薔薇の秘密 Why are you Romeo?
「死なんて、誰にでも起こりうる単純な悲劇だよ」
二階への階段を上がり、バーの扉を開いたとたんに傲岸な男の声が響く。
虚を突かれて店の奥を伺えば、カウンターに一組の男女が座っていた。
テーブルの上には今見てきたのだろう芝居のパンフレットが置かれている。
『ロミオとジュリエット』
どうやら、男はシェイクスピアの書いた古典的な恋愛悲劇は好みでないらしい。
僕は出た来たスタッフにいいよと手を振り、自分で上着を脱いでコートハンガーに掛けた。
店の隅のテーブルに陣取った常連に軽く頭を下げる。ロマンスグレーの初老の紳士は薄い笑みを浮かべた。
僕は空いている席に体を滑りこませた。
天下のシェイクスピアを単純と言った男の横に座っている二つ隣の席。男と話している女性の隣だ。
「sub rosa」
僕は扉の上に飾られたガラスケースの中の赤い薔薇を指さした。
薔薇の下を潜って客は店を訪れる。
古いローマの風習。天上につるされた薔薇の下での会話はよそでは口外してはならない。
バーマンも同じだ。酒で軽くなった客の秘密を誰にも話さない。
店名にもなっているそれはマスターの手で毎日変えられるそうだ。
満開の花に蕾がふたつ。
「珍しいですね」
シャンパンを取り出すチーフバーマンが言った。
「たまにはね」
隣の女性がちらりとこちらを見た。僕はにこりと笑いかけたが、相手はすぐに目をそらした。
愛想のかけらもない態度だが、仕方ない。
僕は、端麗な横顔見せる彼女からバーマンに視線を移す。
『スブ・ロサ』は単純だ。
薔薇のジャムにシャンパンを注ぐだけ。
このジャムは、ガラスケースの中の薔薇で作られている。
「フルートにしますか?クープにしますか?」
バーマンが尋ねるのに「フルート」と応じると彼は心得たと頷く。
細長いグラスの底にそっと薔薇のジャムが落とされて、シャンパンが静かに注がれる。
口開けのコッ、コッ、という音が耳から喉を通り、ごくりと小さく喉が鳴る。
たまらない一瞬。
「どうぞ」
差し出されたグラスをすぐには手にせず、しばし眺めた。
赤い薔薇が沈んだグラスの底から、シャンパンの泡が繊細な線を描いて天へと立ち登ってくる。
まず、一口。
グラスを揺らさないようにして喉を潤せば、淡い薔薇の香りが口に広がる。けれども味はシャンパンだけ。
飲み進めるうちに薔薇の香りと甘みが際立ってくる。
「じゃあ、あなたの言う悲劇ってなにかしら」
女性が隣の男にやや挑発的に問いかける。
「葛藤だよ」
男は自信ありげに断言する。
「ハムレットの葛藤、マクベスの葛藤、リア王の葛藤。それこそが悲劇の本質さ」
男の声は断定的で反発したくなるが、その意見は一理あると思った。
「敵対する家同士という葛藤はあるわ」
女性はグラスの氷をカラリと鳴らした。ショットグラスだ。カクテルじゃない。
「家を捨てればいい。事実、二人はそうしている。言わせてもらえばこの話は恋に浮かれた若者が起こした喜劇だね」
若者をヴァカモノと発音して男は言った。
「知り合いが都合が悪くなったと、チケットを押し付けられたんだが、演出もお粗末で見ていられなかったね」
男はそういうと、声を低めた。
「でも、君のような人に出会えたのだから、100パーセントの無駄にはならなかった」
男の顔はまあまあ整っている。いわゆるイケメンというやつだ。
「お代わりをお願い」
口説きに移行し始めた男を無視するように女性がグラスを上げた。
なかなか豪胆な仕草である。
僕は薔薇のジャムが口に入らないようにして『スブ・ロサ』を干した。
グラスを置いたとたん、横からシャンパングラスとテーブルに置かれたロングスプーンが浚われた。
「ん、少し箸休め」
浚ったロングスプーンで彼女はシャンパンを含んだジャムを掬って口に入れる。
「箸休めは食事の時に使う言葉だろう?」
あきれた風に僕が言えば、細かいことはよいでしょ、と軽く睨まれる。
「彼氏がいたのか」
彼女の隣の男が呟いた。
「彼氏、ではないわね。たまにここで会って話をするだけだから」
男がほっとした表情を見せた。
「幼馴染、ではあるけれど」
男の表情がまた変わる。この小悪魔!と僕と同じように心の中で罵っているに違いない。
「次は何にしますか」
バーマンが表情を変えずに僕に聞いてきた。
「なにかさっぱりしたものがいいな。……ジントニックで」
「承りました」
彼女は薔薇のジャムを食べ終わると、ゆっくりと話し出す。
「ロミオとジュリエットは確かに多分に喜劇的。シェイクスピアが喜劇を書いていた時期と重なるからと言われているけれど」
謎めくような微笑に釣り込まれそうになる。
「喜劇を書いていたその時期。他にも種本になる話はあったでしょう。その中から彼は何故この話をチョイスしたのか?私はどうしても当時の世相を考えてしまうの」
「エリザベス一世時代はイギリスの繁栄を礎を築いた時代だろ。スペイン艦隊、アルマダに勝利して制海権を手入れた」
男が歴史の知識を披露する。
「そうね。けれど、スペインが十字軍としてイギリスに戦いを挑んだことを知ってる人は少ない」
彼女の言う通り、当時のスペインはカトリックの盟主と自認していたフェリペ2世の時代だ。フェリペ2世はエリザベス1世の姉で前イギリス女王、メアリーと婚姻して共同統治者になっていた。
エリザベス一世の姉、メアリー女王はカトリックだった。
そもそもイギリスがプロテスタントを国教としたのは、メアリー女王とエリザベス1世の父であるヘンリー8世が離婚をしたいがため。カトリックでは離婚は許されていないからだ。
「当時のイギリスはカトリックとプロテスタントが争い、王の意向によって国の押す宗派が目まぐるしく変わった時代。そしてシェイクスピアの父母はカトリックだっだと言われている」
僕は思わず口に出した。男の面白くなさそうな顔が彼女の向こうに見えた。反対に彼女はよくできましたと笑う。
「私はロミオとジュリエットで作者が言いたいのは、ロミオ様、ロミオ様の後の科白だと思うのよ。薔薇はその名を変えても同じように香る」
彼女が科白を口にすると男は流暢な英語で言い出した。
「What’s in a name? that which we call a rose. By any other name would smell as sweet」
こいつ、ロミオとジュリエットは嫌いじゃなかったのか?
「ご名答。薔薇を神に変更したら、たとえ、宗派の名前が違っても、神が神であることには変わりはない」
私は世界中の神様が好きだから、余計にそう思ってしまうのかも、と彼女は付け足す。
「しかし、ロミオもジュリエットも死んでしまうけれど?しかも禁忌の自殺だ」
男は皮肉気に言った。
それは確かに哀れなことだった。
「元になっているのが、古代のギリシャだからね。不名誉ではないさ」
もう一ど僕は口を挟んだ。
「天国はひとつ。そして二人は両家に平和をもたらす殉教者になり、黄金の像が立てられる」
「なるほどね」
初めて男が僕をまともに見た。逸らしたいのをぐっと我慢する。
「なかなか面白い解釈だった。さて、俺はそろそろ退散するかな」
男は財布から一万円札を一枚取ると男はバーマンに渡した。
「彼女と俺の二人分で」
「あら、ごちそうさま」
彼女は悪びれずに礼を言った。
スツールから降りて、男は帰り仕度を始める。立つと背の高さがよく解った。
「明日は早いんでね。また会えるかな?」
「タイミングが合えばね」
彼女はそういうとバーテンへと顔を向けて言った。
「次はブラッディ・マリーを」
見送るつもりはないらしい。
男は苦笑をすると薔薇の下をくぐって下界へと出て行った。
「ロミジュリは四大悲劇じゃないよね。オセローを外したのはどうしてだろう」
僕は扉の閉まる音を聞いてから疑問を口にした。
「恋愛についての悲劇だからでしょうね」
「それにしても、あいつ、ロミオとジュリエットの科白を諳んじてたね。しかも英語で」
「だって、彼、役者だもの。どこかの芝居で見たことがあるわ。ちらほらTVにも出ているわよ」
どおりで様子のいい男だと思った。
そして彼とはまた会うだろうと確信する。
ジントニックを一口飲んだ。
「ロミジュリの大元のギリシアの話は、お隣同士の幼馴染なのよね」
とつぶやく彼女のバラ色の唇を眺めながら。
引用:ウィリアム・シェイクスピア『Romeo and Juliet ロミオとジュリエット』より