迷う角、惑う核
イヴです。それ以外は何も思い出せません
目を覚ますと、ゆっくり体を起こした。それからあたりを見回す。
しばらくそうしていたが、やがて立ち上がって歩き始めた。
小川にたどり着き、しゃがみ込む。水に手を浸す。それから手で掬って顔を洗った。
足下を見下ろす。浅いが流れは緩く、水は澄んでいる。
水面に映っているのはイヴ自身。
しばらくそのままでいると、不意に地面が揺れた。水面にも小さく波紋ができた。
とっさに近くの茂みに身を隠す。
後方から大きな足音が近づいてきていた。注意深く振り返ると、ガーフェントがいた。
木々の間をのし歩く。顔を引っ込めたイヴには気づいていないらしい。
気づかないまま通り過ぎるガーフェント。静かにそれを見ていたイヴの背後で物音がした。
振り返ったガーフェントと、茂みの陰から覗いていたイヴの目が合う。距離は10メートルもない。巨体に似合わない俊敏さを持つガーフェントなら一息の距離だ。
硬直したイヴの前に、トワが後ろから歩み出た。ガーフェントが姿勢を低くする。
飛びかかってきたガーフェントを、トワは避けた。
「はい!?」
その後ろにいたイヴはすんでのところで躱したが、大きく体勢を崩した。狙いを移したガーフェントはイヴに向かって大きく口を開けた。
イヴに噛みつきかかる寸前、黒い何かが横から飛び出してきてそれを止めた。
ガーフェントを盾で留めたまま、トワはイヴに向かって言った。
「なぜ逃げなかった。死にたいのか」
「…無茶言わないでください」
向き直ったトワは盾を振るってガーフェントを弾き飛ばした。よろめいたガーフェントに向かって跳びかかり、脳天に向かって振り上げた盾を叩きつけた。
それから地面に降りるとイヴを見た。ガーフェントは色を失くしていたがそれを確認する様子はなかった。
「…すごいことしますね」
「君はここで何をしている」
「わかりません」
「死にたいのか」
「いいえ」
「この島の人間か」
「わかりません」
「ついてきてもらおう。町に戻る」
そう言って歩き出したトワの後をイヴは追った。
大木の並びを抜け、丘に登ると海と城壁に囲まれた町が見えた。
「ここはどこなんでしょうか」
「君は誰なんだろう」
「誰なんでしょうね」
町の建物に入って何やら手続きをする。
「依頼を受けてたんですか?」
「要請だ」
「狩人なんですか?」
「旅人だ」
食堂の席で2人は向かい合って座った。
「あなたは僕を知っているんですか?」
「初対面だ。記憶している限り。覚えるのは苦手だが、こうも生命力の感じられない者がいれば流石に忘れない」
「さっきも思いましたけど、初対面の相手にとんでもないこと言いますね。何か恨みでもあるのかと思いました」
「どうしてそんなことを思う」
「僕は何も覚えてないんですよ」
「さっきも聞いた」
トワは茶を飲む。
「…本当に僕は何をしてこんな目に遭ってるんでしょうか」
トワが目線を上げる。
「ここがどこかわかるのか」
「どこなんですか?」
「イェトラ」
「デグォム大陸の東の島ですよね」
「ゾウツァの北東」
「どちらかというと南東ですね」
「知らなかった。さっきの魔物はなんだろう」
「ガーフェントです」
「あまり見ない魔物だ。自分は実際に見るのは初めてだ。おそらく」
トワは視線を巡らせる。イヴは動かなかった。
「ムスカ」
「…腕時計の部品ですね」
「メンカル」
「お菓子メーカーですね」
「ピシレト」
「インフケス法で使う物差しですね」
「グルンクア」
「…グルクアですか?それなら命綱のことですね」
少し止まってからトワは本を取り出した。ページを捲りながら単語を呟く。
「キークル」
「カノセ大陸の北で見られる貝ですね」
「ソービン」
「軍人の装備の一つですね」
「ヴェヤナ」
「クラニアの山ですね」
「トイコロノア」
「翼竜ですね。中生代の」
「シャミクワリ」
「迷走神経の病気の別名ですね」
「ゲンバル」
「エポトラ神話の妖怪ですね」
「カツイ」
「クロートゥ大陸の北西で主食として育てられている植物ですね」
「アヴァンドゥッシ」
「わかりません」
「そんな言葉はない」
トワは本を閉じてイヴを見る。
「知識は問題ないな」
「どんな本ですかそれ」
トワは表紙を見せる。
「辣肴ですか。難しそうなの読んでますね。好きなんですか?」
トワは本をしまいながら頷く。
「むしろ自分の会った誰よりも知識の幅が広い」
「ただ、どれもなんで知っているのかわからないんですよね」
「まともな人間とは思えない。…作家か」
「今すぐ作家に謝ってください。どうでしょう。少なくとも今僕の中に特別な名前はありませんね」
トワは黙る。
「僕はどうすればいいんでしょう」
小さな町だが、イヴを知っている者はいなかった。行方不明者の情報も探したが、特徴の一致する者はなかった。
「自分と一緒に来ないか」
しばらく黙っていたトワが突然そう言った。
「どうしてですか?」
「旅をしていれば君が何者なのかわかるかもしれない」
「旅をしているんですか?」
「世界を巡るつもりだ。時間はかかるだろうが」
「どこから始めたんですか?」
「出身はイジモだ」
「メウナクでしたっけ」
トワは頷く。
「旅ですか。どうせ行く場所もないからありがたいですけど。僕何も持ってないですよ」
「金ならある」
「それは申し訳ないです」
「気にすることじゃない」
イヴが答えようとするとトワが立ち上がる。
「悪いのは君ではないのだから」
夜、部屋に戻った。
「この部屋は割といい値段するんじゃないですか?悪いですね」
トワは本を差し出した。
「読んだことがないなら勧める。余計なことを考えずに済む」
「…もしかして目があまりよくないんですか?」
「自分の目は普通。君が映ろうとしないだけ」
イヴは本を受け取った。
「なくすな。汚すな。迷子センターに連れていかれたくなかったら」
思い出したように振り返るトワに、イヴは呆れた声を返す。
「受け取ってから怖いこと言わないでください」
トワは布団を運びながら呟いた。
「一人だと眠れない」
「…余計なことが聞こえましたね。今までどうしてたんですか」
「明日の18時20に船が来る」
座ったトワをイヴが見る。
「盾を使うんですね」
トワが盾を掲げて見せる。
「多いんですか?」
「珍しい。盾だけで戦う者は見たことがない」
トワが机に視線を向ける。
「手帳か」
「持ってたんですよ。さっき見つけました」
「何か書いてあったのか」
「見ますか?」
イヴが開いて見せた。
「僕が書いたものなのだとしたら、僕が作家でないことは確かですね」
それを覗いたトワの表情は変わらない。
「…読めない」
「ああ、字が汚いですか?」
「違う」
手帳には細かい手書きの字がびっしりと書き込まれている。ページを捲ってその一か所を指し示す。
「ここにはイェトラって書いてあるんですけど」
「…この字が読めるのか」
「?はい」
トワは部屋のドアの上を指さす。
「そこには何と書いてある」
「、ですか」
イヴが答えると突然部屋の隅に行って荷物をあさりだし、紙を持って戻ってくる。
「これは?」
「手紙だ。ずいぶん前のものだが。何と書いてある」
その手紙に目を通したイヴは呟く。
「これが手紙ですか」
「読めるのか」
「はい」
トワは表情を変えないまま。
「なんとなくですけど、すごく驚いてますか?」
「…自分はその文字が読めない」
イヴの手元の手紙を示して言う。
「今は使われていない文字だ。今生きている者でその文字が読めるものはいないはずだ」
イヴは不思議そうな顔をする。
「誰からの手紙ですか?」
「妹だ」
「死んでるんですか?」
「生きている」
「矛盾してますね」
「例外のない法則はない。ほかに読めるものがいるとすれば考古学者くらいだろう」
「…妹は考古学者なんですか?」
「違う」
「…」
「何が書いてある」
イヴは再び視線を手紙に落とす。
「…すごい妹なんですね」
「血は繋がっていないが。何が書いてある」
「そんなに知りたいんですか?」
「そうでもない」
「それなら教えません。とても僕の口からは言えません」
トワが少し黙ってから。
「寝る。もうこんな時間だ。明日の朝は早い」
イヴも布団を運ぶ。洗面台を使ってから部屋の照明を消す。
「おやすみ」
「朝が来るといいですね」
トワは目を開ける。闇の中。
声が聞こえる。
「おはよう」
机で本を読んでいたイヴは顔を上げる。
「新しい一日ですね」
「君の挨拶は変わっている」
「そうですか?」
「やはり近くに人がいるとよく眠れないらしい」
「我儘ですね」
「よくあることだから慣れている。心配はいらない」
「してません」
2人は朝食を食べる。
「昨日はどんな夢を見たんだ」
「…思い出せないですね。どうしてですか?」
「うるさかった」
「はっきり言ったものですね」
「楽しそうではなかった」
港に着くころにはすでに船が来ていた。
「そういえば、どうしてこの島にいたんですか?この島でしたいことでもあったんですか?」
「特にない。この島じゃないとできないことは」
「じゃあなんでですか?ゾウツァからサイナーまでなら降りずに行けますよね?」
「そんな距離船に乗っていたら動けなくなる」
「はい?」
「この島に来たときも一人では降りられなかった」
「適当に放り出せばいいのに優しい人たちですね」
「最後にもう一度訊く。あの手紙には何が書いてあった?」
「急ですね。手紙と呼べる文章じゃないんですよ。いくつもメモみたいに…。小説のセリフみたいでしたね」
「それだけか」
「ところで、僕はあなたと旅をすることに決めました」
「急だし今更」
「というわけでよろしくお願いしますね師匠?」
「下船の時は担いでくれていい」
「面倒なので転がしていいですか?」
ガーフェント:魔物。外見は古ワニに近い。全長18メートルほど。強いはず
そんなことより本当に人間なのか
遠慮はするだけ無駄だということに気づくのに時間はかからない
頭の回転が速いようで遅い




