第5話:結び、または最後の仮説
これまでに紹介した三つの仮説が、新聞、ゴシップ誌等で取り沙汰された一連の風聞・流説の中で、特に人気を集めた説に当たる。
最後に、筆者が考え付いた最大限の憶測を紹介することで、この都市伝説を考えたいと願う読者の一助としたい。
筆者の説も、第三の説と同様、「ジョージ・サイードマン事件」以降の米国の動きから考察を出発したいと考える。事件の後に何が起きたのかに関しては、既に第一話で紹介したとおりである。『インセクト・アンド・テクノロジー』は廃刊に追いやられ、発刊元のペール・プレス社も、事業譲渡の後に清算されてしまった。
今回注目するのは、このペール・プレス社の行方である。この出版社は、いったいどこへ売却されたのか。登記簿を利用すれば、その記録を追跡することは容易である。登記変更において、購入主(ほぼ大株主と同義であるが)は美術館の管理代行や、美術品の運営、オークションの設営などを手がけるイクストーズ・アーツ社(社長はグラハム・ヨカエという、アルメニアからアメリカへ移民して財を成した大富豪の御曹司)であり、彼はペール・プレス社の展開する出版網を利用し、大規模な広告事業を始めるつもりであったという(この記録もまた、ニューヨークを拠点にして発刊される企業公告一覧から追跡することができる)。
さて、次に確認しなくてはならないのは、一体ペール・プレス社は“誰の元から”イクストーズ・アーツ社――ひいてはそれを率いるグラハム・ヨカエ氏――の手に渡ったのか、ということである。この確認も、先ほどの企業公告から追跡できる。グラハム・ヨカエ氏は自身の投資家としての才を発揮して、ペール・プレス社の株式の大半をせしめ、社の経営権を手中に収めた。売り注文の殺到し、ばら撒き状態と言えるペール・プレス社の株式を買い占めるのは、簡単な仕事であったに違いない。
ではそうなる前、つまり事件が発覚する前にペール・プレス社の株を最も多く保有していたのは誰だったのか。1971年の3月に行われた、ペール・プレス社の株主総会における名簿を見れば、このことは確認できる。
その最大の大株主とは何を隠そう、グラハム・ヨカエ氏の兄、アレクサンダー・ヨカエであると。
兄のアレクサンダー・ヨカエが値下げさせた株を、弟のグラハム・ヨカエが買い占める。彼らはいったい、何を企んでいたのか?
この問題に踏み込む前に、もう一つ、明らかにしておかなければならないことがある。それは、ヨカエ家の当主(ヨカエ兄弟の父親)に当たるチャールズ・ヨカエ氏が、1971年の1月末に肝臓がんで亡くなっていたという事実である。チャールズ・ヨカエ氏の持っていた財産は莫大であり、六人いる(!)氏の顧問弁護士・公認会計士の専門集団でさえも、その正確な財産を特定することはできていなかったという。それは一つに、チャールズ・ヨカエ氏が1970年代当時であってさえも信じられないほどの「銀行嫌い」であり、また生得的な人間嫌いでもあったためだという。チャールズ・ヨカエは常に裏帳簿を持ち歩いており、独自に資金を調達しては、それを全米の各地に秘蔵していたと言われているが、その真相さえも定かではない。彼は二人の息子、すなわちアレクサンダーとグラハムの二人にさまざまの会社の経営権は委ねたが、唯一自分の財産と、ペール・プレス社の経営権だけは渡さなかった。そして、渡さないまま死んでいったのである。
なぜか? ――我々がこう考えるのは当然である。そして、同じ邪推をヨカエ兄弟が行うのも至極当然である。
ヨカエ兄弟が辿り着いた結論はこうである。自分の老いぼれた父親が、特定の出版社にこだわる理由、それは、ペール・プレス社の財産のどこかに、父親が全米各地に秘蔵しているであろう資金の所在が記されているからではないのか、と。
あとは、読者の皆様の想像にお任せしたい。私の想像はこうである。ヨカエ兄弟は父親の死後、その莫大な財産がうやむやになってしまうのを恐れた。そこで妖しい、魅力の尽きない父親の所有物であったペール・プレス社を、何としてでも手に入れることを画策したのである。この作業は幾らでも明るみに出てしまってはいけなかった。わずかでも埋蔵金の存在が分かってしまったのならば、残るのは父親の大いなる遺産ではなく、父親が粉飾を続けてきたバランスシートへの、いつ果てるともしれない対応となるからである。株式の仲買業で名の知れていた兄がペール・プレス社の株を確保し、何か突発的な事件を理由に株をばら撒き、さも何事もなかったかの体を装って、法人という覆面をかぶった弟がペール・プレス社を丸ごと買い取ってしまう。
兄弟に必要なのは“きっかけ”だった。株をばら撒くのに充分な、何かしらの突発的な事件。
事件がないのならば、作り出すしかない。
そうして生まれた人物こそが、「ジョージ・サイードマン」だったのではないか。
現在、この「ジョージ・サイードマン事件」は、丹念に調べなければ、ほとんど記録が出てこない。わずか五十年ほど昔の事件にもかかわらず、まともな調査をするのであれば、インターネットに頼らず、根気よく資料を集めていくほかに道はない。
ヨカエ一族が、現在どこで何をしているのかはよく分かっていない。「ジョージ・サイードマン事件」の後、二人の兄弟の足跡はほとんど辿れていない。
ただ、一つだけ分かることがある。1980年、英国にある由緒正しき一つの大学が、さまざまな事情で経営難に陥っていた。そこに颯爽と表れたかつての卒業生が二人、多額の寄付をしただけでなく、新たな資料館の造成にも援助を惜しまなかった。オズオ大学近現代史資料館の落成記念碑の裏に回ってみよう。読者諸君はそこで、二人の人物の名前を発見するだろう。
Sir Alexander Joquae
Sir Graham Joquae