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闇が揺らいでいる

作者: 辻端耕太郎

 都心近くに住んでいても、1時間くらい電車で移動すれば、郊外に出てしまえる。

 さらに30分も乗っていれば、窓からの風景は、色合いの悪いまだら模様になってくる。灰色が基調のコンクリのモザイクの中に、時折混じっているシミのような木々の緑色。

 更に都心から遠ざかると、次第にその灰と緑の比率が逆転していくのだが、そこまで行くと帰りが大変になるので、俺は山がちな地形の中にやや古い住宅地を擁する小さな町の駅で下車した。

 もう夕方近いので、じきに日が暮れるだろう。その前に、さっき電車の窓から見かけた雑木林にたどり着かなければならない。だが正確な道のりは分からなかったので、なるべく線路沿いの道を選びながら、おおよその方向を目指すことにした。

 駅前にこそいくらか商店が立ち並んでいたものの、少し歩けばもう、古い住宅と空き地が目立つ区域に差し掛かった。更に行くと、むき出しの斜面に寄りかかるようにして木々が生えている土手と土手の間を、抜けていく坂道に行き当たった。このまま道なりに行けば、線路から大分離れてしまうだろう。だが、あの雑木林を目指すならこの方向でいいはずだ。 

 しかし、不案内なこの土地で、いかにも危なげなこの道をこれ以上行くのは、何となく気が引けた。辺りがいよいよ薄暗くなっていく中、行くか引くかの迷いと、どちらにせよ早く決めねばという焦燥感が同時に押し寄せて来た。こんなに不安定な気持ちになったのは久しぶりだった。

 ……結局俺は、その坂を上ることにした。その意思決定のプロセスは決して勇断ではなく、むしろ「今さら後に引くことはできない」という女々しい思考が先行した故のものであろう。迫る闇の気配がもたらす焦りは、俺から正常な判断力を奪っていたのだ。

 或いは、俺という人間には始めから正常な判断力など備わっていなかったのかもしれない。自己の判断が正常でないという自覚を持ちながらも、今こうして訳が分からないまま(?)見知らぬ土地を彷徨っているのは、そのせいなのだろうか。

 そうだ、そもそも“正常”とは何なのか。

 多数派の形成する価値観を“正しい”と断じているだけなのだとしたら、少数派にとってたまったものではあるまい。結局、数で押し切られているのだから。


 ……そんなことを考えながら歩いているうちに、坂道を登り切ってしまった。

 そして目の前には、雑木林が広がっていた。先程電車の窓から見かけた、あの雑木林にたどり着いたのだ。

 もうすっかり日は暮れている。夜でも明るい都市部に目が慣れきっているせいか、大分心細い。

 だが俺は、その心細さを無理やりどこかへ押しやって、林の中に踏み込んでいった。


 俺がこのような時間に、こんな場所にふらふらとやってきたのには、理由がある。

 否、訂正しよう。はじめから存在していたのは“理由”などという、筋の通ったものではなく、しいて言えばもっと原始的な“動機”に近い感情だけであった。


 俺はあるものを見つけるべく、ここまできたのだ。

 ―――『探すべく』ではない。『見つけるべく』だ。


 そしてそれは、きっとこの辺りに在るはずなのだ……。


 ―――ホラ、やっぱり、在った。

 俺はそれを見つけた時、自分の口元が自然と笑みの形を浮かべるのが分かった。

 見つけたぞ。これだ。この“フタ”なのだ。

 俺が今日この時間、この場所にやって来たのは、これを見つけるためだったのだ。

 林の中のむき出しの地面にポツンと、あたりの風景に似つかわしくない人工物が埋め込まれている。

 これを見つけた瞬間に、ここ数時間ばかりの俺の彷徨は、どうやら実感でいえば報われたらしかった。


 “フタ”の形状は、ちょうど路上のマンホールの上に覆いかぶさっているそれのようで、直径は30センチほどしかない。そのサイズからすると土中に設置された、水道の計器かなにかにかぶさっているものにも思えるが、こんな場所にそんなものがあるということ自体、不自然だった。

 しかし、明らかに不自然であるはずなのに、そのフタは遥か昔からそこに在るかのようにも見えた。


 俺はフタの前でしゃがみ込むと、もっとよく見てみようと、かぶっている土をかるく払ってから、その端に爪をかけてみたのだった。

 すると、コトッ、という音がして、フタはわずかに動いた。

 どうやらフタは、思ったほどしっかりとそこにはめ込まれているわけではないらしい。それで俺は、この分だと、あともういくらか手に力を込めれば、さほど苦労することなくフタは開くだろうと確信したのだった。


 ―――俺は一呼吸置いてから、指にグッと力を込めた。

 すると思った通り、フタは容易く開いたのだった。

 そして、フタの下に在ったのは、“奈落”だった。


 はじめ、俺はおそるおそる、その穴をのぞき込んだ。だが中は暗いばかりで、何も見えない。

 見えないながらも、相当深い穴であるらしい事だけは気配でわかった。

 携帯端末のライトで照らしてみても、底は見えない。

 試しに近くに落ちていた小石を放り込んでみたが、それが底に達した音は、いつまで待っても聞こえてこなかった。おかしい、そんな筈はないと思い、何度かこれを繰り返したが、結果は同じだった。まさか、底なしの穴だとでもというのだろうか?(もっとも、穴の底の地面が柔らかいせいで、音が吸収されている可能性も考えられたが)


 なぜこの場所にこんな穴があいているのか、俺は不気味に思いつつ、同時に好奇心を掻き立てられていた。

 下水道に繋がっているわけではないようだし、わざわざフタがされていたことを考えると、ボーリングの跡でもないようだった。

 さらにこの穴は、その奥の方を覗き込んで目を凝らせば凝らすほどに、底のほうで闇が揺らいでいるように見えるので、それが余計に不気味であった。

 あるいはこの感覚は単なる気のせいなどではなく、本当に遥か下の方では、得体のしれない何かが蠢いているのかもしれない—――。そんな馬鹿げた考えさえもが首をもたげてくるのだった。


 俺は尚も暫くの間、その穴を覗いていた。

 いよいよ、周囲は本格的に真っ暗になってきた。

 やがてそうしているうちに、俺はこの穴を見つけたこと自体が、何か特別で、非常に誇らしいことであるように思えて来た。

 これを発見したことを誰かに報告すれば、自分はひょっとして名声を得ることが出来るかもしれない。そんな根拠のない希望までが、どこからともなく湧いてきているのであり、一方ではそれが流石に浮かれすぎた考えであるという、冷静な認識も同時に持ち合わせているのであった。案外、ネタが割れればこの穴も、ありふれたつまらないモノなのかもしれない。


 結局のところ、俺は一度“フタ”を閉めなおして、もと来た道を引き返すことにしたのだった。

 今度は明るいうちにここにやって来て、もっと本格的にこの穴を調べてみよう。長いロープや、その先に括り付けるカメラなどを持参するのだ。

 通報や発見の報告はそれからでも遅くあるまい。どうせこんな場所までやって来て、わざわざあの“フタ”を開ける人間なんて、そうそう居はしないのだから。

 そんな風に考えながら雑木林を後にし、土手と土手の間を抜ける坂を下り、古い住宅と空き地の区域を通過して、俺は駅の前まで戻ってきた。行きに通りがかった時には開いていた商店のうち、何軒かはもうシャッターを閉めた後だった。

 さらに電車に乗り、都心に向かうにつれて窓の外の風景がだんだんと明るくなっていくのを眺めながら、俺は家に帰った。

 ――――



 あれ以来、結局俺が再びあの場所を訪れることはなかった。

 色々と忙しくなってしまったせいで、行こうと思っていた日に行けないということが何度か続いたのだが、そうこうしているうちにやがて、わざわざ電車に乗ってあの場所へ赴くのが億劫になってしまったのだ。

 

 まあ、今となってはあの穴への関心も、全くもって薄れてしまったということだ。見つけた時は、あんな場所にあのような穴があることが不思議でならなかったが、今になって冷静に考えてみれば、やはり大したものではなかったのかもしれない。第一、あれが非常に深く見えたのも単なる錯覚で、すでに周りが暗かったから見誤ったのかもしれないではないか。


 そんなわけで俺は、今の今まで、あの穴のことをすっかりと忘れていた。

 そう、たった今まで、完全にあれは意識の外にあった筈なのだ。

 それが、なぜ今になって――――。


 “フタ”だ。

 今、目の前の地面に、あの“フタ”がある。


 ―――俺は今日、家へと帰る道の途中で、通りがかった公園に何の気なしに立ち寄っただけだ。園内のベンチ近くに自販機が設置してあったことを思い出して、少し休憩していこうと思っただけなのだ。

 そうしたら、これを見つけてしまった。

 

 間違いない。あの“フタ”だ。

 デザインも、直径も、あの時見たものと同じだと一目でわかる。

 さも当たり前のようにそこに存在しているソレを見て、大抵の人は何の感想も抱かないに違いない。ただそこに、何かの“フタ”があると思うだけだろう。


 ―――だがこの時、俺の脳裏には、とある病的な考えが渦巻き始めていた。


 この“フタ”は、あの雑木林やこの公園に在ったもの以外に、そこら中の至るところに存在しているのではないだろうか?

 雑木林の中に忽然と存在していたあの“フタ”だけが例外的に怪しいのであり、大抵の“フタ”は、この公園にあるような形で周囲の環境に溶け込んでいるので、誰も気に留めないということなのだとしたら――――?


 つまり、この他の至るところに無数に存在している“フタ”は、公園内で見つけたこれと同じように、何でもないマンホールやスプリンクラーのフタに紛れているのだとしたら―――?

だとしたら、世の中の大半の人間が、このフタを日常的に目にしていながら、誰もその存在を気にかけないということがあり得るのではないだろうか―――?


 ―――そして、問題は“フタ”の中だ。

 もし無数に存在しているこの“フタ”を開けると、その下ではことごとくあの奈落が口を開いているのだとしたら―――。


 俺はそれを想像して、身震いをしながら、しばらく呆然とそこに立ち尽くしていた。


 やがて俺は、自販機で買ったコーヒーを飲み干すと、意を決して公園内の“フタ”のところでしゃがみ込んだ。


 ―――何も、これほど気負うべきことではないのかもしれない。

 これまでの推論が、俺の壮大で病的な思い込みである可能性だって否定できないのだ。実際、これらの“フタ”は、何でもない何かを覆っている、ただのフタなのかもしれないじゃないか。

 第一、仮に本当に何か得体のしれない穴が、この世界のあちこちで口をあけているのだとしても、それがどう問題になるというのだろうか。その穴自体にはなんら害はないのかもしれないじゃないか。―――俺は、なかば自分に信じ込ませようとするかのごとく、そういった逃避的思考にすがった。しかし一方ではまた、次のような病的思考から逃れられないのだった。


 ―――あの雑木林で穴を覗きこんだ時に覚えた、揺らぐ闇の底の方で何かが蠢いているかのような気配―――。あの感覚が単なる錯覚等ではなかったとしたら―――?

―――あの穴の底に、一体何があるというのだろうか。


 ―――俺は、今再び目の前に現れたこの“フタ”を開けた先にも、あの空間が広がっているのかどうかを、確かめなければならないような気分になっていた。或いは“フタ”を開けずには引き返せないような、強迫観念的な妄想に陥っていたのかも知れない。

 ―――大丈夫さ。仮にまた、あの揺らぐ闇が口を開けてそこに存在していたとしても、“フタ”を閉め直せばいいのだ。そうして何食わぬ顔で、元の生活に戻ればいい。―――そうだ、案外、今までこの“フタ”の存在に気づいた人間は、皆そうして見て見ぬふりをしてきたのかも知れないじゃないか。それなら、こんな風に堂々と存在している得体のしれない“フタ”が、見過ごされてきたのも納得できる―――。



 俺は、“フタ”の端に指を掛けることができるかどうかをためしてみた。


 コトッ、という音がして、フタはわずかに動いた。

 どうやらフタは、思ったほどしっかりとそこにはめ込まれているわけではないらしい。

 ――――それで俺は、この分だと、あともういくらか手に力を込めれば、さほど苦労することなくフタは開くだろうと確信したのだった。




 ―――俺は一呼吸置いてから、指にグッと力を込めた。






















――――――――終


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