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夢咲ぬ 序書から3章まで  作者: 夢前孝行
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夢ものがたり

序章



 

大学を出て働く気力もなく、就職難と言うこともあって半年ほどプーターローをしていました。男は街で精神病じゃないかと噂され位暗い人間でした。働かなくちゃ駄目だと二週間ほどハローワークに通っていましたが、ある日住友鉛筆姫路販売を紹介され、そこでどう転んだのか分かりませんがさっそく採用されたのです。

セールスの仕事でしたが住友鉛筆の筆記具を文具店に卸すちまちましたルートセールスの仕事がよほど性に合っていたのか、男は見違えるように明るく、誠実な人間に変身していきました。

入社六年後には住友鉛筆の全国セールスマンコンテストで、五百人中二位になり、褒美として遊びのようなアメリカ研修旅行のメンバーに選ばれ、ニューヨーク、ダラス、ロサンゼルスと十日間もアメリカに行ってきました。お陰で課長代理に出世していました。

そのニューヨークで武田和子と出会いました。

ロウア・マンハッタンのバッテリー・パークから自由の女神が見える絶好のスポットでしたので一枚写真を撮りたいと辺りを見渡していると幸いにもすらっとした美女が歩いていました。しかも幸運なことに日本人でした。「シャッターを切っていただけませんか」とお願いすると快く引き受けてくれ、彼女にカメラを渡し自由の女神をバックに自身の写真を撮ってもらったのです。それが縁でお互いメールアドレスの交換をして以降ずっと日本に帰ってきてからもアメリカと日本に住んでいながらメールをやり取りしていました。

その彼女が二年前日本に一時帰国した際は姫路城が見える駅裏通りにある二十階建ての豪華ホテル・ムーンガーデンで一夜を共にしました。ラッキーな一夜でした。思ってもみませんでした。彼女から誘ってきたからです。


会社では男は同僚や先輩達からも羨望の目で見られ、妬みと嫌がらせを受けるぐらい飛ぶ鳥を落とす勢いで、天狗にもなっていました。だが良いことばかり続かないのがこの世の常です。男が開拓してきたパチンコ店を二十数経営している『木戸遊技』から販促物や景品として使う千五百円のボールペン一万本を受注したのですが、納品の段になって突然契約を破棄されたのがつまずきの第一歩だったのです。何分契約書たるものを交わさないのが文具業界の暗黙の了解でしたので結局泣き寝入りするしかありませんでした。

年商三億円ほどの姫路販売です。上代で千五百万円。原価にして六百万円近くの不良在庫は資金ショートの原因になります。

社長は今まで蝶よ、花よと男をもてはやしていましたがこの失態に激怒し、毎朝出勤するとセールスに出るまでの小一時間余り一万本のボールペンを早く売りさばけと、ヤイヤイ言うようになったのです。

 男は倉庫の陽の当たらない隅っこに山と積まれた千五百円のボールペンを売りさばこうと努力するのですが一向に成果は上がりません。情けないやら悔しいやらで泣くに泣けませんでした。

しまいには会社に行って来ると家を出ますが、行き先は姫路城だったり姫路港だったりして会社に行く気が起こらなくなって来たのです。当然休んだ翌日は社長の机の前で一時間も二時間もぐずぐずと言われ、やる気が自然と萎えてきたのです。

この繰り返しが三ヶ月も続き、男は体に変調を感じるようになり、あげくの果てに精神までおかしくなってきたのです。その間千五百円のボールペンが売れたのはわずか二百本弱でした。失敗したという責任感と社長の人を人とも思わぬ罵声で、頭の中がくしゃくしゃするようですっきりしない日が多くなってきたのです。夜も寝たような寝ていないような中途半端な睡眠でぐっすり眠れなくなり、こりゃちょっとおかしいぞと思うようになり、意を決して心療クリニックの門を叩くと医師から朝夕精神安定剤を服用するよう言われたのです。その薬を飲むようになってからようやく夜眠れるようになりましたが、その代わり何だか体から覇気がなくなったような気がしてなりませんでした。それ以降、精神安定剤と睡眠薬を肌身離さず持つようになったのです。夏でも冬でも腹巻きをしていましたのでその中に入れていました。

営業成績も下がる一方で、もはや会社のお荷物的存在になり、配達業務に格下げされる始末でした。社内恋愛で付き合っていた事務員の船田靖子にも振られる始末で踏んだり蹴ったりで、負の連鎖が続くときは途切れなく続くものと諦めていました。そうして元々優秀なセールスマンだった男がたった一度の失敗で社長に追い詰められて、やる気を失って人生に絶望し、会社を辞める羽目になってしまったのです。

男は自信も勇気も失って失意のどん底で生活していました。ある日自宅のベットで昼間から寝ていると頭がクラクラしてキリキリと頭が痛いのです。頭に何か埋め込まれたような気がしてそのまま気を失ってしまいました。小一時間ほどして気がつくと将来の夢も描けず途方に暮れ死んでしまいたいと思うようになったのです。

ベッドの上でしばらく考えていました。死に場所をどこに選べばいいか思案したのですが、いっそのこと外国でということになり真っ先に浮かんだのがニューヨークでした。少し蓄えていた金を持ってニューヨークに行くことにしました。幸いニューヨークにはメル友の武田和子が住んでいますし、彼女に会ってから死のうと思いパソコンで飛行機のチケットを予約しホテルを押さえました。

自宅を出る直前に武田和子にメールで連絡を入れておきました。死ぬためにニューヨークに行くのに何故彼女にメールを入れたのか? 実をいうと下心があったからです。さんざん迷った挙げ句の決断でした。凶と出るか吉と出るか分かりません。空港に迎えに来てくれているかどうか分かりません。

返事をもらう間もなくその日の朝関西空港から日本を発ったからです。今男の持てる唯一の夢はニューヨークで死ぬことです。死ぬのが夢というのもちょっと変ですが不運と絶望の女神に惚れられた男にはそれしか思いあたらなかったからです。それにもう一度武田和子と寝てから死にたいと変な欲が出てきたのです。まったく呆れた男です。

あの姫路のムーン・ガーデンホテルの薄暗い部屋で見た彼女の裸体が今も目に焼き付いて離れません。白い蛇のように男の体の上で昼間の清楚な感じとは裏腹にゆっくりと体をくねらせ、淫らにあえいでいる姿態が脳裏をかすめ思わず生唾を飲んで、そうだ死ぬ前にと思い連絡を取りました。

愚かな男です。思い込んだら一途なところがある男です。こらえきれずに連絡してしまったというのが本音です。それほど彼女は男にとってはいい女であり死をかけるに値する女でした。

この一連の行動は夢銀行に誘導されているも知らずに日本を発ちました。

その男の名は天沢(あまざわ)(ゆめ)(たか)三十歳。名前の夢髙は夢が高いほどいいと言って親父がつけてくれたらしいのですが夢ばかり多い上に高過ぎて実現した試しがありませんでした。その親父も住友鉛筆姫路販売に入社が決まった一週間後息子が定職に就き安心したのかぽっくり死んでいきました。


女つまり武田和子は八年前にアメリカに来て、現在永住権を持っています。彼女はアメリカに来る半年前、両親が相次いで亡くなり、大学二年生でしたが単身アメリカに渡ってきました。

 彼女の父親は従業員が二人いる酒店を神戸の須磨で経営していましたが、酒のディスカウント店が町のあちこちに出来たので経営が成り立たなくなり、余力のあるうちに店をたたみ駅前の一等地を売り、郷里の九州に帰る予定だったのですが、気力が失せたのか商売柄酒を飲みすぎたのか店をたたんで半年後肝臓ガンで苦しみもせず亡くなりました。母親も父親の死に落胆したのか、心労がたたって二ヶ月後脳溢血で後を追うように死んでいきました。

 両親が生きていた頃からアメリカに永住したいと思っていた和子は親に内緒でグリーンカードに応募していましたが、幸運にも当たり両親の死後、店や自宅をたたんで叔父を頼りにニューヨークに来て現在に至っています。

 和子の両親が健在だったら決してニューヨーク行きを許してくれなかったでしょう。叔父がニューヨークの日本の大手商社に勤めていた関係で、その人を頼ってきたのです。その叔父も和子がニューヨークにきた半年後日本に帰ってしまいました。何分彼女は店や自宅を売り、億という金を持ってアメリカにきたのです。和子は和子なりの余裕の人生プランを持ってニューヨークで暮らしているのは間違いないのです。和子はまだ二十八歳、色が白く瓜実顔の美人です。



第一章 再会のニューヨーク



翌日三十分遅れでケネディ国際空港の出国ゲートに向かうと、黄色のブラウスにバーバリーのスカートをはいた武田和子がゲートの向こうに立っていて「こっちよ」と激しく手を振っているのが見えていた。和子に応えるように天沢も激しく手を振った。背中の荷物は苦にならない。死ぬために来ているのだから別にたいした荷物などいらない。嬉しい感情がこみ上げてきてゲートの向こうのロビーで手を振っている和子めがけて一直線に駆けていった。久しぶりに逢うので胸もときめく。

迎えに来るという返事も聞かずに日本を発ったので彼女を見つけたときは正直ほっとして笑みが漏れた。心も躍る。光も差す気がした。死ぬために来たのにこのドキドキ感。違和感さえ覚えるが今は死ぬ気モードじゃない。

 ところが彼女の横で若い白人の男女が大胆に抱き合って、人目もはばからず濃厚なキスをしているのが視界に入ってきて、気にしないでまっすぐに彼女を見ようとするのだが、ついつい目が白人の男女に移ってしまう。物珍しさもあって視線が釘付けになりそう。こん畜生朝からいちゃついていやがってと妬み半分、やっかみ半分の気持ちが暴れ出す。白人の男女は見られていても一向にひるむ様子はなく抱き合っていた。エエ加減にせいよ。ちょっとくらいは人目をはばかれんのかい、という思いがこみ上げてくるがここはアメリカだ。日本じゃない。押さえて押さえてと暴走する思いを引き留めるのである。

 日本ではこのように白昼堂々と映画のキスシーンのように抱き合う光景はまず見ることが出来ない。こうも何の気兼ねもなく抱き合えるなんて、気持ちいいだろうなと何度も二人を見ながらゲートの外にいる彼女に引き寄せられていく。たどり着くと武田和子に手をぐいと引っ張られ、

「久しぶりね。二年振りかしら。嬉しいわ」

 と言われたがそれでも振り返って抱き合っている白人を見ていると横腹に肘鉄を入れられる始末で我ながら情けないがどうもあの抱き合っている男女が気になって仕方がなかった。田舎者の天沢はいささか度肝を抜かれた。和子に田舎者ねと半ば軽蔑の目で見られ「いやらしい人」と言われ強引に和子に手を引っ張られてロビーの人通りの少ないところに向かう。

「今度は一人旅なん?」

真顔に成って和子が関西弁で明るく尋ねてくれたので天沢もグッと楽になった。空港内は夜が明けたばかりで冷気さえ漂うが気分がほぐれる。和子の飾りのない仕草でピンクの花が咲く。首を傾けてからみどりの髪の毛をかき上げる仕草が色っぽくて可愛いので甘える気で、

「君を頼りに来たよ」

 死ぬためにニューヨークに来たなんて言わずに和子を抱きしめた。和子は思わず微笑(びしょう)している。天沢に身をあずけて、

「うれしいわ。ほんまに!」

と体全体で喜んでくれて強く抱き返してくれる。安らぎと暖かさが伝わってくる。心が躍る。夢見る心地がしてくる。夢が咲く予兆がして期待が持てそう。死に土産に和子と寝るのが必須条件だから喜んでくれたので、まずは第一関門突破というところだ。うまくいったと心の中で叫ばずにはいられなかった。希望の光が差す。

 空港のロビーで抱き合っているわけにも行かず、落ち着いて話せるカフェを探した。

和子がハンバーガーショップの横にある『摩天楼(スカイスクレイパー)』と書かれた大人の雰囲気のする珈琲ショップを見つけて「あそこに入ろう」と言うので入るといろいろな肌の人が珈琲を飲んでいるのが見えアメリカ人特有の玉ねぎが腐ったような体臭が部屋に充満して活気もあふれているが気分も解放される。

隅の方が空いていたのでその席に着きアディダスのカバンを床に置くと、和子もバーバリーの手提げカバンを椅子に引っかけ、サンドイッチと珈琲を注文した。星条旗のエプロンをかけた肉の塊のような黒人のウエイトレスがまもなく注文したものを運んできた。この女に驚かされた。呆れた。さすがアメリカ。想像を絶する太った女だ。ドラム缶を一回り大きくした体に頭、腕、脚がついているようなもので日本ではこんな太った女はまぁ見られない。健康的なのが何よりのとりえだ。ハムの入ったサンドイッチを口に運びながら珍しそうに辺りを見渡すとロビーには黒人や白人がビジネスカバンや新聞を手に持ってせわしげに歩いていている。アメリカに来たんだという実感が湧いてくる。うきうきもしてくる。死ぬためにこの地に来たことを一瞬忘れる。

広い滑走路にはデルタ航空の旅客機が五機ほど停まっているのが向かい側の大きな窓から見える。旅客機の窓に反射した光が飛び込んできてまぶしい。滑走路の向こう方はまだ朝靄がかかっているみたいにぼやけて見える。

「あなた、一体何しにきたん。観光それともアメリカンドリームでも見にやってきたん」

 外ばかり物珍しそうにきょろきょろ見ていた天沢は我に返って和子の顔を見てから、平静を装うとおもむろにタバコをポケットから取り出し、口にくわえて火を点けた。思いっきり肺にニコチンを流し込んで気持ちをゆったりさせてから、

「今のところ決めとうへん」

 彼女ははて(・・)というような顔をして天沢の顔を穴のあくほど覗き込みやわらかい湯気を上げている珈琲をすすりながら、上目使いに不安そうな様子で天沢の目を見詰める。天沢は誤解を与えては不信を招くと、慌てて、

「どうなるにしろ、君には迷惑をかけへんつもりや」

 それでも彼女が不安そうな顔をしているので拙いことになったと感じた。窓の外から飛行機が飛び立っていくのが見えていた。

何とかしなくちゃと焦る思いがこみ上げてくる。和子が一瞬黙り込んだので先ほどまでの余裕もなくなってきた。タバコをせわしげに吸う羽目に陥り動揺を隠そうと珈琲をすすった。彼女にはとうてい「死ぬために来た」なんて言えない。よからぬ下心があるので今は和子にニューヨークに来た真相を話すわけにはいかない。

旅の恥はかき捨てだ。ましてや死んでいく身。死んだ後のことなど心配する必要のないのは当然であるのだがここで和子に気分を害されれば、この先一時(いっとき)の未来も失う。それにしてもいい女だ。惚れ惚れする。放っておく手はない。

「じゃこれからどうするん」

首をかしげて和子が真意を確かめようと目を覗き込んできた。

天沢は和子の魅力的な目に引き込まれてジーッと見ていると彼女も視線を離さず見詰め合ったままの状態になった。清潔で涼しい目をしているので見ていても飽きない。素敵だ。潤んだような目は天沢を悩ますのに十分でこの女は魔性のようなものを持っている。この女と寝られたら最高だ。何とか攻め落として死に土産にしたい。

「あてはあるねん」

 身体を乗り出して先ほどと違って自信たっぷりな態度で言うと和子は微笑み返して天沢の顔を覗き込んで来る。天沢はその目を離さず、和子を失望させないためにも、さも当てがあるように力強く応えたが、当てなどあるはずがない。揺らぐ心に振り回されながら必死に訴える。ここで隙を見せたらアカンし、心の中を覗かれれば一巻の終わりだ。

 あるのは和子と寝てから自殺を決行する一点のみだ。死ぬために来たなんてと到底言えない。言えばわけを聞かれ、あげくの果てに止められ軽蔑されるに違いない。軽蔑されるならまだしも、すぐさま三行半を突きつけられて交際もこれで打ち止めになる。そうなってもいいが今しばらくの間は本心を明かすわけにはいかない。そんなことになれば計画はすべておじゃんになってしまう。わかりきったことだ。

アメリカで死ぬために来たのだから一人で生活することはまったく考えていない。だから「あてはあるよ」と言ってしまった後から顔には出さなかったが悔やんだ。平静を装ってはいるが心の中は荒波が打ち寄せていた。

和子の魅力的な目から目をそらした。これ以上見詰め合っているわけには行かなかった。やましさが残る。彼女は珈琲をすすっている。カップを持つ手の指の爪には濁った赤いマニキュアが塗られて白いコーヒーカップと対照的で鮮やかに見える。

今日はとりあえずホテルに泊まるが、着けば一休みして街に出て死に場所を求めてスラム街辺りを偵察しようと思っている。そこでいい場所があれば後日持っている睡眠薬と精神安定剤を大量に飲み死ぬつもりでいた。彼女と無理心中ということも考えたが、それはちょっと無謀な気がした。実はメールを交換しているときからわかっていたが、彼女はアメリカ生活をエンジョイしているように見えるし、悩みなんてない人間のように思えた。和子が悩み、苦しみ、生きるのに疲れている人間ならいざ知らず、健全な精神と健康な体を持って生きている彼女を道連れにするわけにはいかない。と言うより相手にしてくれないだろう。

 ただ、天沢は死に土産に彼女と寝てから死にたいだけだ。だからどうやって彼女をホテルに連れ込むかで思案をめぐらせている。着いた早々ホテルに行こうなんて気の弱い天沢にはとても言えない。白黒はっきりさせてしまえば後々グッと楽になるのだが決断できない。情けない。死ぬ覚悟ができているのに振られることが怖いのだ。しっかりせい自分と、自分に言い聞かせるがやはり駄目だ。口では切り出せない。もどかしい。

和子には彼氏か旦那がいるかも分からないと思い左手の薬指を見るがリングはハマっていない。まだ独身らしい。それでも言葉の端々や態度から男の気配がしないか気をつけて観察していた。こんなことになるとわかっていたら、メールを交換していたとき独身かどうか恋人はいるのかいないのか聞いておけばよかったと後悔した。

「そのあてってどういうこと、言うてみてみ、場合によっては協力してあげるわよ」

 珈琲をすすりながら和子が探りを入れてくる。天沢に気がありそうな素振りをしてテーブルに両手をついて顎を乗せた。彼女は先ほどと違い充分リラックスしている。動揺を隠せずオタオタしている天沢は恥ずかしい。いくら二年前日本で寝たとはいえ、あれは和子にしてみれば単なるアバンチュールだったように思える。彼女だってあの日は、日本に来たが家族も亡くなり頼る人もなく、旅の慰みに天沢をつまみ食いしたのかも知れない。現在、和子には男がいるのかいないのかさっぱりわからない。

「ええんや。自慢できるようなことちゃうんや」

 本当のことなどとうてい言えるはずがない。頭の毛をかきながら照れくさそうに応えて和子を見ると、

「もったいぶるわね。私はね、あなたとメールを交換しているじゃない。本当のことを言うてよ。何を隠しているのよ。男らしくないわね」

「……」

「優柔不断な人、私嫌いやわ。白黒はっきりしている人が好きなの。二年前に帰国してあなたと会ったとき、あなたとても積極的で自信と勇気に満ちあふれていた。正直言うて惚れ惚れしたわ」

 そうまで言われて悪い気がするはずがない。和子は一気にまくし立ててくる。積極的で目もキラキラ輝かせて迫ってくる。確かにあの当時天沢は一番輝いていた時期だったし、何をやってもうまくいっていた。あのパチンコ屋の物件で大失敗をするまでは……。和子に攻められついつい調子に乗ってきて、

「おれ、実を言うと住友鉛筆ニューヨーク支店勤務になったんや」

 こんなはずじゃなかったが噓を吐いてしまった。駄目男の自分に匙さえ投げたくなる。ちょっとした見栄のつもりだったが……。顔が引きつっていたかも知れない。和子の顔がぱっと明るくなって身体を乗り出してきた。

「ほんまに」

「ほんまや」

和子を失望させたくない気持ちが働いた。まったくのでまかせだ。どうせこの二、三日のうちに死ぬ身だ。覚悟は出来ていた。黙って和子の前から消えてしまえば済むことだ。後はどうなろうと死んでしまえば知ったことじゃない。だからこんな噓を躊躇なく言えた。とりあえず今日明日は和子を惹きつけておく必要がある。明後日までには自殺を決行すると決めている。ところが和子は思いも寄らず喜んでくれたので天沢は罪悪感に襲われ唇をかんだ。膝から下の足がこきざみにがたがたと貧乏揺すりし始めた。拙いことになった。日本を発つ前傷めた鬱病がひどくなるような不安な気持ちになって、皿の上においてあるサンドイッチを口にほおばると、チーズくさい臭いがして思わず吐きそうになり、急いで水を飲みサンドイッチを水と一緒に喉に流し込んだ。ちょっとお手洗いに行ってくると言って、和子が入り口の反対側にあるトイレに立つと、日本でも聴いたことのあるテネシーワルツが店内に流れ始めて、天沢はうれしくなって耳を傾けていた。心も和んでくる、と同時にいかに和子を料理するか又思案をめぐらし始めた。化粧を直して和子が帰ってくるとサンドイッチを食べ始めて口をモグモグさせながらおいしいと言った。彼女の表情が活き活きしていた。とても魅力的だ。

「あなた夢を持っているん」

 話題を変えてくれたが、そんなことはどうでもいいと思うが一応、

「持っていると言えば持っているし、持っていへんと言えば持っていへんし。夢なんて一度も実現したことがあらへん、夢は夢でしかあらへん。もう夢を持つのに疲れたんや。止めてくれへん、そんな話」

 ぼそぼそと呟き震えている足を組んだ。和子を抱くこと考えていたがそう易々とは事が運ばず天沢には焦りさえ出始める。身勝手な男と蔑まれようとかまわない。どうせ死んでいく身だ。

「そんなことではあかんわ。夢を持ちなさいよ。夢は生きるために絶対必要不可欠なものだからさ。邪魔にもならへんし、荷物にもならへん。それにお金だっていらないしね」

「夢なんてお金と一緒でなかなかこの手で掴めへん。それに夢は絶望や挫折を生む機械のようなもんだよ。君には分からへん」

 どうでもいいが口をとがらせて反発をしておいた。何故夢の話にこだわるのだ。正直言って、こんな話題から逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。堅苦しくてまじめな夢談義などしている場合じゃない。夢破れて死ぬのが夢の天沢にとっては出来れば避けて通りたい話だ。それがなんでまた、和子が夢のことなど持ち出してきたのかわからない。

 天沢の心を乱す夢。話題を変えたかったので、

「死ぬのが夢だったら」

 本音で切り込んだ。和子を困らせてやれという気も働いた。彼女の顔が一瞬静止画像のように固まって見えたのは気のせいかも知れない。拙いことになった。ちょっとやりすぎたと後悔したが今更取り返しが付かない。まともに彼女の顔が見られなくなって珈琲ショップの隅に置いてある観葉植物に目をやったが反応が気になって又彼女の顔を見つめ直した。

「駄目! ダメ! だめよ! そんな夢、夢じゃあらへんわよ。夢は生き続けるための持ち物だわ。死ぬのが夢ってそれは夢じゃあらへん。矛盾した夢よ。ちゃんとこっちを向いて私の目を見てよ。夢を持っているだけで人間はどきどきわくわくして生きられる動物なの。あなたどうかしている」

 抜き差しならぬ状況になってきたがもう取り返しがつかない。ヤバイことになってきた。慌てふためいていると、

「今思い出しただけれど、死ぬのが夢っていう人がたまにいるわね。ノーベル賞候補作家の三島由紀夫がそうだったわね。それに太宰治。まだいるわ芥川龍之介。彼らは精神の異端児と思うていたけれど、あなたもそっち系のひと」

 和子がまだ死ぬのが夢のことにこだわっていたので、

「冗談だよ! ジョーダン! 君をちょっと困らせたかっただけや。あまりにも夢々って言うさかい」

 これでこの話はおしまいにしたいと冗談で逃げようとしたが和子がしつっこく絡んでくる。たまらない。

「悪い冗談はやめて。努力して掴むのが夢だからね。努力しないで掴む夢って、夢って言わへんわ。なかなか掴めないのが夢よ。死ぬのが夢って軽々しく言うものじゃないわ。死ぬのが夢って一番たやすく手に入る夢よ。正直言うて誰だって一度や二度死ぬのが夢って思うときあるのよ。でも、幸いにも死ぬ夢が実現しなくて、今でも以前にもまして元気ハツラツ生きている人を私は知っているわ」

 まるで和子自身のことを言っているように思えるが、和子に限って死ぬ夢など見るはずないと強く否定した。考え過ぎだ。天沢が「冗談だよ!」と言ったので安心したのか、和子が少なくなった珈琲を一気に飲み、

「出ましょう」

 ヤレヤレこれで夢の話から逃れられるとほっとして彼女を見ると、レシートを持って立ち上がりレジに向かった。会計は和子が持ってくれるみたい仕方なく天沢も急いで残っていたコップの水を喉に流し込んで立ち上がると和子について行った。が何かすっきりしない。モヤモヤも残る。

「どこのホテルに泊まるつもり。それとも住友鉛筆が用意してくれたアパートでもあるん」

 ロビーを出て腕を組むと駐車場に向かう。ここでホテルに誘うチャンスなのだがまさか朝っぱらからホテルに誘えない。

「ニューヨークヒルトンホテルに泊まるよう手配してあるんや」

 海外研修旅行にきたときに泊まったヒルトンホテルしか知らないので、とりあえずそう答えておいた。事実日本を発つとき予約を入れていた。

「じゃ私、ホテルまで送ってあげる」

 空港の広大な駐車場に行くと西のかなたにマンハッタン島の摩天楼が灰色にかすみ、針のように林立しているのが見えていた。和子がサングラスをかけ愛車アコードに乗り込むと天沢も助手席に乗り込んだ。エンジンを始動させてからケネディ国際空港を後にした。

イースト・リバーにかかっているマンハッタンブリッジを渡りきると摩天楼の間を車は駆け抜けて行く。和子の運転はきびきびしていて小気味がいい。助手席から運転している彼女の横顔を見ると車を手足のように操り、楽しんでいるようにも見受けられる。

「私、看護師をしているの。そして、サイドビジネスにフリーのイラストレーターをやっているわ」

 ハンドルを切りながら前方を見てポツリと呟く。そう言えば彼女が日本で住んでいたときのことを少しは聞いていたが、ニューヨークでの私生活のことなど全然聞いていなかった。何分月に一回くらいメールの交換でニューヨークの珍しい写真を送ってもらって、その写真を天沢は自分のブログでニューヨーク便りとして載せていた程度の関係で、そう深くは付き合っていなかった。だから私生活まで聞く気はなかった。別に聞いても将来和子をどうこうするわけじゃないし、すでに彼女もいたので一度寝たとはいえただのメール友達にすぎなかった。

「看護師か。白衣の天使っていうところだね」

「今は生活のために看護師をしているだけよ。でも看護師って重労働で白衣の天使って言うのは虚像よ。買いかぶらんといて。実際は看護師って汚い仕事できつくて神経を使うのよ。だから白衣の天使って虚像やわ。看護師の仕事をしたことがない人が白衣の天使って言うのよ」

 車がリトルイタリー街に差し掛かった頃日本の大学に二年間いてからニューヨークに渡り、ニューヨークの大学ではデザイン科を専攻し三年前にはニューヨークデザインコンクールで佳作に入選したと、得意そうに話してくれた。そして、ニューヨークで大学に通っていた頃、夜は看護学校に通って看護師の資格を取り、今は看護師をして生計をたてているが、ゆくゆくはフリーのイラストレーターになるつもりでいると言う。

 前方をしっかりと見詰めながらハンドルを操作している。無駄な動きもない。至ってシンプルな運転技術だ。天沢はそんな和子を金目当てでどうこうしようとは、さらさら思っていない。ただ彼女と寝てから死んでいけばいいのだ。それ以外の余分な野心など微塵もない。死ぬ前の小さな男の小さな夢にすぎない。

「今どこに住んでいるんや」

 気になって聞いてみると彼女がハンドルから片手を離し、サングラスにちょっと手をやってから、 

「セントラルパークの東側に住んでいるわ。七十所帯ほどのアパートメントでワン・ベッドルームよ」

 天沢ははて(・・)と首をかしげた。ベッドひとつぐらいのスペースの部屋に住んでいるのか。それはいくら何でも貧素すぎはしないかと思った。あまりにもつつましやかと言うか、始末していると言うか腑に落ちない。

「ワン・ベッドルームってベッドひとつぐらいの広さのアパートって言うことか? ちゃちなところに住んでいるんやな。見損なったよ」

和子が突然大きな声でばか笑いして必死に笑いをこらえながら、

「チガウ! チガウ! 日本で言うならワンルームマンションに寝室がひとつ余分についているってところよ」

 天沢をばかにしたような笑いでいささか失礼だ。

「アブナイ!」

 車が路肩によってもう少しで歩道に乗り上げるところだった。あわてて和子がハンドルを切って事なきを得た。

「あぁ、面白かった。こんなにばか笑いしたのは何年振りやろう」

 彼女が涙を流して面白がっていた。天沢はしらけてしまって、

「笑うのはいいけれど運転はしっかりしてくれよな」

どうやら、和子はまだ一人暮らしのようだ。しめしめと思わずにはいられない。車はシックスアベニューをセントラルパークに向けて走っている。

アメリカ映画で見たおなじみの街角が車窓から見える。ほとんどのビルの入り口大きな星条旗がクロスして翻っているのが車窓から見えてかっこいい。それに引き換え日本の国旗には悲惨な戦争の匂いがして暗いイメージを抱くときがある。戦争に一度も負けたことのない国と太平洋戦争で大敗を喫した国の違いか。

そんな思いをめぐらせながら、和子の横顔を見て形のいい唇、面長の小さな顔、肩まで伸びた髪の毛に見とれていた。そして運転している和子の、バーバリーのスカートの中に思い切って手を入れてみた。もし彼女が抵抗しなかったらホテルに誘う気でいた。一か八かの賭けだ。しかしぴしゃりと叩かれた。失敗した。それでも彼女は素知らぬ顔をして運転していた。天沢からこれ以上誘う気は失せた。こんな方法より言葉で確かめればよかったと後悔した。ばかで気弱な男の象徴だ。アカンたれの男と蔑んだ。しばらく沈黙が続き、気まずさが残る。この失態を何とか挽回したいと適当な言葉を探すがとっさに浮かんでこない。

「ヒルトンホテルはここよ」

 車が急停車した。見覚えのある入り口が見えた。天沢はハンドルを握っている和子に礼を言ってから車を降り、後部座席に置いてある荷物を持って車から降りた。天沢は明日、和子を誘っていいものやら悪いものやらと思案していると、

「明日の午後六時にここに迎えにくるわ。夜のニューヨークを案内するからいいわね。約束よ。それと時間を合わせておいてね」

 和子が機嫌よく明るい声で言ってくれた。助かった。まだ和子に振られたわけじゃない。彼女の方から明日会う約束を交わしてくれる。嫌なら明日会う約束などしないはずだ。和子は笑顔でバイバイと手を振って視界から遠ざかっていった。天沢はもうこれっきり会ってくれないのかと不安な気持ちになっていた矢先だったので正直ほっとした。何事も主導権は和子に握られている。天沢は和子の掌の上で転がされているようなものだ。これから先もこのような状態が続くのかと自分の頼りなさを嘆き不安になった。

 消えて行く和子の車を見ながら、何が何でも明日が勝負だと心に決めた。和子を落とすにはもっと積極的にならないと駄目だと強く感じたが、情けないかなイニシアティブは和子に握られたままだ。明日和子と寝ることが出来ても出来なくても死を決行することを決めた。後悔はない。



第二章 夢銀行融資担当者との出会い



和子の車が視界から消えたのを確認してヒルトンホテルに入った。フロントに行き朝からチェックインのお願いをした。ぐずぐずと言われたが最終的には二十ドルほど掴ませて難なく部屋のキーを受け取った。部屋の隅に荷物を置くとベッドの横にある時計を見てさっそくアメリカ東部時間に時計を合わせた。これで大丈夫と一息つくと昨日から一七時間機中だった関係で騒音がうるさく、窮屈で疲労が溜まっていたのでベッドにもぐり込んだ。とにかく眠りたかった。四時間ほどぐっすり眠った後、目が覚めて夜が迫ってきたニューヨークの街に出ることにした。

ハーレムを散策することと死に土産にニューヨーク見物をするのが目的だ。地下鉄やバスを乗り継いでニューヨークの街を散策すればいいのだが、ツウは歩いて行き当たりばったりに見物するものと聞いていた。その方が本当のニューヨークの素顔が見られると知人が漏らしていたのを思い出し、少々危険は伴うが歩きで探索することにした。特にスラム(ハーレム)は怖いがそのこわさが良いのだ。

幸いマンハッタン島は歩きで十分行動できる範囲だ。以前に来たときからわかっていた。たとえ事件に巻き込まれて死んでしまうことがあったとしてもそれはそれで一向に構わない。事故で死ぬ方が自分で死を選ぶより、いらぬ神経を使わなくて済むからだ。ホテルを出ると百年が過ぎていくようにゆっくりと夕日が摩天楼に沈み、空は暮れそうで暮れない現象が続いていた。超近代的なニューヨークの街がやけに神秘的で宗教的な雰囲気に包まれ、不思議な感動が心の波止場に停泊し心を癒やしてくれる。イルミネーションに輝く高級ショップが建ち並ぶ五番街を通り過ぎ、セントラルパークの東側を北上しているとなにやら見たこともない高級住宅地に出てきた。すごい豪邸が建ち並んでいる。目を丸くして一軒一軒見ているとため息が自然に出てきて、ただ唖然として見とれて歩いていた。凄いなと自然に口から驚異の溜め息が漏れる。それほど規格外のオドロキが襲いかかってくる。

日本ではとうてい見られない西洋の城のような家が建ち並んでいるのには驚いた。いくら東京の自由が丘や世田谷の高級住宅地がすごいと言っても、ここの比ではない。豪邸の呆れながら歩いていた。しばらくドアマンが立っている豪邸が続いたが、さらに北上して行くと今度は怪しげなビルの谷間に出てきた。ポルノショップとか、いかがわしい飲み屋、廃墟と化したビルに靴屋やアパレルショップ、安っぽいキンキラ金の装飾品を売っている店、汚いコンビニ、それに雑多な生活用品を売っている何でも屋。行きかう人も急に黒人が増えて来たような気がする。ここはあの噂のスラム(ハーレム)近辺ではないか。夕闇に目を凝らしてみると向こうの方に黒ずんだアパートが見えた。あれは悪名高い貧民が住んでいるアパートに違いない。天沢はあのアパートの一室で死ぬことを決めた。今日はアパートに近寄らないが和子を思う存分抱いて踏ん切りがついたらあのアパートに行けばいい。そこで殺されてもいいし、自殺してもいい。今の天沢の心中(しんちゅう)は死ぬモードじゃなくて和子を抱きたい一心なので、今日ここで死ぬわけにはいかなかった。スラム街は噂通りヤバイところだ。硝煙の臭いがするわ、麻薬密売人のような黒人の輩がいるわで怖くて歩けない。これはヤバイぞ! と何度も思ったがそれでも怖いもの見たさできょろきょろしながら歩いていると、人通りがちょっと途絶えたところで、

「君」

 いきなり背後から肩を叩かれた。びくっとして振り返ると大きなイスラム系の男が立っていた。紺のスーツにネクタイも締めていた。ちょっとした紳士。その上イスラム系特有の浅黒い肌に澄んだ目が印象的だ。悪い人間ではなさそうだ。

「何ですか」

 それでも警戒して恐る恐る独学で覚えた英語で聞いてみると、

「何かお探しですか」

 きょろきょろしながら歩いていたので何かを探しているように見えたらしい。低い声だが心を打つ響きがある。指導者か宣教師のように人を導く人が持つ聲だ。ふとそのとき天沢に魔が差したと言うか、幸運の女神が微笑んだと言うか、からかってやれと思った。日本人は世界でも有数の頭のいい人種だ。イスラム系人をばかにするわけじゃないが、試してやれと、

「夢を探しているんです。それも確実に()(みの)り、花が咲き実現する夢です。夢はいつも夢だけに終わり、枯れてしまうのが普通です。そんな屁のような夢じゃなくて、ばら色の花が咲き、実が実る夢を探しているんですよ」薄ら笑いを浮かべて黒いカバンを持っているイスラム系の男の反応をうかがった。すると、天沢の無理難題な問いかけに驚くことなく、落ち着いて、

「よろしい。夢をお貸ししましょう。それも花が咲き、実が実る夢をです」

 そんなばかな! 夢など借りられるわけがない。この男どうかしている。チャンチャラおかしくて笑う気もしない。冗談の通じない男もまた困ったものだ。

「ありがとう。今のは冗談だ」

 礼を言ってその場を辞してホテルへ帰ろうとした。ところがそれが合図のように人相の悪い黒人が集まってきた。ヤバイぞ! 不安になってイスラム系の男を見ると彼はすばやく天沢の手を引っ張り走り出した。五、六百メートルほど走って、この辺りにしては比較的上品なカフェレストランに駆け込んだ。この店は黒人も多いが白人もいる、悪い店ではなさそうだ。黒人が悪い人というわけじゃないが、天沢は三年前海外研修でニューヨークに来たとき黒人に金をひったくられた苦い経験があるからだ。だから黒人を見ると嫌な気分になるし怖い。テーブルに着くとコーラを注文した。彼も天沢に習ってコーラを注文し、

「危ないところだった。奴らは君が日本人と見て襲ってきたんだ。私がちょうどいて、よかった」

と肩で息をしていた。天沢もゼイゼイと咳をして息も絶え絶えだった。彼はポケットからハンカチを出し流れる汗を拭くと、

「私は彼らとの争いごとに巻き込まれたくなかった。狙われているのは君だと分かったから逃げたのです。私は争いごとが嫌いです。だから事件に巻き込まれそうになればすぐ逃げます。私自身の身体は傷つくと消えてしまうからです」此奴は一体何を言っているのか分からなかった。寝ぼけたことを言うな! ただおびんたれなだけと本気にしていなかった。けんかには弱い人間の言い訳だ。

「先ほどの話の続きですが、あなたの絶望を私共の夢銀行に預けていただきますと、夢を融資しいたします。それを元に大きな夢を咲かせ、実らせてください。その代わり利子は高いですよ」

 まことしやかにイスラム系の男が大きく手を広げた。それにしても落ち着き払っていて、さきほどまでのあわてようとはまるで違う。嘘臭い気もするが、まんざら噓でもないような気もする。

「先ほども言った通り、あれはちょっとしたジョークだよ。本気にしてもらったら困るんだ」 

 あらためて男に言うと薬っぽいコーラを一気に飲み立ち上がった。日本の味とだいぶん違う。

「お客さん。この話は本当なんです。騙されたと思ってこの話に乗ってみませんか」

 男が座ったまま天沢を見上げて、もう一度座るよう促した。そこまで言われれば嘘臭いが騙されたつもりでこの夢のような話に乗ってみようという気になる。その上、担保の絶望ならいくらでもあるし、たとえ噓であっても乗ってみない手はない。何だか面白そうだし、どうせ天沢はこのニューヨークで死ぬ身だ。どちらに転んでも一緒だ。

「お願いします」

 頭を下げると彼はにっこり笑って、テーブル越しに手を出して握手を求めてきた。天沢はその手を固く握りしめ、

「よろしく」と応えた。

 するとイスラム系の男がスーツの内ポケットから濃緑の名刺入れを出すと、一枚抜き出し天沢に差し出した。名刺を受け取ると、しげしげと見詰めた。表には『夢銀行』融資担当マネジャー、サダム・ザイハード、と書かれてあった。裏には三ミリ幅の黒い線が入っている。どうやら磁気が入っているようだ。この磁気は何のために入っているのか分からなかった。狐につままれたような顔をしている天沢を尻目に、ザイハードがカバンから手帳を取り出すと、どこのホテルに泊まっているかも聞いていないのにヒルトンホテルから夢銀行までの簡単な地図を書いてくれた。

「明日ここに来てください、そこで本契約いたします」

 まだ半信半疑の天沢。ザイハードにはヒルトンホテルに泊まっていることすら話していないのに宿泊先のホテルを知っている。行動が監視されているようで怖い。だがトントン拍子にことが運ぶ。満足しているザイハードが、

「あなたは幸運な人です」

 ウインクを飛ばして立ち上がった。ザイハードの自信に満ちた堂々とした態度を見ていると、まんざら噓ではなさそうな気がしてくる。店を出るとザイハードにヒルトンホテルに帰る道順を教えてもらって、帰って来たが、なにやらやけに神経が高ぶっていて、ホテルに着いてシャワーを浴びてベッドにもぐり込むが、なかなか寝付かれない。昼間寝たのが災いした。腹巻きから精神安定剤と睡眠薬を取り出すといつもの二倍口に入れ水で飲み再びベッドにもぐり込んだ。

 

翌日十時頃起き、すぐさまザイハードが書いてくれた地図を取り出し夢銀行に向かった。夕べは枕も違うし異国ということもあって、いくら睡眠薬を飲んだと言っても寝たような寝ていないような睡眠で、正直言ってよく寝た気がしなかった。それでも夢銀行に行くという目的があったのでだるい体に鞭打って起きた。

 ホテルを出ると朝日はすでに摩天楼の上だ。ザイハードが書いてくれた地図の矢印通り歩いて行くと昨夜通った高級住宅地に出た。物珍しそうに昨日と同じように、きょろきょろしながら北上して行った。極貧アパートが右に見えてスラム街の一角に入ったようだ。

しばらく歩いていると、廃墟と化したビルが並び迷路のような汚い路地に出る。そこに大きな病院があった。その横に紫煙立ち込める魔界のようなビルが建っていた。一階に目指す夢銀行があった。三十階建てほどのビルの屋上には巨大なドームと、蜘蛛の巣のようなアンテナらしきものが張り巡らされている。入り口に立つと自動ドアが開いて中に入ってびっくりした。まるで病院のような待合室があり、その奥に受け付けがある。普通の銀行ではない。むしろ病院に近い。

 店頭に行くと白人と黒人の女子行員が三人いて笑顔で迎えてくれた。行内は明るく、ピンクがかった壁には『夢を咲かせましょう』と花文字で書かれたポスターが貼られ、その横に時計が静かに時を刻んでいた。うさん臭いと言えばうさん臭いのだが、一方の壁には中世の宗教画のような極彩色の大きな絵がかけてあって、修道院のようにも取れる。摩訶不思議な銀行。いささか思惑とは違うがテラーが座っているカウンターの前に行って

「天沢と申しますが、ザイハードさんにお会いしたいのですが」

 と言うと一番右端にいたテラーが、こういう扱いには慣れているのか躊躇なく立ち上がって天沢をしげしげと見詰めて、

「ザイハードに面会されるには、ザイハードがあなたに名刺を渡していると思います。持ってこられていますか」

 疑い深い目で天沢をじろじろ見る。

「はい」

 ザイハードがくれた名刺をポケットから出すと、失礼しますとテラーが受け取り、裏面の磁気の帯を見てから、パソコンに連結されたカードリーダーに通し、終わると天沢に返した。

「失礼しました。どうぞこちらへ」

 女は軽く微笑んでカウンター内についてくるように促された。彼女の後についていくと、十畳ばかりの部屋に通された。

「ここでお待ちください」

 そこには豪華なソファが置いてあった。目の前には大きなテーブルがあり、日本では見たことのない異様に赤くて、大きな花が一輪飾ってある。ソファに座っていると音もなく妖気めいた白人の女が壁から入ってきた。

「私ザイハードの秘書をしていますミッチェルと申します。今後ともよろしくお願いします。ザイハードはまもなく参りますので、少々お待ちください。あなたはVIP待遇のお客様です。他の一般のお客様とは違います。今後とも夢銀行をよろしくお願いいたします」

 目礼して戸も開けずに部屋の壁から外に出て行った。何だかおかしい。ドアから出入りせずに部屋の壁から入退室を繰り返している。しばらく経ってもザイハードが現れない。待ちくたびれて部屋を出てみると、病院でしか見られない外来の診察室のような部屋が五室ほどある。なにやら話も聞こえてくるが聞き取れない。人の気配のしない部屋のドアを開けて中を覗くと、そこには病院によくあるCTスキャンのような装置が置いてあった。あれは一体何に使うのだろう、疑問がむくむくと湧いてくる。壁には大きな液晶画面が三枚埋め込まれているのが見えるが、それが何であるかさっぱり分からない。首をかしげていると人の気配がしたので、あわてて元いた部屋に引き返した。

ドアをちょっと開けて行内の様子を見ていると、客がきてテラーと話してからCTスキャンのようなものがある部屋に入る。しばらくして部屋から出てくるとテラーに礼をして出て行く。何が行われたのかさっぱり見当がつかない。次に来た人も同じだ。それにしてもザイハードが現れない。おかしい。やっぱり騙されたのか。まやかしのようにも思えてくる。ザイハードの言ったことはあまりにも現実離れしていて変だ。人の気配がしたのでザイハードかと思い廊下に出てみると先ほどのテラーが、

「もう少し経ちましたら、こられますから」

 ニコッと笑って通り過ぎていく。待てど暮らせどザイハードは現れない。ひょっとすれば日本人だと思い金を巻き上げる気だろうか。おかしいと思えばおかしい。夢を貸す銀行なんていくらなんでもあるはずがない。そんなうまい話があるのか。真に受けた天沢が悪い。不安になって急いで部屋を出て、店頭にいるテラーに、

「ここは本当に夢を貸してくれるのですか」

 と聞くと、彼女がブロンドの髪の毛をかきあげ、とび色をした目で天沢を見てからカウンターの上にある一枚のパンフレットを天沢に渡した。何だろうと受け取り、目を通すと見出しに大きなピンクの字で、

――あなたの夢を預金してください――

とあり、その下に小さなピンクの字で、

――万が一の挫折に備え、あなたの余った夢を預金していると何ら心配する必要はありません。挫折や絶望を味わって死んでしまいたいと思ったとき、すぐさま夢という預金をおろして、元の安定した生活に戻れます。いつもハッピーな生活を保障する夢を貯金してください!――

と書いてあり悪魔に襲われている家族が、一撃で悪魔をノックアウトしたイラストが描かれていた。狐につままれたような気がしてニューヨークはさすが世界一の街だ、何でもありかよ、と呟いた。まったくばかばかしくて笑うに笑えない。それを信じてのこのこやってきた天沢も天沢だと自嘲気味に笑った。

「まもなくザイハードが参りますので部屋でお待ちください」

 テラーに部屋に戻るよう促された。黒い豪華なソファに座ってタバコを吸って待っていると、

「お待たせいたしました」

 バリトンの声がしたので目を上げるとザイハードがにこりともせずに立っていた。足音も気配もしなかった。それにしても入り口から入ってきた気配がない。思わずぞっとした。一体どこから入ってきたのか。SF映画のように壁の中から現れた気もするが定かではない。確か秘書のミッチェルも同じ手口で部屋に出て行った気がした。

「こちらへおいでください」

 天沢はソファから立ち上がるとザイハードの前の椅子に座った。するとザイハードは机の下に手をやり、持ってきたテレビのリモコンのようなもののスイッチを入れるとカチッと言う音がして部屋がロックされたようだった。

しばらくして蚊の鳴くような音がした。何だろうと当たりを見渡すが周りはアイボリーの壁だけ。ところが壁ばかりと思っていたが上の方から光が差し込んでいた。見上げると小さな窓があった。光はザイハードの上半身に当たっているが影がない。試しに天沢は自分の手を光に当ててみるが、やはり影が映らない。どうやらこの部屋は特殊な細工をしてあるに違いない。薄気味悪くなって逃げ出そうとしたが金縛りにあっているようで身動きが取れない。天沢の一部始終を見ていたザイハードが一言も発しない。寡黙だ。昨夜会ったとき見せた人懐っこさがまるでない。眼にも鋭さがある。昨夜とまったく違う。獲物を捕らえた後の雌のライオンのように悠然としている。ゆっくりと今からおまえを料理して食べてやる、そんな雰囲気が身体から滲み出ていた。

「では、契約に入りたいと思います」

 細く微笑んでいるが心底笑っていない。ザイハードがポケットからキーを取り出し、壁に埋め込まれた鍵穴に差し込み暗証番号を叩くと引き出しが出てきた。そこからA4の大きさの薄い機器を取り出して、テーブルの上に置くと、一枚の書類を出した。鉛筆で名前と融資欄のところと抵当のところに薄く丸を入れ、指で示しながら、

「まず、ここに名前を書いてください。日本語でも英語でもかまいません。そして融資欄のところに『夢』と書き、抵当欄のところに『絶望』または『挫折』とお書きください」

 ザイハードが丁寧にゆっくりとその場にふさわしい穏やかさで言って一枚の書類を差し出した。天沢がしげしげとその書類を見ると、そこにはヨーロッパの貴族が住んでいるような城の模様が青色の濃淡で極々うすく印刷されていて、さも夢が実現するようなデザインが施された良質の紙だ。こういう類いの紙切れをこの銀行は重用しているようだ。何だかインチキ臭い。さっそく天沢のカバンから水性ボールペンを取り出し書こうとすると、

「これで書いてください」

 なにやら香りがする黄金のデスクペンを渡された。それを持って言われるままに書いていると、書き終えた後から字が消えていく。摩訶不思議とザイハードを見ると目で続けて書くよう合図を送ってきた。なにやら気味悪くなってきて再び逃げようとするが立ち上がれない。それに自分の意思に反してデスクペンが勝手に字を書いているようにも思える。名前と夢と、絶望、挫折と書くだけでものすごいエネルギーを消耗したような気がしてならない。書き終わってぐったりしているとあのミッチェルが音もなく壁から入ってきて、珈琲を天沢の前とザイハードの前に置いた。ザイハードがさっそく口をつけるとうまそうに飲んでいた。天沢は喉がカラカラに渇いていたので珈琲より水が欲しくて、

「すみませんが水をください」

 と言ってから、目の前にある珈琲をすするとあまりにもおいしくて香ばしく、口の中でうまさがはじけた。今まで味わったことのない味だ。体中が暖かくなってきて粘膜質の部分が妙に気持ちよく麻薬が入っているような気がしてならない。振り向くとミッチェルがいない。やはり彼女も空気のように壁から現れ、壁から消えた。もうこうなったら破れかぶれだ。なるようになるわい、煮て食おうと焼いて食おうとどうにでもせい。どうせ死ぬ身だ。ここで死んでも構わない気がしてきた。和子と寝てから死ぬ夢も、夢に終わってしまいそうだが仕方ない。やっぱり死ぬまで天沢はついていない。書き終えてふーっと大きくため息をついて書類をザイハードに差し出すと、ザイハードが書き込まれた書類に不備はないことを確かめて、「うん」とうなずいてからテーブル越しに右手を差し出す。天沢の右手が自然に出て、ザイハードの右手をしっかりと握っていた。

 どうもおかしい。自分が意識する、しないに関わらずザイハードにコントロールされているように体が動き出す。ザイハードの手をしっかり握ったところで壁の向こうのコンピューターが一瞬カメラのシャッターを切ったような音を発して静かになった。ザイハードは壁の引き出しから、スキャナーらしき機器を取り出すと、天沢が書いた書類を挟み、キーボードを叩き再び書類を作ると、別の引き出しにしまった。ザイハードの一連の仕草をジーッと見ていた天沢は取り返しがつかないことをしてしまったようで、後悔が湧いて来る。気も重くなる。

「あなたは今から小さな夢や、大きな夢を掴むことが出来るでしょう。あなたはあなたが味わった絶望や挫折に見合った夢や希望が叶えられます」

 狐につままれたような気がしてくる。天国への一歩か地獄への一歩か分からなくなってきた。ほんまかいな! と日本語で呟いてザイハードを見詰めると、イスラム系独特の澄んだ謎めいた目が先ほどと違って尖って見えていた。

「証書のようなものはあるのですか」

 不安になって聞いているとザイハードが自信に満ちた態度で、テーブルの上に転がっている例の金のデスクペンを持ち指でくるくると器用に回し、

「そのようなものはございません。当行はお客様と私共との信用の上に成り立っている夢のような取り引きです。ですから夢銀行と申します。このアメリカには一旗上げようと世界中からアメリカンドリームを求めて人が集まってきます。でも、九十九パーセントの人は挫折し夢が破れます。それでも彼らや彼女達はアメリカに残ります。アメリカには夢が破れても、なお夢を果てしなく追い続ける何かがあり、夢を追いかける人たちであふれかえっているのです。そしてあげくの果てにボロボロになって人知れず死んでいくのです。それでも運のいい人は当銀行のお客様になっていただき夢を実現します。そのお手伝いをするのが夢銀行の融資チームです。融資チームと言っても私とミッチェルの二人ですが……」

 先ほどのミッチェルが水を入れたコップを持って壁の中からまた現れた。一体どうなっているんだ。現実の世界では考えられない。変だぞと思う前にザイハードもミッチェルも当然のように振る舞っているので、ここではこれが普通なんだ、と思われてくるから不思議だ。どうぞ、と言ってミッチェルがコップを天沢の前に置いた。ここは現実の世界ではない。夢の中の世界だ。まるで夢を見ているような感覚で現実か夢か分からなくなってきている。珈琲の味と香りがまだ舌先に残っている口に水を流し込むと、何か清涼剤でも入っているかのように気分がさわやかになり、すっきりしてきて頭の回転も速くなってくる。

「じゃこちらの部屋へ来てください」

 と言って部屋の奥に進むと自然にドアが開いた。中には病院によくあるCTスキャンらしきものが設置されていて、その台に乗るように指示された。頭を布製のバンドで固定され身体がやっと通れるドームの中で「息を吸って、吐いて」という動作を三回繰り返して台の上から下り元の部屋に戻った。何をされたのかはさっぱり分からなかった。ザイハードから何か疑問な点がありましたら遠慮なく質問してくださいと言われたので、

「抵当は絶望や挫折と言われましたが……。具体的にどうすればいいのですか」

 天沢には言われている意味が分からないので聞いてみた。

「あなたは何もしなくていいのです。すべてはコンピューターが制御してくれます。あなたは絶望とか挫折を成人してから何度も味わったと思います。その絶望とか挫折を思い出した時点から、夢を見ますと、それに見合った夢が実現します」

「そんなことどうしてわかるんです」

「不思議と思われるのはごもっともです。あそこにあるカメラがあなたの脳細胞に細工しました」

 振り向いて上の方を見ると小さな窓の反対側に確かに監視カメラのようなものがあって、天沢の頭を照射していた。先ほど、ザイハードと握手したときカメラのシャッターが切られたような音がしたのはそのせいだ。あの時点で商談が成立したためにシャッターが切られた模様だ。

「じゃ別室でCTスキャンらしきものの台の上で何をされたのですか?」

「ちゃんと契約が設定されたか、間違いなく夢銀行のプログラムがインストールされて正常に動き出したか確認していました。あなたはもう今から夢が思う通り叶うことになります。ご心配なく」

「分かりました。じゃ挫折や絶望を抵当に取って、何か役に立つのですか」

 そんなものとうてい使い道はないように思う。誰だって絶望や挫折をやると言っても断るに違いない。それが世の常というものだ。ましてや、やったりもらったりするものでもない。

「あります。欲しいという人はいませんが、私共が無理やりあなた達から受け取った絶望や挫折を植え付けるのです。悪いことをしている政治家、詐欺師、不正を働いている経営者、あるいはテロリスト、刑務所に入らなければならない人は何らかの形で私共が関与していますし、これからも関与していきます。そのためにもより多くの絶望や挫折を集める必要があるのです。私共は世の中が少しでもよくなるために努力しています」

 なるほどと思い、絶望や挫折を集積する装置があるのかときょろきょろと辺りを見渡すが、それらしきものはない。ただ壁に組み込まれたコンピューターだけが小さな音をたてているだけだ。

「ぼくのように取るに足らない者の絶望や挫折でも役に立つのですか。それにいつ絶望や挫折を集積し、夢を貸してくれるのですか」

「いい質問です。質のいい絶望や挫折はそう多くはありません。意地汚い人や腹黒い人、強欲な人の絶望や挫折はそこら中に転がっています。そんな人の絶望や挫折はコンピューターで何度も洗浄し、純粋な絶望や挫折を抽出するわけですが、あなたの絶望や挫折は純度が高いので我々が最も欲しいものです。純粋な夢と誇り高い夢から生まれる絶望と挫折は魅力あります。コンピューターで洗浄する時間と費用が少なくて済むからです。そんな絶望や挫折を集めるのに我々は苦労しているわけです。エキスだけを先ほど言いました不逞(ふてい)な輩に植え付けるのです。その場合純度が高いほど悪い奴を刑務所送りにするためによく効きます。宇宙には世界中の夢と希望、そして挫折と絶望を集積する夢銀行専用の人工衛星も回っています。あなたが日本にいるときから我々はチェックしていました。それにはニューヨークにまずは来てもらって、当銀行に足を運んでもらう必要があったのです。私共は人工衛星を使いあなたをニューヨークに呼び寄せたのです。あなたが住友鉛筆を首になり途方に暮れ自宅のベッドで昼寝をしていたとき、頭に激痛が走り気を失ったとお思います。それは私どもが人工衛星を使い、あなたのこれからのロードマップをインプットしたからです」

「エェ、あの時からここに来るように細工されていたのですか」

「そうです」

「武田和子との最初の出会い、つまり自由の女神の前で写真を撮って貰ったときから私どもはあなたをマークしていました」

「そんな時から。何故なんです」

「それは企業秘密です。ですから日本からニューヨークまでの旅費約一〇〇〇ドルは当銀行からお返しします」

 ザイハードが後ろの壁にある暗証番号を五回押すと金庫らしきものが出てきて用意されていたドル紙幣を天沢に渡した。天沢は躊躇していたがわけも分からず受け取った。狐につままれたようだ。どうやら天沢の意志でニューヨークに来たのではないらしい。ほんまかいな! 信じられない。と言って噓でもないような気がしてくる。こうやって旅費さえくれたのだ。でも天沢は和子を抱いた後死ぬためにニューヨークに来たんだ。ここを出ると後は和子と会って死ぬだけなのだ。ザイハードの言っていることとつじつまが合わないような気がするがとりあえず、

「夢を掴み、幸福になればどうなるのです」

 もし、この地で死ぬ夢がひっくりかえる事件でも起きれば、それはそれで流れにそってみようと思う。それには疑問に思っていることを洗いざらいぶっつけてみる必要があった。というのも、後からとやかく言いたくない。日本では後からとやかく言わないためにも、けんかは先にやっておけと言われている。ザイハードが顔をしかめていたが、足を組み腕も組んで椅子に深々ともたれ、

「夢を掴むことは即ち幸福になることです。もっとひらたく言えば、お金持ちになるということです。夢を掴みお金持ちになれば私共が妥当と思った時点で連絡を入れます。そのとき夢の融資に見合った額の三十パーセントを夢銀行に手数料として払っていただければ結構です」

「ちょっと待ってください。お金が貯まれば夢や幸福は叶えられたというのはちょっと語弊があるのではないですか。精神的に夢が叶って幸福になれるときもあるのじゃないですか」

「それは、余り夢が叶えられたことのない人の言う台詞です。たとえ精神的に夢が叶ったとしても、それは当方においてお金に換算して、手数料をいただくことになっています。一度夢を掴むと誰しもお金を増やすことを考えます。誰もがお金持ちになりたいのです。それが証拠に夢が実現したにもかかわらず、手数料を払わない人が大半です。人間はみな欲が深いのです。私だって同じです。そのときがくれば私共の方から書類を送りますので、サインして近くのポストに投函してください。それだけでいいのです。自動的にあなたが預金している銀行から三十パーセントの手数料が引き落とされます。じゃ、銀行に金を入れず現金で持っていればわからないじゃないかと言われるかも知れませんが、夢が叶ってお金が入った時点で当方にはあなたがいくらお金を持っているかわかる仕組みになっています。私達は決して誤魔化されない仕組みを作っています。自動的にお金を落とす銀行は日本の銀行でも、スイスの銀行でも、アメリカの銀行でもかまいません。別に登録された銀行から落とすということはしません。ですから現金はお持ちにならない方が得策です。ただ、あなたが当銀行からの書類を受け取りサインされて再びその書類を当銀行に送り返され、私共が確認した時点で初めて手数料は引き落とされます。たとえあなたがどこにいても書類は送ります。だからと言って私共に居場所を連絡していただかなくても結構です。あなたから発信されるテレパシーを人工衛星がキャッチして、あなたの居場所が難なくわかるようになっていますのでご安心ください」

 何だかよく仕組まれた銀行だと思う。すべてをコンピューターで監視して人工衛星まで使って預金者というか預夢者を監視している。これは大変なことになった、逃げられないということか。ずっと監視されていることになる。でも、夢が実現するのなら少々のリスクはつきもので、我慢するしかないと思った。

「で、手数料をもし払わなかったらどうなるのです」

「勿論、夢の融資はストップされます」

「それだけですか」

 そんなことだけなら、払わない人がたくさんいるだろう。生ぬるい気がしてくる。

「いえ、いえ、それだけではありません。植物人間のようになります。一生ベッドの上で暮らすことになります。これは脅しではありませんよ」

 なるほどそれじゃびびる。それぐらいしないと手数料を払わない奴が続出して銀行もつぶれてしまうに違いない。

「大事なことは私共が送った書類を送り返してくれることです。サインして送り返していただければ契約続行ということになります。ですから書類は絶対送り返してください。送り返していただけないようでしたら、契約は解除され、あなたは植物人間のようになります」

 どうやら、いくらハイテクが進んでいるとはいえ、サインした書類を確認しない限り、夢銀行は手数料を落とさない仕組みになっているようだ。ザイハードがテーブルの上にあるキーボードを手元に引き寄せ、何を思ったのか叩き始めた。不安な表情をしてその様子を見ていると引き出し以外の壁と天井のボードが開き始め、薄いアイボリーのコンピューターらしき複雑な機器が姿を現したのだ。つまりこの部屋は人工衛星のコックピットのようになっていて、小さな計器や液晶画面が無数に取り付けられていた。

「ちなみにあなたの個人情報を調べてみましょう」

 ザイハードがキーボードを叩くと、コンピューターがジィ、ジィ、ジィ、と小さく鳴って、一枚の用紙がプリントアウトされて壁の中から出てきた。その用紙をザイハードから受け取り、よく見てみると、天沢の住所、経歴、趣味等が記載されていた。

「これはほんの一例です」

 目を皿のようにして確かめたが間違いない。住所、経歴、趣味など一切ザイハードに言っていないのに、これだけ具体的なデーターを見せ付けられたらもはや夢銀行たるものの存在を認めざるを得ない。それでもまだ懐疑心がどこかに残っていて、そんなはずはない、これは何かの間違いだと打ち消そうとするが、その一方でこれはひょっとすればひょっとするぞ、と期待も膨らむ。複雑怪奇な心地に心は揺れ始めていた。そこで、

「住所や経歴がわかるぐらいなら、ぼくの絶望や挫折それに夢や希望もわかるのですか」

 と聞いてみると、

「絶望と挫折は過去のことですからわかりますが、これから先に見る夢や希望はわかりません。それらは刻々と変わるからです。ですが、ひとつだけご注意申し上げておきます。あなたは過去に〝死ぬのが夢〟という夢を持っていらっしゃったと思いますが、そんな夢はこれから先、決して持ってはなりません。大変なことが起こります。ですが当夢銀行から夢を融資した人は、そんな夢を持つことがなくなるぐらいハッピーな生活が送れますので我々は何ら心配していませんが」

 過去に持っていた夢はわからないと言っておきながら〝死ぬのが夢〟ということを知っている。油断は出来ない。それとも死ぬのが夢という現象は夢の項目には出てこなくて絶望や挫折の項目に出ているのか。と思いを巡らす。どうやら、死ぬのが夢という夢は厄介な夢のようだ。過去か未来か判断が出来ないようだ。

ザイハードが困惑しているのがすぐわかった。

「大変なことが起こると言われましたが、どんなことが起こるのですか」

 何か夢銀行が不利益をこうむるような気がしたので聞いてみると、

「私共にはわかりません。今までにそんな人はいませんでした。いやいや一人だけいました」

「その人は今どうしているのですか」

「私共にはわかりません。私どもはもうその人を解放しましたからです。処があなたと接触するようになって、又私たちの視界に入ってきましたが、詳しくは解りません」

「夢銀行専用の人工衛星で追跡してもわからないのですか」

「そうです。その人はもう我々が制御できません。人工衛星を使って追跡しても、圏外になってしまっているのです。ごく普通の人間になっているからです。でも先ほども言いましたようにあなたを追跡していると時々視界に入ってくるときがあリます」

 ザイハードが困り果てた顔をして、ふーっと大きくため息をついた。

これだけハイテク技術を駆使している夢銀行にもわからないことがあるのが不思議でならない。ひょっとすれば、それは夢銀行が何か分からないが大きなリスクを背負い込み、夢を借りた者が大儲けできるために隠しているのではないかと勘ぐりたくなる。でも実際のところ夢が次々に実現すれば死ぬ夢など見ることはなくなる。一人でもそんな人がいたというのが不思議でならない。本当はそんな人はいなかったのかも知れない。ただ単にザイハードが天沢を脅しにかかっているとも思える。そんなよけいな心配をする一方でしめしめとにんまりしていた。天沢にもやっと夢が実現する兆候が見えてきた。ここにいると不思議なことに死ぬのがもったいない気がしてくる。夢を実現するには生き続けなくてはならないのは明白なことだ。

「ああ、そうそう。それに君のグリーンカードも申請済みだ。君はアメリカで永住できるように用意はしておいた」

 何もかも抜かりのないように手配してくれている。ザイハードの用意周到さには驚く。天沢はここでひとつ手始めに試してやれと思い、

「住友鉛筆ニューヨーク支店に勤めたい夢があるのですが、どうすればいいのですか」

 和子に住友鉛筆ニューヨーク支店に転勤になったと噓を言っている手前、このニューヨークで生きていくからにはどうしてもそこで働かなくてはならない。もし、この夢が実現すれば和子についた噓はバレないで済む。

「それは簡単なことです。会社を首になったときや辞めたときの挫折感や絶望感を頭の中で思い起こせばいいのです。すると、すぐにコンピューターが感知して反応し、夢は実現します。このとき君の挫折感や絶望感が自動的にコンピューターに集積され、その結果夢を融資する仕組みになっています」

「女と一緒に暮らしたいと思えば」

 図に乗って出来れば和子と一緒に暮らしたいと気持ちがあるので聞いてみた。でも不思議だ。今まで死ぬことばかり考えていたのに住友鉛筆ニューヨーク支店に勤めたいとか、和子と暮らしたいとか、前向きな気持ちが次々に湧いてくる。もう夢モードに入っているとしか思えない。

「それは至って簡単です。以前、女に振られたことを思い出してから、彼女と暮らしたいと告白すればすぐに実現します。このときあなたの挫折感や絶望感が夢銀行のコンピューターに集積されます。その直後に夢が融資されるのです」

 ほんまかいな! 驚きの連続だ。あまりにも簡単すぎる。信じる気持ちとまやかしだ、という気持ちが半々でとにもかくにも試してみる必要は十分ある。夢を実現するには自分が夢を見るとき、それに関連した絶望や挫折を思い出せばいいわけで簡単なことだ。

 ザイハードがこの取り引きは夢の出来事ではないし、ましてや幻覚や幻聴ではないと身振り手振りを交えて自信に満ちて語ってくれた。

「念を押しておきますが、夢を実現したいときは、絶望や挫折を先に思い出してから夢を見てください。これが逆になりますと夢は実現しません。よく夢が実現しないじゃないかと当銀行に怒鳴り込んでくる輩がいますが、夢が実現しないのはこんな些細なことが原因している場合が多いです。注意してください。絶望や挫折を担保に夢を融資するのですから、まずは担保品を出していただかなくてはなりません。このように簡単なルールさえ守っていただけましたら、必ずあなたの身の上にハッピーな出来事が次々と起こること間違いありません。夢の実現は至って簡単明瞭です。誰でもすぐに実行でき実現できるのが当銀行の大きな特徴です」

「わかりました」

「それでは手始めに、ここを出ると住友鉛筆ニューヨーク支店に行きなさい。そこで以前住友鉛筆姫路販売を辞めて途方にくれたことを思い出し、責任者に雇ってくれるよう頼みなさい。そうすれば、すぐに雇ってもらえますから」

 試してみる必要は十分ある。死ぬのはそれからでもいい。駄目で元々。どうせ死ぬのが目的でニューヨークまで来たのだ。ちょっとくらいいい目をしてから死んでもいいだろうと、心うきうき体わくわくだ。ついでにザイハードは住友鉛筆ニューヨーク支店に行く道を電話帳で住所を調べ、地図を書いてくれた。実に細かく丁寧に書いてあり、この通り行くと目的地に着くようになっている。その用紙を胸のポケットにしまい込んだ。

 立ち上がると「ありがとうございました」と言って、今度は天沢の方から右手を出しザイハードに握手を求めた。ザイハードが天沢の右手をしっかり握り、

「くれぐれも約束を守ってください。もし守っていただけないようでしたら、夢の融資はすぐにストップしますし、大変な事態が起こります。それにもうひとつ言い忘れていました。一度使った絶望や挫折は二度と使えませんのでご注意ください。二度使っても夢は実現しませんので絶望や挫折を大事にしてください。何分アメリカの一般大衆がこの夢銀行に夢を預金してくれているからこそ、あなたに夢が融資されるのです。その点はお忘れなく」

 ザイハードがニコニコと笑みを浮かべて言ってはいるが、目はちっとも笑っていない。それに気付かなかった天沢だった。ようは普通の銀行とは変わりないと天沢は甘く見ていた。夢銀行は金の出し入れではなく、夢や絶望の出し入れのようだ。普通の銀行では客から預かったお金を会社や商店に融資して、その利ざやで成り立っているというわけだからシステムは同じらしい。

「わかりました」

 天沢は立ち上がるには立ち上がったのだが、めまいがして危うく倒れそうになった。幸い前にいたザイハードがあわてて体を支えてくれたので大事に至らなかったが、心配そうにザイハードが「大丈夫ですか」と聞いてくれた。昨日余り眠れないので精神安定剤と睡眠薬をいつもの二倍も飲んだので起きていても夢遊病者のような状態だ。それでも夢銀行に来て驚くことや、緊張感、精神を刺激する出来事が立て続けに起こりしゃきっとしていたが、一応一件落着し気が緩んでくると今度は自然に睡魔が襲ってきた。それにしてもこの猛烈な睡魔は一体何なのだ。

「ここでしばらく寝かせてもらえませんか」

 たまらなくなって恥も外聞もなくザイハードにお願いすると彼は意味あり気な笑みを浮かべて、

「どうぞ、遠慮なく」

 巨木が倒れるように後ろの黒いソファに倒れ込んだ。その途端身体がズルズルとはがれていくような感じがして、これは一体何なのだと奇妙な感覚に襲われた。

「目が覚めたら私に遠慮なく帰ってください。私はこれから所用がありますので、出かけますが、そのむね先ほどのミッチェルに伝えておきます」

 朦朧(もうろう)とする意識の中で天沢はザイハードの言葉を聞いていた。

 


第三章 幸せな同棲生活



何時間寝たのだろう。コンピューターで制御された部屋で目覚めた天沢はザイハードやミッチェルのように壁から出てやれと思い、壁に突き当たったが予期した通り不思議と何の衝撃も抵抗もなく部屋の外に出られた。一体どうなっているんだ。首をかしげながらテラーの前に行くと、

「お目覚めになりましたか」

 微笑みながら話し掛けてくれる。

「はい。よく眠れました。おかげさまですっきりした気持ちになれました」

 事実、体が軽くなったようでひと皮むけたような気がする。心も快晴だ。勇気さえ湧いてくる。

「ここを出て行かれる前にミッチェルに挨拶されてからお帰りください。ミッチェルの部屋に案内します」

 とにこやかに言われて、入り口の横にある壁の前に連れて行かれた。ここは部屋らしいが入り口がなかった。だからここに来たときここに部屋があることが分からなかった。ただの壁とも思っていた。

「この部屋に入るにはどうすればいいのですか? ドアもないようですが」

 事実どこを探してもドアらしきものはない。

「この部屋にはドアがありません。来行されたときは入れませんでしたが、今でしたら壁から出入りできます」

「それってどういうこと」

「さぁ!」

 と意味あり気に微笑してそれ以上は教えてくれなかった。仕方なく壁にぶち当たると何の抵抗もなく入室できた。かなり大きな部屋だ。その部屋ではミッチェルが白衣を着て後ろ向きで何か作業をしている。フラスコやビーカーやアルコールランプがテーブルの上に置かれていて、注射器やいろいろな色の小瓶に入った液体が棚に並べられていた。珈琲のサイホンのようなものもある。その上蒸留水精製装置も部屋の隅の方に設置されていた。まるで化学実験室だ。ミッチェルはなにやら薬品を作っているようだ。先ほどザイハードと商談しているとき珈琲と水が運ばれてきたがここで作られたものに違いない。ミッチェルが天沢に気付くと振り向いてニコッと微笑んだ。

「お目覚めになられたのね。今後とも夢銀行をよろしくお願いします。きっとあなたの上に幸運が待ち受けていますわよ」

 と言われたが一体ミッチェルは何をしているのか聞いてみたが企業秘密ということでくわしいことは教えてくれなかった。

「では気をつけてお帰りください」

 と言って手をさしのべられたので、

「こちらこそよろしくお願いします」

 と握手をしてこの部屋に入ってきたと同じように壁からするりと抜け出した。

 しかしちょっと気になったことがあったので、もう一度壁から部屋に侵入した。ミッチェルが驚いて、

「どうなされましたか?」

 作り笑いをして持っていたビーカーを机の上に置くと慌てて近寄ってきた。

「あの部屋は一体な、なんですか?」

 医薬品が並べられている棚の向こうに病院の集中治療室のような部屋を指して天沢は尋ねた。硝子張りのシェルターのような部屋だ。

「ここはいずれあなたが帰ってくる部屋です。ザイハードもきっとあなたがここに帰ってきて下さることを望んでいると思います。ご縁があればですがネ」

「それはどういう意味です」

「いずれその時が来れば分かります。楽しみにしておいて下さい」

 よく目をこらしてみると顔は見えないが人がひとりガーゼの布で覆われて眠っているのが見えていた。

 

夢銀行から出るとその足でセントラルパークの東に位置するレキシントン・アベニュー通り六十九ストリートにある住友鉛筆ニューヨーク支店に向かった。どうやらヒルトンホテルの近くらしい。交差点の信号が赤なので青になるのを待っていると、周りの人は信号が赤にもかかわらず堂々と横断歩道を渡っていた。天沢もつられて歩いて行くと罪を犯しているようで心苦しい。身なりのしっかりした白人も悪びれず信号を無視し横断していく。この国はどうなっているんだ、と頭の中に?マークが点る。通行人に聞いてみようと思うが適当な人が見当たらない。すると比較的身なりのしっかりした東洋系の少年が歩いていたので「どうして、信号が赤なのに渡るんだ」と聞いてみると、ニューヨークでは車が通っていなければ、たとえ信号が赤でも渡ってもいいんだ、と言って、ニューヨーカーじゃないなとばかにしている様子を見せられすっかりしょげ返ってしまった。恥をかいたら駄目だと思いわざわざ少年に聞いたのに、その少年にばかにされたものだから泣き面に蜂だ。立つ瀬がない。

「サンキュー」

 礼は言ったがこしゃくな少年にくそっ腹が立った。そそくさと立ち去ると足早に歩いて、目指す五十階建てのビルの前に立った。三年前、海外研修できたとき表敬訪問していたのでインプットされている玄関から、エレベーターで上り三十五階の小さな事務所の前に立つと、ドアも開けずに夢銀行の壁を通り抜けたように抜けてやろうとガラス戸の前に立って一歩前に踏み込むと、がつんとガラス戸に当たって尻餅をついた。夢銀行の壁のようにうまく通れなかった。なぜだか分からない。気を取り直して立ち上がると今度はドアを開けて事務所に入った。

 事務所に入り見渡すと社員の机はボードでブロックされ、隣の人の様子が見えないようになっていて、個人のプライバシーが保護されているのが分かった。この様子を見てどうしてもこんな事務所で働いてみたい気が起こってきた。

「いらっしゃいませ」

 事務所の一番前でパソコンを打っていた女子社員が天沢の顔を穴のあくほど見詰めて、

「あら、姫路販売の天沢さんでは?」

 びっくりしている様子が手に取るようにわかる。以前、セールスコンテストで二位になったとき、社内報に写真付きで載ったので全国にある販売会社や本社の女子社員からお祝いのメールを何通かもらっていた。その中にニューヨーク支店から届いたものがあったのを思い出した。その上アメリカ研修旅行でここに来たときも彼女と一言二言話した記憶が蘇ってきた。

「覚えていてくれたんだ」

 彼女はハーフかと思うほど日本人離れしているが天沢のタイプじゃない。

「で、何の御用で」

 明らかに彼女は戸惑っている。そりゃそうだ。日本にいるはずの人間がいきなりニューヨーク支店に現れたのだからびっくりして不審がるのも無理のないことだ。分かる気がする。

「支店長にお会いしたいのですが」

 彼女はもっと話をしたそうだったがそんな無駄話は天沢はしたくなかった。それを察した彼女は、

「どうぞ」

 事務所の右側にある応接間に通された。

勘のいい娘だと天沢は感心していると、しばらくして長身で痩せたインテリくさい田村支店長が入ってきた。彼は二年前まで大阪支店長をしていて顔見知りだし、その上特にかわいがってもらっていた身だった。ニューヨーク支店に転勤が決まったときわざわざ姫路販売に来て社長と話した後、まだ若輩者の天沢が倉庫で商品のチェックをしていたにもかかわらず、そばによって来て「お世話になったな」と挨拶してくれ、恐縮しうれしかったことを昨日のことのように思い出した。田村支店長が予期せぬ天沢の出現に驚いて「まぁ、座れや」と言ってくれ、天沢が座ると支店長もどっかとソファに腰をおろした。

「どうしたんだ」

 戸惑いの色を隠せない。でも支店長の余りにも変身した様子に、

「すごく痩せましたね」

 自分のことはさておき、目の前の支店長をまじまじと見て、率直に言うと一体この二年間の間に何が起きたのか興味が湧いてきた。大変な苦労をされたように思える。でなければこんなに痩せるはずがない。日本にいる頃は長身の上に『関取』の異名がつくほど太っていた。ニューヨーク支店に勤務になって心労で痩せたとしか思えない。何分、心遣いのいきとどいた人だったから。

「そうかい。君にそう言ってもらえるとうれしいね。実はなニューヨークに来て太っていると商売にならんのだよ。管理職たる者はまず自分の体も管理できなければ管理職失格なんだ。自分の体も管理できなくて部下を管理できないし、ディーラーやユーザーも管理できないとぼくの管理能力と営業能力を疑われる。そこで一大決心をしてスポーツジムに通い、痩せたんだよ。お陰でアメリカ人からやっと信用されるようになった」

 うれしそうに支店長はこけた頬をなでた。

 白人の事務員が緑茶を運んできてテーブルの上に置いたが、まさかアメリカに来て日本式の接客方法に出会うとは驚きだった。支店長が、

「彼女は日本びいきで、何でも日本の真似をするんだよ。将来日本に住みたいと言っている」

 白人の事務員に向かって笑みを投げかけた。事務員が出て行くと、

「どうだ、スマートになっただろう」

 と言って立ち上がり胸を張った。

「でも、アメリカ人って太った人が多くて、肥満大国って言われているじゃないですか。何も太っているからって差し支えないんじゃないんですか。そんなに無理をしなくても」

 三年前、アメリカにきたとき街で歩いている人や、スーパーマーケットに買い物に来ている人を見たとき、醜いほど太っている人がごろごろしていたのを思い出したので尋ねてみた。

「下層階級の人は太っているが、上層階級の人は自己管理がしっかりしていて、太っている人はほとんどいない。管理職になろうと思えば太っている人はまず痩せることから始めなければならないんだ。アメリカはすべて合理的に出来ているのだ」

 なるほどそれも一理ある。まんざら噓ではなさそうだ。

「ところで、わざわざニューヨークまで何しに来たんだ。まさか働きに来たんじゃないだろうな。聞くところによると会社を辞めたそうじゃないか」

 情報はすでに入っているらしい。拙いなと思う一方面倒な退職理由を話さなくて済む気がする。天沢はここで夢を融資してもらおうと、住友鉛筆姫路販売を辞めて絶望と挫折感で悔しい思いをしたことを頭の中でドライブさせて、

「実は、ぼくをニューヨーク支店で雇ってもらえないかと思いここに来たのです。ぼく英語も話せますし……」

 単刀直入に聞いてみたが自信がなかったので尻すぼみの言葉になって、最後は消え入るようなかぼそい声になってしまった。ザイハードが言ったことが本当なら即座に雇ってもらえるはずだ。支店長は驚いてわけを話せと言ったが、何も聞かずにお願いしますと立って頭を下げた。恥も外聞もなかった。採用するにしても、ハイそうですかと即答してくれないことくらいわかっていた。

「君は確か、パチンコ店の大口物件で失敗し、会社を辞めたそうだな」

「そうです」

 すべてお見通しのようだ。雇ってもらえないのか。そんなはずはない。懐疑心が頭の中をぐるぐると回る。田村支店長は脚を組み腕を組んで考え込んだ。

「木田社長は惜しい人材をなくした、と悔やんでいた。わしがあまりにもがみがみ言いすぎたと反省もしていた。将来、わが姫路販売を背負ってくれそうな社員だったが、あれぐらいのことでへこたれて欲しくなかった、とも言っていたよ」

 あの社長にも人を思いやる心があったのかと、いくらかは心が和んだ。ニューヨーク支店は販売会社と違って本社の出先機関なので、主にシャープペン、ボールペン、水性ボールペン、サインペンをアメリカの市場に輸出する窓口だ。

「今頃そんなこと教えてもらっても後の祭りですよ。そんな気があるのなら、どうしてあんなにぼくが辞めるように、辞めるように追い込んでいったんですか。あの社長の本意を聞きたかった。もっと暖かく大きな気持ちでぼくを育ててくれたら……」

「いまさら、そんなことを言っても始まらない。それよりここで働いてくれ。男子のセールスマンが一人辞めたことだし、補充しなくてはと思っていたところだ。素性も実力もわかっている。その上商品知識も豊富だ。まったくのど素人を雇うより、即戦力になって当支店にとってありがたいのだが。どうだ!」

 天沢は面食らった。その様子を田村支店長は満足そうに見ていた。ザイハードが言った通り雇ってくれそうな気配だ。夢が叶う。と思ったが、今までの例からしてこれはほんの見せかけで、その気にさせておいて後でばっさりやられるのじゃないかと疑った。好事魔多しで油断は出来ない。何分今まで意識して夢が叶えられたことがなかった天沢だ。臆病にならざるを得ない。

「ありがとうございます」

 立ち上がると直立不動になって深く礼をする。

「日本とアメリカじゃセールスの慣習が違うが、そんなもの慣れだ。幸い君は英語も喋れるから好都合だよ。何なら明日からでもきてくれてもいいんだ」

 満面の笑みが自然とこぼれるのを抑えることが出来なかった。天沢は明日にも死ぬ予定だったが。その辺のところも天沢自身は引っかかるが夢が叶う、ということはなんと心地よく、うきうきした気分にさせてくれることか。これこそ夢が叶うということだと体中から喜びがあふれ出る。

「明日からというのはこらえてください。住むところも探さなくてはなりませんので二、三日、日をください」

 とうとう死ぬ予定を変更してしまった。まぁ死のうと思えばいつでも死ねるわい、と大きな気持ちになってしまっていたのも確かだ。それほど夢が叶うということは秤で量れないほどうれしいものだ。

「まだ住むところは決まっていないのか」

 支店長が不安な顔をして腕を組んで考え込みながら天沢を見詰めていた。住むところでも世話してもらえるのかと思ったが、

「はい。でもあてはあるんです」

 ここで採用された余勢をかって和子に同居を持ちかけてみようと思っていた。この調子だと、和子も難なく同意してくれるに違いない。

「そうか。じゃ都合のいい日が決まったら連絡してくれ。電話はここにだ」

 支店長が差し出す名刺を受け取ると天沢は安堵の色を体全体で表し、名刺をしげしげと見て「英語の名刺はかっこいいな」と呟き、財布のカードが入っているところにしまい込んだ。

 その後、支店長はアメリカ人の気質とか習慣などを細かく教えてくれた。二週間ほど先輩と同行して地理や仕事の内容は逐次教えてもらえるそうだ。アメリカやメキシコでは事業として文具店経営はステータスな人が手を出す業種らしい。日本では文具店は『びんぼう具店』と言われていて、銀行からは玩具店と並んで、運転資金の融資を受けにくく嫌われている業種の筆頭格だ。ところが、ところかわれば品かわるで、文具店がステータスな業種とわかると、天沢はなにやら自分が金持ちになった気がするから不思議だ。支店長といろいろ話していると、ひとつの難関を乗り越えたところで、気持ちは今夜会う和子のことでいっぱいになってきた。


 その夜、天沢は和子が来るのを待つ間ヒルトンホテル内の(テナント)を見物していた。

 アクセサリーや宝石、アパレル商品からポルノ雑誌まで外国人相手に売っていて、かなりの高級店が軒を連ねていた。高級ホテルなのにポルノ雑誌も置いているとは粋な計らいだ。日本では即販売停止だが、裸で男女が抱き合っている程度の本はアメリカではポルノ雑誌といわないらしい。どの店にも東洋系の販売員がいて器用に日本語も操る。暇をつぶすには事欠くことはなく、目の保養をした後ロビーで和子が来るのを待っていたが、彼女はなかなか現れない。その間和子が来ればなんと言ってプロポーズすればいいのか、あれこれ考えていた。そうこうしているうちに時間は約束の六時より二十分は過ぎてしまっているのに気付いた。騙されたかなと思い心配になって、ドアの外の様子を見に行こうとしたとき、和子がジーンズに半そでの青いブラウスを着て大またで颯爽とホテルに入ってくるのが見えた。顔もきれいがくびれるところはくびれ、ふくらむところは適当にふくらみナイスバディで、これといった欠点も見つからない容姿をしている。

「まった?」

 和子が天沢の横に座ると、抱きついてきてキスをしてきた。突然の仕草だったので驚いた。まさか和子の方から抱きついてきてキスをしてくるとは想像もしていなかった。と同時に、

「好きなんです。私と付き合ってください」

 肩に手を置き顔を覗き込んで見詰められた。天沢は面食らった。あまりにもうまくいきすぎる。

「明後日から住友鉛筆ニューヨーク支店に出社することになった。今日昼間挨拶に行くとすぐ出て来いと言われた」

 和子を安心させるためにも採用されたことを言っておく必要があった。勿論新規に採用されたなんて口が裂けても言えない。あくまでも、和子の前では転勤だ。住友鉛筆に採用されたことで天沢は有頂天になっていたのも確かだ。誰かに話したくて、話したくてうずうずしていたところだ。それほど夢が叶うということはすばらしいことであり気分を爽快にしてくれる。この快感は夢が叶った者でしかわからない。

「そう、私が思っていた通り素敵な人やわ」

 すでに付き合ってくださいと言われていたが同居したいと思い天沢は住友鉛筆姫路販売の事務員船田靖子に振られたことを思い出し、

「いつまでもホテル住まいしているわけにはいかへんのや」

 さりげなく探りを入れてみた。果たして凶と出るか吉と出るか不安な気持ちで、和子の一挙一動に注目した。絶望や挫折を思い出し夢銀行から夢を融資してもらうためだ。この場合は和子と一緒に住みたいという夢だ。勘のいい子なら、何らかの反応があるはずだ。彼女の顔が明るくはじけて花が咲いたように微笑みを浮かべた。

「私のアパートにこうへん」

 和子が何の躊躇もなく、さらりと言ってのけてくれた。これにはビックリした。何のくもりもいやらしさもない、さも当然のように。拍子抜けしてしまった。あまりにもうまくいきすぎた。

「それでエエんか。後悔せいへんか」

 天沢の方がかえって戸惑ってしまったが筋書き通りで思わず笑みがこぼれた。ロビーにある濃緑のソファで話していたが和子が返事する代わりに抱きついてきて、唇を吸い舌を絡ませてきた。

「私はさびしかった。アメリカ人は何だか軽すぎて性に合わなかったし、八年余りもアメリカにいると、筋金入りで硬派の日本人の男が懐かしいわ。好きだ、愛している、と軽々しく言わない日本人の方がはるかに魅力的に思えるの。それに、あなたとはメールも交換していたし。日本に帰ったときはホテルで一夜も過ごした。あのときのあなたのやさしさと鋼のような情熱が忘れられへんかった。出来たら日本に帰ってあなたと暮らしたいと思ったわ。でもいまさら日本に帰る気があらへん。ニューヨーク生活は毎日が楽しいし、新鮮だからアメリカを離れられへん。一昨日(おとつい)あなたがニューヨークにくるメールを読んだとき、どれほどうれしかったことか、そして昨日住友鉛筆ニューヨーク支店勤務になったと聞いたときそれなら一緒に住もうと、一人決めていたわ」

 夢のような返事が返ってきた。信じられない。こんなにうまくトントン拍子に運ぶことに戸惑いさえ感じた。天沢はこれでエエンかいな、と小さく呟いてみた。それにしても出来すぎだ。まるで夢のようだ。やはり夢銀行のザイハードが言った通りだ。天沢はすっかり死ぬ夢を忘れてしまっていた。というよりも死ぬ気がなくなってどこかに飛んでいってしまっていた。思い通りに夢が叶うということはこたえられないものだ。


和子と同棲生活を始めたのはイースト・リバーが見えるヨーク・アベニュー六十一ストリートの和子のアパートだ。丁度ヒルトンホテルから北に進むと住友鉛筆ニューヨーク支店があり、さらに北上していくと和子の住んでいるアパートがある。

三十五階にあるワン・ベッドルームからは西の方に、緑に覆われたセントラルパークが眺められ、南から西南にかけて間近に摩天楼がそそり建っているのが見えた。近くにはテレビ局もある。心療クリニックもあるしドラッグストアーやコンビニもあるのでここは冷蔵庫代わりに使えそうだ。豊かな生活が出来るように環境も整っている。

かなり環境のいい地区だ。このワン・ベッドルームは十坪ほどあり広い。別にバスルーム、キッチンもトイレもある。内装も豪華でヨーロッパのアンティークな家具も置いてある。部屋の色は白で統一され、清潔感があふれていた。空調設備も整っている。五年ほど前格安の値段で手に入れたらしい。部屋には一通りのものはそろっているので天沢は身ひとつで転がり込めばよかった。トイレの横のドアを押すと四坪ほどの寝室があり、かなり贅沢なアパートだ。夜はそこでオスとメスになって何度もセックスをむさぼり合った。疲れることなんてさらさらなかった。むしろ明日への仕事のエネルギーになっていた。新婚生活のようで毎日が楽しい。仕事も慣れてきて順調にいき出した。

どこに行っても笑顔を忘れずディーラーやユーザーから、人当たりのいいセールスマンとして瞬く間に信頼されるようになった。どこの国に行っても笑顔はやっぱり大きな武器に変わりない。ミサイルにも相当する。

つい最近『ユーゲット』というアメリカ、カナダに五百八十店舗も展開している巨大なスーパーと新規契約を交わして取り引きを開始したお陰で会社から金一封をもらった。この取り引きは、実を言うと住友鉛筆姫路販売にいた頃、『木戸遊技』でパチンコの景品に使う千五百円のボールペン一万本の物件が契約破棄になったことを思い出し『ユーゲット』のバイヤーと交渉する際この新規取り引きが成功するよう夢見たのだ。

すると渋っていたバイヤーがものの見事に一週間後取り引きを開始すると契約書にサインしてくれたのだ。いやぁ驚いた。夢銀行の力はすごいものとあらためて感じた。

信じられないが事実は事実だ。夢銀行の威力はたいしたものだ。

そんなわけでアメリカに来たときの夢、つまり死ぬために来たことなどすっかり忘れてハッピーな毎日を楽しんでいた。

住友鉛筆ニューヨーク支店での諸々の仕事も新鮮で楽しい。同僚もやさしく和気藹々(わきあいあい)の付き合いが出来る。天沢も姫路販売当時は成績がよくて天狗になって、同僚を見下すような態度を取ったこともあったが、この職場では同じ失敗を二度と繰り返すことはしたくない。気配りもいきとどいて上司や同僚からも信頼を得ていた。

そんなとある日、休日を利用して嫌がる和子とケネディ国際空港の近くにあるアクエダクト競馬場に車で行き三ドル払って入場すると、スタンドの中間ぐらいのところに陣取った。休日とあって観客席は満員に膨れ上がっていた。はるか遠くに青みがかったマンハッタン島の摩天楼が(もや)にかかって見えていた。天沢は夢を手に入れようとこの競馬場にきた。馬券売り場には黒人や白人、それに東洋系の余り品のよくない連中やイスパニヤ系の人間も窓口に群がって馬券を買っていた。こういう品のよくない人を押しのけて馬券売り場に行った。プログラムを一ドル五十セントで買うと、バウチャー売り場に行き五年ほど前夏のボーナス三十五万円を喫茶店の地下にあるスロット場で一晩かかって全部負けてしまったことを思い出し、祈るような気持ちで馬券が当たりますようにと夢を見て、五番人気の馬を(ウイ)()百五十ドルで買った。これで、今までの例からしてうまくいくはずだ。和子がそんなもったいないことやめておきなさいよ、と忠告してくれるが天沢には夢銀行がついていることなど知る由もない。日本でも競馬をやったことがない人間がアメリカで勝つはずがない。金をどぶに捨てるようなものだと和子が言って、好きなようにすればと、半ば諦めた状態で天沢が馬券を買うのを見ていた。そうこうしているうちに馬が走り出した。日本にいた頃、テレビで競馬を見たことがあるが、競馬場には足を運んだことがない。今回初めてだ。(はがね)を思わすサラブレッドが走っているのを見ていると、心までしなる思いがしてくる。五番人気のマンハッタンドリームを凝視し続ける。和子は横でアイスクリームをなめていて競馬など眼中にない様子だ。四コーナーを曲がりきったあたりから馬群の中でもがいていたマンハッタンドリームが首ひとつ抜け出し、先頭を切って走り出した。やがて二位との差が半馬身から一馬身開いた。楽勝かと喜んでいると、一番人気のセントルイスが外枠から飛んできて並ばれた。ヤバイぞ。思わず「いけ! いけ!」と手を上げ絶叫していると、その声が聞こえたのか、マンハッタンドリームは力強い馬脚で巻き返し最後は首の差でかろうじてゴールした。

「やったー」

 急に力が抜け握っていた手にはびっしょり汗をかいていた。そばにいる和子のことをすっかり忘れていた。興奮して絶叫していたので喉が痛い。多分日本語でわめき散らしていたに違いない。日本でも競馬場に行って、競馬を観戦したことがないのでわからなかったけれど、こんなに興奮(エキサイト)するものとはつゆぞ思わなかった。自分が馬券を買うとすごく興奮するものだ。あらためて競馬の面白みを知った。競馬が終わり観衆の大きなどよめきと、ため息が競馬場を埋め尽くし落胆の渦が巻き起こった。はずれ馬券がスタンドに舞い散った。まもなく正面の電光掲示板に配当が写った。天沢の思惑通り五番人気で、(ウイ)()五番のマンハッタンドリームの配当金が出た。百二十七ドルだ。わけもわからず一瞬がっかりした。

「たった百二十七ドルか。二十三ドルの損したよ」

 しょんぼりして、これじゃ五番人気が当たったにもかかわらず、損をしてしまって、元も子もない。「ちくしょう」と悔しさを滲ませて呟いた。夢銀行も当てにならないなと後悔のようなものが体全体に押し寄せてくる。しょげ返っている天沢を見てアイスクリームをなめていた和子が、

「どうしたん」

 とやさしく声をかけてくれた。天沢は「五番人気が的中したのに、二十三ドルも損をした」と言うと、その馬券を持った和子が正面の電光掲示板を見て、

「やったぜー」

 男のように気勢を上げた。天沢はなんで和子が喜ぶのかわからない。損をしてこれで二度と競馬に手を出さないとでも思ったのか。

「一ドルで百二十七ドルもらえるのよ。百五十ドルだから一万九千五十ドルだわ。すごい。日本円にして二百三十万円ほどだわ」

 和子が馬券を両手に持って手を上げ、すごい、すごい、を連発して喜んでいた。やっぱり夢銀行のお陰だ。マチガイない! 競馬場からの帰りに五番街にあるティファニーによって、ネックレスと指輪を買って和子にプレゼントした。あくる日会社に出勤すると競馬で儲けた話などしなかったが、自然に顔に出ていたのか、同僚の白人が、

「何かいいことあったのか」 

 と聞いてくるほど顔はほころんでいた。机につくとしばらくデスクワークをして、いつものように得意先に行ってくると言って外出すると、考えがあって和子名義で近くのニューヨーク銀行に一万三千ドル預金した。いずれ夢銀行から、手数料の三十パーセントが引き落とされる日が来るはずだ。その日のためにも全部使わずに貯金しておく必要があった。残った金でパソコンと携帯電話を買った。

 

またとある週のある日、この辺で金も出来たことだし、名誉も欲しいなと思いながら、ニューヨークのロアー・マンハッタンにある得意先「ベスト」に行こうとウオーター・ストリートを歩いていた。天気もいいし気分もいい。そのとき何故か弟が鉄道自殺して新聞に載り悲しむ前に恥ずかしかったことを思い出した。事実会社では葬式が終わって出勤してみると鉄道自殺したことが話題になっていて、白い目で見られた。二重にひどい目にあった。前方を見ると白人の三、四歳の子供が玩具店の前で何か買って欲しいものがあるのか、駄々をこねているのが見えた。日本でもよく見る光景だ。子供は大人と違ってどこの国の子供もすることは同じのようだ。微笑ましげに見ていた。ところが、依然として弟の死が頭にこびりついて離れなかった。と突然駄々をこねていた子供が車道に飛び出した。前方からは大型の乗用車が接近して来ていた。

「危ない」

 天沢はとっさに助けたいと夢見た。反射的に飛び出すと子供を抱えて反対の歩道側に転がった。乗用車は急ブレーキをかけたが二、三メートル先まで行って止まった。危ないところだった。危機一髪で子供は助かった。子供を抱えて天沢は立ち上がると抱っこして、向こう歩道で青ざめて立っている母親ににっこり笑って「危ないところでした」と子供を背負って反対側の歩道にホッとした表情で立っている母親に手渡した。ところがこの危機一髪の救出劇を写真に撮っていた輩がいた。その男が近づいてきて天沢は名刺をもらうと、インタビューを申し込んできたのだ。どうやらマンハッタンタイムスの記者らしい。偶然今起きた様子を記事にしたいらしい。天沢は人間としてごく当然なことをしただけとそっけなく答えたが、その日の夕刊の三面記事に天沢が身をていして子供を交通事故から救ったジャパニーズとして顔写真つきで載っていた。 

 そんなわけで小さな名誉も得た。和子も喜んでくれたし、記事を読んだ会社の者にもえらい評判になった。鼻高々だ。その上、後日救った子供の両親からグッチの最上級の手提げカバンを礼としていただいた。これも夢銀行の仕業に違いない。ザイハードに感謝せずにはいられなかった。こんなにこたえられないことが続くと死ぬ気なんてさらさらなくなってしまって毎日が楽しい。ザイハードがばら色の人生が送れます、と言っていたが間違いない。このところ天沢の幸運が続き共に満足している和子が夕飯を用意していた。

「あなたってこの頃つきまくっているわね。宝くじでも買うたら」

 とソファで寝そべってテレビを見ている天沢に言った。

「そうやな、いっちょう試してみるか」

何分、夢銀行がついている。悪い結果が出るわけがない。夕飯を済ますと、街に出ようとしたが結局、その日は宝くじを買いに行かなかった。二人でワインを飲みお喋りをして将来を語り合った。前途洋々とした未来が見えてきて幸福感に浸っていた。和子のためにも死ぬ夢を見るのも死のうと思うこともやめようと決めた。ただただ、和子とともにこのニューヨークで末永く幸せに暮らして行きたいと願う。ニューヨークに死ぬためにきたのだが、もはや死ぬ要素というか大義名分というか、死ぬための絶望や挫折がなくなってしまっていた。心はいつも快晴だった。これじゃ死ぬわけにはいかない。

 あくる日会社に出勤し得意先に行く道すがら、ミッドタウンのエンパイヤー・ステートビルの近くにタバコ屋があったので寄ってみると運良く宝くじを売っていた。タバコを買ってから、さっそく日本で年末宝くじを五万円もふんぱつして、ものの見事に惨敗したことを思い出しながら、日本でもおなじみのロトシックスを五ドルで買った。一ドルで十シートあり五ドルだと五十シート、つまり五十回引ける。一から五十一の数字を六個塗りつぶし、パソコンのような機械に自分が選んだ番号を印刷してもらって、出てきたシートを濃緑の手提げカバンにしまい込み結果が発表される次の土曜日まで夢を買ったことになる。水曜と土曜が発表の日。当たるのはわかっていた。いくら当たるか楽しみだった。しこたま金を儲けて和子をびっくりさせたい。和子の財産などあてにしていると思われたら片腹痛い。天沢は和子をおれが養ってやる、そんな気持ちでいた。和子のヒモになんかなりたくない。おれだって日本男児だ、女を一人くらい養えなくて如何する。

ニューヨークのロトシックスは日本のそれとは違い、六個数字を当てると少なくても三十ミリオン、最高額百四十五ミリオンが当たる。五十三ミリオン当てたレストランで皿洗いをしていた中年の男性はインタビューで、仕事を辞めて残り少ない人生を一緒に苦労してきた妻と豪華客船に乗って、世界中を旅し、後は田舎でのんびりと暮らしたい、と満面笑顔で答えたと言う。そんな高額は無理としてもせめて一万ドルくらい当たらないものかと、祈るような気持ちでロトシックスを買った。和子に宝くじを買ったと夕飯のとき話すと、

「きっと当たるわよ。だってあなたこのところついているから」

 今日特別に作った味噌汁をすすりながら、上目遣いにビールを飲んでいる天沢を和子は見ていた。

「ようはなんぼ当たるかだよ」

「もう当たった気でいるわね」

 案の定和子が怪訝な顔をした。ビールの入ったコップをテーブルの上に置くとあわてて、手で口の泡を拭い、

「いやなんとなく、そうなればええなと思うたんで、ついつい……」

「そうよね。そんなのわからへんものね」

 まったく冷や汗が出る。待ちに待ったロトシックス当選発表の土曜日がきた。毎日時刻は決まったように進んでいるが、この二、三日は特に長く感じた。それほど待ち遠しかった。午後一時と、午後四時パソコンを開けて、当選番号を見るがまだ発表されていない。始めて買ったので何時に発表か皆目分からない。それ以降もいらいらしながらパソコンを見るが、なかなか発表されない。発表の日と知ってか知らずか和子は夕食の食器のあと片付けに余念がなかった。夕刻七時、パソコンを開けて見ると当選ナンバーが発表されていた。天沢はカバンにしまっていたシートを出すと念入りにチェックした。

 思っていた通り、五個の数字がマッチしていたのがひとつあった。賞金は十万ドル。日本円にして千二百万円程度。売上金額から賞金が決まるのでこの金額が多いか少ないかわからない。でも、たいした金だ。嬉しくたまらない。

「やったー」

 大きな声で気勢を上げると、夕飯の片付けに精を出していた和子がびっくりして振り返り天沢を見た。

「十万ドル当たった」

 その声に和子が駆け寄ってきてパソコンを覗き、それから素っ頓狂なわけのわからぬ奇声を発して天沢に抱きつき、押し倒し覆い被さってキスの雨を降らす。

「半分は税金として取られるわ」

 恨めしそうに和子は言う。

「そんなに取られるのか」

 天沢は合点のいかない顔をして和子を見た。一瞬不満が天沢の身体にすきま風のように走った。

「そうよ。私の知っている人が一度当たったのよね、そのとき州税に市税、連邦税二十八パーセント取られたので、手元に半分しか残らなかったって言うていた」

 和子が当たったシートを手に残念そうに呟く。

「それでも五万ドルあるやん、それで十分や」

 五万ドルと言えば、日本円にして六百万円ほどだ。

「それもそうね」

 天沢はあまりにも簡単に夢が次々と叶い、幸運が続くので、いささか不安になってきていたことも確かだった。

「それにこれくらいの金額が当たるとアメリカの永住権が貰えるかも知れへん」

「なんでやねん」

「その金を持って国外に出られたらアメリカは損害を受ける。そのためにもアメリカに住んで貰わなくてはならへんから」

「なるほど。そんな特典も付いているのか」

「でもこの額じゃ微妙なところね」

 天沢はすでにザイハードがグリーンカードの手続きをして当たるように手を回していることなど和子は知らない。どっちにしろ天沢はアメリカに永住権はある。人間という動物は幸運が続いたら続いたで、次は不幸が襲って来るのじゃないかと、不安になる生き物だ。天沢だって例外ではない。いくら夢銀行がついているからと言っても、もし夢銀行が強盗犯やテロリストに爆破されたらどうなるのか、と日頃考えなくていいことまで考えてしまい、心配する日が続く。だからって日本にいたときのように、悲しみの海におぼれた悲惨な生活なんて二度とごめんだ。

 それにこのところ、精神安定剤のお世話にならなくてもよく眠れる。住友鉛筆を辞めた頃精神病患者の手記を読んだのだが、結婚すると精神病が治るらしいと書いてあったのを思い出した。どうやら、セックスすることが精神安定剤を飲むよりよく効くらしい。みんながみんな効くわけではないが、天沢にとってはセックスが精神のモヤモヤやイライラ、それにストレスを発散させ睡眠薬の働きもしているようだった。天沢には効果てきめんということだ。しかしまったくいいこと尽くめの日々にいささか天沢も恐れを抱き始めていた。


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