明日の黒板
ドクン、ドクン。
そう、俺……夏男の心臓が鳴る。両隣の男子に聞かれそうなくらい、心臓が鳴る。
現在、卒業式が執り行われている。
だが、卒業式の先生たちの挨拶や、お偉いさんの話など、耳に入ってこない。
それ位緊張しているのだ。しかし、卒業式に対して緊張しているわけではない。
俺が緊張している理由…それは、卒業式の後の事についてだ。
俺、夏男は卒業式が終わったら、幼なじみの春子に告白する。
心の中では、ここひと月の間、考えに考え抜いた告白の言葉を繰り返している。
卒業式の直後という、人生の中でもきりの良いタイミングでの告白……
そのために、考え抜いた文章を。繰り返し、繰り返し暗唱する。
だが、流石に気を張りつめすぎた。ふぅと息を吐く。
そして俺は、ちらりと右に三席挟んだ場所に座る春子の横顔を見る。
凛々しさと、可愛らしさが調和をとったその顔立ちに、一瞬見惚れるが、長く見ているとさすがに変なので、すぐに前を向く。
思えば、春子とは長い付き合いだ。
家が隣同士な俺達は、幼稚園の頃から一緒に遊んでいた。
流石にそのころの記憶はかすれてしまっているが、小学校高学年からの記憶ははっきりとしている。
その頃の春子は、運動が苦手で、気が弱く、泣き虫で。でも、負けず嫌いなところもあって……俺が、守ってやらなきゃ。そう思っていた。
だから、中学校に上がって、彼女が運動部。しかも、厳しい剣道部に入ったのには驚いた。
彼女曰く。
「私ね、春が好きなの。名前にも入っているし、暖かくて、とっても気持ちのいい季節。それに……始まりの、季節だから。でも、今のままの私じゃ、何も始められない。名前負けしちゃってる。だから……自分を、鍛えるんだ。何かを始められるように。名前負け、しないように」
……らしい。正直、よくわからない理屈だとは思ったが、負けず嫌いな彼女らしいとも思った。
それから、彼女はどんどん成長していった。
ちょっとやそっとの事では泣かなくなった。
体育なの授業で、トップをとることが多くなった。
気も少し、強くなった気がする。
どんどん成長していって……俺は、守る必要がなくなったように感じた。
「守る」必要がなくなった後、俺が彼女に抱いた感情。
それが、「恋心」だ。
彼女を庇護の対象ではなく、同格と見た時に……俺は、今まで見付けられなかった彼女の良さに気が付いた。
彼女の、気が強くなっても、いざという時に見せるふとした弱さ。
花が好きで、花壇の近くで佇む姿。
段々と凛々しく成長していく姿。
そして、その驚きや新鮮さが、恋心に変わるのにそう時間はかからなかった。
だが、この気持ちを言い出すには……親しく、近くにいすぎた。
親しいからこそ、この関係が壊れるのが怖くて、言い出せない。
そしてずるずると恋心を引きずり、卒業式となった。
この、気持ちを伝える機会は今回を逃せば二度とないかもしれない。
だから、俺は……
卒業式後の、昼下がり。誰もいなくなった教室に、俺と春子はいた。
俺が、引き留めたのだ。大切な、本当に大切な話があるから、残ってほしいと。
「えっと、な。卒業式、お疲れ様」
「うん、お疲れ様。先生達の話、長かったね……」
「ああ、長かったな……」
一瞬、だが、どこまでも長く感じる無言の時間が出来る。
「で、話しって?」
「ああ。実はな……」
俺は、深く息を吸い、吐いて……そして、意を決し。何十回と心の中で繰り返した言葉を伝える。
「俺達、めっちゃ長い付き合いだよな」
「うん、確か……幼稚園のころからだよね」
「ああ、で、な。お前が変わろうとした時の話、覚えてるか」
「え?うん。私が……」
「名前負けしないよう、変わりたい。そう言ったよな。実はな、あの言葉、結構胸に残ってるんだ。名前の季節に、負けないようにって言葉……俺も、名前に季節が入ってるからな」
「うん、そうだね」
「夏は、カラッと天気が良くて、春に生まれた生命力が燃え盛る季節。そして……行動の、季節だと思う。俺も、名前負けしたくない。今、俺がお前に抱いてる気持ちを伝えたい」
――――――好きだ!
俺は、心の底からの気持ちを、一言に乗せて春子にぶつけた。
「……ご、めん」
春子は、震える声で、そう返した。
「ごめん、なさい……貴方の気持ちは、とっても嬉しいよ。とっても、とっても嬉しい。でも、ね。私……親の転勤で、イタリアに行くの」
「………え」
「だから……だから…ッ!ごめんなさい!」
そう言って、立ち去る彼女を、俺は、呆然と見送った。
それから、どうやって家に帰ったかは覚えていない。
気が付けば、ベッドに寝転び、天井を見上げていた。
「そっかぁ……イタリアかぁ……」
イタリア。遠距離恋愛するには、遠すぎる場所だ。
だけど……
「ゴメンナサイって言われて……消えるほど弱い気持ちじゃねぇっての……ッ!」
ああ、どうしようか。この消えぬ恋心。
どうにかして形にしてやりたい。でなければ、この感情が……あまりにも、浮かばれない。
俺は意を決し、ブーツを履いて……誰もいない、夜の校舎に忍び込んでいた。
俺は気がつかなかったが、夜に出掛ける俺を、隣の家の窓から見下ろす影があった。
夜の校舎、三年間を過ごした場所に忍び込み、三年の教室へと入る。
そして、俺は白とピンクのチョークを手に取り、黒板に絵を描き始めた。
これでも、授業の美術ではトップだったのだ。
描く絵は、桜の木と、向日葵の絵。春子の「春」の象徴の桜の木と、俺の名前の「夏」の象徴の向日葵を、同時に黒板に描く。
これで、俺の恋心を表現する。
たっぷり数時間かけて、絵は完成した。
我ながら、自信作だと思う。これで、やっと恋心が少しは報われるかもしれない。
俺は、教室をあとにした。
そして、翌日。朝日が上る頃、目を覚ました俺は、昨日、教室にスマホを忘れたことに気がついた。告白が失敗したショックと、昨日の絵を描いた達成感で忘れていた。
なんとも奇妙な気分だか、誰かが校舎に来る前にもう一度忍び込んで、持ってこよう。
そう考え、再び校舎に向かう。
そして、三年の教室で、俺が見たものは...
教壇に置いてある俺のスマホと、誰かの制服のボタン。
そして、桜の木の絵。その幹の部分に描いてある、相合い傘。そして、その下には...
「なんだ、お前も昨日、来てたのかよ」
俺と、春子の名前が書かれていた。
桜の木と、向日葵の絵が朝日に照らされる。
気がつけば、涙がこぼれていた。
そして、校舎を出て、空を見上げれば。
飛行機が、空を飛んでいた。
昨日の今日で、彼女が乗ってるはずはないのだけど、なんだか、春子と、彼女への思いが飛んでいくような。そんな気がした。
「さようなら。春子。俺の、恋心」
こんな青春を送りたかった。