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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

皇帝陛下の寵妃

皇帝陛下の最期の寵妃

作者: 三里志野

短編に挑戦したくて書きました。

よろしくお願いします。

 その年老いた男は骨と皮だけという表現が相応しい程に痩せて、大きな寝台の中に埋もれていた。頭髪も薄く、男を余計に貧相に見せていた。

 男が死の床にあることは、言われずともノエルにも理解できた。ただ、男の寝所は天蓋付きの寝台も他の内装もあまりに豪奢で、饐えた匂いがしていなければ死に往く者の居場所にはとても見えなかった。


 ノエルは昔、故郷の町で男を一度だけ見たことがあった。その時は煌びやかな甲冑を纏って馬に乗っていたこともあり、男はたいそう大きく見えたものだった。

 もっとも、その頃はノエルもまだ7、8歳だった。ノエルと手を繋ぎ、それが誰かを教えてくれた祖父も一昨年亡くなった。祖父よりずっと若々しかった男が実際には祖父より歳上だったと、ノエルが知ったのはつい最近のことだ。

 まさか、こんな形で再びこの男の姿を見ることになるとは、想像もしていなかった。


「我が君、我が君が後宮に新しく部屋を与えた者にございます。今宵の伽はこの者が務めます」


 寝台の脇に膝をついた宦官が「我が君」、すなわち彼の主であるアーリン帝国皇帝オズワルド四世の耳元で言った。

 少しの間があって、ノエルが眠っているものだと思っていた皇帝の唇がゆっくりと動いた。それをジッと見つめていた宦官が、ノエルを振り返り、傍に寄るよう促した。ノエルが近づくと、宦官は場所を開けるように立ち上がり、後ろに退がった。

 本来なら、皇帝の前ではその許しがあるまでは床に蹲るようにして待たねばならない。だが、ノエルは宦官と同じように寝台の脇に膝をついて、皇帝の方へと身を屈めた。そうしなければもはや会話がままならないと、宦官から事前に聞かされていた。


「ノエルと申します。陛下のご厚情を賜わり、深く感謝いたします」


 最初に口にすべき言葉も宦官に教わった。姓は名乗らない。後宮に入ると同時にそれは捨てねばならなかった。

 この後宮ではどこでどんな身分に生まれたかなど関係ない。姫君だろうと奴隷だろうと、皆等しく皇帝の女であり、その寵を競い合うのみ。もとは妃の侍女だったとしても、一度でも皇帝の伽の相手を務めれば、そこに加われる。

 もちろん、それが建前であることくらい、ノエルにもわかっていた。例え姓を名乗らなくとも、新しく後宮入りしたノエルがどこから来たかなど、皇帝の妃たちは知っていた。後宮内には厳然とした順位が存在し、それが高いほど取り巻きも外部への伝手も多かった。

 だが、すでにこの後宮において競い合うべき寵などなかった。だから、ノエルの初めての伽は何の妨害も受けることはなかった。


「参れ」


 注意を向けていなければ聞き取れなかったであろう乾いた声がした。

 ノエルは皇帝に向かい簡単に礼をすると、寝台に入った。


「もっと近う」


 促され、ノエルは思い切って皇帝の身体に触れる位置まで移動した。初めて皇帝の瞼が開き、その濁った瞳がノエルに向けられた。


「余の最後の妃か。憐れな娘だ」


 それを口にしただけで、皇帝は苦しそうだった。


「皇帝陛下の妃になるのに、なぜ憐れなどということがございましょうか」


 ノエルが言うと、皇帝の口角がわずかに上がったように見えた。


「皇帝と初めて閨を共にするのに、肝の座った娘だ。すでにそなたの行く末は変わらぬ。一晩だけ我慢せよ」


 皇帝は自嘲するように言って、目を閉じた。この男こそ憐れだとノエルは思い、だから皇帝の身体にそっと両の腕を回した。痩せた身体は直接骨を感じるようで、体温も低く、正直、気持ち悪かった。

 皇帝はわずかに身じろぎしたが、それだけだった。ノエルも目を閉じた。



  ◆◆◆◆◆



 ノエルの故郷はアーリン帝国のはずれにあるカーサ領で、父ローマン・オルグレンはそこを治める領主だった。

 国境に接するカーサ領には帝国守備軍が常時駐留していた。守備軍の兵士たちはカーサに根ざしており、軍団長の嫡子である3歳上のラルフ・スタンリーはノエルの幼馴染で、初恋の相手でもあった。


 ノエルとラルフが婚約を交わした矢先のこと。

 突然、隣のミルガン王国が国境を侵した。元々鉱山を有するカーサ周辺はアーリンとミルガン両国が奪い合い、交互に支配してきた歴史があった。

 ラルフの父が率いる守備軍が足止めしている間に皇都からの援軍が駆けつけ、逆に国境をミルガン側に押し込む形で戦は終わった。


 カーサは戦勝に沸いた。ローマンは領都において守備軍と中央軍とを労う祝宴を開いた。ノエルもその手伝いに駆り出された。

 途中、ラルフと顔を合わせた。ラルフに「やっとノエルと結婚できる」と囁かれ、ノエルも顔を綻ばせた。




 その翌日、ノエルは父に呼ばれ、屋敷の中にある父の執務室に行った。父は苦い物でも食べてしまったような顔をしていた。


「おまえを皇帝陛下の妃として宮殿に迎えると、司令官様が仰っておいでだ」


 援軍の司令官は皇帝陛下の皇子だった。つまり、それは拒否することなど許されぬ、中央からの命令に等しかった。

 二国の境にある不安定なカーサ領をアーリン帝国側に置いておくための人質に自分がなるのだと、ノエルは理解した。


「司令官様におまえの顔を見られていなければ他の娘を身代わりにすることもできたが。おまえを宴の場に近づけるのではなかった」


 宴中、ノエルは酒や食べ物を運んで何度か父のいた天幕の下にも行き、そこにいた司令官には領主の娘として挨拶をしていた。ただ、皇子の顔を直に見てはおらず、遠目でチラとだけ見た姿は、昔見た皇帝とどこか重なった。


「お父様、私はカーサ領主の娘です。カーサのために、宮殿に参ります」


 娘の言葉に、父は哀しそうに「すまない」と呟いた。


 ノエルの後宮入りを聞き、母や妹は嘆き悲しんだ。兄も口惜しそうに顔を歪めた。だが、断れないことは皆知っていた。


 ラルフだけが納得せず、一緒に逃げようとまで言ってくれたが、ノエルはそれに頷くわけにはいかなかった。



  ◆◆◆◆◆



 皇帝は「一晩だけ我慢せよ」と言ったはずなのに、翌夜もノエルはその寝所に呼ばれた。さらに、次の夜も。


 当然それは後宮で噂になり、中には「残り時間が少ないから新入りは大変ね」とか、「今さら寵を得てどうするつもりかしら」などと、ノエルに聞こえるよう嫌味を口にする妃もいた。

 ノエルは皇帝への不敬ともとれる言葉に驚いたが、それを咎める者はなく、後宮自体がもはや主の死を待ちわびているように感じられた。


 昼間、ノエルは噴水の周りに木々が植えられ季節の花が咲く中庭ではなく、あまり整えられていない裏庭に出た。ノエルが与えられた部屋は後宮の一番奥の隅にあるので裏庭の方が近かったが、中庭には多くの妃たちが集うので色々と煩わしいことが一番の理由だった。

 裏庭ならばノエルはのんびりできた。ノエルに付けられた侍女はそばに控えているものの、邪魔をすることはない。彼女に運んで来てもらった敷物を木陰に広げ、ノエルは昼食も含め長い時間をそこで過ごした。




 4日続けてノエルが皇帝の寝所で朝を迎えた日、裏庭に男が現れた。

 後宮に足を踏み入れることができる男は皇帝の他は宦官だけのはずだが、その男は宦官には見えなかった。どちらかと言えば、その体つきは武人のようだ。歳はノエルより10は上だろうと思われた。


「おまえが陛下の最後の妃か」


 男はジロジロと不躾な視線をノエルに向けた。ノエルが負けじと男を見つめ返すと、男はにやりと笑った。


「寵妃に相応しい可憐な見た目のくせに、気は強そうだな。死にかけにはもったいない」


 男の言葉にノエルは思わず顔を顰めた。


「なぜここにいる方々は皆陛下をすでに亡くなったも同然に言われるのですか。まだ陛下は生きていらっしゃるのに」


「おまえは、陛下が死んだら自分がどうなるかわかっているのか?」


「宮殿を出されるのでしょう」


 後宮の主が代われば、そこにいる妃も全て入れ替えられる。唯一残ることができるのは、新しい主の生母のみ。ノエルは後宮に入ってすぐ、それを聞かされていた。


 男は目を眇めてノエルを見た。


「おまえは故郷に帰れると単純に考えているのだろうが、ここに来る前とはまったく違うぞ。皇帝の未亡人だからな。実家のお荷物になるか、もしくは物好きな男の後妻か妾がいいところだ」


「もちろんわかっています」


 皇帝が死んでも、もはやノエルはラルフの妻にはなれない。それどころか故郷に帰れば、彼の隣に別の女性が並ぶ姿を見なければならないかもしれない。それを思えばノエルの胸はジクジクと痛んだ。


「それでも、おまえは行くあてがあるのだからまだましだ。路頭に迷いかねない者も少なくないし、皇子を産んだ妃など、下手をすれば親子ともども命の危険さえあるのだ。なのに、皇帝が死ぬまで何もせずにジッとしている馬鹿がどこにいる」


 それはおそらく妃だけの話ではないだろう。後宮の侍女や宦官も、表の官吏たちだって、皇帝が代替わりすれば何らかの影響を受けるに違いない。


「なるほど。現在の宮殿でのんびりピクニックごっこをしている私の方が異物なのですね」


「そうだ」


「だとしても、私にはすべきことなどありません。ですから、ただ最期まで誠実に陛下にお仕えするだけです」


「好きにすればいい」


 そう言うと、男は裏庭から立ち去った。




 2日後に男は再び裏庭に現れ、それからは数日おきにやって来るようになった。

 いつの間にかノエルの隣に当然のように座り込み、侍女がノエルのために用意してくれた菓子や飲み物を勝手に口にしている。


「あなたも暇なのですね」


「暇ではない。わずかな時間の息抜きだ」


「それは失礼いたしました」


 だとしても、この男がなぜわざわざ後宮の裏庭で休憩を取るのか、ノエルにはわからなかった。おやつが目当てだろうか。


「ひとつ、お訊きしてもよろしいですか?」


「何だ?」


「私は人質として後宮に上がることになったのだと思っておりました。ですが、すぐにここを出されるのなら、人質ではなかったのでしょうか?」


 それは、皇帝が死を間近にしていると知った時からの疑問だった。


「この国は人質を取るくらいなら、武力で押さえる方を選ぶ。おまえは一皇子から皇帝への単なる旅の土産物だ」


「土産物」


「そんなたいそうな役割ではなく残念だったな」


「いいえ」


 ノエルは静かに首を振った。

 確かに、領主の娘として気負って後宮入りした少し前の自分を思うと虚しくなる。しかし、人質だろうと土産だろうと、結果は同じことだった。




 毎夜、ノエルは皇帝の寝所に呼ばれ続けた。皇帝は短い言葉を口にすることもあったし、眠ったままのこともあった。

 徐々に皇帝の死が近づいているのは間違いなく、ノエルはある朝起きたら自分の腕の中で皇帝が冷たくなっている、ということも覚悟した。


 だが、その時は別の形で訪れた。

 ある日の昼下がり、いつものようにノエルが裏庭で過ごしていると、毎晩顔を合わせてきた宦官が駆け込んで来て、皇帝の危篤を知らせた。


 ノエルが急いで皇帝の寝所に向かうと、数人の妃が寝台の傍に膝をついていた。ノエルもそれを真似て、皇帝の足元近くの床に膝をついた。

 ノエルの後から続々と妃や、官吏と思しき男たちが寝所に集まって来た。ノエルの隣に膝をついた妃は、ノエルに気づくと訝しむ顔をした。

 皇帝の枕元には、この後宮でもっとも順位の高い妃の姿があった。その隣では例の宦官が皇帝の最期の言葉を聞こうと、耳をその口元に近づけていた。やがて宦官は身を起こすと、まっすぐにノエルを見た。


「ノエル様、こちらへ」


 周囲の視線を痛い程に感じながら、皇帝の枕元に空けられたわずかな隙間にノエルは改めて膝をついた。

 掛け布団から出ている皇帝の骨ばった手を、ノエルは両手で包み込んだ。皇帝の唇がわずかに動いたが、言葉が紡がれることはなく、やがて皇帝は静かに呼吸を止めた。

 ノエルの周囲で一斉に妃や宦官たちが声をあげて泣き出した。だが、ノエルはただ皇帝の死顔を見つめていた。


 その時、突如寝台の向こう側で明朗とした男の声が叫んだ。


「我らが新皇帝セオドリック三世陛下に心よりの忠誠をお誓いいたします」


 まったくこの場にそぐわないはずのその言葉は、だがあっという間に部屋の中にいた男たちによって繰り返された。さらには宦官と妃たちまでもが口にして、大きなうねりのように死んだ皇帝の寝所を満たした。

 その中で、ノエルは寝台の向こう、皇帝を挟んで自分の真正面の位置にその言葉を受け取る人物が立っていたことに初めて気がついた。

 ノエルはゆっくりと顔を上げ、その人の顔を見つめた。それを待っていたかのように、新皇帝は目を眇め、ノエルに向かって笑みを浮かべた。




 後宮に暮らす妃たちに対し、3日以内に退去するよう通達が出された。新皇帝の生母はすでに亡く、全ての妃が等しく宮殿を追い出されることになった。それでも、すでにこの時を待っていた後宮に大した混乱は起こらなかった。


 夜になって、あの宦官がノエルの部屋にやって来た。彼の後からふたりの宦官が大きな箱を運び込んだ。蓋を開けてみると、中には宝石や金貨、絹織物などがぎっしりと詰まっていた。


「我が君はあなた様にとても感謝しておりました。おかげで最期の時を穏やかに過ごすことができた、これでは到底足りぬが礼として受け取ってほしい、と」


「私は、陛下に感謝されるようなことは何もしていないのに」


 皇帝の死の瞬間には乾いていたノエルの目から、涙が堰を切ったように溢れ出た。もう、あの老いた皇帝の伽をすることはないのだと、今になって思った。


「ただ、偶然、陛下の最期の妃になってしまっただけで」


「これも巡り合わせ、あるいはあなた様の運なのでございましょう」


 そう言いながら、宦官は書状をノエルに差し出した。ノエルはそれを受け取り、涙を拭ってから目を通した。

 読み終わると、ノエルは小さく嘆息して口を開いた。


「承知しましたと、お伝えして」


「畏まりました」


 宦官は一礼し、部屋を出て行きかけて、振り向いた。


「ノエル様、私はグレンと申します。今後、何かございましたら私をお呼びくださいませ」


 グレンは改めて礼をすると、今度こそ去っていった。

 グレンが今さら名乗った理由、そして、皇帝の最期の時にその寝所に入れなくてもおかしくなかった最下位の妃が、手を取って看取ることになった意味を、ノエルはしばらく考えた。




 新皇帝セオドリック三世が書状のとおりにノエルの部屋を訪れたのは、翌々日の夜だった。

 数日おきに裏庭で顔を合わせ、会話を交わしていた相手に正式な礼をとるべきか、ノエルがしばし迷っている内にセオドリックは口を開いた。


「おまえは、驚かなかったな。俺が誰かを知っていたのか?」


「本来なら後宮に入ることのできる男性は陛下と宦官だけ。ですが、すでに皆が陛下亡き後のことを考えている今なら、もう一人だけ、見逃される方がいるのではないかと考えたのです」


 それはつまり、次の後宮の主だ。


「聡いな。たった一月足らずの妃で終わらせるのはやはり惜しい」


 セオドリックがノエルの腕を掴んで引き寄せた。ノエルは抗えぬまま、セオドリックの腕の中に絡め取られていた。それはノエルが生まれて初めて知る男の力強さだった。

 前陛下が亡くなったばかりだとか、ノエルはその妃でセオドリックは息子だとか、拒む理由はいくらでもあるはずだが、ノエルの口からは出てこなかった。


「それだけで終わらせるつもりなどなかったのでございましょう? だから忙しいと言いながら私に会いにいらしていたのですよね」


 セオドリックはフンと笑った。


「自惚れるなと言いたいところだが、そのとおりだ。初めは噂の寵妃を見るだけのつもりだったが、気づいたら欲しくなっていた。その場で貰っても良かったが、陛下に最後まで誠実に仕えたいというおまえの気持ちを尊重してやったんだ」


 セオドリックの手のひらがノエルの頬に触れた。やはりその手は剣を握る者の手だった。自分を見下ろす男の熱の籠った瞳から、ノエルは目を逸らせなかった。


「2日も猶予を与えた。今、俺の腕の中にいるおまえには、もはや拒む権利はない。前皇帝の最期の寵妃は、今夜から新皇帝の最初の寵妃だ」


 男が「最初で最後の」とは口にしなかったので、むしろノエルには信頼できた。

 裏庭でこの男と並んで菓子を食べていた頃から、おそらくノエルの中にも予感はあった。自分はすぐには後宮を出て行けないだろう、と。


「我が皇帝セオドリック三世陛下に心よりの忠誠をお誓いいたします」


 セオドリックは小さく笑んでから、新しい妃に荒々しい口づけを落とした。

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