、と彼女は思った。二人の客の女の方がユアンの名前を呼ぶのが聞こえ、ユアンが二人のところへ近付いて行くのを、観子は見た。二人の客とユアンとはお互いによく知っているようだった。観子は遠目に、ユアンの横顔に何かを見た気がした。ユアンの表情にはこの時、彼女がまだ観子に見せたことのない、影が差したようなところがあって、それが観子の注意を惹いたのだが、観子自身がそうと気付くためにはもう少しよく対象を観察する必要があった。そこへ反対の方向から、あのデジという一人で飲んでいる男が話しかけたので、観子はそちらを向いて、この新しい客とユアンがいる方へは背を向けなければならなかった。
「なあミコ、エリセが連れてる若いの、あれ、お前の連れ合いなんだろ?」
デジが言った。声の調子と、表情と、言葉の内容と、要するに何もかもが、デジのこれまでの飲酒量が一定の水準に達したことを示していた。(くそ、面倒くさいな。)観子は思った。上からものを言うようなデジの態度は常の事だが、その態度でエリセやチロウのことを口にされると、観子は何となく、いつも以上に面白くない気持がした。
「連れ合い、ってそれどういう意味ですか。私はただあいつの目付けであって、それだけですよ。」
しかしデジは観子の答えを全然聞いていないかのように「何て言った?あの若いの。」と言った。相当酔っているらしいこの男に、観子はわざと聞こえるようにため息をついた。しかしデジは気付く様子なく、自分の質問の答えだけを待っていた。
「チロウ。あいつの名前はチロウ。」観子は言った。
「チロウ、そうか。あれは、無口だが、案外いい男だな。ミコ?」
そしてデジが「くっつくように出来ているのが男と女だが、良き相手とくっつくに越したことはないな?」と言ったのを聞いて、観子はもう仕事がある振りをしてこの席を離れてしまおうと思った。その観子の耳に、デジの残りの言葉が入って来て、かえってその言葉のために、彼女は急いでその場を離れたのだった。
「とはいえ、あれは駄目だ。似合ってもいないし、何より女が相手を嫌がってる。だがユアンの母親はまんざらでもないらしい。あれでもし事が成り立つんなら、ユアンには可哀そうな話だな。」
デジが言ったのは今しがた入って来た二人連れの客のことだった。客の一人、中年の女はユアンの母親だった。そしてもう一人、三十を過ぎている、四十近くにも見える男は、名前をウニヨといった。この二人は二人ともが、見るからに上等の服を着ていた。しかしウニヨの方は特に、高価そうな宝飾の品を首元や手や手首や、体のいたるところに光らせていた。
二人は店に入って来るとすぐに、ユアンを見つけて呼び寄せた。ユアンの方でも二人が現れたのにはすぐに気が付いた。しかし彼女にとってこれは喜ばしい来客ではなかった。そして、この二人がこうして訪れるのは珍しいことでもなかった。このウニヨという男は今だ独身で、ある時この店にやって来てユアンの姿を見て以来、彼女を気に入って彼女を嫁にするつもりで近付こうとしているのだった。ユアンの母親はこれに協力的だったが、それはウニヨがそうすべく取り入ったためであった。母親の方に熱心に働きかける一方で、ウニヨはユアン自身に対してはあまり踏み込むということをしていなかった。そして当のユアンは、このウニヨに心が動くということは一度もなく、自分より先に母親を味方につけるウニヨのやり口を姑息とさえ感じつつも、表面上礼儀正しく身分の高さをいつも誰にでも分かるように示しているこの男の、誇りをただ傷付けることがないよう、同じくらい礼儀正しくよそよそしい態度で接し続けているのだった。
いつもそうするように今もユアンの母親は、二人の仲立ちができる嬉しさを、その声にも顔にも満ちあふれさせながら話した。
「ユアン、ウニヨさんがね、夕方うちへいらして、色々とお話ししているうちに遅くなってしまって、それでこの時間なら一つ、お前のところへ行ってみようかということになったのよ。」
「いらっしゃい、お母さん。ウニヨさんも、こんばんは。」
あえて最小限の言葉を選ぼうとしているユアンの心情とは裏腹に、母親はその簡素な挨拶を咎めた。
「何だい、お前、ウニヨさんのような忙しい方が、お前のところへ足を運ぶのに時間を割いて惜しまないというのに、そんな一言で片付けてしまって。」
するとウニヨが口を開いた。彼はここまではずっと、ただ微笑んでいるだけだった。
「そうはっきり言われてしまうと、さすがの僕も、少しばつが悪いですよ。今日はお伺いしたのも遅かったですし、長居し過ぎてしまったと思ったんですが、かえってここへ来る口実が出来ました。」
そう言ってウニヨは笑った。ユアンの母親も笑い、ユアン自身も、微笑をもってこれに応えた。何もかもがわざとらしく、作り物めいてもいる。そう感じながら同時にこれに与している。そういう自分を自覚して、ユアンは気分が悪くなった。またこの時間が始まった、そう彼女は思った。見慣れたものがこの後に続いていくのを、彼女は予期した。彼女はこのいやらしい一幕の演者の一人として、これをつつがなく進行させる手はずを思い描くことさえ出来た。後は、自分自身それに携わりながら、それが過ぎ去るのをただ待つのみで、それ以上のことを、例えば何かの幸運がこの茶番を中断させてくれるとか、そういう都合の良い希望についての考えを、ユアンは頭の中から追い出すよう努めるのだった。それは彼女がいつもしていることで、目の前の嫌なことも、ありもしない良いことも、何も考えずに時の経つのを待つことが、ユアンの、自分の心を守る手だてだった。
ユアンはいつものように、この時間を耐えるつもりでいた。彼女は、自分が耐えている苦しみが、見るものが見れば分かるような形で自分の顔に漏れ出ていることを知らなかった。彼女は、デジの示唆を受けた観子が今の自分を見て、一目でその苦しみを看破したことを知らなかった。それを見抜いたことが観子の感情にどう作用し、どんな行動に駆り立てるのかを、ユアンは、その瞬間まで全く知らずにいたのだった。
「大体、ユアン、お前がこんな風に働いたりなんかせず家にいてくれれば、うちでゆっくりと…」
それはユアンの母親が何かを言いかけた時だった。もう何度も言っていること、いつもユアンをうんざりさせ、答えに困らせること。そのような何かが、すでに半分ばかり声に出されていた。ところが急に現れた観子が会話に割り込んだため、その言葉は中断されてしまった。
「こんばんは。飲み物、これで良かったですか?」
まだ注文を取ってもいないのに、観子は飲み物を持って来ていた。もとよりそれは、二人がいつも何を飲むのか、ワニヤに確認した上でのことだったが、観子はそれを尋ねる前に、二人はこれまでにも来たことがあるのかを聞くのが、本来なら先のはずだった。しかし観子はそうしたことを考えなかった。ワニヤも尋ねたことをすぐに教えてくれた。少なくとも、持って来た飲み物は間違っていなかった。
「初めまして。私、観子っていいます。最近ここで働き始めたんです。ユアンさんとはここで一緒になって、仕事は、私が教わる立場ですけど、歳が近いので、仲良くさせてもらってるんです。」
呼ばれてもいないのに、頼まれてもいない飲み物を持って現れた観子は、今度は聞かれてもいないのに自己を紹介し始めた。二人の客は、にこやかな表情の貼り付いた顔を、元に戻すことが出来なくなってしまったかのように、その顔のままで固まってしまった。勝手に間に合わないことをしている観子の、それとは対照的に丁寧な話し方と穏やかな態度が、二人に彼女をどうして良いか分からなくさせていた。同じくらいの程度でユアンも当惑していたが、その意味合いは二人のものとは違った。ユアンは現在まで観子のこのような様子を見たことがなかった。ユアンを当惑させたものは、業務上の必要のないところへ首を突っ込むとか、初対面の相手に愛想を振りまくとか、その相手に無用なおしゃべりを持ちかけるとか、要するに観子が今していること全てであった。観子が持とうとしている会話の内容はいわゆる世間話のそれであったが、このオドにおける『世間』に未だ馴染みの薄い彼女が出来るのは、「ここへは歩いていらしたんですか?近くにお住まいなのですか?」といったどうしようもない質問ばかりだった。このことがユアンに余計に、観子の行動を彼女らしくないものに思わせたのだった。
一体何のつもりかといぶかしむユアンにも、閉口している二人の客にも、気が付いていないかのように観子は一人しゃべり続けていた。するとデジの呼ぶ声が聞こえて、観子もユアンも振り返ったが、この時二人の間に一瞬の、視線の交換があった。
「おおい!ミコ、ユアン、どっちでもいいが、酒、持って来てくれ。」
観子はわざと黙っていた。デジの方を振り向いたその格好のままで、彼女は待っていた。すると「はあい!」という返事が隣から聞こえ、ユアンが調理場の方へ歩いて行った。
こうした結果を観子は、予め具体的に思い描いていたわけでは決してなかったが、それでも彼女は去って行くユアンの背中を見ながら、(よし。上手く行った。)と思った。観子の考えでは、これだけ出来れば十分なはずだった。観子は二人に向き直って注文を聞いたが、二人の客は、そうしっかりと食事をしようというのでもないのだと言って、軽いものしか頼まなかった。さっきまでは一人、一心に無駄話を展開することに努めていた観子だったが、注文を取ってしまうとさっさと席を離れた。一連の行動に彼女を駆り立てた衝動は、未だ観子の中から去ってはいなかった。全てはユアンのためだった。観子が見たユアンの表情、対する二人の客の楽し気な様子、そしてデジの言った言葉、これらを受けて観子は、ユアンは窮地にある、そう判断をしたのだった。あの客たちはユアンを呼び寄せたが、あの客たちと対することはユアンにとって快くないことなのだ。ユアンとあの客とを引き離さなければ。そう観子は考えたのだった。この考えは結局、そう的外れなものでもなかった。ただ、この時の観子は短絡的で、自分の行動が引き起こす結果のほかの可能性については全然考えず、期待したものがそのままの姿で待っていることを無条件に信じて疑わなかった。
調理場に戻ると、観子はすぐに「ユアン!」と名前を呼んだ。
「助かったわ。」
呼ばれて、観子の方を見て、こう答えたユアンの表情には、しかしさっきまでの曇りがそのまま消えずにあった。それが観子を不安にさせた。同僚を窮地から救い出さんがため、自分でもびっくりするような大胆な行動を彼女にとらせた先刻の勢いは、観子の体の中で急速にしぼみ始めた。それは普段の冷静さを取り戻すことに違いなかったが、ついさっきまでの無鉄砲な状態とその時持っていた勇気を失っていく感覚のために、観子には自分がいつも以上に憶病になってしまったように感じられた。今感じている情けなさを自分で大きくしているのを自覚しながら、観子は言い訳のようにこう言った。
「あの、デジさんが、『ユアンが嫌がってる』って。私、それで、困ってると思って。でも、余計なことだった?」
「ううん。そんなことない。」
こうして言葉によってそれが否定された後でもまだ、観子は自分が何かまずいこと、余計なことをしたのではないか、そう考えるのをやめられなかった。観子は何とかして自分が見落としている間違いを洗い出せないかと、デジの言葉や自分が見た二人の客とユアンの様子を思い返そうとしたが、観子の頭の中によみがえって来るのはさっき彼女が見た通りのもので、そこから彼女が引き出し得る結論もまたさっきと同じだった。自分が気付かずに犯した間違いを、実在するのかも分からない間違いを、こんなに短い時間の経過ののちに、自力で、間違いを犯したその時と同じ材料だけを用いて、発見しようというのがいかに無茶であるかを、観子は今考えることが出来ないのだった。
普通でもなく、大丈夫でもない様子のユアンと、不可知の難題に立ち向かおうとしてその内部に閉じ込められてしまった観子とは、今やお互いに黙ってしまって、ただ『ここにあるべきは沈黙ではなく何らかの言葉なのだ』という目に見えない訴えだけが、二人の間には横たわっていた。
すると、忙しそうに手を動かし続けていたワニヤが、その顔を手元に向けたまま声だけでこう言った。
「あれだけ酔っていてもまだ良いことが出来るんだねえ。だったらしらふの時にはよっぽどの善人でないと、つじつまが合わないように思うんだけどねえ?」
ワニヤがどこから見ていて、どこまで状況を把握しているのかは分からなかった。だが彼女が言っているのはデジについての冗談であるらしいことは、観子にも分かった。しかし何と言って答えるべきかは分からなかった。ユアンの様子にはやはり何か暗いところがあって、調理場には気まずい空気が流れた。
しかし、そんな雰囲気を最初に耐え切れなくなったのもまたユアンであった。彼女は大げさに息を吐き出すと、こう言った。
「ねえミコ、後で私の話、聞いてくれる?」
この一言だけで不安の全てから解放されることはさすがに出来ない観子が、恐る恐る「うん。」と答えるのを聞くと、ユアンは微笑んで「ありがとう。」と言った。ユアンが、今度はワニヤにも向けてこう言った。
「デジさんにも、私、ありがとうを言うべきかしら?」
「いいさ。酔っぱらいを起こす手間の分、一つくらい良いことをしたって足りないよ。」
ワニヤがこう答えた。柱越しに向こうの席を見ると、そのデジはいつの間にか椅子の背にもたれ、頭だけを前に折り曲げた姿勢で眠ってしまっていた。ワニヤが心底面倒くさそうにため息をついた。観子とユアンは顔を見合わせると、クスクスと笑った。ワニヤの露骨な態度も、今にも椅子からずり落ちてしまいそうなデジも、チロウの洗う食器を片付けながら一度だけそのデジの方を見やったエリセの仏頂面も、さっきまでの気まずさから解放された観子たちには、どれもがおかしく思えて、笑えて仕方がないのだった。
店は閉まり、客は皆帰って行った。酔い潰れたデジだけは自力でそうすることが出来ず、エリセが家まで送って行った。チロウもこれについて行った。ワニヤは調理場を片付け、観子とユアンは卓を拭いて回り、そうしながらユアンは観子に、自分とあのウニヨという男の関係を話し聞かせた。
「あの人はね、フツの国の人なの。貴族で、領地やお金をたくさん持っていて、それを人に貸して、使用料や利子をとって、何もしなくてもいくらでもお金が入って来る、そういう家の人なの。この町へは、最初から嫁探しのつもりで来たのかどうかは分からないけど、この店で私を見つけて、どこかから私の家のことを聞いて、それで私を気に入ったみたい。気に入ったっていうのは、別に愛してるとかそういうことじゃなくて、都合のいい相手だと思った、ってこと。」
ユアンは卓を布巾でごしごしと拭きながらしゃべった。観子も同じようにしながら、ふと手を止めてユアンの方を見た。
「お父さんが生きていた頃、私たち家族の生活は、この町でも豊かな方だった。少なくともお母さんは働く必要がなかったし、私もずっと家にいて好きに過ごしていれば良かった。でもお父さんが死んで、これまで入って来ていたお金がもう入って来ないということになった時、自分が働くということはお母さんには出来なくて、それで私がお母さんの最後の望みになった。」
話しながら、ユアンは手を動かし続けていた。それは同じところを何度も何度も擦っているのだった。その横顔を、観子はじっと見つめた。
「お母さんは自分の娘に自信を持ってる。私の顔立ちと、子供の頃、まだうちが裕福だった頃からの教育とで、いずれどこかのお金持ちで立派な人と結婚することが、私には出来るとそう信じているの。それだけが希望なの。自分自身が貧しい家の生まれで、お父さんのようなたくさん収入のある人の妻になれたことは何より幸運で、そうして豊かさに親しんだお母さんは、もう一度貧しくなることが出来なくなってしまった。そこへあの人が現れた。多分、お母さんにとっては願ってもない話。むしろ願っていたことがそのまま本当になったような話だわ。そんなお母さんの願いをあの人も良く分かっていて、お母さんと仲良くして、自分にお金があることを教えてあげているみたい。」
いつしかユアンは手を止めていた。そして顔を上げると観子の方を見て、苦笑した。そうするしかなくて、仕方なしにそうしたようなこの苦笑は、その奥にある、ユアンの特に母に対する、複雑な心情の気配を観子に感じさせた。観子は無意識に、この瞬間の空気に留まることを避けようとしてまた熱心に卓を拭き始めた。そして手元に視線を落としたまま質問した。
「ウニヨって人は、ユアンの何が、そんなに気に入ったんだろう?」
ユアンの笑う「ふふ」という声が、観子の耳には聞こえた。
「分からないわ。噂は色々と聞こえてくるけど。あの人、どう見ても若くはないでしょう?三十も、もう半ばを過ぎているみたい。お金持ちで、貴族には違いないんだろうけど、兄弟のずっと後の方の生まれで、結婚も、一族にとってそれほど重要でないのかも知れない。こんなことを言う人もいるわ。もし自分自身お金があって、自分の家柄のためにではなく自由に、結婚の相手を選べるのだとしたら、そういう人は、若くて容姿さえ好みに合えば、かえって貧しい人間を相手に選ぼうとする。その方が、夫は妻に対して強い力を持つことが出来て、何でも言う通りにさせられるから。嫌な話ね。実際のあの人がどうかは分からないわ。あの人は初めから、お母さんとばかり話をしている。でも私は、自分が誰と結婚するのかは自分で自由に決めるつもりよ。だからあの人が遠巻きなやり方で私に近付こうとする限り、私はあの人のことを何とも考えられないわ。」
こう言って、ユアンは少し間を置いた。それはそう長い沈黙ではなかったし、続く言葉はまだ一応同じ文脈の中にあった。しかし、「私はね、ミコ、結婚は、やっぱり愛によってするものだと思うの。」そう言ったユアンの声の調子は、ここまでのそれとは違う前向きなものに切り替わっていた。
「もちろん、現実はそればかりじゃないと思う。だけどどうあるべきかということが、それで変わるわけでもないわ。結婚とは愛によるもの、そうあるべきだわ。」
ユアンはいつもの明るさを取り戻していた。そのためにユアンの内部ではどんな過程を経る必要があったのかを、観子は知らなかった。観子にはただユアンが、もう大丈夫だということが分かった。そして自分でもどうしてか分からないまま、観子は今までそうする勇気の出なかったような率直さで、ユアンと会話することが出来た。
「なら、結婚をする、しない、についてはどう思う?結婚は必ずすべきなのか、それともあえて結婚しないという選択の自由が認められるべきなのか。」
観子がこう言う間、ユアンは目をつむり口元に笑みを浮かべたまま、うんうんとうなずきながらこれを聞いていた。彼女は観子の言葉が終わった後もまだ、そうしてうなずいていたが、やがてゆっくりと目を開くと、その伏せた目つきのままでこう言った。
「本人の意思以外の何ものによっても強制されるべきことではないわ。ただ、それが愛によらなければならないということ、そのことのために、結局それは誰にとってもすべきこと、ということになるのよ。結婚は愛の結果で、愛は誰もが具えているものなのだから。」
「愛を持たない人間もいるとは思わない?」
観子がさらに聞いた。これに答えたユアンの言葉は、観子には遠い世界から聞こえてくるようだった。それは遠いところにある、しかし確かにそこにあるのだ、という不思議な説得力が、観子には印象的だった。
「人が愛を忘れてしまうことはあると思うわ。だけど、愛を持っていない人間はいない。だってその人が生まれてきたのも、愛によってなのだから。」
デジを家まで送って、というより担いで行ったエリセが戻って来ると、今度はユアンを、夜の遅いために送って行くことになった。観子は自ら主張して、これについて行った。終ろうとしている夏の、涼やかな夜道を、三人は歩いた。さながら屈強な用心棒のようなエリセを先頭に、観子とユアンはなおもかしましくしていた。彼女たちはユアンの家に着いてようやく、そのおしゃべりを終わりにした。そして帰り道、エリセと二人になって初めて、観子は夜の静けさを知ったのだった。星の瞬きが騒々しいくらいの夜空と、遠くの方でひかえめに聞こえている聞こえている虫の音と、ただそれだけの中を観子たちは歩いた。周囲に並んでいるはずの、明かりを落とした家々は、夜の闇の中で何もない空間に擬態しているかのように目立たなかった。
まさに今、ずっと欲していたものの実物を入手したことに、観子は気付いていなかった。あんなに受けたがっていた経験による授業がついに行われたというのに、それに気付かないまま、その恩恵を、観子は手にしているのだった。労働と友情という、これまで避けてきた二つのものの味を、彼女は知った。しかしそれを味わっている自覚はなかった。自分を満たしている不思議な、楽しい気分を、観子はただ感じるのみで、軽くなってくる足取りも、それを嬉しく思う気持ちも、観子にその理由や原因を思案させはしなかった。