四
町の中を、三人は歩いて行った。ミトカにはどこか目指す場所があるようだったが、 観子にとっては自分たちの行き先よりも、今この瞬間、自分が目の当たりにしている、何から何までが見たことのないものばかりのこの町の容貌に打たれることの方が忙しかった。そして目的地へは、いくらも歩かないうちに到着した。その建物は通りに面していた。「さあ着いたよ。」と言いながらミトカが戸を開けるとすぐに、中から女の声が言った。
「まだ開いてないよ。誰だいこんな時間から。」
「こんにちはワニヤさん。エリセさんは仕事ですか?ちょっとエリセさんに相談したいことがあって、戻って来るまでお邪魔させてもらいますよ。」
そう言ってミトカは中へ入ってしまった。何かを乞うているようで、しかし許可を待たないミトカの調子に、観子は戸惑いを覚えはしたが、結局彼女もミトカの後を追って中へ入った。その後に裸の青年が続いた。
そこは料理を提供する店のようだった。建物の大きさに対して仕切りが少なく、巨大な一部屋のような造りになっていた。細かく立ち並ぶ柱と、柱に寄せるように配置されている卓と椅子が、広いはずの空間を大部分、埋めてしまっていた。多分、面積に対して適当な数よりも多くの席が置かれているのだと、狭苦しい室内を見た時に観子は思った。
「誰かと思えば、ミトカじゃないか。珍しいね。」
ワニヤと呼ばれた女が奥から顔を出して言った。ワニヤは見たところ四十かその少し手前くらいの女だった。彼女はミトカが二人の人間を連れているのを認めると、「何か面倒な話でも持って来たのかい。」と言った。
「まあ、厄介事ですね。エリセさんに相談したいのはこの人たちのことなんです。戻って来るまでに話しておきたいこともあるので、ここで話しながら待たせてもらいますよ。邪魔にはならないようにしますからお構いなく。エリセさんも、店が開く前に戻って来るでしょう?」
「ふん、好きにしなよ。勝手なことばかり言って。何にも出せないよ、忙しいんだから。」そう言うとワニヤは奥へ引っ込んでしまった。
「まあまあ座りなよ。」と言ってミトカは、近くにあった椅子を引いて自分が先に座った。ミトカが座った席と卓を挟んだ向かいの席に、観子も座った。だが裸の青年が着席しないので、観子もミトカも彼の方を見た。青年も青年で二人を見ていた。観子を見て、ミトカを見て、目の前にある空いている椅子を、その先にある卓を、さらに周囲のほかの席を、青年は代わる代わる見ていた。それはむしろ凝視だった。険しい視線の矛先を絶えず切り替えながら青年は、見えない何かに身構えていた。何が彼をそんなにも深刻にさせるのか、観子にもミトカにも分からなかった。観子はしかし、それを深くは考えずに、自分の隣にある椅子の背をつかんで引いてやった。それを見た青年は目を大きく見開いた。そして自分を見ている観子を見、ミトカを見、最後に目の前の椅子を見て、見えない何かがどこかから襲いかかって来たならすぐさま対処する、という構えを保ったまま、そこへ腰かけた。
全員が着席すると、ミトカが言った。
「それで、何て言ったっけ、君の名前。」
「牧ノ瀬観子。」観子が答えた。
「じゃあセミコ。君は、」
「ちょっと待てそこで区切るんじゃない。牧ノ瀬が名字で、観子が名前。」
観子があわてて訂正すると、ミトカは「ミョージって何だい?結局、ミコが君の名前ってこと?」と言い、こう続けた。「それで、ミコ、君これからどうする?さっき君が話してくれたこと、正直僕にはほとんど意味が分からなかったんだけど。」
観子は腕を組んで黙った。町に入ってこの店に着くまで、あるいはこの町を目指して山を下りて来る間、またあるいは、ミトカと話が噛み合わずに終わったその時から、観子は、自分自身についての説明をあきらめ、それよりももっと質問することによって情報を得るべきだという、方向の転換の必要性を感じていた。言おうと思っている言葉がすでに、彼女の頭にはあった。この沈黙はそれを今から口に出すための予備動作のようなものだった。
「いくつか質問させて欲しい。」観子が言った。
「どうぞ。」
「この町の名前は?」
「シギ」
観子はこう答えたミトカの目を見たまま黙っていたが、またすぐに、新たな質問を重ねた。
「川井という地名に聞き覚えは?」
「カワイ?ないね。」
「御嶽、青梅、奥多摩、どれか一つでも聞いたことのあるものはあるか?」
「ないね。」
「東京は?それから、あと、日本は?」
「初めて聞く言葉だね。」
これを聞くと観子は、鼻から息を大きく吸い、そして吐いた。隣にいる青年が、その音を聞いて観子の方を見た。観子もそれに気が付いたが彼女は無視した。彼女は自分のこの質問を用意した時点で、ミトカが、あるいは彼でなくともこの町の人間が、何と答えるのかを大体において予想していた。だがその答えを予想するのと実際に聞くのとでは違った。会話のさなかにあって、観子は無心になってしまった。この後で何をすべきか分からなかった。それを考えるということ自体が、彼女の中からなくなっていた。
すると黙ってしまった観子に、今度はミトカが尋ねた。
「それはみんな、君が元いた土地の名前なのかい?」
「ああ、そう。」観子は力なく答えた。
「どれも聞かない地名だね。この町は、さっきも言ったけどシギ。オドの国で町と言えばここだけだ。あとは農村で、ハ、ハラ、トと三つの村がある。これがこの国、オドの全て。」
耳慣れない名詞がすらすらと並べ立てられた。それらはきっと地名なのだろうと、観子はぼんやりと考えた。
「まあキキでは中くらいの規模だね、隣接している国は、ヤエと、ナカタ、キヅキ、それからフツ。ここは山あいで、交易には便が悪いけど、山そのものが資源だし、何より水が良いのが強みだね。」
ミトカが説明しているのは地理についてだということは分かったが、観子にとってそれらの地名が意味不明の呪文であることに変わりはなかった。隣接する何某、と説明をされたところで、それらが隣り合っている地図を思い描くことなど出来るはずがなかった。ミトカが親切にも投げてよこしている情報は、それを受け止めるための足掛かりを持たない観子には整理をすることが出来ず、それらは彼女の中で順序も配置もなく山積みになっていった。無造作に積み重なる情報で自分の中が散らかるのを、観子は無力にも眺めるだけだった。
こうして観子は話を聞くようで聞いていなかったのだが、次第に彼女の中のある部分が何かに対して強い違和感を訴え始めた。その訴えが何に対してのものなのか、観子は初め、その対象が分からなかった。そしてそれが何なのかを知るために、それを訴えている自分の一部と相談しなければならなかった。ただでさえミトカの話をまともに聞いていないことに加え、今や観子は自分の内部の別の問題に取りかかってしまった。ついにミトカも観子の様子に気が付いた。彼は言葉を切ると、ため息をついた。観子は視線を目の前の卓に落として考え事に没頭していたが、ミトカの声が止んだことに気付くと、目だけを動かしてミトカを見た。観子の中ではまだ探しているものが見つかっておらず、彼女はただ黙ってミトカを見るだけだった。この無言と、まっすぐに自分を射ている視線とはミトカに居心地の悪い感じを与えたが、ほどなくして観子が口を開いた。
「ちょっと、いいか?もう一度。初めから。」
「もう一度?それって、最初からまた話せってこと?」
「最初、そう。最初のところが聞きたい。」
冗談だろう、とミトカは言いたかったが、観子の様子はどう見ても、冗談を言っている人間のそれではなかった。仕方なく、一つ大きなため息をついた上で、ミトカは従った。
「この町の名前はシギ。オドの国のただ一つの町。オドの国にはほかに農村が三つ。ハとハラとト。」
ところが、これを聞くと観子はまた黙ってしまった。あごに手を当てて何やら考え込んでいるその姿を見て、ミトカは困惑した。
「ねえ、ミコ?何が気になるんだい?何か引っかかることがあるなら、教えてくれないかな?」ミトカが耐え切れずこう尋ねた後も、観子はまだしばらく黙っていた。そしてようやく、困り果てているミトカに、観子がこう言った。
「それだけ?」
「いや、それだけ、って何がだい?」
「オドの国というのは、この町と、三つの村、それだけなのか?」
「あ、ああ、そうだよ。それがどうしたんだい?さっきも言ったけど、キキにある国の中では平均的な大きさだよ。」
「キキ…それは後で聞かせてもらうとして、ミトカ、このオドの国の人口は?」
「人口?正確な数は知らないけど、三千人か、四千人かそんなものだと思うよ。」
「三千人…それも、一つの国の人口としては多くもなく少なくもない、ということ?」
「そうだね、多分。そう言っていいと思う。」
言質を取るようなこの事細かな問答のために、ミトカは今一度居心地の悪い思いをしなければならなかった。観子は続けてオドの国の面積を尋ねたが、彼女の知る長さや広さの単位はミトカには分からず、時間の尺度もまた異なっているために、『一日歩けば国の周りを一回り出来る』という言葉を引き出すまでに、やはりしばしの押し問答が必要だった。
「そんなに小さくても、これを国と呼ぶ。たとえ小さくとも、オドの国は国であって、そう呼ぶほかはない、ということ?」
「だから中くらいだってば。特別小さいわけじゃないよ。それに僕が勝手に国と呼んでいるわけでもないよ。誰にとってもオドは国で、国というのはここみたいなもののことを言うんだよ。」
「分かった。で、キキというのは?それは国ではないのか?単なる地名?」
観子がさらに聞いた。
「いや、地名ではないよ。国でもない。そんなに大きな国はない。ただ、キキというのは、オドや、フツやキヅキやヤエや、そういう国々全体というか、その世界というか、キキ語を話す人々の住む…」
「文化圏?」
「ああ、そうなるのかな。そういう言い方はしないけど、意味合いとしては、そうかも知れない。」
「キキでは国が違っても言語はキキ語が使われている。ほかには?キキの国々で共通しているものはほかに何がある?」
「どの国にも人間が住んでいる。いや、いや、冗談だよ。そうにらまないで欲しいな。改めて聞かれると、とっさには答え辛いんだよ、君が今聞いているようなことは。言語のほかに、共通なのは、まず、通貨がある。あとは、単位かな。あと、何だろう。」
異様な真剣さで自分を問い詰めている観子が、これだけの答えではもしや満足しないのではないかと、ミトカは一瞬、不安になった。しかし彼の予想に反し、観子は質問を変えた。
「なら逆に、国と国との間では何が違う。国境や住んでいる人間ではなく、ある国と別の国とを、何が決定的に区別している。」
これを問う観子の様子はむしろ自問しているようでさえあったが、ミトカはそれを深く考えることはせずに、回答することに集中した。
「それは、何よりも法律だろうね。統治の形態も国によって違う。まあこの二つは、別々のものであるというよりは、同じ一つのもののことだと思うけど。」
(都市国家!)観子は思った。彼女の尺度からすれば国と呼ぶには及ばない小さな集団。そうした集団が同時にいくつも存在している、そのような状態に観子は覚えがあった。
(それぞれが独自の制度を持ち、他の支配を受けることなく独立している。しかも言語や貨幣はそれらの間で共通している。都市国家だ。だけど、そんなもの、一体いつの時代の話だ。いつの時代?確かに、この町には電気の使われている様子がないし、車も走っていない。だから、何だ?私は、道に迷って、過去の世界に来てしまったのか?)
自分は時間を遡行したのかも知れない、という突飛極まる発想に観子は、自分でそうとは気付かないままに助けられていた。全てが未知で不可解である状態よりも、「自分は元いたのとは違う時代にいる」という仮定一つでもあった方が、ここはどこか、ということについて彼女はまだ何かを考えることが出来るのだった。
(だけど分からない。この町の人間の着ているものや建物は、こんなのはいつ、どこの文化なんだ?ここは、今が過去なんだとしたら、ここはどこなんだ?いや、待て。時代が違っているかも知れない。場所も違っているかも知れない。違っているのは両方かも知れないし、一方かも知れない。時代は同じ、あるいは場所も時代も変わらず同じ、それは考えにくい。ただ完全には否定出来ない。私は意識を失っていたし、この移動はその間の出来事なんだ。『移動などなかった』という可能性も含めて、確かめるにはどうすればいい?場所だ。ここが、東京の西のはずれの山奥なのかどうか、それさえ分かれば、私がどういう種類の迷子なのかも確認が出来る。)
そして観子は、地名による確認が出来ない中で、ここが彼女の知る世界の彼女がいた場所なのではないかということを確かめるために、どんな質問をすればよいか、それを考え始めた。しかし観子の思考は、新たな人物が会話に参加したことによって中断された。
ワニヤと呼ばれていた女性が観子たちのいる席へと近付いて来た。彼女は手に盆を持ち、盆には水が載っていた。ワニヤが三人分の水を卓に並べると、ミトカが「いやあ、どうも。」と言った。ワニヤはこれに対してふんと鼻を鳴らしただけだったが、観子が「あ、頂きます。」と言うと、わざとらしく微笑みながら「どうぞ。」と言った。
「で?ミトカ。このお二人さんは?あんたの友達じゃないんだろう?大体、あんたに友達なんていないだろうに。」ワニヤが言った。
「ひどいなあ。友達の有無はともかく、僕がこの人たちをここへ連れて来たのは、やっぱり僕にとって、こういう困り事で頼れるのはエリセさんワニヤさんの二人だけ、ということなんですよ。」
「あんたには調子の良いことを言う用意の出来ていない時がないね。要するに面倒事じゃないか。やっぱりはこっちだよ。」
観子はひやひやした。ワニヤの言い方は、言葉の意味からすると、来客を好ましく思っているようにはとても聞こえなかった。ただミトカとワニヤの会話の態度を見ると、その言葉を言葉の通りに解釈して良いのか、観子には判断が付かなかった。
「まあ、どうするのかはあの人が決めることだけどね。」そう言うとワニヤは、今度は観子に話しかけた。「こんにちは。私はワニヤ。あなたのお名前は?」
「牧ノ瀬観子です。」
「ええ?長い名前だね。ごめんね、もう一回いい?」
「あ、えっと、観子でいいです。」
こう言い直す観子を、ワニヤは不思議そうな顔で見つめていたが、ふっと笑うとこう言った。
「ミコちゃんね。それなら呼びやすいわ。そっちの彼は何ていうの?」
この質問にはミトカが、本人に代わって答えた。問われた本人はその時、危なっかしい手つきで杯の水を飲もうとしているところだった。
「ああ、彼、どうもしゃべれないみたいで。名前も分からないんですよ。」
「あら、そうなの。何だか、何て言うか、どう見ても『わけあり』って感じだねえ。」
そう言いながらワニヤは観子を見て「この服といい」とつぶやき、隣の青年に視線を移すと、「そんな上着なんか着ていて、暑くないの?」と言った。ミトカが「それしか着てないから大丈夫ですよ。」と言うと、ワニヤはミトカの方を見て何か言いたそうにしていたが、開いた口からは何の言葉も出て来なかった。ワニヤの怪訝な表情が目に入っていないかのように、ミトカが続けて言った。
「二人とも、身なりがこれなんで、少し服がいるんですけど、彼の分は僕が何とかするとして、ワニヤさん、ミコの着るもの、用意出来ませんか?」
「着るもの、一着もないのかい?二人とも?」
「ばかりか、この二人には行くあてもありません。さらには自分たちの素性を説明することさえ上手く出来ないのです。」
ミトカは作り話を話して聞かせるような軽々しさでこう言い、言いながら笑ってさえいた。観子は急に自分が恥ずかしくなってわずかにうつむいた。
「何だか、どこかで聞いたような話だね。え?ミトカ。」
「は、は、は。」
ところがワニヤの反応には、観子たちに対して向けられたものはなかった。それはむしろミトカに対するもので、冷ややかな、咎めるような調子を含んでいた。ミトカもミトカでそれを分かっているのか、わざとらしく知らないふりをしていた。
「一時身寄りのない子の面倒を見てやって、その子が出て行ったと思ったら、今度は自分と同じような子を連れて来るなんてねえ。それも二人!うちでは迷子のお世話を仕事としてうたった覚えはないんだけどね。」
「いやあ、お手をわずらわせてしまって。だけどこの二人と僕が出会ったのは純粋に偶然ですからね。僕のせいではないですよ。ただこういう場合、しかもこれが僕である場合、ここを頼って来るのは当然というか、仕方のないことで。そうでしょう?ワニヤさん。やっぱり、ここなら何とかしてくれると、自分の経験がそう教えるのを無視することは出来なかったんですよ。」
「達者なお口だねえ。普通は恩に着せるものだけど、あんたの言うのは恩を受けたものはその倍の恩をまた要求出来るってことだよ。全くどうして、この忙しい時期をわざわざ選んでそういう話を持って来るんだろうね。」
「僕が選んだわけじゃないですよ。偶然なんだから。逆に、みんなに一度に紹介が出来て都合が良いじゃあないですか。」
再び、ミトカとワニヤの間でこのような矢継ぎ早のやり取りが始まった。観子はにわかにきまりが悪くなってきた。そしてミトカが次のようなことを言った時、彼女はたまりかねて口を挟んだのだった。
「あと、着るものもそうですけど、部屋は空いてますよね?今晩は僕も一緒に泊まろうかと思うんです。彼、ちょっと世間知らずなところがあって心配だから。ワニヤさんもお店が忙しいだろうし、部屋さえ貸してもらえたら僕らで片付けて使いますから。」
「ちょっとミトカ、ミトカ!ちょっと待って欲しい。」
ミトカは「おや?」という顔をして、まだ何か言おうとしていたのを途中で引っ込めた。ワニヤも黙ったまま視線だけを観子の方へ向けた。
「先にちゃんと教えて欲しい。私たちをどうするつもりなんだ。というか、私たちは、どうすればいい?お前がワニヤさんとそのご主人に頼もうとしているのは私たちのことなんだろう?それならそのことを、私にも説明して欲しい。自分のことで、自分の口で頼まなくちゃいけないことなのに、知らないうちに話が通ってしまうのは、私は嫌だぞ。」
ミトカとワニヤにとって、この観子の真剣さは不意を突くものだった。ワニヤは観子を見て目を丸くしていたが、今度はその目を細めると、咎めるような視線をミトカに浴びせ始めた。ミトカもやはり驚いた様子だったが、ワニヤににらまれていることに気が付くと「あ、は、は」と苦しく笑いながら両手を体の前に持って来て、手のひらをワニヤの方へ見せるような仕草をした。そして弁解するように、観子が要求するところの『説明』を行った。
「やあ失礼。悪かったね。それじゃ改めて、提案させてもらうよ。ワニヤさんのこのお店は基本的には料理屋というか酒場というか、そういう店なんだけど、部屋数に余裕があるから、場合によってはちょっとした宿屋として誰かを泊めることも出来るんだ。普段はワニヤさんとご主人のエリセさんの二人だけだから、あと二人くらい泊まるのは、場所の都合だけで言えば可能なはずなんだ。なぜ僕にそんなことが言えるのかというと、さっき、少しだけ話に出たことだけどね、僕自身、以前ここでやっかいになっていたことがあるんだ。」
さっき、そのことに最初に言及したのはワニヤだったのではないか。ふとそう思って観子はワニヤの方をちらと見た。視線は合わなかった。ワニヤはどこを見ている風でもなく、話を聞いてはいるようだったが、何を考えているのかはとても読み取れなかった。
「当時僕はここに寝泊まりして、食事も用意してもらって、その上仕事の口まで世話してもらったんだ。そうして身の振り方が決まるまで、ここでワニヤさんたち夫婦と一緒に暮らしていた。僕の考えというのは、つまり君たちも、その時僕がしてもらったようにここでお世話になったらどうかということなんだ。もちろんこれは、君たちには行くあてがないというのを前提にしてのことだけどね。今晩泊まる場所に心当たりがあるなら強いて勧めはしない。だけど、違うんだろう?この町も、オドの国のことも、さっぱりなんだろう?」
ミトカに尋ねられて、観子は答えた。
「行くあてはない。それは確かにその通りだし、お前のその提案も、願ってもない、ありがたい話だ。」
観子は語りかけている相手をミトカからワニヤへと移しながら続けた。
「だけど、そんなことまで頼めるものなのですか?私には虫が良過ぎるように聞こえる。」
だがこれに答えたのは、またしてもミトカだった。
「もちろん、ただではないよ。仕事を世話してもらったと言ったけど、それは必須のことでもある。ここに住んでエリセさんの、あるいはワニヤさんの仕事を手伝うのさ。それが対価になるんだ。ただで居候するのではなく、住み込みで働く、ということなんだよ。」
この説明が観子の腑に落ちた。ミトカの言う『ここで世話になる』ということが、ワニヤたち夫婦の善意に完全に依存するものでは必ずしもないのだと思えて、観子の心理的抵抗はかなり小さなものになった。観子は自分の隣にいる青年の顔を見た。青年の方でも目を合わせてきたが、その瞳の透明であることのほかに、観子に見出すことの出来たものはなかった。青年は話を聞いているようだった。少なくとも会話に注意を払っていたし、もしかするとその話題が自分自身についてのことだというのも感じ取っていたかも知れなかった。ただ、いずれにせよ話の内容までは理解が及んでいないようで、彼の眼を見た時に観子にはそれが分かったのだった。観子は思った。(そもそも、私たちには選択の余地がない。)結局、このことが何よりも大きかった。このことの重要性が、ほかのことのそれを無に近いものにしていた。そして、選ぶ余地がないのなら迷う余地もないのだと一たびそう考えると、観子の思考は停滞を終え、また先を目指して転がり始めた。
ワニヤという女性は、観子の目には最初から悪い人間とは見えなかった。ただミトカとのやり取りを見ていると、二人の間には言葉以外の部分で疎通しているものが多くあるように感じられて、ワニヤが、今ミトカによって持ち込まれている案件について、すなわち観子たちについて、本心で何を思っているのかは分からなかった。
不明なのはミトカの思惑についても同じだった。ミトカが自分の口で表明しているものは、何から何まで善意の風貌を持ってはいたが、終始軽々しいこの男の態度には純粋な善意は似つかわしくないというのが、観子の持つ正直な印象だった。観子の感じているところでは、ワニヤとの会話を抜きにしても、このミトカの発する言葉と彼の思惑の全体との間には、かなり大きな隔たりがあるように思えてならなかった。
(ミトカもワニヤさんもエリセさんという人も、本当はどんな人かなんて、そんなの会ってすぐに分かるわけがない。分かるわけないんだ。疑おうと思えばいくらでも疑える。だけどそれじゃあ動けない。選択の余地はないんだ。頼るしかない。頼るんだ!)
こう考えると観子は椅子から立ち上がり、「ワニヤさん。」と言った。
「お願いします。ミトカの言うように、私たち二人をここへ置いてもらえませんか?仕事は、教えてもらえれば何でもやります。迷惑にならないようにします。だから、お願いします。」
そういって観子は頭を下げた。すると観子の耳に、ワニヤがため息をつくのが聞こえた。
「どうするか決めるのはあの人だからね。まあ、お願いしてごらんよ。」
ワニヤがこう言ったのを聞いて観子が頭を上げると、彼女はもう観子たちに背を向けて、調理場へと戻って行くところだった。
ワニヤが行ってしまった後、残された三人の間にはしばしの沈黙があった。それを破ったのはミトカだった。彼は思い出したように、観子にこう言った。
「そうだ、彼のことだけど、しゃべれないのはどうしようもないとしても、名前がないのは不便だよね。」
「まあ、確かに。」観子は答えた。「名前がないのか、名前はあってもしゃべれないせいで名乗ることが出来ないのか。」
こんなことを言いながら、しかし観子自身、この二つの場合を区別することに何の熱意もなかった。彼女の、ただ口をついて出るにまかせただけの言葉を、ミトカはわざとらしくも律義に拾い上げた。
「君、名前はあるの?君の、名前。僕はミトカ。彼女はミコ。君は?」こう言いながらミトカは自分と観子を順番に指差し、最後に裸の青年を指して首をかしげて見せた。「ミトカ!」「ミコ!」と言いながら同じ手順を二、三度繰り返した後で、ミトカは「いやあ、駄目だね。何かこっちで名前を付けてしまった方がいいよ。」と言った。実際、裸の青年はミトカの指の動きを熱心に追いかけはしたものの、何かの反応を返すということは一切しなかった。
「名前というか、とりあえずの呼び名が欲しいよね。これは便の問題だよ。『裸のお猿さん』じゃ、あだ名にもならないからね。」
そう言うとミトカは腕を組んでため息をついた。
「猿、ね。」と観子はつぶやいた。この『猿』という言葉が、姿は人だが裸の、無言の、本能的なこの人物を称すにはふさわしいものに思えて、彼女は何か腑に落ちたような感じがした。何かを納得している様子の観子を見て、ミトカが聞いた。
「何か、猿から連想する良い名前があるのかい?」
「木下藤吉郎」何の考えもなしに観子は答えた。
「長いよ、長い。君のところでどうだったか知らないけど、ここいらでそんな長い名を名乗っていたら噂になってしまうよ。目立ってしょうがない。チロウ、これでいいじゃないか。本人さえ良ければいいんだから。ねえ、チロウ、君の名前、悪くないだろう?」
そう言ってミトカは、自分と相手を交互に指差しながら「ミトカ」「チロウ」と何度も繰り返した。青年はミトカの指がその差している方向を変えるのを真剣な目で追っていた。観子はその様子を見ながら、こんなことで是非を表明するような何らかの反応を引き出すことが出来るのかと、内心いぶかしんでいた。すると唐突に「ううー」という声を青年が発したので二人は驚いた。観子にとってもミトカにとっても、青年の声を聴くのはこれが初めてのことだった。その声は太く、そう大きな声でもない割によく響いた。彼の声音にはほかにどんなものがあるのかをまだ聞いたことがないにも関わらず、観子も、ミトカも、彼のこの遠吠えのような不思議な声には、何となく穏やかなものを感じたのだった。
「あ、は、は。何だ、気に入ったみたいだ。僕はミトカ。君はチロウ。ミトカ!チロウ!ミコ!」
今度は自分たちの名前を覚えさせようとしているのか、ミトカはまた一人一人の人物を指差しながらその名前を呼んだ。裸の青年、今やチロウという呼称を得たこの青年の、ミトカの指の動きを飽きもせずに追いかけるその熱心さは一体どこから来るのだろうと、観子はぼんやりと考えながらその様子を見ていた。何回目かにミトカが「ミコ!」と言って彼女を指差した時、偶然なのか何か意味のあることなのか、チロウはまた「うー」と声を出した。観子にはそれがなぜか恥ずかしく感じられた。そして、「ミトカ、もういいだろう。」と言ってワニヤが会話に参加する前の時点まで話題を戻すと、彼女は再びミトカを様々な質問で苦しめ始めた。
しばらくするとワニヤの夫のエリセが仕事から戻って来た。エリセは寡黙な人物だった。中背で体格の良いひげだるまのこの男は、その口数の少ないのと同じくらい、表情の変化にも乏しかった。すぐさま要件を話し始めたミトカの言葉を聞く間、一言も発さず相槌を打つこともなく、顔の半分以上を覆っているひげと髪の奥で、ただその瞳だけを厳しく光らせているエリセの様子は、観子を再び不安にさせた。
ミトカの口調は丁寧ではあるが気安いものだった。ただ軽々しくはあっても冗談を言っている様子はなく、言いたいことを、つまりは自分の要求を、淡々とミトカは述べているのだった。ワニヤの時もそうだったが、ミトカのこの自分本位な話の持ちかけ方は観子を呆れさせた。しかし今度の場合、観子はむしろ恐怖していた。用意していたものを読み上げるかのようにすらすらと話すミトカの言葉を、黙って、厳然と聞いているエリセを見ていると、観子には「こんな頼み方で承諾を得られるはずがない」とさえ思えた。
一通りのことを話してしまってミトカが言葉を切ると、ずっと黙っていたエリセが一言、こう言った。
「目付けは、どうするんだ。」
「彼女、ミコに、こっちの彼、チロウの目付けをしてもらおうと思っています。ミコの目付けには僕がなるつもりです。幸い僕は今誰の目付けでもないし、この話を持ち込んだ人間として、最低限の責任を負う意味もありますから。」
この『目付け』という耳慣れない語が観子の注意を惹いた。そしてそれ以上に、ミトカの口にした『責任』という言葉を、黙って聞き逃すことは観子には出来なかった。
「ミトカ。目付けとは何だ。私はそれの説明を受けていないよな?」
観子に問いただされてミトカはばつの悪そうな顔をした。そして言い訳するように、「自分たちにとって当たり前のことを、聞かれもしないのに教えるのって、なかなか難しいことだね。つまり、一種の保証人だよ。」そうミトカは言った。彼の説明するところによると、それはオドの国における制度の一つなのだった。オド国内に居住する人間は全て、自らが負うべき社会的責任を、本人がそれを全う出来ない場合に代わりにその責任を担う、『目付け』と呼ばれる人間を持たなければならない。目付けの任命は目付けを依頼する人間と引き受ける人間、二者の同意があれば可能だが、目付けは公然のものでなければいけないから、戸籍と合わせて公の登録がいる。また一人の人間が担うことの出来る目付けの役は一人分に限られるが、子供など、本人の問われ得る責任が一人分に満たないものを対象とする場合にはその限りではない、などであった。
「二人の人間が互いに互いの目付けになることも可能ではあるんだけど、君たちの場合、チロウがしゃべれないからね。万が一を考えて、それはやめた方がいいだろう。ワニヤさんもエリセさんもお互いの目付けをしているから、これ以上ほかの誰かの目付けにはなれない。で、僕はというと、さっきも言ったように幸い体が空いている。それに言い出しっぺでもあるから。ほら、ね。選択の余地、ないだろ?」
そう言われて、もちろん疑問はまだ残っていて全て解決したわけではなかったが、観子はしぶしぶ納得した。そしてワニヤに対してしたのと同じ真剣さで、同じ内容を、すなわち自分たち二人をここに住まわせて、その対価は仕事を手伝うことをもって代えさせて欲しいという旨を、エリセにもまた頼み込んだ。
「分かった。」
エリセはこれだけを言い、それで話は決まってしまった。あまりのあっけなさに緊張を解くべき時を見失っている観子をよそに、ミトカが、食事やら寝床やら、話を次の段階へと勝手に進めていった。
ミトカはまた戻って来ると言って、一旦どこかへ引き上げて行った。ワニヤは店を開ける準備に忙しく、エリセもそれを手伝っていた。そして観子はその間に、自分たちにあてがわれた二部屋を掃除して片付けて、今晩の寝床の確保に努めたのだった。
ワニヤの店は二棟の建物が連なったようになっていて、通りに面した方が店舗であり、裏手のもう一棟が住居となっていた。その棟には確かに部屋に余裕があった。この建物が、子供のいない夫婦二人という実際の住人よりも、もっと大きな家族の住まうことを想定して造られていることは明らかだった。
店の方がにぎやかになってきた。人の話す声を遠くに聞きながら、観子は部屋を掃除した。空き部屋は整然としていた。普段は使われていない空間であるはずだったが、不必要な物品の置き場となって荒れている、というようなこともなかった。ただ片付いてはいてもそこは埃っぽく、掃除のしがいがあった。今まさに稼働しているあの店や、普段から使われている部屋と比較して、この部屋は建物の中に取り残された、住人から忘れられた場所のように思えた。段々と日が傾いて外が黄色っぽくなってくるのを見て、観子は、明かりはどうすればいいのだろうと考えた。チロウはそばに立って観子が掃除をするのをただ見つめていた。観子はもちろんそれを知っていたが、あえて掃除を手伝わせようという気にはなれなかった。
そうこうするうちミトカが戻って来た。彼は荷物をたくさん抱えていたが、それはチロウのために用意した衣服だった。「どれも古だよ。とりあえず、なしってわけにはいかないからね。」そうミトカは言った。ミトカが加わって、ひとまず一方の部屋の寝床が用意できた。チロウはもうずっと眠たそうにしていて、この次の瞬間にでも、まぶたは閉じ頭は垂れ、全身が床の上に崩れ落ちてしまいそうな有様だった。出来上がった寝床にミトカがチロウを引っ張って行くと、チロウはすぐに眠ってしまった。横になるよりも一瞬早く意識が途絶え、すでに入眠した状態の肉体が、ただ重力に引かれるまま倒れ込んでいくようだった。
「こいつ、まるで子供だ。」と観子が言った。
「でも体の方は、一人前の男として出来上がっているように見えたけど?」
こう返すミトカを、観子は横目でにらんだ。ミトカのこの軽口は昼間の山での一幕のことを言っているのだと、観子にはすぐに分かった。そして、出来事を早くも笑い話にしようとするミトカに抵抗するつもりで、観子は非難の眼差しを向けたのだった。ところがミトカは急に違う話を始めた。その話をするつもりで時機をうかがっていたのだということを、隠す様子も見られなかった。ミトカのその言葉の最初の部分は、何から話すべきか、という迷いが混入していて、そのために不明瞭なものとなっていた。観子にはそれが、ミトカというこの人物らしくないものに思われ、そのことが、急に真面目になったミトカの調子と併せて、彼女の注意を即座に呼び起こした。
「一言、言っておこうと思って。こんなこと、言われたところで納得できないだろうけど。君たち、多分、元いた場所へはもう戻れないと思う。君たちは、こことは別の、全然違う世界から来たんだろう?」
驚いた観子は焦って言葉を返した。
「何で、何でそんなことが分かる。」
「僕自身、そうだったからだよ。僕も、ここではない別の世界からある日突然、この世界へ迷い込んで来たんだ。ここへ来て、多分、五年くらい経ったと思う。元の世界のことも、この世界へ来る前には別の世界にいたということも、最近では思い出すことさえしなくなっていた。思い出す機会がないからね。このことを話題として共有できる人間は、ここには一人もいないんだから。そこへ君たちが現れた。僕は今日ミコの話を聞いていて、最初は何を言っているのかさっぱりだったけど、それでも段々と、そんな話に何か心当たりがあるように思えてきたんだ。それで久しぶりに思い出したんだよ、自分自身のことを。君も、話していて、話が通じない割にもの分かりが良過ぎると思わなかったかい?」
今の時点で聞かれた言葉だけでも、それについて質問しなければならないことがいくつもあるように、観子には思われた。また彼女は急いでその質問をしなければ、とも思ったのだった。ただそう思っていても、いくつもあるように見えるそれらが観子の中でまとまった一つの言葉を形作るには至らず、そうしている間にミトカがまた言葉を続けた。
「ここへ来てからの記憶のうち、最初の方のことはかなりあいまいになっていて、正直、自分が元いた世界へ戻るためにどれだけ頑張っていたのかを、僕は言うことが出来ない。今となっては僕もすっかりオドの国民で、この先もここで暮らしていくのを当然のことと思っているし、今さらこの世界を脱出してよそへ行こうとは思えない。もちろん初めからこんな風だったはずはない、と思う。というのは、初めのころの自分の気持ちを思い出せないからなんだ。ここで過ごした時間が増えるにつれて前の世界の記憶が薄れていくということに、どこかの時点で気が付いたのを何となく覚えているよ。そうして今、僕は自分のことをこの世界の住人だと思っているし、ほかの何かだと考えることはもう出来ない。これは気持ちの問題ではなく記憶の問題なんだ、という点を強調しておくよ。それが、君たちはもう帰ることが出来ない、そう僕が意見する理由でもある。帰る場所の記憶が失われていくのに、帰ろうという気持ちを持ち続けるのは、無理なことだろう?」
その晩、観子は自分の部屋の寝床に入ると同時に意識を失って眠りに落ちた。一人になった途端に頭の中で渦を巻いてもよかったはずの様々な考えは、唐突に遮断した意識と夢も見ない眠りによって、圧倒的な強制力の下に沈黙した。思考という行為を誘発する要因があまりにも多く、それらの一つ一つが答えを出すことの困難な問題ばかりである場合に、どうしても考えてしまう、この考えるという行為を精神に一時やめさせるために、肉体が、睡眠をその手段として、これを強制的に中断する。のちに観子はこの日のことを振り返ってみて、そういうことがあるのかも知れない、この晩の自分の状態とはそのようなものだったのかも知れないと、そう思ったのだった。
三、四と二本新たに投稿しました。次回11月頃更新の予定です。よろしくお願いします。水原