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 観子が崩落に巻き込まれた時、近くに一頭の猿がいた。若い、雄の猿だった。この猿ははぐれもので、もう一年もの間独りぼっちで暮らしていた。元々属していた群れからは追い出されていた。彼は若く、また強くもあったが、強者におもねるということが苦手だった。そしてボス猿の敵意を買い、最後には群れを追われてしまったのだ。自分一人でも、ただ食べて、ただ生きていくには苦労はなかった。だが彼のような若い雄がそれを果たすべく宿命付けられている役目を担う機会は一度も得られなかった。単独でうろついている雌などどこにもいなかったし、どんな群れでも、彼のようなはぐれものが雌に手を出すのを許しはしなかった。そうして若さを持て余し、無為に暮らしていた猿だったが、例の崩落にこの猿も巻き込まれて、大量の土砂と土砂の間に押し潰されてしまった。

 気が付いた時、彼は猿ではなくなっていた。彼は人間になっていた。猿だった時にそうであったのと同じ程度に、若く、たくましい体を持つ、人間になっていた。しかも彼は、自分の今の姿に何の疑問も持たなかった。以前は別の生きものだったことを、彼は忘れてしまっていた。

 今の彼は大体十七、八歳くらいの容貌を持っていたが、初めから人間に生まれついて十七、八年を生きたものが自分の体で当然出来るであろうことは全て、彼は行うことが出来た。彼は人間の目でものを見、人間の耳で聞くことが出来た。後ろ足だけで体を支え、二本の手を、歩行とは別の用途に独立して用いることが出来た。それをするのに、すなわち自分の肉体を自分の肉体として扱うために、特別な苦労は何もいらなかった。歩くために『歩こう』と思う必要はなかった。そこへ行こうという彼の意図に、彼の肉体は歩くという行為をもって応えた。その歩行が、後ろ足二本で行うそのやり方が、自分にとって不自然なものではないかという考えは、決して彼の頭をよぎることはなかった。

 このように、意識が戻った時に、彼が自身の身に起きた変化について感じ取ったものは何もなかった。彼がすぐに気付いたのは次の二つの事柄だった。まず、自分がさっきまでとは違う場所にいるということ。それも自分のよく知る、これまで暮らしてきた山の中ではなく、ここは初めて来た未知の場所だということ。そしてもう一つ、より強く彼の注意を惹いたのが、すぐ近くに自分と同種の生物がいること、それが雌であるということだった。

 彼は考えるより早く行動した。考慮すべき問題も、それを考え出す能力も、彼にはないものだった。その代わりに彼が十分以上に持っていたのは、目の前に訪れた機会の価値をより大きなものに思わせる、過去一年の我慢からくる反動だった。若さは、自然がそれを与えた目的を自ら証明すべくやっきになっているかのように、彼の体の全部にみなぎっていた。

 観子の眼前に現れたのはこんな状態の彼だったのだ。そして彼は観子に迫り、しかし何ものかの気配を感じたために止まり、現れたミトカと観子が話すのを見、ミトカの質問には無言のみを返し、最後に、服を着せるミトカに大人しく身をまかせたのだった。


 現在の彼は肉体と精神の両面において、彼が猿として今日まで送ってきた生活を、人間の姿で送った場合にそうあるような状態にあった。肉体は、人間の遺伝子がまだ忘れずにいた限りの、全ての頑健さと俊敏さを形にしていた。精神は、人間が自分たちの精神がそんな風でもあり得たのだということをとうに忘れてしまっているような、単純な、動物的な素朴さを保っていた。

 彼は現状、言葉を解さなかったが、それは単に彼が育った場所では言葉は使用されていなかったことに由来していた。話すことが出来ないのは話したことがないからで、話すために必要なものを持っていないからではなかった。彼の舌や声帯は訓練すれば人間の言葉を発発音出来るに違いなかったし、彼の脳も、多くの人間がそれを満たしているのと同じ程度に、言語の使用に必要な機能的条件を満たしているはずだった。

 彼は自分が動物だったことを忘れているし、そのことを知っているものはほかに誰もいなかった。現在の彼は、いわば人間という名の動物だった。

 彼の実質が動物であることは、彼の人間の姿が人目をあざむくとしても、本当ならすぐに露呈して良いはずだった。しかし実際はそうならなかった。彼の慎重さがそれを隠した。彼はその慎重さを、最近一年間の生活のうちに学んでいた。あるいは、それ以前の経験からくる反省を結実させたのだ。彼はそれこそ動物的な勘で、自分が今いるのは崩落の以前とは異なる場所だということを感じていた。未知の状況、未知の相手。手付かずの異性を発見して一時は衝動に支配されていた彼だったが、もう一人の男、ミトカが現れたのを見てからは冷静さを取り戻していた。彼は自分とほかの二人との差異に気が付いた。全裸でいる自分とこの二人との違い。二人の発している声の複雑な連続と、それによって意思を疎通しているらしい二人の様子。彼の目から見れば二人は同胞で、自分は異物だった。このことが彼に自分の不利を感じさせ、自分が敵性と見なされるのを防ぐため、彼をその行動においては慎重に、態度については従順にさせた。


 彼の慎重さは彼を守った。彼が何もせずにいる間に、ほかの二人は彼をおおむね危険のない存在と見なすことにしたようだった。反対に彼が二人に対して、つまりミトカと観子の両方に対して抱いている警戒心には、二人は気付くことがなかった。ところで彼は自分のいる状況の未知に対して警戒をしていたが、観子は同じ未知を前に混乱していた。彼女は必死の努力で自らの素性を明かそうとし、そして失敗していた。彼女は自分の立場を正体不明の存在以上の何ものにすることも出来ずにいた。だがそれはミトカの側からしても同じことで、ここにいる三人は三人共が、お互いに身分を証明することが出来ないのだった。だからといって三者が等しいわけではなく、この中でミトカだけが持っているものがあった。

 自分の今いる場所がどこであるのかを、ミトカは把握していた。彼は道に迷っているのでもなかったし、どうやって帰れば良いのかも分かっていた。迷子の観子は元いた場所への戻り方も分からず、誰かと連絡を取る手段もなく、彼女には今から自力でとることの出来る行動が一つもなかった。選択の余地なく、観子は、ミトカがこれから戻るのだという彼の住む町へ、一緒について行くことになった。

 裸の青年、元は猿で現在は人間の彼には、観子とミトカの話すことは分からなかった。ただ彼は何かをあきらめたような観子の様子と、彼女がミトカの先導のもと移動するらしいことを見て取ると、自分も一緒に行くことに決めた。観子とは異なり、彼には選択肢があった。直ちにこの場を去り少々勝手は違うかも知れないが、今までそうしてきたのと同じように山中で単独の生活を送る。そうする方が良いと判断さえしたなら、彼はきっと何の躊躇もしなかった。しかし彼にはミトカと観子を見て以来、気になっていることがあった。それが気になるがために、彼はミトカについて行くことにしたのだった。

「それにしても」ミトカが言った。「すっぽんぽんの彼は言うまでもないとして、君も君でかなりのおしゃれさんだね。」

 観子は自分が何を言われているのか分からなかった。

「何だい、その服は。そんな変わった服は一度も見たことがないよ。一体どこの異国の品だか知らないけど、君もその格好じゃあ相当目立ってしまうね。」

 ミトカに導かれて町に着いた時、観子は理解をした。それは同時にさらなる混乱でもあった。新しく知り得た事柄が、観子の知りたかったことを余計に分からなくしてしまった。簡単に出すことの出来る答えがそこに見えているような気がしたが、理解をするためには理解不能の何かを前提としなければならず、観子は躊躇した。しかし次々と目に入ってくる情報が、彼女をそのままにしておかなかった。それで彼女は、目で見ているものの方を優先して、考えをそこに合わせるということを、最後には、余儀なくされたのだった。


 そこは確かに町だった。観子が見たことのない種類の町だった。そこにある、見たことのないものが、最初に観子を注目させた。建物は見るからに木造で、屋根は瓦らしきものでふかれているが、その建築様式は観子のよく知る木造家屋のそれとはとても似つかないものだった。『異国』という、ミトカの口にした言葉がすぐさま観子の頭に浮かんだ。道行く人々の出で立ちにしても、それは同じだった。ミトカの言う通り、観子にとっての当り前の服装をしている人間は一人もいなかった。誰もが、ミトカと同じような民族衣装を身に着けていた。建物の外観と人々の格好が、とにかく観子の目に異様なものとして映った。そして彼女は後になって、同じくらい異様なこと、そこにないもののことに気が付いたのだった。それは信号機や、街頭や、道路標識や電信柱や電線や車や自転車のことであり、またどの建物にも一切使われていないガラスやアルミのことであり、何より、舗装のされていない全ての道路のことであった。

 自分の目で見ているものを元に、観子は一定の結論を出すことが出来た。この結論は、それが当然引き起こすはずの問いがどれも皆回答不可能と思えるために、まるで最後的な究極のもののようになってしまっていた。自分が今いるのは、元いたのと同じ場所ではない。それとは別の、根本的に異なる場所なのだ。観子はこう結論した。分かったのはこれだけだった。異なる場所。異なっているのは国か、時代か、それとも世界そのものか。どの問いも馬鹿げていて、かといって否定することも出来ず、そればかりかむしろ確からしくさえあった。

 人の手には負えない巨大な怪物を前にしているようななすすべのなさに、観子は呆然と立ち尽くしてしまった。この怪物は実際に目で見ることが出来た。それはこの町や、ここに暮らしているらしいこれらの人々がそうなのであり、また何の気兼ねも見せずに先を歩いて行く、今、立ち止まっている観子に気が付いてこちらへ戻って来る、このミトカがそうなのだった。

 観子がふと、振り返ってあの口のきけない青年を見ると、彼もまた全てのものが珍しいといった様子で、辺りをしきりに見回していた。彼も怪物と対峙している孤独な弱者なのかも知れないと観子は思った。自分はどうも独りぼっちになってしまったようだが、この裸の無言の男もまた独りぼっちなのだとしたら、自分は少なくとも一人の同類を得たことになるのだ。この発見によって自分は心細さを増すべきかそれとも減ずるべきなのか、どちらにすべきか観子には分からなかった。

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