二
気が付いた時、観子がまず思ったのは「自分は落ちたのだ」ということだった。地面に横たわっていた彼女は体を起こすと、当然負っているであろう怪我の程度を調べようとした。しかしどこにも怪我はしていなかった。だけでなく来ている服にも、大きな傷や汚れが見当たらないので彼女は不思議に思った。
(携帯がない。)観子は思った。それは、助けを呼ぶ手段と帰り道を知る方法の、両方を同時に失ったということだった。周囲を見回しても、気を失ってしまう前に自分がいた場所と同じような風景があるだけだった。観子は、足元の地面が崩れて自分が落下したことを覚えていた。しかし落下によって元いた場所からどれだけ移動しているのかは見当も付かなかった。崩落の前に歩いていた地点でさえ、バーベキューをしていた河原からどれくらい離れていたのかを、彼女はろくに認識していなかった。
そこは暗く、涼しい場所だった。頭上を覆っている木々の間を通過することの出来た光だけが、その場を弱く照らしていた。地上に届く前、梢によってせき止められてきらきらと散ってしまっている光は、暗闇に浮かぶ小さな装飾のようだった。明るさに欠ける、しかし暗がりの陰鬱さを削ぐことには成功しているこの光の飾り付けは、観子が自分の今いる状況に対する不安と戦うのをほんの少しだけ助けてくれた。実際、彼女の意識はこの時点でまだ完全には目覚めておらず、半分は眠っているような状態で、そのことが彼女を混乱から守ってもいた。
静かだった。鳥の声も、虫や小さな生きものの動く気配も、あるにはあったがそのどれもが遠く、また小さかった。そのことが、観子の意識を聴覚に集中させた。そしてそんな風に集中していたために、すぐ近くで何か大きなものの動く音を聞いた時、彼女はひどく驚かなければならなかった。
音の主が人間だということはすぐに知れた。少し先の茂みから顔を現したのは、若い、観子とそう変わらない年の頃に見える一人の男だった。木々に囲まれて自分がどこにいるのかも分からなくなっている観子にとって、そこに人間がいるということはそれだけで安心の材料となるものだった。(助かった。これで戻れる。しかしひどい日だった。なかなか出来ないような体験ではあったが。とにかく、好みもしない場所へ用もないのに出向くべきではない、これが教訓だ。)こんなことを観子は考えた。彼女が不安を忘れるには人間を見つけたことだけで十分だった。だから彼女はそれ以上のことには注意をしていなかった。観子は、男の目に灯っている異様な強さの光に気が付くことはなく、その光の意味合いを推察することも当然出来なかった。
男は最初から観子の方を見ていた。茂みをかき分けるようにして、男は彼女の方へ近付いて来た。彼は上半身には何も着ていなかった。(バーベキューに来ている人かな。)観子は考えた。そして男が、二人の間にあった最後の茂みを越えて来た時、彼女は自分の間違いに気が付いた。男は上だけでなく全身、何一つ身に着けていない裸の姿だったのだ。
見たことのないものを観子は見た。厳密には、それ自体を見るのは初めてではなく、自分の父親を合わせてこれで二人目だった。だがそれが今ある形態は、彼女が生まれて初めて目にするものだった。いまだに座り込んだままの格好でいる彼女からするとほぼ目の高さにあるそれを、観子はまともに見てしまっていた。何か凶器を向けられているような居心地の悪さを観子は感じた。
男は少し華奢だが筋肉質の、強壮そうな体をしていた。その裸体は美しいと言っても良いくらいのものだった。だがしかしこの裸体が真ん中に携えている、この種の存続のために必須な二物の一方であるはずの重要な器官が、今や生殖のための特別な姿をしているそれが、観子にはどうしても、男の全体を滑稽なものにしている付着物のようにしか見えなかった。
観子は視線を上げて男の顔を見た。そこには表情と呼べるほどの、何か特定の感情を代表するようなものは浮かんでいなかった。ただ過度の真剣さが、真剣さを過度に突き詰めてそれがある一線を越えた時、その向こうに存在するのは暴力なのかも知れないという、危なっかしい可能性をしきりにちらつかせていた。
自分を見つめている男の目を見ながら観子は、一体、人が人に向ける眼差しがこんなに強い何かをたたえることがあるのだろうかと、半ば感心していた。その目が放っている光と、光源となっているであろう衝動は、見つめられている観子に自分の体が熱くなってくるかのように感じさせた。それで彼女は、男にそのような熱い眼差しを送らせている原因、その正体である欲求と、その対象とは自分なのだということをようやく思い出し、あわてた。
「ちょっと、ちょっと待って。」
男は聞こえていないようだった。その眼差しの熱さだけが彼であるようだった。対話という相互的なものを失って、彼は直線になっていた。
「待て、待て、おい」
聞く耳を持たず歩いて来る男の姿は、一歩近付くごとに大きくなるように見えた。止まる様子のないこの接近者に、観子は完全に度を失った。ぞわぞわとした嫌な感覚が背中を駆け上がるのを彼女は感じた。それはじっとしているのが困難なほどの、まるで何百匹もの虫が同時に背中を這っているかのような不快感だった。
不意に、男が立ち止まった。観子の言うことを聞き入れてそうした、というわけではないようだった。男は、立ち止まると顔を右へ向け、茂みの奥へと視線を注いでいた。さっきまでそこにはなかった緊張を、男は全身にみなぎらせていた。観子には何の気配も感じられなかったが、男の様子を見る限り、そちらに何かがあるらしかった。沈黙と緊張が一時、場を満たした。
すると、茂みの奥からもう一人、現れたものがあった。現れたのはこれもやはり若い、温和そうな男で、目元には絶えず笑みを浮かべていた。奇妙なのはその服装で、男は洋服ではなく民族衣装のようなものを着ているのだった。男のこの奇抜な格好のせいで、観子の中では何よりも先に警戒心が反応をした。自分に対して発情している全裸の男を相手に一時でも安心を抱いてしまった、先刻の失敗への反省が、今になってこの反応を後押ししていた。ひっ迫した身の危険を感じ混乱している彼女にとって、この民族衣装の男は新たに出現した危険因子と見なすのが妥当だった。
「あー、失礼。思い違いだったら謝るし、すぐに退散するんだけど。どうしても、互いの同意あってのことには見えなかったものだから。」
観子はしかし、男が言ったこの最初の言葉と数秒に及ぶ熟慮とをもって、即座に警戒を解くことを決めた。不意に現れたこの助けに彼女は全力ですがった。
「そう、そう!」
「そう?それは、僕は思い違いをしてはいないという意味でいいのかな?」
「そう!」著しく低下した語彙力で、観子は必死に訴えた。
「あー、とりあえず。落ち着こう、二人とも、ね。落ち着きましょう。」
男が言った。ひとまず、観子の危機には手を貸してくれるようだった。裸の男は立ち止まった時の格好のまま、動いていなかった。彼からすれば邪魔者であるはずのこの民族衣装の男を、彼はじっと、観察するように見つめていた。
「僕はミトカ。君は?」
(ミトカ?あだ名か何かか?)観子は思った。「牧ノ瀬観子。」
「マキノセミコ?変な名前だね。で、そっちの彼、名前は?」
名を聞かれた全裸の男はしかし、黙っていた。
「ええと、名前、言いたくないの?面倒くさいな。とりあえずさ、服、着ようか。」
今度も全裸の男は何も言わず、何の動きも見せなかった。ただ黙って自分に話しかけている相手の目をまっすぐ見ている、この裸の青年の目には、妙な真剣さがあった。それは質問を無視している人間の表情にしてはあまりに純真で、何より決定的に、悪意が欠けていた。それでミトカと名乗った男はある可能性に思い当たった。
「もしかして君、しゃべれないの?」
男は無言で、まっすぐな眼差しだけを返していた。
「そうなの?で、服は?まさかと思うけど、持ってないの?」
無言だった。ミトカと観子は顔を見合わせた。そして、ミトカはため息をつくと、背負っていた荷物を地面に下ろし、ごそごそと何かを探し始めた。ミトカが引っ張り出したのは上着だった。肩の上から羽織る、丈の長い服をミトカは男に差し出していった。
「今の時期、昼間はまず用のないものだから。とりあえずこれ着なよ。」
裸の男は差し出された衣類と差し出しているミトカとを交互に見た。わずかに目を丸くして、しかし男は受け取らなかった。目のほかは、むしろ指一本動かさなかった。また数秒の沈黙があった。
「もしかして、まさかとは思うけど。ちょっといいかな。」
そう言うとミトカは、上着を男の肩にかけて前を閉じ、着させてやった。男は不思議そうな顔をしたまま、大人しく身をまかせていた。
観子はミトカが男に服を着せる様子を呆然と眺めていた。さっきまで男を支配していた衝動はすでに去ったようだった。脈打つような奇妙な収縮の様子を観子は見た。彼女はまた、燃えるような色合いを失って今では子供のように虚ろになっている、男の目を見た。抵抗もせず人の手で服を着せられている男の姿は、急に幼くなったように、無害なものに見えた。
(こいつ、本当にしゃべれないのか?本当にしゃべれないとして、服を持っていないのも本当だとして、それはつまりどういうことなんだ?こいつは一体何もので、ここで何をしていたんだ?)観子は考えた。この怪しい全裸の人物に対して立てることの出来る問いは無数にあったが、その中で答えることの出来そうなものは今のところ一つも見当たらなかった。観子はまた、もう一人の人物、どうやら自分を助けてくれたらしいこの奇抜な出で立ちの男を見た。(こいつもこいつで、一体何なんだ?服だけじゃない。靴も、あの荷物も、格好だけならまるで映画の撮影だ。だけどこいつは一人でいる。こんな山の中で、こんな格好で。もし悪い奴じゃないのだとしても、怪しさだけなら負けてないぞ。)
「それで?一体何があって、君たちはここでこうしていたんだい?」ミトカが聞いた。
観子はミトカに、自分がこの渓谷に来てからここで気を失ってしまうまでの経緯を話した。ところが話し始めるとすぐに、彼女は思わぬ困難にぶつかった。話が嚙み合わないのだ。言葉が通じているのに何一つ伝えることが出来ないという異常な体験を、観子は味わうことになった。伝えようとした内容は多くはなかったが、どうしても伝わらないそれを表現するために、観子は言葉を無数に重ねた。しかし何を言っても何度言っても、ミトカから困ったような苦笑以外のものを引き出すことは出来ないのだった。やがてある冷静さが彼女に、自分が目下取り組んでいるのは根本的に不可能な行為なのではないかという疑いを投げかけた。
「何だか、まるで別の世界の話を聞いているみたいだね。」
ミトカが気の毒そうに笑ってこう言った時、観子は同時に別の誰かの声で「いくらやっても無駄だ。あきらめろ。」と言われているような気がした。
全裸の男、今は丈の長い上着で首から下を隠しているこの無言の男は、観子が必死になって話している間、話している彼女の目をずっと見つめていた。その態度は、話を聞いているのだとすれば殊勝なものだったが、その顔を見れば、話の内容を理解出来ていないことは簡単に見抜けた。子供が叱られるとき、大人がその叱責を怒気と理屈の両方をもってする時、子供の顔に見出される、聞いているのだという真剣さと、理解の出来ていないための無感動。それと同じものを持っているこの男の表情がふと目に入って、観子の、何とかして説明しようという意思は折れてしまった。