表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/8

新作です。前作は全編を書き終えてからの公開でしたが、今回は書き進めながら随時更新していこうと思っています。次回9月ごろ更新の予定です。どうぞよろしくお願いします。水原

 牧ノ瀬観子(まきのせみこ)は後悔していた。それは、今日自分が参加しているバーベキューのことで、大学の、大して仲の良いわけでもない同期生からの不意の誘いを、自分が断らなかったことを今になって後悔しているのだった。

 観子たちは山あいの、とある渓谷にあるバーベキュー場にいた。男女合わせて十人ほどが、成長を終えたばかりの若い肉体を流行りの服に包んで持ち寄り、真夏の日差しを浴びている。片時の沈黙も許さないようなにぎやかさを作り出すため、全員が一丸となって協力し合っている。川の流れと、広い河原を覆っている砂利とが、降り注ぐ太陽の光に各々のやり方で応えていた。砂利は白くまぶしく、流れはきらきらと照り返している。川の両側に高くせり上がった崖が迫っているのと、川が曲がりくねっているために、そこは、ほぼ四方を高い緑の壁で囲われたような空間となっていた。空は狭く切り取られていた。そしてそのことが、この場所を若者たちの楽し気な催しのための、作り物の舞台のようにしていた。

 観子がいるのはこんな光景のただ中だった。何か飲み物の入った紙コップを持って棒立ちになっている観子は、自分の今いる、最初に誘いを受けた時点で確かに予見できたはずの状況、自分という人間には最も縁遠い状況を、必死に耐えているのだった。

(失敗した。来る前に気付くべきだったのに。こんな遊びに時間を割いて、得るものなんて何もないと分かっていたのに。)

 人の話す声と笑い声とは耐えることがなかった。そこでは、だれか一人の話す言葉を皆が聞いている瞬間もあれば、異なる複数の会話が同時に存在している瞬間もあった。しかし複数が複数であり続けることはなく、ある時誰かの放った一言が全員の笑いを引き起こすと、そこでまた会話は全体の、一つものに集合する。この集合もまた永続のものではなく、やがて全体はまたいくつかの部分へと分かたれていく。観子は目の当たりにしている現実に打たれた。驚きよりも、むしろ一種の恐怖が、彼女を襲っていた。会話の、決して破綻することなく動き続けている離合集散の秩序と、絶えずそこへついて回る笑い声。それを実演している学生たちの持つ、信じがたい困難を可能のものとしているその技芸を、彼らはどこで身に付けたのか。それを身に付けるためにどれだけの時間を費やしたのか。観子は今、自分が学問に身を投じている間に周囲の人間が何に打ち込んでいたのか、彼らのその研さんの成果を見ているのだった。自分を、文化や考えを異にする別世界の人間の輪に入り込んでしまった迷い人のように感じて、観子は心の中でうめいた。(くそ。来るべきじゃなかった。)

「見て、猿がいる。」一人の学生が言った。「ほらかわいいよ。こっちに来ないかな。」

「かわいくたって野生動物だ。噛み付かれるよ。」

「やだ、怖い。」

 野生の猿という対象を得て、場はまた一層の盛り上がりを見せた。猿はどんな食べ物を好むだろうとか、酒を飲むだろうかなどと言いながら、学生たちは新しい酒の缶を開け、飲み、そして笑い声がそこへ続いた。

(ここにあるのは女の嬌態と男の虚栄と、それから笑い声。これで全部。)観子は思った。(下らない。そう思いながらここでこうしている、私が一番下らない。)

 そうして観子は立ち上がり、「ちょっとトイレ」と言ってその場を離れた。


 河原の砂利が日差しを受けて白く光っている、その上を踏んで観子は歩いた。(来るべきじゃなかった。来る前に気付くべきだった。)彼女の中では後悔の言葉がくり返されていた。(大学生。一人の人間として社会に出て行く前の、教育の時期の、最後の段階。この時期の私たちがしていること。それがこれだ。)

 観子は同輩の女学生たちの着る服を、また彼女たちの、繊細な配慮のもとに露出された胸元や足首を思った。

(出来上がった肉体が繁殖の機会を求めている。その本能にただ突き動かされている。あの人たちは、ようやく手に入れた選挙権の使い道を考えたこともない。学びの時期の最後の猶予に何を学ぶべきかも分からず、身を飾ることにかけてはどんなに人間的でも、その行動は動物的で機械的だ。)

 すぐそばにある、川の流れを取り囲んでいる木々のうっそうとした茂みは、暗がりとなっていて内部を見通すことは全く出来ず、何も見えないために、まるですぐそこに何かが潜んでいるような不気味な印象を観子に与えた。暗がりから吹いてくる冷たい風が、この印象を作り出すことに協力していた。低く横に伸びた枝は隙間なく青い葉をたくわえていて、すぐ下にある地面に大きな影を落としていた。いびつな輪郭の黒い影は、白く光っている地面を何かが蝕んだ後のようだった。

 人間の進入を拒んでいるかのような木々の密生を横に見ながら歩くうち、観子はふと、茂みが途切れてぽっかりと口を開けたようになっている部分を見つけた。これが獣道というものだろうか、と考えながら観子は、人間が通るには少し低いその入り口をのぞき込んだ。それは思った以上にしっかりと道の体を成していて、つい彼女は、はっきりした考えもなしにその奥へと足を踏み入れたのだった。

 中は涼しかった。足下も悪くはなかった。道がしっかりしていることと、戻る時には来た道をただ辿れば良いのだという思いが、観子の躊躇を抑え、彼女を大胆にさせた。


(それにしても、あの人たちの話していること、一つも分からなかったな。)すぐ先の地面に視線を落としながら、観子は一歩ずつ、歩いて行った。(あの人たちは皆、話題を理解しているようだった。誰でも知っている、ってことなのか?大学生とは普通、ああなのか?)

 実際、若者のあるいは世間一般の流行や人気の対象について、観子の持っている知識は大学生の普通の水準を著しく下回っていた。彼女の頭を占めているものはいつも、歴史や、政治や、思想、そういった事柄であった。

(私も一応、花の大学生だ。だから、一度くらい、いかにも大学生らしい軽薄な行事に参加してみようと思ったんだ。何事も経験しなければ知れはしないのだから、大学に通って、大学生らしい何事も知らないままでは、いけないと思ったんだ。)

 これが理由だった。観子は勉学に志していた。大学にあって、学問に励みながら、観子はしかし心の中でそれら学問を、実生活の経験に先立つ予備的なものと見なしていた。そして学校にいても得ることのない実際の社会生活の経験にあこがれ、経験が自分を鍛えてくれる日が来るのを心待ちにしていた。座して学んでいるだけでは決して知ることの出来ない痛みを、経験がどんな厳しさで自分に与えてくれるのかを想像することは、観子の楽しみとさえなっていた。

 しかし経験という名の学習に大きな価値を見出しているからといって、彼女がその価値を知っているのではなかった。彼女の思い描く経験の素晴らしさも、経験の重要性を指摘している何かの本のどこかの一文が影響して、彼女が自分の中に作り上げたものに過ぎなかった。観子は自分の考えているような経験を、まだ経験したことがなかった。二重の意味で、彼女には経験が不足していた。

(結局、来るべきじゃなかった。学ぶことが出来たのはこの後悔だけだ。)

 観子の口からはため息が漏れた。彼女には、吐いた息の分だけ体が重くなるように感じられた。


 観子がふと、歩く足を止めて、顔を上げ、先のほうに立っている木の枝に視線を向けると、その枝の上には何か茶色い丸いものが乗っていた。それは猿だった。(さっきのやつかな。群れがあって、近くにたくさんいるんだろうか。)猿もこちらの存在に気付いていて、目が合ってしまった。にわかに、不安が観子を襲った。一人、山中で、野生の動物と対峙している。そこにどんな危険があるのか、それを測る正確な知識を観子は持っていなかった。そのため彼女は、危険を無闇に大きなものとして想像してしまうのを自分で止めることが出来なかった。考え事に没頭しながらの山歩きの雰囲気は中断された。(もう戻らないと。)観子は緊張しながらそう考えた。

 その時、猿が何かを察知するような仕草を見せた。そして次の瞬間には猿は別の枝に飛び移り、あっという間に姿を消してしまった。猿の行動を見て何かを思うよりも先に、観子の耳には地響きのような音が聞こえ、足には振動を感じた。「地震だ」と観子は最初そう思った。確かに揺れはあった。しかし同時に聞こえている音は、彼女がこれまでに聞いたことがないような、すさまじい轟音だった。それは木々の倒れぶつかり合い、折れる音だった。観子が立っている場所よりも下の方で、地面が崩落し、それがこの激しい音と振動を発生させた原因だった。木々に囲まれて見通しのきかない中、今何が起きているのかを彼女が正しく知るのは無理なことだった。それが知り得るものとなった時には、彼女自身、それに巻き込まれてしまっていた。

 察することの出来るような何の前触れもなく、観子の立っている地面が崩れた。立っていた場所がなくなってしまったので、必然的に彼女は下へと落ちなければならなかった。足下の地面が崩れてなくなってしまうと、今度はその空間に上から流れ込んで来るものがあった。ものすごい量の土砂が一気に押し寄せ、観子の体をまるで液体のような自由度で小さく折り畳んでしまった。観子にとって幸運だったのは、最初に足下が崩れた時に転倒して頭を打ち、気を失っていたことだった。そのため肉体の損傷の最も過激な瞬間は、彼女の知らぬ間の出来事として、生前の記憶にも残ることはなかった。

 破壊は、それを観測する人格の不在のために、ごく物理的な現象の一種として淡々と為され、淡々と終わっていった。腕や足は、自らを襲っている外部的な破壊力によって、腕や足であることをあきらめなければならなかった。それらが変身することを余儀なくされたのは、落ち葉か何かのような受動的な存在だった。強い外圧がかかっているために、体内のものが圧力の低い場所を求めて緊張する一方、同時に至るところに損傷を受けている肉体は簡単に破けてそれらのものに出口を提供する。しかし周囲の空間も土砂で満たされていて、結局、人体を構成する中でも特に流動的なものだけが、様々な個所から体の外へと出て行き、しかし遠くまで行くことはなく、土砂の中にごく小さな隙間を見つけては、その一つ一つにしみ込んで行くのだった。

 地中で圧搾された観子の体を、もし周囲の土砂だけを取り除けて現在地中にあるその姿のまま見ることが出来たとしても、それはもう人がそれを人体と呼び得る最低限を、とうに下回っていた。

 こうして観子は瞬時に、ほとんど気付きもしないうちに絶命した。ところでこの時、近くにいた一頭の猿が、同じように生き埋めになって死んでいた。


 崩落は規模の小さなものではなかったが、バーベキュー場のある河原の方へは影響しなかった。バーベキューをしていた学生の一団から、一緒に来ていた学生の一人の行方が分からない、と訴えがあり、この崩落に巻き込まれた可能性もあると見ての捜索が行われた。しかし何日かけても成果は得られず、観子の行方は不明のまま、やがて捜索は打ち切られた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ