第1話:事件の経緯
「およそ全ての昆虫の翅は、翅を持たない無脊椎動物の体に移植可能である」
1971年、アメリカの昆虫学雑誌『インセクト・アンド・テクノロジー』に掲載された一本の論文「昆虫の翅の移植に関する考察――キマイラとその宿命」は、こんなセンセーショナルな見出しから始まっていた。
論文の著者は、ジョージ・サイードマンという名前の、メーン州出身のアマチュアの昆虫収集家であった。サイードマン氏の研究によると、孵化後間もないヤママユガの翅を摘出して、カリフォルニアミミズに移植し、数日後に再び摘出して翅を観察したところ、本来ならばミミズの体内において確認されるはずのホルモンが、ヤママユガの翅からも確認できたという。
論文では、ほかにも幾つかの実例と詳細な画像とが添付され、サイードマン氏の仮説の正当性が示されていた。
この論文は、発表と同時にたちどころに有名になり、アメリカの昆虫学界を騒然とさせた。しかし、この論文の発表に特に関心を寄せたのは、アメリカのSF作家たち、SFの脚本家たちであった。『10月の太陽と角笛』で知られるSF作家の一人、ロールズ・ヴァッサーは、『劇薬党』という短い小説の中で、早速この論文を引用し、利用している。
しかし、この論文を検証していくにつれ、サイードマン氏の行う方法では移植に成功しないという報告が、『インセクト・アンド・テクノロジー』を発行するペール・プレス社に多数寄せられるようになった。事態を重く見たペール・プレス社は、メーン州にいるジョージ・サイードマン氏に対し、ヒアリングを行うこととなった。
しかしこの段階で、新たな事実が発覚することになる。メーン州の社会保険局によると、ジョージ・サイードマンなる人物の社会保障番号は登録されていなかった。すなわち、ジョージ・サイードマンという人物は、全くの虚偽の存在だったのだ。
全米のマスコミがこの事件に興味を示し、架空の人物・“ジョージ・サイードマン”の正体を探ろうとした。論文の中身が中身であっただけに、『インセクト・アンド・テクノロジー』の権威は失墜し、出版元のペール・プレス社は強い非難に晒された。
ところが、事件はこれで終わらなかった。
この事件は「ジョージ・サイードマン事件」として、1970年代初頭のアメリカ(ことにSF業界)を賑わせたのだが、現在、この事件、及び関係する企業等を調べても、我々は何一つ情報を見つけることが出来ない(なお、筆者は、偶然にしてオズオ大学資料館において、この一連の事件の資料を確認している)。
それどころか、この一連の騒動に「ジョージ・サイードマン事件」という名前がつけられたのを境にして、加熱していたマスコミの報道は、ぴたりと止んでしまったのである。『インセクト・アンド・テクノロジー』は、休刊の後に「後継となる雑誌の刊行」を理由として廃刊され、ペール・プレス社もまた、株式の譲渡を経て、別の会社へ事業が移され、清算されることになった。
これら一連の出来事は、「ジョージ・サイードマン事件」の発生から、わずか二ヶ月あまりの内に起きたことだった。
大手検索サイトを通じてもアクセスできない「ジョージ・サイードマン」という人物。
わずか二ヶ月の間に消え去った『インセクト・アンド・テクノロジー』と、その出版社ペール・プレス社。
事件の真相は、いまだ謎のままである。